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第4章 死が二人を分断つとも
50 成れの果て
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「晴香────!!!」
それは爆発だった。内側から膨れ上がって破裂して、血肉を撒き散らして爆発四散した。
人の中に爆弾でも仕掛けていたら、きっとこんな風になったんだろう。
見る影もなく体が膨張し、体の肉が暴れまわるようにして、晴香は破裂した。
跡形もなく、ただの肉片と血飛沫になって木っ端微塵に吹き飛んだ。
誰が何をしたわけじゃない。晴香の身体が自ら爆発したんだ。
私はただただ声の限り晴香の名前を呼んだ。
けれど当然の如くそれに返ってくるものなんかなくて。
私の声はただ、静かな夜の空に飲み込まれるだけだった。
「…………」
氷室さんは私を固く抱きしめて、地に足をつけた。
私はただ呆然と抱かれたまま、晴香がいた場所に広がる血と肉片の海を眺めた。
理解できなかった。信じられなかった。
だって少し前まで晴香は普通に私の隣にいて、いつもと同じように微笑んでいたのに。
私たちはずっと一緒だったのに。ずっとずっと、一緒だったのに。
私は、晴香がいない日々を知らない。私にとって、晴香はいて当たり前の存在だった。
そして、いなければならない存在だった。
なのに、晴香はもういない。
死んでしまった。跡形もなく、爆ぜてしまった。
その骸を残すこともなく、粉々になって死んでしまった。
こんなことが、あっていいはずがない。
だって晴香は何も悪くない。
晴香はとっても優しい子で、死ななきゃいけない理由なんてなかったんだ。
私のために命がけで頑張ってくれた晴香。私のためを思った行動で、晴香が死ぬなんて、そんなこと。
「どうして……」
行き場のない悲しみと怒りが私の中で渦巻いて、自然と言葉がこぼれた。
「どうして……どうして私を晴香から離したの! 氷室さん!」
「…………」
この怒りを氷室さんにぶつけるべきじゃないことはわかってる。
でも今の私には、何かを叫ばずにはいられなかった。
「私は最後まで晴香といたかった。最後まであの子の手を握っていたかった。なのに、どうして!」
「……ごめんなさい」
私の理不尽な叫びに、氷室さんは私を固く抱きしめたまま、振り絞るように言った。
氷室さんが謝る必要はない。氷室さんは私を助けてくれたんだから。
あの場にいたらひとたまりもなかった。わかってるんだ、そんなこと。
「私は、晴香を……私は……」
いつかこうなることはわかっていたのに、それでもやっぱり受け入れられなかった。
晴香がいなくなってしまったという現実が、私のせいで死なせてしまったという現実が。
大好きな晴香に、もう会えないという現実が。
「私が、晴香を殺したんだ……」
「……違う。あなたは、悪くない」
「違わない! 私がいなければ、晴香は死ななくてすんだんだから!」
「違う」
「私さえいなければ、私がここにいなければ、晴香はずっと生きていられたんだ!!!」
「違う!」
聞きな慣れない張り上げた声で言った氷室さんは、私を引き剥がすとその冷たいポーカーフェイスのまま私の頰を思いっきり打った。
私はそれを全く予知できなくて、思いっきり受けて地面に倒れこんだ。
そして氷室さんはそんな私に馬乗りになって、肩に掴みかかった。
「彼女には、雨宮さんにはあなたがなくてはならなかった。花園さんがいなければ、彼女は彼女にはならなかった。雨宮さんには、花園さんが不可欠だった。花園さんに雨宮さんが不可欠だったのと、同じように」
「でも、晴香は私のせいで……」
「それは、雨宮さんの覚悟で、雨宮さんの想い。あなたに意見する資格は、ない。あなたは、雨宮さんを失ったことを嘆いても、彼女の人生を勝手に後悔してはいけない」
「…………」
氷室さんは淡々と言った。
そしてジンジンと痛む頰に、氷室さんの冷たい手が触れた。
その目に怒りはなく、ただ慈しむような視線があるだけだった。
晴香が決めて、選んだ道。それを否定する権利は私にはない。
