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第十二話 甘美なるお泊まり会
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約束の週末。僕は準備した可愛いパジャマと有名店のマカロンを手に、千紗の住むマンションの前に立っていた。
これから足を踏み入れるのは、僕の人生で初めての「女の子の部屋」。未知の領域を前に、インターホンを鳴らす指が、入部届を書いた時よりも震えている気がした。
(大丈夫か、僕…?シミュレーションは頭の中で何度も繰り返したけど…)
僕は心の中で、今日一日の行動指針を再確認する。第一に、口数を少なく、基本は聞き役に徹する。第二に、相槌は「すごい」「わかる」を基本とし、余計なことは言わない。第三に、絶対にボロを出さない。男である自分が、これから女の子だけの聖域に侵入するのだ。その事実が、背徳的なスリルと、見つかったらどうなるかという恐怖を同時に掻き立てていた。
『はーい!』
スピーカーから弾むような声が聞こえ、オートロックが解除される。エレベーターで指定された階へ向かう間、心臓は破裂しそうなくらいに高鳴っていた。大丈夫だ、僕は「桜井結月」。ただ、友達の家に遊びに来ただけなんだ。
「いらっしゃーい、結月ちゃん!今日は思いっきり楽しもうね!」
ドアを開けてくれたのは、ラフな部屋着姿の千紗だった。
「おじゃまします…」
部屋に足を踏み入れた瞬間、僕は思わず息を呑んだ。ふわりと甘い、柔軟剤とお香が混じったような香りが鼻腔をくすぐる。白とピンクを基調とした、いかにも「女の子の部屋」だった。壁には海外のポストカードやドライフラワーがセンス良く飾られ、ベッドの上にはキャラクターの大きなクッションがいくつも置かれている。僕の殺風景な、模型の塗料の匂いが染みついた部屋とは、何もかもが違っていた。
「わ、そのマカロン、有名なパティスリーのじゃない?」「結月ちゃん、センスいいね!」
僕が必死でネット検索して選んだ手土産は、幸いにも好評だったようで、ホッと胸をなでおろす。
「さてと、それじゃあ、事前に決めてたお好み焼きパーティーの買い出しに行こっか!」
千紗がエコバッグを手に、にっこり笑った。みんなでぞろぞろとマンションを出て、近くのスーパーへと向かう。
「みんなは普段、料理とかするの?」
かごにキャベツを入れながら、僕は尋ねた。これが僕にとってのリアルな疑問だったからだ。
「私はほとんど毎日自炊だよ。節約しないとだしね」と田中さんが答える。
「え、田中ちゃんって一人暮らしだっけ?実家から通ってるのかと思ってた」
千紗が意外そうに言うと、田中さんは少し照れくさそうに笑った。
「うん、去年の後期からね。さすがに毎日2時間かけて通うのがしんどくなっちゃって。親を説得して、やっと許可もらえたんだ」
「私も一人暮らしだから自炊派!じゃないと食費がやばいことになる(笑)」と千紗が続く。
「私も一人暮らしだけど、つい外食に頼りがち…。だからみんなでこうやって作るの、すごく楽しい」
早川部長の言葉に、みんなが頷いた。
「結月ちゃんは?」と千紗が僕を見る。
「私も、一応一人暮らしで…。自炊、しなくちゃなとは思ってるんだけど」
ごく自然に、僕は「桜井結月」として当たり障りのない返答をしていた。最近、こうして女の子の輪の中にいても、以前よりずっと自然に振る舞えるようになってきた自覚はある。だが、慣れれば慣れるほど、心の奥底で疼く違和感は決して消えない。この女の身体(の皮)を纏い、女の声で、紛れもない「相沢悠真」としての本音を話す。それはまるで、自分の魂だけが身体から遊離して、自分自身が演じる人形劇を眺めているような、奇妙で歪な感覚だった。
部屋に戻り、お好み焼き作りがスタートする。キャベツを刻み、生地を混ぜ、みんなでワイワイ言いながらホットプレートに流し込む。やがて、ジュウジュウと食欲をそそる音を立ててお好み焼きが焼けていく。ソースとマヨネーズの香ばしい匂いが部屋に充満し、みんなのテンションも最高潮に達した。
「よし、焼けたよー!」「切るねー!」
千紗がヘラを器用に使い、熱々のお好み焼きを四等分にしていく。湯気の向こうで、みんなの期待に満ちた目がキラキラと輝いていた。
「「「いただきます!」」」
