『異世界ごはん、はじめました!』 ~料理研究家は転生先でも胃袋から世界を救う~

チャチャ

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第4章魔王様、ご飯で和解しませんか?

第2話「境界会談、ご飯持参でどうですか?」

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 明け方、薄い眠気とスパイスの残り香を連れて、私たちは王城の作戦室に集まった。地図の上には昨夜の足跡と被害範囲、そして森の奥に伸びる濃い緑の帯。そこに、新しく赤い丸――会談予定地が置かれる。

「方針は単純だ」セイル王子が言う。「武器は剣ではなく鍋。こちらは“和解する気で来た”と、最初の一手で示す」

「了解。においで伝えます」
「うむ。“香りの標(しるべ)”は?」
「合図は三回。一度目は挨拶、二度目は安全宣言、三度目は撤収合図。どれも“安心ハーブパック”を弱火で。煙は薄く、風向きに逆らわないよう低い位置で焚きます」

 私は段取りを板に走り書きする。隣でリサが頷き、エリクは真剣な顔で香袋を数えている。

「主力メニューは四本柱でいきます」私は指を折った。
「一、出汁スープ――相手の薬湯文化と相性が良い。
 二、薄めカレー――香りは立てるけど刺激は抑える“礼装仕様”。
 三、甘露塩水――疲労と緊張に即効。
 四、安心ハーブパック――場の“空気”を整える装置として常時運用」

「アレルギーや宗教的禁忌の可能性は?」レオン副長。
「肉類は持参するだけで出さない。穀物・根菜・茸中心。香辛料は辛味→香味へ配分変更、乳はナッツミルク基調。蜂蜜は“供出前に要確認”。」

 王子が軽く笑う。「完全に外交官の語り口だな」
「厨房語に翻訳すると、“胃に優しいおいしいやつ”です」

 装備の確認に移る。小型かまど二基、温度石、無煙炭、皮嚢、木椀、布包み。応急用に**薬湯束(鎮痛/整胃/沈静)**を三種。私は無限収納の口に番号札を付け、取り出し順を徹底する。

「非言語プロトコル、最終確認です」
 私は皆の視線を集めて、短く区切って伝える。
「両掌オープン――非武装宣言。柄杓を柄から外して卓上――給仕の意思表示。器を自分より低い位置に置く――相手を客として迎える。そして、香りの標“二度焚き”の最中は剣の角度を水平以下で固定、動かない」

「強硬派の妨害が再び来た場合は?」
「無煙の香り標に切替え、視界を奪わずに“落ち着く匂い”で鎮静。並行して“握らないおにぎり”を左右から配布、手を塞いで武装解除……いや、自然に武器を離す行動へ誘導します」

「……本当に料理で全部やるつもりだな」
「はい。胃袋は嘘をつかないので」

 最後に、自分自身に《鑑定眼》を一瞬だけ向ける。

> 体力:78%/精神:82%/調理集中度:高/魔食効果付与:安定



(イケる)

「じゃ、仕込み開始。出発は二刻後。王子、風向きの偵察データ、いただけます?」
「渡す。——カスミアーナ、今日の任務名は『胃袋外交・境界会談』で記録する」

「了解、開店準備します」

 こうして私たちは、鍋と柄杓と“おいしい匂い”を武装に、境界へ向かうことになった。

✳✳✳

 仕込みを終えると同時に、私たちは城門を抜けた。朝の空気は冷たい。けれど荷台の鍋から立つ湯気は、ちいさな太陽みたいにあたたかい。

「最初の寄り道は被害農地。信頼回復、やろう」
 セイル王子の指示に従い、崩れた柵の前で停止。畑の持ち主の老夫婦は不安げにこちらを見ていた。

「まずはお水と、温かいのを一口」
 私は木椀を差し出す。干し茸とナミロ玉の“立つスープ”に甘露塩をひとつまみ。
「……ああ……胸がほどけるねぇ」
「体があったまる……。王子様、畑は……」
「補償と復旧班をもう向かわせています。今は無理をせず、休んでください」

 エリクとリサは手際よく“握らないおにぎり”を配り、ガルベラさんは折れた柵を仮留めしていく。
「リサ、塩は薄め! 労働前じゃないからね!」
「了解、塗りは刷毛で片面だけ!」