そこに私が勝手に罪悪感を作り出して、勝手に責任を感じるのは晴香の覚悟を愚弄する行為だ。
どんなに私が喚いても、それが晴香の選んだ答えなんだから。
それでも死んでほしくなくて、死んでしまったことは堪らなく悲しい。
その気持ちだけはどうしようもできない。
その死に責任を感じてはいけないとしても、どうにかしてあげられなかったのかと思ってしまう。
そして何より、もう会えないことが堪らなく寂しいんだ。
「……ごめんなさい。酷い、ことを……」
「ううん。私こそごめんなさい。氷室さんは何も悪くないのに」
私が項垂れると、氷室さんは静かに首を横に振った。
誰も悪くないんだと、そう言うように。
「まったく参ったよ。最悪の事態だ、これは」
氷室さんに助け起されて立ち上がると、夜子さんが私たちの傍にやってきて、棘のある口調で言った。
その表情にはいつもの穏やかさはなく、張り詰めた鋭い目をしていた。
晴香が爆発した時一番近くにいた夜子さんだったけれど、その身体は綺麗なままだった。
「アリスちゃん。悲しみに暮れているところ悪いけど、まだ何も終わっちゃいないよ。問題はこれからだ」
「夜子さん、私……」
「謝る必要はないよ。アリスちゃんは自分が正しいと思ったことをやったまでだろう? その結果だ。謝っちゃいけない」
「でも、こうなることが避けられなかったのなら、はじめから夜子さんの言うことを────」
「それ以上言うのなら、流石の私も君を軽蔑せざるを得ないなぁ」
「────────」
鋭い眼光に射抜かれて、私は言葉を途切らせた。
そして、自分が口にした言葉の意味を理解した。
私が今ここで過ちを口にすれば、それは私を信じてくれた人たちを裏切ることになる。
私を信じて力を貸してくれた氷室さんに善子さん。そして、私の選んだ道を受け入れてくれた晴香。
そしてその想いとぶつかってくれた夜子さんと千鳥ちゃん。
その全ての気持ちを、裏切って踏みにじることになる。
本当にそれが間違った行為だったのなら、それは過ちを認めないといけない。
けれど私たちのぶつかり合いは、お互いの正しさを受け入れて、それでも譲れないから起こったもの。
しかしその結果が望んだものにならなかった、そういうことだから。
だから私は、夜子さんに謝っちゃいけないんだ。
口を固く閉じて頷くと、夜子さんは満足そうに鼻を鳴らしてほんの少しだけ笑みを浮かべた。
「喧嘩はおしまいだ。こうなった以上力を合わせよう」
「何が、起こるっていうんですか?」
晴香はもう死んでしまった。
私たちの戦いも終わった。
これ以上この場で何か起こるなんて、そんなこと……。
「起こるさ。それを起さないために、私たちは死の間際の魔女たちの介錯をしてきたんだからね」
広がるのは血と肉の海。無残な爆発の後。
けれど、それは普通とは違った。
いや、こんな光景は普通には目にするものではないけれど、でも何かがおかしかった。
血が、沸騰でもしているかのようにふつふつと泡を吐いている。
そして飛び散った見るも無残な肉片が、ピクピクと痙攣しているように見えた。
「千鳥ちゃん! 事態は最悪だ。いつまでぐずぐずしてるんだい」
それを一瞥してから、夜子さんは遠くに向けて叫んだ。
その先には、氷に埋もれている千鳥ちゃんが項垂れていた。
「これ、出られないのー!」
「まったく、世話の焼ける……」
遠くから喚く声が聞こえて、夜子さんは溜息をつく。
すると足元の影から一匹の猫が現れて、千鳥ちゃん目掛けて疾走した。
そして氷の塊まで迫るとその形を変え、流動的な刃になって氷を砕いた。
「善子ちゃんのことも叩き起こしておいて。そのまま転がっていたら、呑まれちゃうかもしれないからね」
氷から解放された千鳥ちゃんにそう言うと、夜子さんは再び血の海に向き直った。
その顔はやはり、いつもの余裕のある表情とは違って、冷静かつどこか緊張が見えた。
「アリスちゃん。晴香ちゃんが死んでしまったことはショックだろう。でも、今は目の前のことに集中するんだ。君が晴香ちゃんのことを想うならばこそ、君はこれを真摯に受け止めて対処しなければならない」
「一体、何が……」
今だって心が挫けそうなのに。この現実を受け止めきれていないのに。
これ以上、何が起こるっていうの?
