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第6章 誰ガ為ニ
77 湯船の母娘
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「あのねアリスちゃん。お母さん、またお仕事でしばらく帰れないの」
「え、そんなの?」
浴槽の中に二人でなんとか収まってから、お母さんがポツリと言った。
私のことを背後から抱き締めながら浸かっているお母さんの声は、少しだけ萎らしい。
私のお腹辺りで緩く手を組みながら、その顎をコトンと肩に乗せてきた。
私が浴室に行くなり、洗いっこがしたいと子供のように駄々を捏ねたお母さん。
仕方ないなと頷くと、洗ってくれる時も洗われてる時も上機嫌だった。
まるで子供同士でじゃれ合うように洗い合ったのだけれど、高校生にもなって何をやっているんだという気がしなくもなかった。
でも、相手は高校生どころかアラフォーのいい大人だから、私は深く考えないことにした。
そんな感じだったから、二人して湯船に浸かってやっと一息ついた、というかゆっくりできた。
だっていうのに、らしくないしんみりとした声で切り出すものだから、私は少し大げさなリアクションを取ってしまった。
「帰ってきたばっかりなのにごめんね。お母さんいないと寂しいでしょ?」
「そりゃあ寂しいけど、もう慣れたから大丈夫だよ」
「えー。そこは、寂しくて泣いちゃうから行かないでぇーって、お母さんは言って欲しかったんだけどなぁ~」
私が笑顔で返すとお母さんはぷくっと頰を膨らませた。
実際のところ、帰ってきたばっかりのお母さんがまたすぐ出て行ってしまうのは嫌だけれど。
でもお母さんに心配をかけまいと、元気に答えたのに。
まぁ、お母さんはそんなこと全部わかった上で言っているんだろうけれど。
「私だって子供じゃないもん。そんなわがままは言いませんよー」
「ちぇー。つまんないの」
「じゃあ、私がそうやって言ったらお母さんはうちにいてくれる?」
「まぁ、そういうわけにもいかないんだけどねぇ~」
私の指摘にお母さんはにへらっと笑った。
お互いにわかりきった上での、取り留めのないやり取り。
大した意味もないようなこんな軽口が、それでもお互いを大切に思っていることを確認させてくれる。
「いつも通り、このうちでお母さんが帰ってくるのを良い子にして待ってるよ。だから、お仕事頑張って」
「……うん! お母さん頑張るよ!」
私の顔のすぐ真横にあるお母さんの顔に、一瞬だけ寂しそうな色が浮かんだ。
でもそれは浴室の湯気のせいで朧げで、もしかしたら私の錯覚だったのかもしれない。
お母さんはすぐに元気のいい笑顔を向けてきたから。
「多分ね、今回はそんなに長くはかからないと思うから。きっとすぐにまた会えるよ」
「ホントに? なら良かった」
「うん。だから、心配しないでね」
そう言うと、お母さんは私のことをぎゅっと強く抱き締めてきた。
狭い浴槽の中で身を寄せてきて、お湯がピチャピチャと跳ねる。
お母さんの洗ったばかりの湿った髪が頰に触れて、なんともこそばゆい。
「お母さん、どうしたの?」
「なんでもなーいよー。ただね、ぎゅーってしたくなっただけ」
「えーなにそれー」
顔は見て取れなかったけれど、声はいつも通りの快活さだった。
お母さんがベタベタしてくるのはいつものことだけれど、でも今のこれには何だか違うものを感じてしまう。
抱き締める腕の力が妙に強いように思えた。
「お母さんはね、いつでもどこにいたってアリスちゃんのことを想ってるよ。誰よりも、アリスちゃんの味方なんだから」
「うん、わかってる。ちゃんとわかってるつもりだよ。ていうかそれ、これから死んじゃう人の台詞みたいで不吉なんだけど……」
「あれ、もしかして死亡フラグってやつ!? お母さんピンチ!?」