 そのとき、畑の奥の茂みがガサガサ――。
 茶色い毛玉が二つ、転がるように飛び出した。丸耳、長い尾、前歯が立派。コモリビーバーの子どもだ。

「きゃっ!? 作物食べられる!」
「待って、“香りの標”!」

 私は腰の袋から無煙タイプを取り出し、地面すれすれでぱちり。ふわっと甘い草の匂い。ビーバーたちは鼻をひくひくさせ、こちらを一瞥して――香りの置き石の方へぽてぽて移動。置き石には刻んだ根菜の切れ端を少しだけ。

「……ほんとに“匂いの誘導”でどくのか」
 レオン副長が目を細める。
「“腹が立つ”より“腹が減る”が勝つ時は、話が早いんです」

 老夫婦が笑った。
「お嬢さん……いや、顧問様だね。うちは大丈夫。気をつけてお行きなさい」
「帰りにまた寄ります。甘いの、焼いて持ってきますから」

 馬車はさらに北東へ。道脇の用水の水位、風向き、獣道の新旧を《鑑定眼》で確認しながら進む。途中の村落でも短時間の炊き出しをし、被害状況をメモに残す。王子の随行書記がそれを素早く清書、復旧班へ飛脚が走った。

 境界に近づくほど、森の匂いが濃くなる。そこで、もうひとつの“小事件”。

「前方、低い影——三、四、五……ススコウモリ群!」
 兵が反射で松明を構えかける。
「待って、光はダメ! 群れが興奮する!」

 私は香り袋の配合を瞬時に変える。ハーブ比率を上げ、脂香はゼロ、微量の酸味。松の根で作った細糸にしみ込ませ、頭上に細い環を二つ、三つ。
 淡い輪が風に揺れて、コウモリたちは輪の内側をふらふら漂うように移動——森の奥へすいっと抜けた。

「……本当に料理が盾になってるな」
「食べる前の段階は、嗅ぐから始まりますから。入口で誘導すれば、争わなくて済むことも多いんです」

 半信半疑だった若い兵士が、ぽつりとつぶやく。
「俺、今日、家に帰ったら台所手伝います……」
「まずは皿洗いからね。それが一番強い」

 一行は境界線近くの小台地へ到着。遠くに黒い石柱が見える。魔王領との境を示す標識だ。風は東から西へ。合図に最適。

「陣形、会談配置。武器は鞘、楯は地。鍋、前へ」
 セイル王子の声で全員が動く。私は小型かまどを据えて、香りの標一度目——挨拶を焚いた。草と湯気のやさしい匂いが、境界の向こうへ静かに届いていく。

 やがて、黒い石柱の陰から三つの影。角飾りのある文官服、長槍の護衛、薬袋を提げた薬師。東境管理官一行だ。

「……来た」
 私は柄杓の柄を外し、卓上に置く。**“給仕の意思”**の合図。
 向こうも同じ所作で応えるのが見えた。

 鍋の湯気が、柔らかく間(あわい)を満たした。
 “胃袋外交”、本番の時間だ。

✳✳✳✳

 黒い石柱の陰から現れた三つの影は、月影のように滑らかだった。
 先頭は角飾りを額に戴く文官、その後ろに長槍の護衛、薬袋を斜め掛けにした薬師。衣は墨色、縁取りだけが淡い銀糸で、動くたびに夜の光をさらう。

「東境管理官、参上す」
 文官が胸の前で掌を開き、両手のひらを見せる。こちらの合図に合わせる形で、護衛は槍を地に寝かせ、薬師は腰の刃物を外して布の上に置いた。

 セイル王子も一歩進み、掌を開いて応える。
「王都側代表、セイル。非武装の意志、明らかにする」

 私も所作を続ける。柄杓の柄を外し、器の横に静かに置いた。
 向こうの薬師も同じように柄杓を分解し、鍋の蓋を半ばまでずらす。湯気がふわりと立ち、双方の間(あわい)にやさしい湿り気が満ちた。

「まず、昨夜の件。逸走の件(くだん)、我らの不手際にて候」
 管理官は懐から黒い封蝋片を取り出し、両手で差し出す。
「謝意と謝礼は後段に。今は——“会談の作法”に従い、最初の一言より先に最初の一匙を」

 セイル王子が横目で私を見る。
(うん、想定通り。“食が先、言葉は後”パターン!)