氷室さんが私の手を強く握った。
締め付けるような力強さが、これから起こることへの不安を煽る。
「アリスちゃん。晴香ちゃんは……」
千鳥ちゃんに支えられながら、意識を取り戻した善子さんが覚束ない足取りでやってきた。
目の前に広がる惨状と、私たちの表情を見て事態を理解したようだった。
唇を強く結んでそれ以上何も言わず、私の肩にそっと手を置いた。
「さて、みんな気を抜かないことだ。現実を受け容れる覚悟をしなさい」
夜子さんが、私たちに言い聞かせるように重々しく言った、その時だった。
禍々しく醜悪な、不穏な気配が血の海一帯に立ち込めた。
吐き気を催すような、どす黒い気配と圧力。
これは、転臨した魔女から感じるものに酷似していたけれど、でもそれよりももっと気持ちが悪かった。
その押し潰すような気配に息が詰まりそうになった時。
突如散らばった肉片がもぞもぞと動き出して、一点に集まり出した。
そして一面に広がった血の海もまた、湧き上がるようにぶくぶくと泡を吹き出して盛り上がった。
あまりのグロテスクな光景に目を覆いたくなるも、私は必死でその光景を見た。
氷室さんの手を強く握り返して、晴香だったものの行く末を、この目に焼き付けた。
集結した肉片と湧き上がった血潮は急激に混ざり合って、ドロドロうねうねとした肉の塊を作り上げた。
まるで肉を溶かして流動状にしたようなそれは、突然丸く膨れ上がると、大きく伸び上がって柱のように天高く昇った。
そしてそれが柱状でうねうねと蠢き、やがて人の形を型取り出す。
ドロドロと溶ける肉をぐちゃぐちゃとこねくり回して、まるで粘土のように形を形成した。
「なに、これ……」
言葉を出さずにはいられなかった。
足がすくんで、腰が砕けそうになる。
全身の力が、抜けてしまいそうだ。
それほどまでにそれは気持ち悪くて、あまりにも醜悪だった。
常にその肉をドロドロと溶かしながら、灼熱と蒸気を振りまいて再生と溶解を繰り返す崩れた肉の塊。
それが五メートルほどの巨大な人の形をしたものに変貌した。
頭のような部分はあっても、顔に当たる部分はない。辛うじて口と思えるような裂け目があるだけだ。
ドロドロと溶けながら形作られたその姿は、人型ではあっても人と呼べない。
ただの肉の塊。肉でできた、怪物だ。
「あれが『魔女ウィルス』に食い潰された者の姿。魔女の成れの果て。或いはなり損ない。晴香ちゃんだったものの、変わり果てた姿だよ」
それは爆発だった。内側から膨れ上がって破裂して、血肉を撒き散らして爆発四散した。
人の中に爆弾でも仕掛けていたら、きっとこんな風になったんだろう。
見る影もなく体が膨張し、体の肉が暴れまわるようにして、晴香は破裂した。
跡形もなく、ただの肉片と血飛沫になって木っ端微塵に吹き飛んだ。
誰が何をしたわけじゃない。晴香の身体が自ら爆発したんだ。
私はただただ声の限り晴香の名前を呼んだ。
けれど当然の如くそれに返ってくるものなんかなくて。
私の声はただ、静かな夜の空に飲み込まれるだけだった。
「…………」
氷室さんは私を固く抱きしめて、地に足をつけた。
私はただ呆然と抱かれたまま、晴香がいた場所に広がる血と肉片の海を眺めた。
理解できなかった。信じられなかった。
だって少し前まで晴香は普通に私の隣にいて、いつもと同じように微笑んでいたのに。
私たちはずっと一緒だったのに。ずっとずっと、一緒だったのに。
私は、晴香がいない日々を知らない。私にとって、晴香はいて当たり前の存在だった。
そして、いなければならない存在だった。
なのに、晴香はもういない。
死んでしまった。跡形もなく、爆ぜてしまった。
その骸を残すこともなく、粉々になって死んでしまった。
こんなことが、あっていいはずがない。
だって晴香は何も悪くない。
晴香はとっても優しい子で、死ななきゃいけない理由なんてなかったんだ。
私のために命がけで頑張ってくれた晴香。私のためを思った行動で、晴香が死ぬなんて、そんなこと。
「どうして……」
行き場のない悲しみと怒りが私の中で渦巻いて、自然と言葉がこぼれた。
「どうして……どうして私を晴香から離したの! 氷室さん!」
「…………」
この怒りを氷室さんにぶつけるべきじゃないことはわかってる。
でも今の私には、何かを叫ばずにはいられなかった。