一番に頬張った千紗が、目を大きく見開いて「んーー、おいしーーい!最高傑作じゃない!?」と満面の笑みを見せる。
「本当だ!自分たちで切ったキャベツが甘くて美味しいね」と田中さんも幸せそうに微笑んだ。
早川部長はふわりと目を細め、「うん。外で食べるのもいいけど、やっぱりみんなで作ったお好み焼きは格別だね」と優しく言う。
僕も小さなヘラで一口サイズに切り、恐る恐る口に運ぶ。
「あっつ…!ん、おいしい…!」
熱さに思わず素の反応が出そうになるのを堪え、「はふはふ、すごく美味しいです」と女の子らしい笑顔を作ってみせる。熱々の生地と甘いキャベツ、香ばしいソースの味が口いっぱいに広がり、ただ純粋に「うまい」と思った。
熱々のお好み焼きを囲み、僕たちは「マヨネーズかけすぎ!」「そっちの豚肉大きい!」なんて言いながら、腹の底から笑い合った。その輪の中に、僕が「桜井結月」として存在していることが、まだ夢のように感じられた。
食後はソファでまったりしながら、くだらないゲームや美容タイムで盛り上がった。
「じゃあ、お風呂の順番決めよっか!」
千紗の言葉に、僕は内心で身構えた。その場のノリで『みんなで一緒に入ろうよ!』なんてことにならなくて、本当に良かった。僕は「のぼせやすいから」という常套句を使い、一番最後に入る権利を勝ち取った。
「じゃあ私からー!」と千紗が一番風呂に入っていく。リビングに残ったのは、僕と早川部長、田中さんの三人だ。
「結月ちゃん、さっきのお好み焼きのキャベツ、切り方すごく上手だったね」
早川部長が優しく尋ねる。
「いえ、そんな…自己流で適当にやってるだけです」
「私なんか、いまだにキャベツの千切り苦手だよー。羨ましい。あ、そうだ、結月ちゃんが持ってきてくれたマカロン美味しい!どこのお店が好きとかあるの?」
田中さんからの不意の質問に、僕は固まる。店の名前なんて覚えていない。
「えっと、甘いものは好きなんですけど、お店にはあまり詳しくなくて…。今日のは、たまたま通りかかって、綺麗だったから…」
本当はTwitterで近所にある女子に人気の店を調べて用意したけどついごまかしてしまう。
しどろもどろになりながら答えると、「そうなんだ!今度私とスイーツめぐりしようよ!」と彼女は屈託なく笑った。危なかった。
「お待たせー!次は田中ちゃん、どうぞー!」
髪をタオルで巻いた千紗が出てきて、田中さんと入れ替わる。風呂上がりの千紗は、いつもより少しだけ無防備に見えて、僕は目のやり場に困った。
そうこうしているうちに全員が順番に入浴を済ませ、ついに僕の番が来た。
タオルとパジャマを手に、僕はバスルームへ向かう。鍵をかけた瞬間、僕は大きく息を吐いた。鏡に映る「結月」の顔。この姿で風呂に入るのは、もちろん初めてだ。緊張しながら服を脱ぎ、シャワーをひねる。お湯が「皮」に当たっても、剥がれたり溶けたりする気配はない。不思議だ。この皮は一体、何でできているんだろう。そんなことを考えながら、棚に目をやる。そこには、千紗が使っているであろうシャンプーやボディソープが並んでいた。部活で感じた、あの甘い香りの正体はこれか。ボトルの可愛らしいデザインを眺めながら、僕の知らない「女の子の当たり前」に触れているような気がして、少しだけ胸が高鳴った。
僕がお風呂から上がると、リビングでは本格的なパジャマトークが始まっていた。
「一人暮らし始めてさ、ゴキブリが出た時が一番死ぬかと思った」
そんな失敗談で盛り上がる中、僕には話せるエピソードがない。相槌を打ちながら、自分がこの輪の中で異物であることを痛感させられた。
やがて、部屋の照明が落とされ、間接照明だけの薄暗い空間になる。雰囲気は一気に変わり、ここからは少しディープな話の時間らしかった。
「もしもさ、一日だけ男の子になれたら何したい?」
千紗の質問に、僕以外の全員が「えー!」と盛り上がる。僕は息を殺して、みんなの答えに耳を傾けた。
「私はイケメンになって、女の子を全力で口説きたい!少女漫画みたいなシチュエーション、全部やる!」と千紗が拳を握る。
「私は男の子同士のノリってやつを体験したいな。夜中にラーメン食べに行ったり、くだらないことで朝まで笑ったりするの、楽しそうじゃない?」と田中さんが言う。
「私は、重い荷物を軽々と持ってあげたり、さりげなく車道側を歩いてあげたり、そういうスマートな優しさを実践してみたいかな」