「了解。——香りの標、二度目。安全宣言」
 私は低い火に“安心ハーブパック”をくぐらせ、短く二度。草いきれと湯の匂いが、境界の緊張を撫でていく。

 配置は整った。鍋は中央に二基。右が私たちの出汁スープ、左が魔王領側の薬湯。器は互いに自分の腰より低い台に置き、相手を客として通す礼式だ。

「確認事項を二つだけ」
 私は掌をひらりと見せ、声をやわらげる。
「一、辛味は使いません。香り中心です。
 二、蜂蜜・乳は出しません。穀物・根菜・茸基調。禁忌があれば合図を」

 薬師が鼻を近づけ、こくりと頷く。
「相違なし。こちらの薬湯には苦味がある。合わせるなら“香りで橋”を」

「橋、架けます」
 私は出汁側の鍋にごく少量のナミロ葉を泳がせ、苦味の受け皿を用意する。香りの輪郭がゆるみ、薬湯の草いきれと手を取り合う匂いになった。

 護衛の視線は依然として鋭いが、槍先は水平より下。王子の騎士たちも同じ角度で、鏡写しの状態を保つ。
 レオン副長が小さく囁いた。「段取り、芸術点が高いな」
「味の演出は“舞台装置”からですから」小声で返す。

 管理官が一歩前へ。
「会談の第一規則——“最初の匙は交換にて”。」
 用意された小椀が二つ、互いの鍋の前で止まる。
 私は自分の柄杓を柄なしのまま掬い、魔王領側の小椀へ一匙。薬師は薬湯をこちらの小椀へ同じように。

 まだ口には運ばない。それは次のパートの合図だ。
 まずは湯気を、深く一呼吸だけ。

 草、きのこ、乾いた魚粉の骨ばった香り、そして遠くで合う土の匂い。
 香りの層と層が、境界の真ん中で静かに重なった。

「——さて」
 セイル王子が目だけで笑う。
「言葉より先に、胃袋に同意を」

 私は頷き、匙を小椀の縁にそっと置いた。
 次の拍で、試食が始まる。


✳✳✳✳

 匙を合わせて一拍。
 互いの小椀が胸の高さより下にあることを確認し、同時に口元へ運ぶ。

 最初に舌に触れたのは、こちらの出汁スープ。
 干し茸の丸い旨み、ナミロ玉の甘み、ほんの少しの魚粉の骨格。それらを柔らかく束ねるのは、湯の温度だ。熱すぎず、弱すぎず——“話ができる”温度。

 次の瞬間、向こうの薬湯がやってくる。
 草の苦味、根の土っぽさ、舌の横に残るほろ苦い余韻。悪くない。むしろ、この苦味が橋になれる。

 私は小さく頷き、すぐに微調整。
 出汁の鍋に、ナミロ葉の茎を一本だけ。香りは強くないが、薬湯の成分と手を取り合う苦味を増やせる。
 薬師も気づいたようで、薬湯に花弁一枚を落とした。苦味の角が丸くなる。

「ふむ……」
 東境管理官が目を細める。「貴殿らの湯、舌の中央を通す。我らの湯は舌の縁を流す。道を合わせれば、衝突は減る」

「では真ん中と縁、合流点を作りましょう」
 私は香味油を一滴、出汁に落とす。辛味はない。香りだけが、湯の表面を薄く滑る。薬湯の草香とぶつからず、輪郭をつなぐ役目。

 護衛が恐る恐る小椀を受け取り、一口。
 眉根がほどけ、槍の穂先がさらに一段下がる。
 レオン副長がそれを見て、こちらも同じ角度まで穂先を落とした。鏡が一枚、きれいに揃う。

