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第二部 探索編~子安
愛欲の館(8)
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寝台の脇の卓には、繊細な文様の描かれている酒壷と宝玉が象嵌されている国守の酒盃。そして細い首をもつ、なよやかな女用の杯がおかれていた。
「これはなんじゃ」
国守は口ひげをひねりながら、傍に控えていた侍女に尋ねた。
「女王様よりのお差しいれにございまする」
「……ふん。呼ぶまでさがっていてよい」
侍女は一礼すると次の間へ下がっていった。
国守は、じょぼじょぼと酒壷から自分の盃に注ぎ、ぐいっと飲む。葡萄の芳しい香が拡がった。
ついで女杯に注ぎ、中身を魚の泳いでいる水鉢へと注いだ。
すると水鉢の中での動きがせわしくなり、魚が白い腹をみせて浮かんだ。
「……!」
菜をは怯えたふりをして、国守にしがみついてみせた。
国守はそのまま菜をの体をまさぐることもなくしがみつく女体を支えながらぼそっといった。
「最初はわからなくてなあ。お嬢ちゃんたちが咽喉が渇いた、というから飲ませては死なせてしまった」
どういうことだとばかりに菜をは見上げた。
国主は水鉢から眼を離さない。
「奥がな。女の杯に毒を仕込んでおくのよ。よほど、儂と他の女との閨ごとがいまいましいのだろうなあ」
憤怒する訳でもなく、淡々と語る。
「おまえ、どこの出だ?」
「と、東国の……」
「見事な脚さばきだったな。なにか武道をしているのか」
内心菜をはしくじったか、と思ったが演技を続けることにした。
わざとらしくびくついてみせた。
「……武道とは」
「隠さなんでもいい。事情があるんだろう。
”武と舞は通じる”、とはよく言ったものだ。
お前の足さばきは舞いではない。
舞いよりも見事ではあったが、あれは武道の足さばきだ。
抱きついてきた時は、正直暗殺されるのかとも思ったがな」
「め、めっそうもございませんっ」
菜をが震えた声で否定してみせると、国守は薄く笑った。
「これでも、武によって裸一貫からなりあがったのだからな。目は衰えておらんよ」
慧眼恐れ入った体で、菜をは項垂れてみせた。
「実は……、家が没落しまして……。
女一人では武の家を再興することもかなわず、出奔した兄を探しております……。
こちらで運よくお給仕の下働きに使って頂いておりまして。急遽楽人に召されまして」
菜をはしどろもどろに言ってみせた。
出鱈目ではあったが、後半は真実であったから、でまかせではあるまい。
「そうか。そなたの兄とやらは、拳闘大会には出ておらぬのか」
国守は信じてくれたようであった。
「はい。こちらのお那は大きいゆえ、武人が名を成すにはもってこいと思うのですが」
「なんの。武功が立とうが、商才があろうが。所詮は家柄さ。わしは国王をお護りして那に生還したゆえ、大君から姫を賜ったがな」
国守は自嘲するようにいった。
「奥も己が褒美であるということを知っておって、わしには心も開いてくれぬ。まあ、褒美にしてはよくやってくれているがな」
菜をは少し不思議に思った。
この男の評判といえば。
粗野なだけの、武力しか魅力のない男。
政治的手腕が一切ない男。
武勲をたて、に主君の姫君を輿入れ先から強奪するように妻にしたこと。
己の妻を女王位に座らせ、己が権力をもつために妻の肉親を皆殺しにした権謀術数に長けた男、との風評であった。
また、冷酷で己に歯向かう者は容赦なく処刑すると。
目の前にいるのは、粗野かもしれないが権力の虚しさを知りつくし、妻の愛が得られず仮初の女で紛らわそうとする寂しい男に見えた。
――というのも、女を篭絡するワザであったかもしれないが、初心な菜をにはそこまでは推し測れない。
「殿さまは……女王さまを愛していらっしゃるのですね……」
ふと呟いた菜をの言葉に、国守は自嘲的に首を振った。
「愛、な。あの頃の儂は、奥にふさわしい男になりたかった。
奥の欲しがるものは、なんでも与えてやりたかった。
だが、結局は奥の一番欲しがる物を与えてやれなんだ」
菜をが男の言葉に首を傾げると、昏い貌をして男は呟いた。