早川部長の答えは、彼女らしくて優しい。みんなの話を聞きながら、僕の胸はチクリと痛んだ。男であることは、君たちが思うほどキラキラしたものではないのに。
「結月ちゃんは?」
「え?わ、私は…一日中、力仕事とかしてみたいな…?引越しとか、土木作業とか…」
苦し紛れに答えると、「地味!(笑)」「もっとロマンチックなのないのー!」と総ツッコミを受けてしまった。
その後は、誰かが持ってきたタロットカードで恋愛運を占ったり、少しだけ怖い話をしたりして、夜は更けていった。
結局、僕は緊張と恐怖でほとんど眠れなかった。寝ている間に無意識に皮を剥いでしまわないか、それだけが怖かったのだ。みんなの穏やかな寝息だけが響く暗闇の中、僕は天井を見つめてじっと目を凝らしていた。
その時、不意に隣で寝ていた千紗が身じろぎし、僕の腕にぎゅっと抱きついてきた。
「……ん……ゆづき、ちゃん……」
吐息に混じる、甘く掠れた寝言。僕の名前を呼ぶその声に、僕の心臓は鷲掴みにされたように大きく跳ねた。
柔らかな感触と温もりが、薄いパジャマ越しに僕のすべてを侵食してくる。お風呂で使ったのと同じ、甘いフローラル系のシャンプーの香り。それに混じって、千紗自身の、ミルクのような、陽だまりのような匂いが鼻腔をくすぐる。首筋からふわりと漂う生身の体温が、僕の思考を焼き切ってしまいそうだった。
まずい。まずい。まずい。
心臓が警鐘を乱れ打つのに、このまま時間が止まってしまえばいいのに、という背徳的な願いが胸を満たしていく。
彼女がもう一度身じろぎし、その腕が少しずれて、華奢な指先が僕の腰のラインをなぞるように触れた。ぴくり、と僕の身体が震える。彼女の小さな吐息が耳元にかかるたび、僕の中にいる「相沢悠真」の理性の防波堤が、ガラガラと音を立てて崩れていくのが分かった。
柔らかい太ももが、僕の足にそっと触れている。その滑らかな肌の感触を想像してしまい、僕は息を呑んだ。薄い布一枚を隔てただけの密着。彼女の胸の柔らかな膨らみが腕に押し付けられ、その生々しい感触が、僕の下腹部に鈍い熱を灯らせる。これは男としての、抗えない反応だった。
「これはただのスキンシップ…千紗に悪気はない…」
そう必死に言い聞かせても、女の子の無防備な身体に抱きつかれ、男として昂ぶっている自分を否定することはもうできなかった。この無防備な身体を、喰らい尽くしてしまいたい。その柔らかな肌に触れたい。薄い布の下に隠された曲線を知りたい。
この温もりも、香りも、すべてが僕だけのものだったらいいのに。そんな独占欲が鎌首をもたげる。
腕をそっと引き抜こうとしたが、僕を求めるように、千紗の掴む力は逆に強まった。観念した僕は、彼女の体温と甘い香りに完全に閉じ込められたまま、ただひたすら、この甘美な地獄が終わらないことを願いながら、夜明けを待ち続けた。
どれくらいの時間が経っただろうか。緊張と興奮で張り詰めていた意識が、夜の静寂に溶けるように少しずつ薄れていく。窓の外が、深い紺色から、わずかに白み始めた頃だった。
半分眠りに落ちかけていた僕の耳に、すぐそばで衣擦れの音がした。
はっとして意識が浮上する。見ると、千紗がゆっくりと身体を起こし、眠たげな目で僕のことを見下ろしていた。月明かりと朝焼けの光が混じり合った不思議な光が、彼女の輪郭をぼんやりと照らしている。
「……ごめん、起こしちゃった?」
囁くような、まだ夢の中にいるような声。僕が硬直したまま何も言えずにいると、彼女はふわりと微笑んだ。それは、いつもの太陽みたいな笑顔とは違う、夜明け前の静寂によく似た、儚くて、吸い込まれそうな微笑みだった。
そして、千紗はゆっくりと顔を近づけてきた。
思考が停止する。時間が引き伸ばされ、彼女の長い睫毛の一本一本までが見えるようだった。甘い匂いが、さっきよりもずっと濃くなる。
僕の唇に、柔らかくて温かい何かが、そっと触れた。
それが彼女の唇だと理解するのに、数秒かかった。
触れているだけの、優しいキス。
僕の全身を、経験したことのない衝撃が駆け巡る。脳が真っ白になり、心臓が止まりそうだった。
唇が離れると、千紗は「おやすみ」ともう一度囁き、僕の腕の中に顔をうずめて、すぐにすぅすぅと寝息を立て始めた。
一人、暗闇と静寂に取り残された僕の頭は、完全にキャパシティを超えていた。
今の、は何だったんだ?
