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本編

6.良心のシグ

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「神の使者様、ゆっくり休めましたか?」

 談話室に訪ねてきたシグリスは、少し心配そうに訊いた。
 この部屋はわたしが宿泊している客室の隣にあり、シグリスはわざわざこちらまで足を運んでくれた。

「はい。ベッドがふかふかでよく眠れました」

 わたしは自然と笑みを返す。
 シグリスがわたしを気遣うのは、パーティー会場でのやりとりの後、恐怖がほぼ九割による気疲れのせいで、貧血みたいになって座りこんでしまったせいだ。これはいけないと王が慌て、大急ぎで客室に通してくれたので、昨日は自分の名前を名乗る機会もなかった。

「それは良かった。改めまして、ウォルター伯爵領を治めています、シグリス・ウォルターと申します。ありがたいことに、陛下より信をいただきまして、近衛騎士団の団長をしております」

 シグリスは丁寧にあいさつをし、腕に抱えていた花束を差し出す。
 襟足まで伸びた銀髪と、光の加減で金にも見えるはしばみの瞳はキリッとしている。白と薄青を使った制服に、ロイヤルブルーのマントをかけていた。立っているだけで絵になる人だ。

「お近づきのしるしに、どうぞ。女性に贈るには少し迷ったのですが、リラックスできるようにハーブを選びました」
「ありがとうございます。へえ、ラベンダーですか? 今の季節って夏くらいでしょうか」

 小さな紫色の花がついたラベンダーの花束だ。とても良い香りがする。

「そろそろ夏も終わりで、涼しくて過ごしやすいですよ。ただ、この国は冬が厳しいので、神の使者様のお体が慣れるか心配ですね」

 社交辞令でもいい。雑な死神のせいで精神的に疲れきっているわたしには、イケメンの優しさが身にしみる。
 とっさに安全圏のサブキャラクターを保護者に選んだとはいえ、小説内で「良心の騎士」と主人公があだ名をつけ、感想での読者人気が高いだけあって、紳士的で優しい。
 わたしは急に不安になった。
 ――この怖い世界で、こんなに完璧な「良い人」なんて存在するだろうか。

(でも、女神様にもおすすめされているし、大丈夫よね。はあ、駄目だわ。小説に出てくる連中がクズばっかりだったから、色眼鏡で見ちゃう。普通に良い人もいるはずよね)

 グロ系ざまあ小説だから、復讐相手がたくさん出てくるのは設定上しかたがないのだと、わたしは自分に言い聞かせた。
 ひとまずわたしは、丁寧に接してくれるシグリスに対し、こちらも同じように親切にしようと決めた。

「がんばって慣れるようにします。それから、私の名前は橋川絵麻といいます。苗字が橋川で、名前が絵麻です。昨日は疲れていたので、名乗れなくてごめんなさい」
「エマ様とお呼びしても?」
「名前で大丈夫ですけど、様はやめてください。せめて、さん付けで……」
「私のことはシグリスと呼び捨てで結構ですよ」
「いえいえ、ぜひとも! シグリスさんと呼ばせてください!」

 わたしは力いっぱいお願いした。
 わたしの通っていた高校は、いじめ防止対策で、男女関係なくさん付けで呼ぶルールだった。そのせいか、なんとなく初対面の人間に呼び捨てされるのは抵抗があった。それに、小説によれば、シグリスは二十歳だ。年上の人間を呼び捨てにするのもどうだろうかと思うのだ。
 わたしは基本的に気の小さい凡人なので、最低限の礼儀を守って、できるだけ角を立てず、平和に穏やかに過ごして、家に帰って趣味の時間を満喫していたいタイプだ。

(小説の『異世界人』はすごすぎるよ。真実の聖女は自分だと名乗れる度胸もあるし、アルバート王子のことをすぐに呼び捨てにするし、なんならため口さえきくじゃないの。無理。あんなの無理。わたしなんて、そもそも命がかかってなかったら、シグリスさんに話しかけることすらできないもん)

 あれが天然ものの陽キャラというやつなのか。
 シグリスは大人の対応で、にっこりした。

「では、それはおいおいということにしましょう。もっと親しくなってからで」
「はい」

 わたしは頷いたが、少し不思議に思った。遠回しに提案を断られた気がする。
 とりあえず、先手必勝で、昨日働いた無礼についても謝ることにした。

「あの……昨日は急に抱きついてごめんなさい。知らない人にあんな真似をされて、嫌でしたよね……?」

 冷静になってみると、わたしの行動は怖くないだろうか。神様の使者という立場で誤魔化されているが、痴女ちじょみたいなものだ。裁判で訴えられたら、わたしのほうが負けるやつ。

「驚きましたが、気にしないでください」

 シグリスとしても、そう返すしかないはずだ。
 罪悪感が刺激されて、次の会話を探すわたしに、アリスがそっと声をかける。

「失礼します、エマ様。立ち話もなんですから、どうぞお座りくださいませ。伯爵様、お飲み物にご希望はございますか?」
「紅茶をお願いします。角砂糖は三つで」
「かしこまりました」

 アリスは絵麻にも希望を聞いてから、わたしの手から花束を預かったネシアとともに、談話室を退室した。ルルだけ、壁際に控えている。
 アリスのおかげで、わたし達はそれぞれ向かい合って長椅子に座った。