「辛味は?」と薬師。
「使いません。今日は香りで会話を」
「賢明だ」

 そのとき、護衛のひとりがこほっとむせた。
 辛味ではない。緊張と、薬湯の乾いた苦味が喉で絡んだ反射だ。

「一息、置いてください」
 私は小椀を交換し、甘露塩水を指先ほど。すぐに“立つスープ”を一口サイズで渡す。
 護衛の喉が上下して、色が戻った。

 ここだ、と判断する。
 私は掌を鍋口にかざし、呼吸を落とす。体の底で火加減を合わせるみたいに、言葉にならない“経験”を味へ翻訳する。

> 《魔食効果付与:安堵(微)/呼吸整調(微)》
対象:摂食者(会談卓周囲)/持続:短



 湯気の層が、ほんのすこしやわらかくなる。
 東境管理官が気づいて視線を上げた。
 私は微笑んで、柄のない柄杓を持ち上げて見せる。敵意なしの合図。

「——良い。言の葉が少し軽くなった」
 管理官はわずかに口角を上げ、薬師に合図する。
 薬師は薬湯の比率を一段薄め、代わりに温度を半度だけ上げた。香りが伸び、こちらの出汁と重なり目が太くなる。

「味の言語、だいぶ合わせられましたね」
「うむ。こちらの潜規則を二つ共有しよう」
 管理官は指を二本立てる。
「一、最初の皿は“体を整える”が目的。快楽に走らぬ。
 二、“客”は腹を空かせて来ない。だから強い香りは遅れて出す」

「受け取りました。では第二皿以降の香りは遅れて到達するよう、器と距離で調整します」
 私は器の高さを半手だけ落とし、湯気の流れを変える。鍋の位置はそのまま、座の位置をひとつずつずらし、香りが波になるように。

 セイル王子が小さく笑う。「舞台監督のようだ」
「台所はいつも舞台です」

 試食は続く。
 “握らないおにぎり”を一枚だけ添え、湯に浸して食べる“雑炊風”にしてもらう。米の甘みが苦味の縁をやさしく受け止め、会談卓の呼吸がさらに揃った。

 東境側の護衛が、ふとこちらを見た。
 琥珀色の瞳が、あの黒角獣と重なる。
 私は言葉ではなく、器の底に干し果実の欠片を一つ沈めて返す。飢えの記憶にやさしい甘みを——“もう奪わない”という約束の味。

 護衛は一拍置いてから、こくりと頷いた。

「では、言葉に移ろう」
 管理官が、ようやく封蝋の文言に指を置く。
「昨夜の逸走——理由の説明と、謝礼の提示を」

 私は準備しておいた板に、“味の合意:成立(初期)”と記し、小さく丸をつけた。
 出汁の火は弱火に落とし、香りの標は一度だけ、短く。場は整った。

 ——そのときだった。
 境界の茂みの向こうで、ぱちと乾いた音。
 湯気の流れを邪魔するように、異質な匂いがひと筋、風に混じった。

(……油煙? いや、消香……?)

 私は柄杓をそっと置き、王子に視線だけで合図する。
 次の一手は決めてある。混乱の前に、呼吸を守る。

 “胃袋外交”の第一ラウンドは、たしかに成功した。
 だからこそ——邪魔が入る。

✳✳✳✳

 ぱち。
 乾いた破裂音の直後、風に乗って匂いが削がれる。さっきまで舞台を満たしていた出汁と薬湯の層が、すっと薄皮を剥がされたみたいに消えた。

(——来た、“消香”。香りごと会談を落とすつもり!)

 護衛の槍が一斉に上がる。こちらの兵も反射で角度を取り戻しかけ——

「水平以下、固定!」
 セイル王子の一喝。鏡写しの角度が、ぎりぎりで保たれる。

 私は腰袋から**無煙の香り標(B配合)**を三つ摘み出す。青い葉と微量柑根、そして“鼻の通りを整える”微細鉱塩。煙は出ない。香りだけが、じわっと地を這う。

「風の下、低い位置に三点——今!」
 エリクとリサが膝で滑るように配置。地表一尺で香りが広がり、むせていた兵士と護衛の呼吸がすこし揃う。

 東境管理官が低く問う。「妨害か」
 レオン副長がうなずく。「人間側の手口だ。消香灰の配合が王都式だ」

「まず、手を塞ぎましょう」
 私は包みを両手で掲げる。「“握らないおにぎり”です。包み紐は片手だと解けません。武器を納めてからどうぞ」

 護衛が一瞬迷い、槍を脇に。うちの兵も鞘に収める音が連鎖する。包みを受け取って、紐をほどき、ぱく。
 咀嚼が始まると、肩の位置が目に見えて下がる。人は噛んでいるとき、怒鳴らない。これ、世界共通。