寝ぼけてた?夢?それとも…。
混乱する頭の中で、唇に残る柔らかな感触だけが生々しく僕を責め立てる。男である僕が、女の子からキスをされた。しかも、相手は僕が「桜井結月」という女の子だと思っている。
甘い背徳感と、自分の正体を偽っている罪悪感。そして、陽翔への想いとは全く別の、千紗に向けられた仄暗い欲望。それら全てがごちゃ混ぜになって、僕の心を掻き乱す。
夜が明けるまでの残り数時間、僕は一睡もすることができなかった。
香ばしいパンの匂いで意識が浮上する。僕はリビングへ向かう。唇にまだ残っているような、あの柔らかい感触の正体を、僕は必死で思考の隅に追いやった。
「結月ちゃん、おはよう!昨日の写真、グループに送っといたよ!」
千紗は、何事もなかったかのように、いつもの太陽みたいな笑顔で僕に朝食のパンを差し出した。昨夜のことは、本当に夢だったのだろうか。
楽しかった時間はあっという間に過ぎ、片付けの時間になった。
「あー、終わっちゃうの寂しいね」「次はタコパしよ!」「いいね!」
次回の約束が自然に交わされる。その輪の中に僕もいる。その事実が、嬉しくて少しだけ怖かった。
「じゃあ、またね!」「うん、また部活で!」
駅までの道をみんなで歩く。名残惜しい空気が漂う中、千紗が僕の隣に並んだ。
「結月ちゃん、昨日、本当に楽しそうだったね。また絶対、泊まりにきてね」
太陽のような笑顔。その唇が、数時間前に僕のものに触れたのだと思うと、直視することができず、僕は曖昧に頷くことしかできなかった。
一人になった帰り道、僕はぼんやりとした頭で電車に揺られていた。
楽しかった。心の底からそう思う。初めて経験した女の子たちとの温かい交流は、僕の心を確かに満たしてくれた。
しかし、その心地良い余韻に浸ろうとするたびに、夜明け前の出来事が鮮明に蘇る。
唇に触れた、あの柔らかくて温かい感触。
思い出しただけで、全身の血が逆流するような感覚に襲われ、顔がカッと熱くなる。僕は慌てて俯き、口元を手で覆った。あれは夢じゃない。千紗の寝ぼけたキス。その事実が、僕の身体の奥底で燻っていた昂奮を再び呼び覚ます。男である僕が、女の子からキスをされた。その背徳的な響きは、僕の下腹部にずくりとした疼きを走らせた。
(待て、落ち着け、相沢悠真)
僕は必死で自分に言い聞かせる。
(あれは事故だ。千紗は寝ぼけていただけ。それに、彼女は僕を「桜井結月」という女の子だと思っているんだぞ)
そうだ、これは僕に向けられたものではない。「桜井結月」という、僕が作り出した虚像に向けられたものだ。そう考えれば、この興奮も少しは収まるはずだった。
だが、僕の心は別の疑問に苛まれる。
なぜ、千紗はあんなことを…
友達同士で、寝ぼけてキスなんてすることが、女の子の世界では「普通」なのだろうか。それとも、彼女は「桜井結月」に対して、友情以上の何かを感じている…?