「?」
「愛、だよ。まさにな」
(ここまで話すと、大抵普通の妓は自分から国守を胸にかき抱くのだがな)
国守はこっそりと胸の裡で呟いた。
(今宵の妓は勝手が違うな。……まだ、生娘か。男女の機微に通じておらんようだな)
そして妓は予想外の言葉を口にした。
「殿様。今からでも遅くないと思います」
「?」
国守は妓の顔をみた。
大人びた美女に見えたが、真剣な瞳の今は少女のようにも見える。
「領主ご一族の不和は那の乱れの元です。殿さまのお気持ちはきっと奥方様に通じる時がきます」
「そうかな」
国守はおかしそうに言った。
今更妻の不貞を咎めるつもりも、自分の女漁りもあらためるつもりはない。
自分にとって、妻は国守という地位を保持する為の象徴であった。妻にしろ、自分に女王の地位を与えてくれた夫を部下の前ではないがしろにはしない。
国守はこの娘とのやりとりが面白く思えてきた。
女王の差し向けた刺客かもしれぬと疑いは晴れた訳ではなかった。そうではないとしても、妓にとっての貞操の危機から、男に話題を振って関心を削ごうとしているのかとも思う。しかし、真剣に案じている様は演技には思えなかった。
家庭的には不遇な男を演じて、妓の心を手に入れるのも新しい遊びに思えた。
今迄の女達は不細工な自分に抱かれることを本意ではいないものの、彼の地位に自分から体を喜んで差し出す者ばかりであった。
「子はかすがいとも言うが、奥と儂には何のつながりもない」
「……」
「奥は儂を、あれの寝所にも入れてはくれぬ」
「……」
(儂は、なにをこんな者相手に言っているのだ?妻と初枕も交わしたことがないことまで、こんな者に)
高慢で美しかった妻に恋焦がれていた。求めても得られないと知り、憎しみへと変ったのはいつの頃であったろう。
だが、菜をの瞳は愁いといたわりに満ちていた。
(この妓の目が話させるのかもしれぬ)
つと、菜をに手をのばし、引き寄せた。
菜をはされるがままになっている。男は、菜をの目を覗き込んだ。
(他の妓はわしの目を見ようともせず、巧妙にそらしていたが、こやつはそらしもせぬ。
こちらの目を覗きこんで、真意が暴かれてしまいそうだ)
唇を寄せていったとき、菜をが呟いた。
「殿さま……戦は起こりましょうか」
「なに?」
国守はぎくり、とした。
彼は成り上がり者、下賎の出といわれ、不遇にも十分耐えた。信頼出来る部下も、力も蓄えた。もうこの那を力づくで自分のモノにして、「国守」ではなく、「国主」になってみせる。
それはもうすぐ叶う筈であった。内乱という名の戦を起こす。
それをいいあてられたのかと思ったのだ。
「おまえ。どうしてそのような不吉なことを言う」
無骨一辺倒な男とて、声を震えさせない位のタヌキ芸はお手の物だ。
「戦が起これば、兄も駆り出されるやもしれませぬ。
戦でわたくしと兄は家と肉親を失いました。
この邦で兄が仕官しておれば、禍は兄にも及びまする。
大事なものが、また一つ手の平から零れ落ちていく……。もう、そんな思いは厭でございまする」
妓の瞳はきらきらとしていて、思いの強さをそのまま映しているようであった。
「そなた」
国守はじっと女をみつめた。
「兄に惚れておるのか」
(兄といっても実の兄ではないのだろう)
家の再興というのも口実かもしれなかった。菜をは目を伏せた。
「わかりませぬ。ずっと幼き頃より兄の背をおいかけてまいりました。
兄を、私のいる所に縛り付けたいというのは私のわがままでございまする。
なれど……なれど、兄がいつも無事で、幸せであって欲しいと思いまする」
静かに、熱っぽく語る女。彼女を前に、国守はここまで女に惚れられているその男が心底羨ましくなった。
ふと、妻の今度の愛人が脳裏に浮かんだ。
今回、妻は相当入れ込んでいるようであった。しかし、とうの男は妻の思い人であることに、なんの感慨も持っておらぬようであった。
面でその顔の半分隠れていたが、この娘の恋人にあの男はぴったりであるように思えた。
だがその思いを国守は否定した。
二人は顔を引き合わせていたのにぴくりとも反応しなかったではないか。
この娘となら人生をやり直せるかも知れぬ。