「甘いものがお好きなんですか?」
「お恥ずかしながら」
「いいじゃないですか、好みは人それぞれですよ」

 当たり前のことを言っただけだったが、シグリスはうれしそうに表情をゆるめた。

「ありがとうございます。男のくせにみっともないと言う人もいますので、神の使者様が不快に思われないか心配していました」
「エマです」
「ええ、エマさん」

 イケメンとは、声もいいものらしい。こんなにいい声で名前を呼ばれると、ドキッとする。

「体調のほうはもうよろしいのでしょうか。世界に降り立った反動ではないかと、ガイア教の神官達があなたを保護したいと訴えていましたよ。ひとまず王家の預かりという形で落ち着いています」
「神殿のほうですか? わたしは王宮から離れたいので、それでも構いませんが……。ああでも、聖女様のほうが神殿で保護されるべきじゃないでしょうか」

 聖女を差し置いて神官にちやほやされては、わたしの命日が早まりそうで怖い。
 そこにアリス達が戻ってきて、紅茶と菓子を並べてくれた。
 シグリスは紅茶を一口飲んでから、意外そうに問う。

「エマさんは王宮を離れたいのですか?」
「こういったきらびやかな場所は苦手なんですよね……」

 お姫様みたいな部屋に泊まるのは憧れがあったが、それは一日で充分だ。今はとにかく逃げたい。この王宮には第一王子アルバートがいるのに加え、王妃教育のため、聖女ラフィリアナが毎日のように顔を出す。だだっ広いのでそうそう会わないだろうが、できるだけ接点を作らないに限る。
 シグリスは少し考えて、思わぬ提案をした。

「では、私の屋敷に移られますか?」
「へ?」
「王都滞在用の屋敷を持っていまして、王都にいる時はそちらから登城しています。結婚式まで半年の準備期間が必要ですが、婚約者は花嫁修業という名目で、嫁ぎ先で暮らしてもいいことになっているんですよ」

 わたしはアリスのほうを見た。アリスはそれで正しいのだと、こくりと頷く。

(そんな設定があったっけ? ああ、駄目だ。グロな復讐描写に、記憶のほとんどが持っていかれてるわ)

 覚えていないが、愛の女神にも何か理由をつけて王宮を離れるようにアドバイスされていた。この波に乗るしかない。

「シグリスさんがいいなら、そうします!」
「分かりました。陛下と大神官に話をつけておきますね」

 シグリスはあっさりと言ったが、とんでもない相手と交渉するというのだからすごい。

「正直、私は近衛団長として心配なんです」

 重大な秘密を打ち明けるように、シグリスは真剣な表情をする。わたしもつられて、ごくりと息をのんだ。

「何が……?」
「光の柱から、あなたは現れました。神様の使者だというのは間違いございません。しかし、神様からのお告げが聖女様に関することだけで、あなた自身は私とその……愛を育むことでしたから」

 自分で説明していて照れたようで、シグリスは顔を赤くして、目を泳がせる。思わずわたしはシグリスの表情を凝視した。

(大人の男の人がこんなふうに照れるのって、初めて見た)

 高校生のわたしには、たった二歳差でも二十歳というだけで大人びて見えるので、なんだか不思議な気持ちになった。

「こちらにいらっしゃった理由がふんわりしているので、あなたの立場は宙ぶらりんに近いということです。神殿側が保護したいというのも自然かと」

 シグリスの懸念は、わたしにも理解できる。

(そうよね。小説では真の聖女は自分だって触れこむところを、必死に誤魔化したのがああなんだもん。そりゃあ、奇妙に見えるでしょうね)

 わたしは頭をフル回転させる。まずはこちらが譲歩することにした。

「信じられないなら、いずれ聖女様が覚醒される時まで、待っていただいて構いません」
「いえ、お告げを信じないというわけでは」
「私の立場がふんわりしているのは、そりゃあそうですよ。神様には幸せになるようにと送り出されただけなので」
「はい……?」

 シグリスを味方につけるためだ。下手な小細工はやめて、ここは正直に打ち明けよう。

「私、前の世界で、神様のせいで死んでしまったんです。そのお詫びに、異世界に転生させてくれたんです」

 死神や愛の女神とか、聖女から逃げないと生死がかかっているといったことは伏せて、要点だけ教える。

「……というわけでですね、あなたといたら、私は幸せになれるんだそうです! できれば私はシグリスさんと仲良くなりたいんですけど、駄目ですか?」

 命がかかっているので、わたしは必死だ。気持ちを入れすぎて目をうるませながら、じっとシグリスを見つめる。
 シグリスはというと、みるみるうちに顔を耳まで真っ赤にして、右手で顔を覆って横を向く。

「そ、そうですか。私といると、エマ様は幸せになるのですか」
「えっと、まさか、怒ってますか?」

 突拍子がなさすぎて嘘っぽかっただろうか。おろおろするわたしの耳元に、アリスがひそりとささやく。

「失礼します、エマ様。恐らく閣下は照れておいでなのかと。神様に最良の相手と褒められたのもありがたいことですが、『一緒にいたら幸せになる』とか『仲良くなりたい』なんて告白されては、普通は胸にキュンとくるものです」

「キュン……?」

 わたしは首を傾げる。
 初対面の人間にそんな告白をされたら、普通は怖くないだろうか。わたしがやっていることは、ほとんど押しかけ婚だ。

「シグリスさん、キュンとしてるんですか?」
「聞かないでください」

 どうやら本当にキュンとしたらしい。照れているシグリスを見ていると、わたしまで恥ずかしくなってきた。

「ごめんなさい……?」

 とりあえず謝ってみた。
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