私の指摘にお母さんはニシシと笑いながら言った。
声色だけは普通なのに、やっぱりどこか神妙な空気を感じてしまう。
「お母さんは死なないよん。アリスちゃんを一人ぼっちになんてするもんですか」
「まぁお母さんなら何があっても平気そうだよね」
「えーひっどーい。お母さんだってねぇ、か弱いレディなんだからー!」
ぶーぶーと文句を垂れるお母さんは、私を抱く腕をぐいぐいと締め付けて圧迫してくる。
私が苦しいとお湯の中で大げさに足をばたつかせると、お母さんはニコニコと笑って腕を緩めた。
ぱっと見はいつもと変わらない。でもやっぱりどこか違う。
声色も行動もいつもと同じなのに、お母さんにしてはどこか暗さを感じさせる何かが、そこにはあった。
お母さんは何も聞いてはこないけれど、でも私が何か大きなものを抱えていることに気付いているんだ。
だから直接口にしないまでも、こうやって私にその想いを伝えてくれている。
心配しているんだと、想っているんだと。
その気持ちが嬉しくもあり、同時に申し訳なくもあった。
だから私は、少しだけ気持ちを固めた。
「ねぇ、お母さん」
「ん?」
私を抱いている手に自分の手を重ねて、私はゆっくり口を開いた。
お母さんはやんわりと顔をこちらに向けてきて、穏やかな瞳が私を包んだ。
「今私、すっごく大きな悩みがあって……でも、それをお母さんに上手く話す方法がわからないの。ごめんね」
「……そっか。そうなんだね。別にそんなこと謝らなくてもいいのに」
「うん。でもね、一人で抱えちゃってるんじゃなくて、ちゃんと支えてくれて、力を貸してくれる友達がいるから、私は大丈夫だよ。もう少し、お母さんには心配かけちゃうかもしれないけど、でも私、きっと大丈夫だから」
お母さんに全てを話すことはできない。
魔法使いとか魔女とか、異世界とかお姫様とか、そんな突拍子のない話をしてもお母さんは戸惑うだけだ。
いや、このお母さんならもしかしたらすんなり受け入れたりするかもしれないけれど。
でも、今そんな話をしても、本当にただ心配をかけるだけだから。
だから具体的なことは話せない。でも、私のことを心配してくれるお母さんに、ただ気を使わせているわけにもいかないから。
私だって、いつまでも子供じゃいられない。
「ちゃんと話せなくてごめんね。私、今のこの悩みには、ちゃんと自分の考えで向き合いたいって思ってるの。友達に頼ったり助けてもらったりもしてるけれど、自分の心でぶつからなきゃって思ってるの。だからお母さんには、私が全部スッキリさせられたら、またこうやってぎゅってして欲しいんだ」
「もちろん。嫌って言うまで、いくらでも」
お母さんはとても柔らかく微笑んだ。
いつもの溌剌とした笑みとは違う、とても温かい包み込むような笑顔で。
「お母さんは、アリスちゃんのお母さんだからね。アリスちゃんが答えを見つけるのを見守ってるよ。アリスちゃんが見つけた答えを尊重するよ。だってお母さんは、誰よりもアリスちゃんの味方だから。どんなアリスちゃんだって、全部全部包み込んであげる」
「……うん。ありがとう」
後ろからふんわりと包み込まれる。
力強い抱擁じゃなくて、柔らかくそっと抱かれる。
お湯の温かさよりも心地いいお母さんの温もりが、私の心を満たしてくれる。
何にも話せない私を信じてくれている。
全てを受け入れて、何も言わずに包み込んでくれている。
それが嬉しくて堪らなくて、私は鼻をすすった。
こうやって私を信じて見守ってくれている人がいる。
優しく抱き締めて、何もかも受け入れてくれる人がいる。
私のたった一人しかいない、掛け替えのないお母さん。
お母さんにこれ以上心配をかけないためにも、もうあまり時間はかけていられない。
記憶も力も運命も、全て取り戻して受け入れて、私は本来のあるべき姿に戻らないといけない。
