二十五席目の君 ― Cafe Twenty-Five

チャチャ

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第72話「二十五年目の約束」

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 朝いちの空気は、ちょっとだけ重い。というより、深い。
 雨上がりの朝の匂い、っていうより、夜をまだ引きずってる感じの湿気が店の奥に残ってる。たぶん昨日の「二十五時お守り」がたくさん出た夜だから。

 入口マットを二十五秒だけ払う。粉の白が舞い上がらないように、下に沈めるみたいに払うのが、この店のやり方になった。
 床が静かな感じに整う。今日はスリップ音がしない。いい。

 黒板の右下に描いた25ptの丸は、やっぱりふちだけ塗らずに残してある。もう誰も「塗らないの?」って聞かなくなった。これは“完成しません”っていう、この店のずるい宣言だから。

《寄り道は二十五歩まで。》

 この一文も、見慣れたはずなのに、まだ初めて読む人のために貼り続けてる。貼るというか、チョーク書き直し続けてる。
 壁の「二十五文字」は今日も24/25(+透明)。
 透明は空のまま。あの椅子はまだ誰のものでもない。誰でも来られるように、あえて予約不可。
 足元灯25ルクスで床はやわらかく照らされ、青ドットは六つ、等間隔25ミリずつ、矢印25枚はずれなし。神経質なくらい整ってるけど、これは“迷わせないための親切”っていう名目で通ってる。
 レジ横の25円のビンは残高:218→219。今は219。■は一本だけ塗らない――満ちそうで止める。その一本ぶんが、余裕に見えるんだよね。不思議なくらい。

 湊はカウンターに、小さな箱をそっと置いた。白い、角丸の箱。名刺より少し長いくらいの横幅で、手に乗せると「これ、大事なやつだよ」って手が勝手にわかっちゃう系のもの。

「……それ、いよいよ出すの?」
 私はまだ箱を開けていないのに、ちょっとだけ息が詰まった。

「はい。今日からこれを、“大人にも使ってください”と明文化したいです。」
 湊の声は落ち着いてるけど、少しだけ深い。今日は軽口から始めない、って決めてる声。

 箱のラベルには、ちいさな文字。

《二十五年目の約束(試用)》

 二十五“日”じゃない。二十五“年”。

 私は、息を整えてから、うん、と頷いた。
「貼ろう。もう貼ろう。引き延ばして、たぶんいいことない。」

 湊も「はい」と言って、箱の中身をゆっくり見せた。
 なかには、薄いカードが数枚入っていた。角は丸み+0.25ミリ、いつものやつ。でも、このカードだけは、他と大きく違うところがひとつある。

 印刷されている文のフォントが、少しだけレトロなんだ。
 見た瞬間、“今だけ”のものじゃないって分かる活字。

 いちばん上に入っていたカードには、こう書かれている。

《二十五年後も、まだあなたを気にしていていいですか》

 それを読んだ瞬間、私はちょっと笑ってから、すぐ笑えなくなった。
 あー、これは、そういうやつか、と喉があつくなる。
 「これ誰に向けて?」って聞いたら、湊は一拍だけ間を置いてから、

「……生き残った人です」

 って答えた。

 その返しが静かで、逆に重かった。

 私は、チョークを取った。
 このとき、何も言葉がないままだと、今日の店が揺れるな、と変な予感があったから。

 黒板の右下、25ptの丸のすぐ横に、新しく一行書いた。

《“いま”だけじゃなく、“これから”も気にしてほしい人のためのカードです》

 それは未来からのラブレターでも、プロポーズでもない。
 もっと、地に足がついたやつだ。
 “あなたがここから消えても、わたしは忘れません”っていう、ゆっくりでやさしい、ちょっと重い約束。

 湊はしばらく黙って、それから小さく言った。
「これ、必要な人はほんとに必要なんです。逆に、必要ない人にはまったく重く感じないように、言い方を決めたい。」

「つまり、“結婚しましょう”とか“ずっと一緒にいよう”の重さじゃなくて?」
「はい。“あなたが生きたことは、二十五年後にもちゃんとここにある”っていう記録の宣言です。」

「それ、店の役目超えてない?」
「たぶんもう超えてます。」
「正直でよろしい。」

 正直言って、これを出すのはちょっと怖かった。
 この店は“今夜”とか“今日”とか“二十五分”とか“二十五秒”っていう、“目の前を持ちこたえるためのルール”を作ることでやってきた。
 でもこれは、そうじゃない。
 “二十五年”。
 長い。長すぎる。
 そして、“長い時間のあいだ、あなたは消えない”って宣言することは、うれしい人もいるけど、正直、怖い人もいる。

 だから私たちはちゃんと、札そのものに「選ぶのはあなた」って入れておくことにした。

 私はA5の札を一枚取り、角をそろえて書いた。

《二十五年目の約束(練習中)
 ・このカードは「長い見守り」をほしい人のためのものです
 ・“二十五年後も、まだあなたを気にしていていいですか”
 ・“思い出していいですか”
 ・“あなたがいた証拠を残していいですか”
 ・これは「縛り」でも「誓約」でもありません
 ・“忘れないでほしい”という依頼が、ちゃんと依頼として扱われる権利です
 ・出す側が決める/受ける側は「はい」か「まだ待って」で返せる
 ・家族にも、恋人にも、友だちにも、店にも使えます
 ・写真二枚まで/動画不可/貼らずに置く
 ※“二十五年”は「一生ずっと」ではなく「長くちゃんと覚えておくから安心していいよ」という目安として提出しています》