もしそうだとしたら、事態は僕が思っているよりも、ずっと複雑で、危険な方向へ進んでいるのかもしれない。
「桜井結月」という存在が、今や僕自身の心を、そして僕を取り巻く人間関係を、大きく揺さぶり始めていた。
甘い記憶と、拭えない罪悪感。そして、新たな謎。
それら全てを抱え込み、僕は一人、重い足取りで自分の部屋へと帰るのだった。
これから足を踏み入れるのは、僕の人生で初めての「女の子の部屋」。未知の領域を前に、インターホンを鳴らす指が、入部届を書いた時よりも震えている気がした。
(大丈夫か、僕…?シミュレーションは頭の中で何度も繰り返したけど…)
僕は心の中で、今日一日の行動指針を再確認する。第一に、口数を少なく、基本は聞き役に徹する。第二に、相槌は「すごい」「わかる」を基本とし、余計なことは言わない。第三に、絶対にボロを出さない。男である自分が、これから女の子だけの聖域に侵入するのだ。その事実が、背徳的なスリルと、見つかったらどうなるかという恐怖を同時に掻き立てていた。
『はーい!』
スピーカーから弾むような声が聞こえ、オートロックが解除される。エレベーターで指定された階へ向かう間、心臓は破裂しそうなくらいに高鳴っていた。大丈夫だ、僕は「桜井結月」。ただ、友達の家に遊びに来ただけなんだ。
「いらっしゃーい、結月ちゃん!今日は思いっきり楽しもうね!」
ドアを開けてくれたのは、ラフな部屋着姿の千紗だった。
「おじゃまします…」
部屋に足を踏み入れた瞬間、僕は思わず息を呑んだ。ふわりと甘い、柔軟剤とお香が混じったような香りが鼻腔をくすぐる。白とピンクを基調とした、いかにも「女の子の部屋」だった。壁には海外のポストカードやドライフラワーがセンス良く飾られ、ベッドの上にはキャラクターの大きなクッションがいくつも置かれている。僕の殺風景な、模型の塗料の匂いが染みついた部屋とは、何もかもが違っていた。
「わ、そのマカロン、有名なパティスリーのじゃない?」「結月ちゃん、センスいいね!」
僕が必死でネット検索して選んだ手土産は、幸いにも好評だったようで、ホッと胸をなでおろす。
「さてと、それじゃあ、事前に決めてたお好み焼きパーティーの買い出しに行こっか!」
千紗がエコバッグを手に、にっこり笑った。みんなでぞろぞろとマンションを出て、近くのスーパーへと向かう。
「みんなは普段、料理とかするの?」
かごにキャベツを入れながら、僕は尋ねた。これが僕にとってのリアルな疑問だったからだ。
「私はほとんど毎日自炊だよ。節約しないとだしね」と田中さんが答える。
「え、田中ちゃんって一人暮らしだっけ?実家から通ってるのかと思ってた」
千紗が意外そうに言うと、田中さんは少し照れくさそうに笑った。
「うん、去年の後期からね。さすがに毎日2時間かけて通うのがしんどくなっちゃって。親を説得して、やっと許可もらえたんだ」
「私も一人暮らしだから自炊派!じゃないと食費がやばいことになる(笑)」と千紗が続く。
「私も一人暮らしだけど、つい外食に頼りがち…。だからみんなでこうやって作るの、すごく楽しい」
早川部長の言葉に、みんなが頷いた。
「結月ちゃんは?」と千紗が僕を見る。
「私も、一応一人暮らしで…。自炊、しなくちゃなとは思ってるんだけど」
ごく自然に、僕は「桜井結月」として当たり障りのない返答をしていた。最近、こうして女の子の輪の中にいても、以前よりずっと自然に振る舞えるようになってきた自覚はある。だが、慣れれば慣れるほど、心の奥底で疼く違和感は決して消えない。この女の身体(の皮)を纏い、女の声で、紛れもない「相沢悠真」としての本音を話す。それはまるで、自分の魂だけが身体から遊離して、自分自身が演じる人形劇を眺めているような、奇妙で歪な感覚だった。