それこそが、私の周りにいる人たち全てを救うことになるはずだから。
母の温もりに包まれながら、私は改めてそう思った。
「え、そんなの?」
浴槽の中に二人でなんとか収まってから、お母さんがポツリと言った。
私のことを背後から抱き締めながら浸かっているお母さんの声は、少しだけ萎らしい。
私のお腹辺りで緩く手を組みながら、その顎をコトンと肩に乗せてきた。
私が浴室に行くなり、洗いっこがしたいと子供のように駄々を捏ねたお母さん。
仕方ないなと頷くと、洗ってくれる時も洗われてる時も上機嫌だった。
まるで子供同士でじゃれ合うように洗い合ったのだけれど、高校生にもなって何をやっているんだという気がしなくもなかった。
でも、相手は高校生どころかアラフォーのいい大人だから、私は深く考えないことにした。
そんな感じだったから、二人して湯船に浸かってやっと一息ついた、というかゆっくりできた。
だっていうのに、らしくないしんみりとした声で切り出すものだから、私は少し大げさなリアクションを取ってしまった。
「帰ってきたばっかりなのにごめんね。お母さんいないと寂しいでしょ?」
「そりゃあ寂しいけど、もう慣れたから大丈夫だよ」
「えー。そこは、寂しくて泣いちゃうから行かないでぇーって、お母さんは言って欲しかったんだけどなぁ~」
私が笑顔で返すとお母さんはぷくっと頰を膨らませた。
実際のところ、帰ってきたばっかりのお母さんがまたすぐ出て行ってしまうのは嫌だけれど。
でもお母さんに心配をかけまいと、元気に答えたのに。
まぁ、お母さんはそんなこと全部わかった上で言っているんだろうけれど。
「私だって子供じゃないもん。そんなわがままは言いませんよー」
「ちぇー。つまんないの」
「じゃあ、私がそうやって言ったらお母さんはうちにいてくれる?」
「まぁ、そういうわけにもいかないんだけどねぇ~」
私の指摘にお母さんはにへらっと笑った。
お互いにわかりきった上での、取り留めのないやり取り。
大した意味もないようなこんな軽口が、それでもお互いを大切に思っていることを確認させてくれる。
「いつも通り、このうちでお母さんが帰ってくるのを良い子にして待ってるよ。だから、お仕事頑張って」
「……うん! お母さん頑張るよ!」
私の顔のすぐ真横にあるお母さんの顔に、一瞬だけ寂しそうな色が浮かんだ。
でもそれは浴室の湯気のせいで朧げで、もしかしたら私の錯覚だったのかもしれない。
お母さんはすぐに元気のいい笑顔を向けてきたから。
「多分ね、今回はそんなに長くはかからないと思うから。きっとすぐにまた会えるよ」
「ホントに? なら良かった」
「うん。だから、心配しないでね」
そう言うと、お母さんは私のことをぎゅっと強く抱き締めてきた。
狭い浴槽の中で身を寄せてきて、お湯がピチャピチャと跳ねる。
お母さんの洗ったばかりの湿った髪が頰に触れて、なんともこそばゆい。
「お母さん、どうしたの?」
「なんでもなーいよー。ただね、ぎゅーってしたくなっただけ」
「えーなにそれー」
顔は見て取れなかったけれど、声はいつも通りの快活さだった。
お母さんがベタベタしてくるのはいつものことだけれど、でも今のこれには何だか違うものを感じてしまう。
抱き締める腕の力が妙に強いように思えた。
「お母さんはね、いつでもどこにいたってアリスちゃんのことを想ってるよ。誰よりも、アリスちゃんの味方なんだから」
「うん、わかってる。ちゃんとわかってるつもりだよ。ていうかそれ、これから死んじゃう人の台詞みたいで不吉なんだけど……」
「あれ、もしかして死亡フラグってやつ!? お母さんピンチ!?」
私の指摘にお母さんはニシシと笑いながら言った。
声色だけは普通なのに、やっぱりどこか神妙な空気を感じてしまう。
「お母さんは死なないよん。アリスちゃんを一人ぼっちになんてするもんですか」
