ひだまりの庭

白川ゆい

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大切な人

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 お姉ちゃんは正座する私の前を何度も行ったり来たりする。久しぶりに帰った実家は古い日本家屋のせいで薄暗く、雨が運ぶ湿った空気も相まって陰気な感じがした。

「ひより、私は、怒ってる!」

 ええ、見れば分かります。どうして先生の家の前にお姉ちゃんがいたのか。私が先生の家を出るのがもう少し遅ければ乗り込む気だったのか。想像しただけで恐ろしい。先生とお姉ちゃんが鉢合わせするなんて。

「それと、あなたを、心配してる!」

 ようやくお姉ちゃんの脚が止まった。恐る恐る見上げれば、お姉ちゃんの眉間には皺が寄っている。……この顔はまだ怒りの方が強いな……

「ど、どうしてあそこにいたの?」
「この前、あなたが風邪を引いた日」

 ああ、体調を崩して寝込んでいたらお姉ちゃんがたまたま来た日。そして、お姉ちゃんが帰った後先生が来てくれて、そして……まさか……

「傘を借りに戻ったの」
「……」
「そして見たの。あなたの家に広瀬祐二郎が入っていくところ」
「……」
「まさか、恋人、だなんて言わないわよね?」

 今の状況で既にパニックなのに、更にパニックになるようなことを言わないでほしい。恋人?私が?先生と?キスをされて、大事だと言われて。私の好意を受け止めてくれたのは分かったけれど……

「ひより!ニヤニヤしてないで答えて!」
「に、ニヤニヤなんて……!」
「してる!……あなた、まさか本気なの?本気で広瀬祐二郎のこと……」
「……」
「広瀬祐二郎は、私たちのお母さんを殺したのよ?!」

 お姉ちゃんはお母さんのことが絡むととても怖い顔になる。


 私のお母さんはとても綺麗な人で、いつも穏やかに笑っていて、周りの人を自然と魅了する人だった、らしい。らしいというのは私がとても小さい頃の話で、私は優しいお母さんのことを大好きだったということは覚えているけれども、お母さん自身の記憶はとても朧げだ。
 私が5歳の時だった。仕事を始めると言ってお母さんは家を留守にすることが多くなった。お金持ちの息子さんの家庭教師をするとお姉ちゃんやおばあちゃんから聞いたのは覚えている。
 はじめのうちは仕事に行って、帰って、普通に家事をして、お母さんは仕事を始めただけで前と何も変わらなかった。けれど、半年ほど経った頃から帰ってこなくなった。私はお母さんがいないと寂しいと泣いて、おばあちゃんやお姉ちゃんはとても困ったと思う。けれどまだ小学校にも上がっていない子ども、お母さんが帰ってこないという状況に耐えられなかった。もちろん、当時中学生だったお姉ちゃんも見せはしなかったもののボロボロだったと思う。お父さんは元々家族に興味がない人だった。私の家族は、おばあちゃんと、お姉ちゃんと、お父さんの兄の伯父さん。そんな風に思っていた。
 そして、私が7歳の時。

『あの、アバズレ、許さない……っ』

 おばあちゃんがそう言って泣いていた。アバズレという言葉の意味は分からなかった。お姉ちゃんは分かっていたのか、知らない。

『あんたたちの母親は、死んだ』

 小学生に上がるとさすがに『死んだ』の意味は分かった。でも理解は出来なかった。お母さんが死んだ?何で?どうして?私はただただ悲しみに明け暮れた。起きている時も、寝ている時も、授業中でさえ、ずっと泣いていた。
 でもお姉ちゃんは悲しみながらも真相を突き止めた。おばあちゃんの部屋にあった遺書。その遺書に出てきた名前。

『ゆうじろうさんと、しにます』

 もちろん父の名前は『ゆうじろう』ではない。

『ひより、よく聞いて』

 幼い私の肩を姉が掴む。少し痛くて顔を歪めた。けれど姉の力は弱まらなかった。むしろどんどん強くなっていった。

『お母さんが、家庭教師をしていた生徒の名前は、広瀬祐二郎。お母さんは、生徒と恋に落ちて、心中したの』
『しん、じゅう……?』
『でもお母さんは死んで、広瀬祐二郎は生きている。きっとお母さんは広瀬祐二郎に騙されたの』
『……』
『広瀬祐二郎を、私は許さない……っ』

 不倫。心中。私が産まれるずっと前にはそんな事件はたくさんあったのかもしれない。
 姉はきっと母が死んだショックと、母が自分とそう歳の変わらない男の人と不倫していたことと、ダブルでショックを受けて、そして怒りの矛先をどこに向ければいいのか分からなくなっていた。もちろん『広瀬祐二郎』は憎むべき相手だ。それは分かっている。でも。

『俺も、ひよりが大事だ』

 お母さんと同じ人を好きになるだなんて笑える。

「別れなさい、絶対に!」

 お姉ちゃんが怒っている。私はそれをどこか他人事のように感じていた。昔から。

「お母さんと同じように、あの男にひよりが騙されるのを見ていられないの」

 お姉ちゃんは大切な人だ。自分の悲しい気持ちはそっちのけで、いつも私を優先してくれた。育ててくれた。お姉ちゃんには恩がある。

『来るか?野良猫』

 出会った日の先生を思い出す。好きになってはいけない人だと分かっていた。はじめから。

「うん、さよならだけして、もう会わないよ」

 どうか、先生の前で涙が出ませんように。
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