部屋に戻り、お好み焼き作りがスタートする。キャベツを刻み、生地を混ぜ、みんなでワイワイ言いながらホットプレートに流し込む。やがて、ジュウジュウと食欲をそそる音を立ててお好み焼きが焼けていく。ソースとマヨネーズの香ばしい匂いが部屋に充満し、みんなのテンションも最高潮に達した。
「よし、焼けたよー!」「切るねー!」
千紗がヘラを器用に使い、熱々のお好み焼きを四等分にしていく。湯気の向こうで、みんなの期待に満ちた目がキラキラと輝いていた。
「「「いただきます!」」」
一番に頬張った千紗が、目を大きく見開いて「んーー、おいしーーい!最高傑作じゃない!?」と満面の笑みを見せる。
「本当だ!自分たちで切ったキャベツが甘くて美味しいね」と田中さんも幸せそうに微笑んだ。
早川部長はふわりと目を細め、「うん。外で食べるのもいいけど、やっぱりみんなで作ったお好み焼きは格別だね」と優しく言う。
僕も小さなヘラで一口サイズに切り、恐る恐る口に運ぶ。
「あっつ…!ん、おいしい…!」
熱さに思わず素の反応が出そうになるのを堪え、「はふはふ、すごく美味しいです」と女の子らしい笑顔を作ってみせる。熱々の生地と甘いキャベツ、香ばしいソースの味が口いっぱいに広がり、ただ純粋に「うまい」と思った。
熱々のお好み焼きを囲み、僕たちは「マヨネーズかけすぎ!」「そっちの豚肉大きい!」なんて言いながら、腹の底から笑い合った。その輪の中に、僕が「桜井結月」として存在していることが、まだ夢のように感じられた。
食後はソファでまったりしながら、くだらないゲームや美容タイムで盛り上がった。
「じゃあ、お風呂の順番決めよっか!」
千紗の言葉に、僕は内心で身構えた。その場のノリで『みんなで一緒に入ろうよ!』なんてことにならなくて、本当に良かった。僕は「のぼせやすいから」という常套句を使い、一番最後に入る権利を勝ち取った。
「じゃあ私からー!」と千紗が一番風呂に入っていく。リビングに残ったのは、僕と早川部長、田中さんの三人だ。
「結月ちゃん、さっきのお好み焼きのキャベツ、切り方すごく上手だったね」
早川部長が優しく尋ねる。
「いえ、そんな…自己流で適当にやってるだけです」
「私なんか、いまだにキャベツの千切り苦手だよー。羨ましい。あ、そうだ、結月ちゃんが持ってきてくれたマカロン美味しい!どこのお店が好きとかあるの?」
田中さんからの不意の質問に、僕は固まる。店の名前なんて覚えていない。
「えっと、甘いものは好きなんですけど、お店にはあまり詳しくなくて…。今日のは、たまたま通りかかって、綺麗だったから…」
本当はTwitterで近所にある女子に人気の店を調べて用意したけどついごまかしてしまう。
しどろもどろになりながら答えると、「そうなんだ!今度私とスイーツめぐりしようよ!」と彼女は屈託なく笑った。危なかった。
「お待たせー!次は田中ちゃん、どうぞー!」
髪をタオルで巻いた千紗が出てきて、田中さんと入れ替わる。風呂上がりの千紗は、いつもより少しだけ無防備に見えて、僕は目のやり場に困った。
そうこうしているうちに全員が順番に入浴を済ませ、ついに僕の番が来た。
タオルとパジャマを手に、僕はバスルームへ向かう。鍵をかけた瞬間、僕は大きく息を吐いた。鏡に映る「結月」の顔。この姿で風呂に入るのは、もちろん初めてだ。緊張しながら服を脱ぎ、シャワーをひねる。お湯が「皮」に当たっても、剥がれたり溶けたりする気配はない。不思議だ。この皮は一体、何でできているんだろう。そんなことを考えながら、棚に目をやる。そこには、千紗が使っているであろうシャンプーやボディソープが並んでいた。部活で感じた、あの甘い香りの正体はこれか。ボトルの可愛らしいデザインを眺めながら、僕の知らない「女の子の当たり前」に触れているような気がして、少しだけ胸が高鳴った。
僕がお風呂から上がると、リビングでは本格的なパジャマトークが始まっていた。