「カスミアーナ、匂いは戻せるか?」
「戻します。橋をもう一度」

 鍋の火は弱いまま、私は出汁に香味油をほんの一滴。薬師が薬湯の温度を半度上げ、草香の輪郭を立てる。無煙標のベースと重なって、場の“匂いの床”が戻ってきた。

 そのとき、茂みの陰から黒い小球が転がり出る。さっきの“消香玉”の残骸。レオン副長が足先で転がし、短剣の柄で割った。中から銀糸の小片。

「識別糸……王都内務派の工房印だな」
 王子の眉がわずかに動く。
「ここで追うな。場を壊した者の目的は“疑心”。乗らない」

 東境管理官が、包みを一口かじってから静かに言う。
「こちらには、今のところ加害の意志なし。記録に残す」

 私は頷き、最後の調整。「香りの標、二度目——安全宣言」。短く、低く。
 湯気が戻る。器は腰より低いまま。視線は水平。舞台が、もう一度整った。

「失礼」
 薬師が小さな包みを差し出す。薄藍色の粉末。
「こちらの鼻通し粉。消香の残りを中和する。水にひとつまみ」

「ありがとう。——交換で、こちらは甘露塩の薄配合」

 粉と粉が行き交う。武器ではなく、調味料が手から手へ渡る。
 それだけで、会談の線は太くなる。

「続けましょう」
 セイル王子が、場に落ちた空白を一拍で埋める。
 東境管理官もうなずいた。「うむ。逸走の件、説明に移る」

 私は板に**“妨害:非致傷/収束”と書き、丸をひとつ。鍋の火を弱火に戻し、香りの波を再生**させた。

(割り込まれても、鍋は負けない)

 胃袋外交、第二ラウンドの準備は整った。

✳✳✳

 東境管理官は、封蝋の文を卓に置き、湯気の向こうでゆっくりと言葉を選んだ。

「まず、過失は我ら。黒角獣は保護個体であり、森奥の湧水地へ療養搬送中だった。角根の炎症治療に“刻印油”を用いるが——在庫が切れ、代用品を塗布した。これが乾きで割れ、痛みを誘発。暴れて綱を切り、**最短の湿地(=貴国の農地)**を求めて逸走した」

 薬師が小瓶を開け、割れた黒い樹脂片を示す。
「代用品は香脂の比率が高く、乾くと熱を帯びる。そこへ昨夜の風。痛みは増し、水と匂いを求めた。それが——こちらの出汁だったのでしょう」

「……“おいしい匂い”に助けられたわけだ」レオン副長が苦笑する。

「謝意として、穀物サルモ麦五十俵、薬草カメリア束、そして刻印油の正規配方を写しで渡す」
 管理官は包みを差し出し、続ける。
「代わりに、二つお願いがある」

 セイル王子が顎を引く。「聞こう」

「一つ、境界沿いの作物くずの適切処理。収穫後の甘い匂いは、飢えた個体を引く。山風の日は土に薄く混和し、香りを立てぬこと。
 二つ、貴国の“香りの標”の配合を共有願いたい。こちらは警護線での誘導に使いたい。相互に標識の意味を統一すれば、誤解は減る」

