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四章 恋に落ちた暗殺者

女王様がこちらを向かれる

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 僕は、暗殺依頼を引き受けた……その夜は月が雲におおわれ、真っ暗だった。

 毎日をすごす小屋の中は、まるで知らない場所のようで心細くなっていく。



 揺れるろうそくの火が、ゆらゆらとあざ笑う。うすく照らされた木製の壁には……ナニかの顔?
 目をそらした瞬間に襲われるような気がして、見たくないのに見てしまう。

「うっ……!」

 声を出してはならない。後ろに――ナニかいるかもしれないんだ、気づかれる!
 そうだ、寝袋に入ってしまおう。音をたてず、ゆっくりと。
 ナニかから目をはなさず……顔をそっと覆って隠すんだ。暗闇の中で息をひそめるんだ。

 ああ。どうしてこんなに恐怖しているのだろう……まるで亡霊にまとわりつかれたみたいだ。



『やつの一人娘こそ、お前の父の仇だ。そやつを始末してもらいたい』



 僕はまだなにもしちゃいない! 寝袋の中で……心の中で……そう叫んだ。
 なのに、とても怖い。



『みごと成し遂げたあかつきには、親衛隊の候補として、カランド公に紹介しよう』



 また……喉に冷たい刃が当てられたような感触がやってきた。

 名誉回復のために人の命を奪う。
 自分のために? いや、父さんのためでもある。直接ではないが仇討ちなんだ、願ったりかなったりじゃないのか。

 そうだよ……騎士でも兵士でも、賊の討伐をする。人々をおびやかす存在を、武器で貫く。ありふれた話だよ。
 たまたま『初めて』が因縁のある相手の娘だってだけさ。

 まだ若い?
 年下とはいえ、十五歳だぞ。騎士見習いになれる……僕は、父さんのことで門前払いだった。

 悪人の子は悪人じゃない。わかってる。
 しかし、卿の話によれば親の跡をついで『親と同じ』所業をくりかえしているのだそうだ。
 父さんがおとしめられたように、誰かが犠牲になっているとしたら……悲劇を止めなければ!





 ――自問自答するうちに眠っていたのだろう。目をあけると朝日の光がさしこんできていた。



 寝袋から這い出し、昨日もらった地図をひろげる。町の周辺が描かれていて、一つの道に線が引かれている。
 今日の……太陽が一番高くなるころ、この道を通って『標的』が町に到着すると言っていた。

 そこは、うねる岩山を縫うような崖道がつづく場所だった。

「――弓だ」

 生活のために何度も通った。狩りで仕事で、何度もだ。どこから狙えばいいかはよくわかる。



 目を閉じて、思い描く。
 あの崖の上で待ち伏せるんだ……僕は岩陰に隠れている。聞こえるのは風と草の音だけ。
 ほんの少し、すなぼこりが舞っているけれど大丈夫。よく晴れた日だから通行人がよく見える。
 さあ来たぞ……僕は標的の横顔を見下ろす。道を……曲がる……そうすると、完全に背を向けた格好になるんだ。

 いまだ、弓を引いて……!



「……くっ!」

 矢を放つ寸前で、頭の中の景色が消え去った。まぶたに覆われた暗闇が、やたらグラグラと揺れる。
 目を開けてもしばらく焦点があわず、三回ほど深呼吸をしてようやくおさまってきた。

 人を射る瞬間が思い描けなかった……
 当てる自信はある。かならず命中する。だからこそのためらいなのか?
 一晩たっても消えてくれない。



「弱気になるな。感情を殺せ。なすべきことをなすんだ、しっかりしろトーマス!」



 そう言い聞かせながら、弓と地図を持って外に飛びだそうとした――そのとき。
 扉が開いた。

「うわっ!?」
「……ユンデの使いで来た、ル・ハイドという者だ。お前の仕事をみとどけさせてもらうぞ」

 尻もちをつきそうになった僕を気にするそぶりもなく、黒ずくめの来訪者は淡々と話す。

「ふむ、準備はできているようだな。得物は……弓か」
「は、はい」
「では行くぞ」
「ええっ!? ちょっと待って――」



 急いで身支度をすますと、今度こそ小屋を出た。

 少しびっくりしたけれど、好都合かもしれない。彼の淡泊さにつられてしまえば、あれこれ悩まずに済むかも。
 この依頼には、ああいう感じで臨めばいいんだ。





「ここで狙い打ちます」
「そうか」
「では、相手が来るのを待ちます」
「いちいち言わなくていい」

 待ち伏せ地点についたはいいが、会話が続かない。気をまぎらわしたかったけど……

「そういえば――」

 言いかけた口をつぐんだ。
 うちの扉を開けるまで気配すら感じなかったことを思い出したからだ。
 想像だけど……この人はすごく強い。僕よりもずっと。

 腰かけて腕を組んだだけなのに、全身から得体のしれない圧力すら感じる。
 見ているだけで背筋が寒くなってきた。あまり刺激しないほうがいいかも……

 だまって座るだけの時間がとても長く感じられた。





「……来たな」
「え?」

 あれからずっと動かなかったル・ハイドが立ちあがった。

 岩陰からながめてみると、三人の女性が道にそって歩いているのが見えた。
 身なりの良い人、袖の長い凛々しい人、メイド服の人……あれ?



 ここで僕は、とてもとても大事なことに気がついた。

「さ、三人いるようですけど……」
「相手は旅をしている身だ。連れがいても不思議はない」

「申し訳ありません! どれを狙ったらいいのでしょうか!?」
「人相は聞いているはずだが?」
「あの……その……忘れてしまいました……」

 昨日からずっと、相手の顔を認識しないように心がけていた。顔を見なければ、知らなければ、いくらか気が楽になるから……
 だけど、しかし。
 誰を狙えばいいのかわからないなんて。

 あれほど心を殺せと言い聞かせていたのに、僕はまだ自分を守ろうとしていたんだ。



「……真ん中、いちばん背の低い者だ」

「あ、ありがとうございます!」

 助かった!
 ちょっと……いや、すごく怖い人だけど、いてくれてよかった。
 気を落とした反動か、いまならできる気がする、この勢いのままやってしまおう。そうしよう。




 左手に弓を、垂直に。
 右手は握りこぶし、中指と人差し指の間に矢を。

 距離は……三十歩ほど。こちらから見て、前方へ歩いている。速度はゆっくりめだが、じょじょに離れていく形。
 崖上にいるから、弓の角度はいつもよりすこし下。
 障害物はなにもない。なにも問題ない。



 弓を押し、矢を引く……等しい力で。

 ああ、命中までの軌道がはっきりとわかる。『弧』が見える。



 狙いは心臓。無防備な背中――



 背中――

 が。



 くるりと回る。



『彼女』と目が合った。



 とっさに上半身をひねり、後ろへ倒れこんで身を隠す。拍子で矢を手放してしまったのか、どこかへと飛んでいってしまったようだ。



 極限まで高まった鼓動が、ドクンドクンと僕の全身を揺らしていた。
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