「私は最後まで晴香といたかった。最後まであの子の手を握っていたかった。なのに、どうして!」
「……ごめんなさい」
私の理不尽な叫びに、氷室さんは私を固く抱きしめたまま、振り絞るように言った。
氷室さんが謝る必要はない。氷室さんは私を助けてくれたんだから。
あの場にいたらひとたまりもなかった。わかってるんだ、そんなこと。
「私は、晴香を……私は……」
いつかこうなることはわかっていたのに、それでもやっぱり受け入れられなかった。
晴香がいなくなってしまったという現実が、私のせいで死なせてしまったという現実が。
大好きな晴香に、もう会えないという現実が。
「私が、晴香を殺したんだ……」
「……違う。あなたは、悪くない」
「違わない! 私がいなければ、晴香は死ななくてすんだんだから!」
「違う」
「私さえいなければ、私がここにいなければ、晴香はずっと生きていられたんだ!!!」
「違う!」
聞きな慣れない張り上げた声で言った氷室さんは、私を引き剥がすとその冷たいポーカーフェイスのまま私の頰を思いっきり打った。
私はそれを全く予知できなくて、思いっきり受けて地面に倒れこんだ。
そして氷室さんはそんな私に馬乗りになって、肩に掴みかかった。
「彼女には、雨宮さんにはあなたがなくてはならなかった。花園さんがいなければ、彼女は彼女にはならなかった。雨宮さんには、花園さんが不可欠だった。花園さんに雨宮さんが不可欠だったのと、同じように」
「でも、晴香は私のせいで……」
「それは、雨宮さんの覚悟で、雨宮さんの想い。あなたに意見する資格は、ない。あなたは、雨宮さんを失ったことを嘆いても、彼女の人生を勝手に後悔してはいけない」
「…………」
氷室さんは淡々と言った。
そしてジンジンと痛む頰に、氷室さんの冷たい手が触れた。
その目に怒りはなく、ただ慈しむような視線があるだけだった。
晴香が決めて、選んだ道。それを否定する権利は私にはない。
そこに私が勝手に罪悪感を作り出して、勝手に責任を感じるのは晴香の覚悟を愚弄する行為だ。
どんなに私が喚いても、それが晴香の選んだ答えなんだから。
それでも死んでほしくなくて、死んでしまったことは堪らなく悲しい。
その気持ちだけはどうしようもできない。
その死に責任を感じてはいけないとしても、どうにかしてあげられなかったのかと思ってしまう。
そして何より、もう会えないことが堪らなく寂しいんだ。
「……ごめんなさい。酷い、ことを……」
「ううん。私こそごめんなさい。氷室さんは何も悪くないのに」
私が項垂れると、氷室さんは静かに首を横に振った。
誰も悪くないんだと、そう言うように。
「まったく参ったよ。最悪の事態だ、これは」
氷室さんに助け起されて立ち上がると、夜子さんが私たちの傍にやってきて、棘のある口調で言った。
その表情にはいつもの穏やかさはなく、張り詰めた鋭い目をしていた。
晴香が爆発した時一番近くにいた夜子さんだったけれど、その身体は綺麗なままだった。
「アリスちゃん。悲しみに暮れているところ悪いけど、まだ何も終わっちゃいないよ。問題はこれからだ」
「夜子さん、私……」
「謝る必要はないよ。アリスちゃんは自分が正しいと思ったことをやったまでだろう? その結果だ。謝っちゃいけない」
「でも、こうなることが避けられなかったのなら、はじめから夜子さんの言うことを────」
「それ以上言うのなら、流石の私も君を軽蔑せざるを得ないなぁ」
「────────」
鋭い眼光に射抜かれて、私は言葉を途切らせた。
そして、自分が口にした言葉の意味を理解した。
私が今ここで過ちを口にすれば、それは私を信じてくれた人たちを裏切ることになる。
私を信じて力を貸してくれた氷室さんに善子さん。そして、私の選んだ道を受け入れてくれた晴香。
そしてその想いとぶつかってくれた夜子さんと千鳥ちゃん。
その全ての気持ちを、裏切って踏みにじることになる。
本当にそれが間違った行為だったのなら、それは過ちを認めないといけない。
けれど私たちのぶつかり合いは、お互いの正しさを受け入れて、それでも譲れないから起こったもの。
しかしその結果が望んだものにならなかった、そういうことだから。
だから私は、夜子さんに謝っちゃいけないんだ。
口を固く閉じて頷くと、夜子さんは満足そうに鼻を鳴らしてほんの少しだけ笑みを浮かべた。