 湊は世界最速ではない頷き。そして、「このカード、実はもう欲しがってる人がいる」と目で告げた。
 分かった。今日、それが来るんだ。

 私は深呼吸して、店のカウンター上にそのA5札を置いた。
 ここは「いまの気持ちを守る」場所だった。でも、ここからちょっとだけ、「この先の気持ちを残したい」場所にもなる。
 たぶん、そういう日が来た。

 ◇

 一回目の“見てる時間”。
 白線25センチの内側。
 片手を父親の湯たんぽみたいな手に預けて、子どもがまぶたを二十五秒閉じるいつもの儀式。
 今日のその子は、眠そうというより、目の下に“泣いたあと”の赤みが残ってる。夜、荒れた?っていう顔だ。
 父親も、ちょっとだけぎこちない。たぶん親子で夜を越えてきたタイプ。

 そして、そのあとに続くように、ドアが鳴った。

 入ってきたのは、“初雪の日に空席を借りた女性”。

 あなたも、もう定番だよね、って言いたくなるけど、今日は冗談が似合わない顔をしてた。
 目の奥がべつの濃さだった。なんか、すこし白く抜けてて、逆に怖くなるタイプのほう。

 「座っていい?」
 「もちろん。」

 彼女は、カウンターに座らず、25番席のほうに向かった。透明の札の近く。いつも“誰のものでもない”まま残してる椅子のほうだ。
 その席に、自分から腰を下ろした。

 あ、と思った。
 今日は“透明”を一時的に自分のものにしたいんだっていう意思表示。

 湊は、ゆっくり近づく。
 正面からじゃない。斜め45度、二十五センチの距離。
 声をやわらかくして言う。

「今日は、“どの距離”がいい?」
 ド直球の問い。
 この質問、もう店の“合図”になった。
 “抱きしめようか?”より前に、“何センチでそばにいていい?”って聞く。そこまで来た。

 彼女は少しだけ迷ってから、首を横に振った。
 そして、テーブルの上からカードを一枚取って、差し出した。

 《二十五歩でいてください》

 うん。そう来ると思った。近づいてほしい日じゃない。今日は、「そこから見ててほしい」日。

 湊はそのカードをきちんと両手で受け取って、静かにうなずき、二十五歩ぶん下がる。
 青ドット六つの向こう側。
 そこから、何も言わずに立っている。

 女性は、深く息を吐いて、少しだけ声を落とし、私のほうを見た。

「これ、もらってもいい?」
 彼女が指先でさしたのは――さっきの箱、《二十五年目の約束》のカードだった。

 来た。

「もちろん。」
 私は箱を開けて、いちばん上のカードを取り出して、彼女の前にそっと置いた。

《二十五年後も、まだあなたを気にしていていいですか》

 その瞬間、彼女の喉がきゅっと揺れた。
 指先が、カードに触れて、でもすぐはつかまない。紙の端を、爪でちょんちょんと触るだけで、なんか、触れること自体に時間をかけていた。

 泣いてはいない。泣きそうだけど、泣けない。
 どちらかというと、ずっとこらえてきたものが、いきなり保存場所をもらったときの顔。

「……これ、すごいな」と彼女は笑った。ゆっくり喉の奥で。
「“忘れないでほしい”って、こっちが頼んでいいんだね。」

 その言い方は、聞いてるこっちが刺さるんよ。反則。

「うん。頼んでいい。」と私は言う。
「それに、“まだ気にしていていいですか”ってこっちから聞くことも許してる。どっちもあり。」

 彼女は、カードを胸元に抱えてから、ぽつ、と続けた。

「わたしさ、消えるのはいいんだよ。いや、よくはないけど、まぁ、順番だし。
 でも、“いた”ことが、なかったことになるのは、ちょっと納得いかないんだよね。」

 声は小さいのに、空気が一度だけ揺れた。
 この店ではめずらしく、周りの音が一瞬ぜんぶ止まるくらいの重さだった。

「だから、“いつかいなくなる前提”でいいから、誰かに“二十五年後も覚えてるね”って言ってほしいの。」

 このとき、私の喉は正直に言えば痛かった。
 こういう言葉を、ちゃんと聞く覚悟が、ここの店の仕事だっていうのは分かってるんだけど、分かってても胸の奥はざわつく。
 湊は、二十五歩離れた位置から、静かにうなずいた。それ以上近づかない。距離を破らない。
 そのうなずきが、返事のかわり。

 私はペンを持って、カードの裏側に、店からの返しを書くことにした。
 それは“約束書”じゃなくて、“了解メモ”みたいなもの。

《はい。これは承りました。
 二十五年後も、わたしはあなたがここにいたって話をできます。
 あなたの名前や、あなたがここで残した言葉を、
 「いた」ってちゃんと過去形で呼んでいいですか》

 書いてから、一瞬黙った。
 “過去形で呼んでいいですか”っていうのは、失礼に聞こえる人もいる。でも正直に言うと、これを聞かずに「忘れないから」って抱きしめるのは、かなり傲慢なんだよ。
 “過去形にされること自体がイヤな人”も、本当にいる。
 だからこの店ではそこを、ちゃんと相手に確認することにした。そこまでを、ぜんぶ“合意”にしたかった。

 彼女は、私が書いたその裏の文をじっと読んで、それから、ゆっくりと頷いた。

「いいよ。」
 そして、呼吸の合間に、もう一文を追加した。細いペンで。

《わたしがいなかったことにされるより、
 “いたよ”って過去形で話されたい》

 それ、なんて
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