 私はすぐに頷いた。
「配合は辛味ゼロ・鎮静寄りでお渡しします。逆に、刻印油の**“熱”対策**に、私の“冷やす香袋”を提案してもいい?」

 薬師と視線が合う。
「試したい。油の下に薄荷水の薄層を、点で仕込む——痛覚を鈍らせられるかもしれぬ」

「施工手順、絵で書きます」私は板と炭筆を取り出し、角根の断面を描いて層を示す。「痛みの逃がし穴をここに。上からは温を、下からは冷を薄く」

 管理官は短く息を吐いた。
「……良い。橋は味だけではなかったな」

 セイル王子がまとめるように言う。
「本件、相互の過失なし。そちらは過誤を認め、謝礼を。こちらは運用を改め、香りの標の規格を共同化する。——記録、そう記せ」

 私は板に**「合意:初期運用/再発防止条項あり」と書き、丸をつける。
 鍋の火をさらに弱く落とし、場を次の皿**へ滑らせる準備をした。

 その時、管理官が小さく付け加えた。
「もう一つ。近く、東境にて**“宴”**を催す。貴殿——料理研究家、来てほしい。話は、皿の上で続けたい」

 王子がこちらを見る。私はにっこり。
「胃袋外交・出張編ですね。喜んで」

 湯気が柔らかく揺れ、合意の匂いが一段濃くなる。
 ——残るは、招待を正式に結ぶだけだ。

✳✳✳

 東境管理官は、黒い封蝋のついた薄い巻紙を取り出し、掌を見せる所作ののち、両手で王子へ差し出した。
「正式招待——東境の宴。日取りは次の月の半ば、場所は境界から三里の“濡れ石の館”。護衛随行可、武器は鞘のまま。代わりに鍋と柄杓の携行を求む」

 セイル王子は受け取り、封の匂いを一度だけ嗅いでから頷く。
「承る。こちらからは料理研究家カスミアーナを筆頭に、少数精鋭で。条件はのむ。——互いに、胃袋で握手だ」

 所作として、私は柄の外れた柄杓を卓の真ん中に置き、出汁を小さく一滴。薬師も薬湯を一滴。湯気がふわっと重なり、ひとつの輪になる。
「湯気の握手、完了っと」

 管理官が口角をわずかに上げる。
「では、“橋”の前払いだ」
 彼が合図すると、護衛が背嚢からサルモ麦の実袋を二つ、薬師がカメリア束と刻印油の正規配方の写しを出した。
 こちらは、**香りの標(鎮静配合)のレシピと、試作の“冷やす香袋”**を返礼に。

「配合、ありがとう。こちらの薬書に追記して回す」
「こちらも“標”の意味を王都規格に合わせます。境界で迷わないように」

 段取りと礼がひと通り済んだところで、私は香りの標・三度目を短く焚く。——撤収合図。
 王子と管理官は掌を開いて一礼、双方の鍋に蓋が戻る。湯気は薄まり、舞台は静かに片付いていく。

「では、また“皿の上”で」
「また、“鍋の火”の下で」

 魔王領使節が黒い石柱の向こうに消えるのを見届け、私たちは荷をまとめた。緊張がほぐれ、エリクが大きく伸びをする。
「ふぅ……胃袋外交、成功、ですよね?」
「成功。第一合意まで進んだ。点はつながったわ」
 リサは配布しそびれた“握らないおにぎり”をひとつ私に押しつける。
「勝利の一枚、どうぞ」
「いただきます」

 帰路、風は追い風。鍋の香りがほんのり背中を押す。
 ——が、境界の雑木林を抜けるあたりで、レオン副長が足を止めた。
「待て。消香玉の殻がもう一つ……。さっきのとは糸の撚りが違う」

 拾い上げた殻には、細い銀糸とともに極小の金具。見覚えのある紋が刻まれていた。
「……これ、王都内務派の工房印じゃない。軍需局の旧規格だ」
 王子の眉がわずかに寄る。
「内部に“二つの手”がある、ということだな。消香を作る者と、古い規格を流す者」

 私は殻をそっと布で包んだ。匂いはほとんど残っていないけれど、油の癖がわずかに違う。
「帰ったら、調香庫の在庫ログを見せてもらえますか。混ぜ物の癖で誰の手か、推せるかも」

「頼む。——だが今は、兵を休ませるのが先だ」
 王子は姿勢を正し、声を張る。
「帰城、行軍速度は落として良し。城門前で温かい一杯を配る!」

「はーい、薄めカレー仕込み直します! ナミロ葉少なめ、香味油は半滴!」
「握らないおにぎり、四段重ねいきます!」
 台所戦線は、帰り道でも進軍だ。

 城の灯が見え始めた頃、私は無限収納の口を一度だけ撫でた。
 鍋は武器で、湯気は言葉。今日、その両方がちゃんと届いた。
 でも同時に、台所の外に潜む匂いも嗅いだ。

(次は、魔王領の宴。そして——王都の“台所の裏”)

 鍋の火を落とすと、金属の音が遠くで小さく跳ねた。
 それは、次の物語の合図みたいに聞こえた。


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