兄とこの娘の絆に嫉妬し、この娘を手に入れようと思った。
「わしのもとにいるがよい。兄は探してやる……」
菜をにのしかかると、国守は寝台になだれこんだ。
「これはなんじゃ」
国守は口ひげをひねりながら、傍に控えていた侍女に尋ねた。
「女王様よりのお差しいれにございまする」
「……ふん。呼ぶまでさがっていてよい」
侍女は一礼すると次の間へ下がっていった。
国守は、じょぼじょぼと酒壷から自分の盃に注ぎ、ぐいっと飲む。葡萄の芳しい香が拡がった。
ついで女杯に注ぎ、中身を魚の泳いでいる水鉢へと注いだ。
すると水鉢の中での動きがせわしくなり、魚が白い腹をみせて浮かんだ。
「……!」
菜をは怯えたふりをして、国守にしがみついてみせた。
国守はそのまま菜をの体をまさぐることもなくしがみつく女体を支えながらぼそっといった。
「最初はわからなくてなあ。お嬢ちゃんたちが咽喉が渇いた、というから飲ませては死なせてしまった」
どういうことだとばかりに菜をは見上げた。
国主は水鉢から眼を離さない。
「奥がな。女の杯に毒を仕込んでおくのよ。よほど、儂と他の女との閨ごとがいまいましいのだろうなあ」
憤怒する訳でもなく、淡々と語る。
「おまえ、どこの出だ?」
「と、東国の……」
「見事な脚さばきだったな。なにか武道をしているのか」
内心菜をはしくじったか、と思ったが演技を続けることにした。
わざとらしくびくついてみせた。
「……武道とは」
「隠さなんでもいい。事情があるんだろう。
”武と舞は通じる”、とはよく言ったものだ。
お前の足さばきは舞いではない。
舞いよりも見事ではあったが、あれは武道の足さばきだ。
抱きついてきた時は、正直暗殺されるのかとも思ったがな」
「め、めっそうもございませんっ」
菜をが震えた声で否定してみせると、国守は薄く笑った。
「これでも、武によって裸一貫からなりあがったのだからな。目は衰えておらんよ」
慧眼恐れ入った体で、菜をは項垂れてみせた。
「実は……、家が没落しまして……。
女一人では武の家を再興することもかなわず、出奔した兄を探しております……。
こちらで運よくお給仕の下働きに使って頂いておりまして。急遽楽人に召されまして」
菜をはしどろもどろに言ってみせた。
出鱈目ではあったが、後半は真実であったから、でまかせではあるまい。
「そうか。そなたの兄とやらは、拳闘大会には出ておらぬのか」
国守は信じてくれたようであった。
「はい。こちらのお那は大きいゆえ、武人が名を成すにはもってこいと思うのですが」
「なんの。武功が立とうが、商才があろうが。所詮は家柄さ。わしは国王をお護りして那に生還したゆえ、大君から姫を賜ったがな」
国守は自嘲するようにいった。
「奥も己が褒美であるということを知っておって、わしには心も開いてくれぬ。まあ、褒美にしてはよくやってくれているがな」
菜をは少し不思議に思った。
この男の評判といえば。
粗野なだけの、武力しか魅力のない男。
政治的手腕が一切ない男。
武勲をたて、に主君の姫君を輿入れ先から強奪するように妻にしたこと。
己の妻を女王位に座らせ、己が権力をもつために妻の肉親を皆殺しにした権謀術数に長けた男、との風評であった。
また、冷酷で己に歯向かう者は容赦なく処刑すると。
目の前にいるのは、粗野かもしれないが権力の虚しさを知りつくし、妻の愛が得られず仮初の女で紛らわそうとする寂しい男に見えた。
――というのも、女を篭絡するワザであったかもしれないが、初心な菜をにはそこまでは推し測れない。
「殿さまは……女王さまを愛していらっしゃるのですね……」
ふと呟いた菜をの言葉に、国守は自嘲的に首を振った。
「愛、な。あの頃の儂は、奥にふさわしい男になりたかった。
奥の欲しがるものは、なんでも与えてやりたかった。
だが、結局は奥の一番欲しがる物を与えてやれなんだ」
菜をが男の言葉に首を傾げると、昏い貌をして男は呟いた。
「?」
「愛、だよ。まさにな」
(ここまで話すと、大抵普通の妓は自分から国守を胸にかき抱くのだがな)
国守はこっそりと胸の裡で呟いた。
(今宵の妓は勝手が違うな。……まだ、生娘か。男女の機微に通じておらんようだな)