「まぁお母さんなら何があっても平気そうだよね」
「えーひっどーい。お母さんだってねぇ、か弱いレディなんだからー!」
ぶーぶーと文句を垂れるお母さんは、私を抱く腕をぐいぐいと締め付けて圧迫してくる。
私が苦しいとお湯の中で大げさに足をばたつかせると、お母さんはニコニコと笑って腕を緩めた。
ぱっと見はいつもと変わらない。でもやっぱりどこか違う。
声色も行動もいつもと同じなのに、お母さんにしてはどこか暗さを感じさせる何かが、そこにはあった。
お母さんは何も聞いてはこないけれど、でも私が何か大きなものを抱えていることに気付いているんだ。
だから直接口にしないまでも、こうやって私にその想いを伝えてくれている。
心配しているんだと、想っているんだと。
その気持ちが嬉しくもあり、同時に申し訳なくもあった。
だから私は、少しだけ気持ちを固めた。
「ねぇ、お母さん」
「ん?」
私を抱いている手に自分の手を重ねて、私はゆっくり口を開いた。
お母さんはやんわりと顔をこちらに向けてきて、穏やかな瞳が私を包んだ。
「今私、すっごく大きな悩みがあって……でも、それをお母さんに上手く話す方法がわからないの。ごめんね」
「……そっか。そうなんだね。別にそんなこと謝らなくてもいいのに」
「うん。でもね、一人で抱えちゃってるんじゃなくて、ちゃんと支えてくれて、力を貸してくれる友達がいるから、私は大丈夫だよ。もう少し、お母さんには心配かけちゃうかもしれないけど、でも私、きっと大丈夫だから」
お母さんに全てを話すことはできない。
魔法使いとか魔女とか、異世界とかお姫様とか、そんな突拍子のない話をしてもお母さんは戸惑うだけだ。
いや、このお母さんならもしかしたらすんなり受け入れたりするかもしれないけれど。
でも、今そんな話をしても、本当にただ心配をかけるだけだから。
だから具体的なことは話せない。でも、私のことを心配してくれるお母さんに、ただ気を使わせているわけにもいかないから。
私だって、いつまでも子供じゃいられない。
「ちゃんと話せなくてごめんね。私、今のこの悩みには、ちゃんと自分の考えで向き合いたいって思ってるの。友達に頼ったり助けてもらったりもしてるけれど、自分の心でぶつからなきゃって思ってるの。だからお母さんには、私が全部スッキリさせられたら、またこうやってぎゅってして欲しいんだ」
「もちろん。嫌って言うまで、いくらでも」
お母さんはとても柔らかく微笑んだ。
いつもの溌剌とした笑みとは違う、とても温かい包み込むような笑顔で。
「お母さんは、アリスちゃんのお母さんだからね。アリスちゃんが答えを見つけるのを見守ってるよ。アリスちゃんが見つけた答えを尊重するよ。だってお母さんは、誰よりもアリスちゃんの味方だから。どんなアリスちゃんだって、全部全部包み込んであげる」
「……うん。ありがとう」
後ろからふんわりと包み込まれる。
力強い抱擁じゃなくて、柔らかくそっと抱かれる。
お湯の温かさよりも心地いいお母さんの温もりが、私の心を満たしてくれる。
何にも話せない私を信じてくれている。
全てを受け入れて、何も言わずに包み込んでくれている。
それが嬉しくて堪らなくて、私は鼻をすすった。
こうやって私を信じて見守ってくれている人がいる。
優しく抱き締めて、何もかも受け入れてくれる人がいる。
私のたった一人しかいない、掛け替えのないお母さん。
お母さんにこれ以上心配をかけないためにも、もうあまり時間はかけていられない。
記憶も力も運命も、全て取り戻して受け入れて、私は本来のあるべき姿に戻らないといけない。
それこそが、私の周りにいる人たち全てを救うことになるはずだから。
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