「一人暮らし始めてさ、ゴキブリが出た時が一番死ぬかと思った」
そんな失敗談で盛り上がる中、僕には話せるエピソードがない。相槌を打ちながら、自分がこの輪の中で異物であることを痛感させられた。
やがて、部屋の照明が落とされ、間接照明だけの薄暗い空間になる。雰囲気は一気に変わり、ここからは少しディープな話の時間らしかった。
「もしもさ、一日だけ男の子になれたら何したい?」
千紗の質問に、僕以外の全員が「えー!」と盛り上がる。僕は息を殺して、みんなの答えに耳を傾けた。
「私はイケメンになって、女の子を全力で口説きたい!少女漫画みたいなシチュエーション、全部やる!」と千紗が拳を握る。
「私は男の子同士のノリってやつを体験したいな。夜中にラーメン食べに行ったり、くだらないことで朝まで笑ったりするの、楽しそうじゃない?」と田中さんが言う。
「私は、重い荷物を軽々と持ってあげたり、さりげなく車道側を歩いてあげたり、そういうスマートな優しさを実践してみたいかな」
早川部長の答えは、彼女らしくて優しい。みんなの話を聞きながら、僕の胸はチクリと痛んだ。男であることは、君たちが思うほどキラキラしたものではないのに。
「結月ちゃんは?」
「え?わ、私は…一日中、力仕事とかしてみたいな…?引越しとか、土木作業とか…」
苦し紛れに答えると、「地味!(笑)」「もっとロマンチックなのないのー!」と総ツッコミを受けてしまった。
その後は、誰かが持ってきたタロットカードで恋愛運を占ったり、少しだけ怖い話をしたりして、夜は更けていった。
結局、僕は緊張と恐怖でほとんど眠れなかった。寝ている間に無意識に皮を剥いでしまわないか、それだけが怖かったのだ。みんなの穏やかな寝息だけが響く暗闇の中、僕は天井を見つめてじっと目を凝らしていた。
その時、不意に隣で寝ていた千紗が身じろぎし、僕の腕にぎゅっと抱きついてきた。
「……ん……ゆづき、ちゃん……」
吐息に混じる、甘く掠れた寝言。僕の名前を呼ぶその声に、僕の心臓は鷲掴みにされたように大きく跳ねた。
柔らかな感触と温もりが、薄いパジャマ越しに僕のすべてを侵食してくる。お風呂で使ったのと同じ、甘いフローラル系のシャンプーの香り。それに混じって、千紗自身の、ミルクのような、陽だまりのような匂いが鼻腔をくすぐる。首筋からふわりと漂う生身の体温が、僕の思考を焼き切ってしまいそうだった。
まずい。まずい。まずい。
心臓が警鐘を乱れ打つのに、このまま時間が止まってしまえばいいのに、という背徳的な願いが胸を満たしていく。
彼女がもう一度身じろぎし、その腕が少しずれて、華奢な指先が僕の腰のラインをなぞるように触れた。ぴくり、と僕の身体が震える。彼女の小さな吐息が耳元にかかるたび、僕の中にいる「相沢悠真」の理性の防波堤が、ガラガラと音を立てて崩れていくのが分かった。
柔らかい太ももが、僕の足にそっと触れている。その滑らかな肌の感触を想像してしまい、僕は息を呑んだ。薄い布一枚を隔てただけの密着。彼女の胸の柔らかな膨らみが腕に押し付けられ、その生々しい感触が、僕の下腹部に鈍い熱を灯らせる。これは男としての、抗えない反応だった。
「これはただのスキンシップ…千紗に悪気はない…」
そう必死に言い聞かせても、女の子の無防備な身体に抱きつかれ、男として昂ぶっている自分を否定することはもうできなかった。この無防備な身体を、喰らい尽くしてしまいたい。その柔らかな肌に触れたい。薄い布の下に隠された曲線を知りたい。
この温もりも、香りも、すべてが僕だけのものだったらいいのに。そんな独占欲が鎌首をもたげる。
腕をそっと引き抜こうとしたが、僕を求めるように、千紗の掴む力は逆に強まった。観念した僕は、彼女の体温と甘い香りに完全に閉じ込められたまま、ただひたすら、この甘美な地獄が終わらないことを願いながら、夜明けを待ち続けた。