「喧嘩はおしまいだ。こうなった以上力を合わせよう」
「何が、起こるっていうんですか?」
晴香はもう死んでしまった。
私たちの戦いも終わった。
これ以上この場で何か起こるなんて、そんなこと……。
「起こるさ。それを起さないために、私たちは死の間際の魔女たちの介錯をしてきたんだからね」
広がるのは血と肉の海。無残な爆発の後。
けれど、それは普通とは違った。
いや、こんな光景は普通には目にするものではないけれど、でも何かがおかしかった。
血が、沸騰でもしているかのようにふつふつと泡を吐いている。
そして飛び散った見るも無残な肉片が、ピクピクと痙攣しているように見えた。
「千鳥ちゃん! 事態は最悪だ。いつまでぐずぐずしてるんだい」
それを一瞥してから、夜子さんは遠くに向けて叫んだ。
その先には、氷に埋もれている千鳥ちゃんが項垂れていた。
「これ、出られないのー!」
「まったく、世話の焼ける……」
遠くから喚く声が聞こえて、夜子さんは溜息をつく。
すると足元の影から一匹の猫が現れて、千鳥ちゃん目掛けて疾走した。
そして氷の塊まで迫るとその形を変え、流動的な刃になって氷を砕いた。
「善子ちゃんのことも叩き起こしておいて。そのまま転がっていたら、呑まれちゃうかもしれないからね」
氷から解放された千鳥ちゃんにそう言うと、夜子さんは再び血の海に向き直った。
その顔はやはり、いつもの余裕のある表情とは違って、冷静かつどこか緊張が見えた。
「アリスちゃん。晴香ちゃんが死んでしまったことはショックだろう。でも、今は目の前のことに集中するんだ。君が晴香ちゃんのことを想うならばこそ、君はこれを真摯に受け止めて対処しなければならない」
「一体、何が……」
今だって心が挫けそうなのに。この現実を受け止めきれていないのに。
これ以上、何が起こるっていうの?
氷室さんが私の手を強く握った。
締め付けるような力強さが、これから起こることへの不安を煽る。
「アリスちゃん。晴香ちゃんは……」
千鳥ちゃんに支えられながら、意識を取り戻した善子さんが覚束ない足取りでやってきた。
目の前に広がる惨状と、私たちの表情を見て事態を理解したようだった。
唇を強く結んでそれ以上何も言わず、私の肩にそっと手を置いた。
「さて、みんな気を抜かないことだ。現実を受け容れる覚悟をしなさい」
夜子さんが、私たちに言い聞かせるように重々しく言った、その時だった。
禍々しく醜悪な、不穏な気配が血の海一帯に立ち込めた。
吐き気を催すような、どす黒い気配と圧力。
これは、転臨した魔女から感じるものに酷似していたけれど、でもそれよりももっと気持ちが悪かった。
その押し潰すような気配に息が詰まりそうになった時。
突如散らばった肉片がもぞもぞと動き出して、一点に集まり出した。
そして一面に広がった血の海もまた、湧き上がるようにぶくぶくと泡を吹き出して盛り上がった。
あまりのグロテスクな光景に目を覆いたくなるも、私は必死でその光景を見た。
氷室さんの手を強く握り返して、晴香だったものの行く末を、この目に焼き付けた。
集結した肉片と湧き上がった血潮は急激に混ざり合って、ドロドロうねうねとした肉の塊を作り上げた。
まるで肉を溶かして流動状にしたようなそれは、突然丸く膨れ上がると、大きく伸び上がって柱のように天高く昇った。
そしてそれが柱状でうねうねと蠢き、やがて人の形を型取り出す。
ドロドロと溶ける肉をぐちゃぐちゃとこねくり回して、まるで粘土のように形を形成した。
「なに、これ……」
言葉を出さずにはいられなかった。
足がすくんで、腰が砕けそうになる。
全身の力が、抜けてしまいそうだ。
それほどまでにそれは気持ち悪くて、あまりにも醜悪だった。
常にその肉をドロドロと溶かしながら、灼熱と蒸気を振りまいて再生と溶解を繰り返す崩れた肉の塊。
それが五メートルほどの巨大な人の形をしたものに変貌した。
頭のような部分はあっても、顔に当たる部分はない。辛うじて口と思えるような裂け目があるだけだ。
ドロドロと溶けながら形作られたその姿は、人型ではあっても人と呼べない。
ただの肉の塊。肉でできた、怪物だ。
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