そして妓は予想外の言葉を口にした。
「殿様。今からでも遅くないと思います」
「?」
国守は妓の顔をみた。
大人びた美女に見えたが、真剣な瞳の今は少女のようにも見える。
「領主ご一族の不和は那の乱れの元です。殿さまのお気持ちはきっと奥方様に通じる時がきます」
「そうかな」
国守はおかしそうに言った。
今更妻の不貞を咎めるつもりも、自分の女漁りもあらためるつもりはない。
自分にとって、妻は国守という地位を保持する為の象徴であった。妻にしろ、自分に女王の地位を与えてくれた夫を部下の前ではないがしろにはしない。
国守はこの娘とのやりとりが面白く思えてきた。
女王の差し向けた刺客かもしれぬと疑いは晴れた訳ではなかった。そうではないとしても、妓にとっての貞操の危機から、男に話題を振って関心を削ごうとしているのかとも思う。しかし、真剣に案じている様は演技には思えなかった。
家庭的には不遇な男を演じて、妓の心を手に入れるのも新しい遊びに思えた。
今迄の女達は不細工な自分に抱かれることを本意ではいないものの、彼の地位に自分から体を喜んで差し出す者ばかりであった。
「子はかすがいとも言うが、奥と儂には何のつながりもない」
「……」
「奥は儂を、あれの寝所にも入れてはくれぬ」
「……」
(儂は、なにをこんな者相手に言っているのだ?妻と初枕も交わしたことがないことまで、こんな者に)
高慢で美しかった妻に恋焦がれていた。求めても得られないと知り、憎しみへと変ったのはいつの頃であったろう。
だが、菜をの瞳は愁いといたわりに満ちていた。
(この妓の目が話させるのかもしれぬ)
つと、菜をに手をのばし、引き寄せた。
菜をはされるがままになっている。男は、菜をの目を覗き込んだ。
(他の妓はわしの目を見ようともせず、巧妙にそらしていたが、こやつはそらしもせぬ。
こちらの目を覗きこんで、真意が暴かれてしまいそうだ)
唇を寄せていったとき、菜をが呟いた。
「殿さま……戦は起こりましょうか」
「なに?」
国守はぎくり、とした。
彼は成り上がり者、下賎の出といわれ、不遇にも十分耐えた。信頼出来る部下も、力も蓄えた。もうこの那を力づくで自分のモノにして、「国守」ではなく、「国主」になってみせる。
それはもうすぐ叶う筈であった。内乱という名の戦を起こす。
それをいいあてられたのかと思ったのだ。
「おまえ。どうしてそのような不吉なことを言う」
無骨一辺倒な男とて、声を震えさせない位のタヌキ芸はお手の物だ。
「戦が起これば、兄も駆り出されるやもしれませぬ。
戦でわたくしと兄は家と肉親を失いました。
この邦で兄が仕官しておれば、禍は兄にも及びまする。
大事なものが、また一つ手の平から零れ落ちていく……。もう、そんな思いは厭でございまする」
妓の瞳はきらきらとしていて、思いの強さをそのまま映しているようであった。
「そなた」
国守はじっと女をみつめた。
「兄に惚れておるのか」
(兄といっても実の兄ではないのだろう)
家の再興というのも口実かもしれなかった。菜をは目を伏せた。
「わかりませぬ。ずっと幼き頃より兄の背をおいかけてまいりました。
兄を、私のいる所に縛り付けたいというのは私のわがままでございまする。
なれど……なれど、兄がいつも無事で、幸せであって欲しいと思いまする」
静かに、熱っぽく語る女。彼女を前に、国守はここまで女に惚れられているその男が心底羨ましくなった。
ふと、妻の今度の愛人が脳裏に浮かんだ。
今回、妻は相当入れ込んでいるようであった。しかし、とうの男は妻の思い人であることに、なんの感慨も持っておらぬようであった。
面でその顔の半分隠れていたが、この娘の恋人にあの男はぴったりであるように思えた。
だがその思いを国守は否定した。
二人は顔を引き合わせていたのにぴくりとも反応しなかったではないか。
この娘となら人生をやり直せるかも知れぬ。
兄とこの娘の絆に嫉妬し、この娘を手に入れようと思った。
「わしのもとにいるがよい。兄は探してやる……」
菜をにのしかかると、国守は寝台になだれこんだ。
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