どれくらいの時間が経っただろうか。緊張と興奮で張り詰めていた意識が、夜の静寂に溶けるように少しずつ薄れていく。窓の外が、深い紺色から、わずかに白み始めた頃だった。
半分眠りに落ちかけていた僕の耳に、すぐそばで衣擦れの音がした。
はっとして意識が浮上する。見ると、千紗がゆっくりと身体を起こし、眠たげな目で僕のことを見下ろしていた。月明かりと朝焼けの光が混じり合った不思議な光が、彼女の輪郭をぼんやりと照らしている。
「……ごめん、起こしちゃった?」
囁くような、まだ夢の中にいるような声。僕が硬直したまま何も言えずにいると、彼女はふわりと微笑んだ。それは、いつもの太陽みたいな笑顔とは違う、夜明け前の静寂によく似た、儚くて、吸い込まれそうな微笑みだった。
そして、千紗はゆっくりと顔を近づけてきた。
思考が停止する。時間が引き伸ばされ、彼女の長い睫毛の一本一本までが見えるようだった。甘い匂いが、さっきよりもずっと濃くなる。
僕の唇に、柔らかくて温かい何かが、そっと触れた。
それが彼女の唇だと理解するのに、数秒かかった。
触れているだけの、優しいキス。
僕の全身を、経験したことのない衝撃が駆け巡る。脳が真っ白になり、心臓が止まりそうだった。
唇が離れると、千紗は「おやすみ」ともう一度囁き、僕の腕の中に顔をうずめて、すぐにすぅすぅと寝息を立て始めた。
一人、暗闇と静寂に取り残された僕の頭は、完全にキャパシティを超えていた。
今の、は何だったんだ?
寝ぼけてた?夢?それとも…。
混乱する頭の中で、唇に残る柔らかな感触だけが生々しく僕を責め立てる。男である僕が、女の子からキスをされた。しかも、相手は僕が「桜井結月」という女の子だと思っている。
甘い背徳感と、自分の正体を偽っている罪悪感。そして、陽翔への想いとは全く別の、千紗に向けられた仄暗い欲望。それら全てがごちゃ混ぜになって、僕の心を掻き乱す。
夜が明けるまでの残り数時間、僕は一睡もすることができなかった。
香ばしいパンの匂いで意識が浮上する。僕はリビングへ向かう。唇にまだ残っているような、あの柔らかい感触の正体を、僕は必死で思考の隅に追いやった。
「結月ちゃん、おはよう!昨日の写真、グループに送っといたよ!」
千紗は、何事もなかったかのように、いつもの太陽みたいな笑顔で僕に朝食のパンを差し出した。昨夜のことは、本当に夢だったのだろうか。
楽しかった時間はあっという間に過ぎ、片付けの時間になった。
「あー、終わっちゃうの寂しいね」「次はタコパしよ!」「いいね!」
次回の約束が自然に交わされる。その輪の中に僕もいる。その事実が、嬉しくて少しだけ怖かった。
「じゃあ、またね!」「うん、また部活で!」
駅までの道をみんなで歩く。名残惜しい空気が漂う中、千紗が僕の隣に並んだ。
「結月ちゃん、昨日、本当に楽しそうだったね。また絶対、泊まりにきてね」
太陽のような笑顔。その唇が、数時間前に僕のものに触れたのだと思うと、直視することができず、僕は曖昧に頷くことしかできなかった。
一人になった帰り道、僕はぼんやりとした頭で電車に揺られていた。
楽しかった。心の底からそう思う。初めて経験した女の子たちとの温かい交流は、僕の心を確かに満たしてくれた。
しかし、その心地良い余韻に浸ろうとするたびに、夜明け前の出来事が鮮明に蘇る。
唇に触れた、あの柔らかくて温かい感触。
思い出しただけで、全身の血が逆流するような感覚に襲われ、顔がカッと熱くなる。僕は慌てて俯き、口元を手で覆った。あれは夢じゃない。千紗の寝ぼけたキス。その事実が、僕の身体の奥底で燻っていた昂奮を再び呼び覚ます。男である僕が、女の子からキスをされた。その背徳的な響きは、僕の下腹部にずくりとした疼きを走らせた。
(待て、落ち着け、相沢悠真)
僕は必死で自分に言い聞かせる。
(あれは事故だ。千紗は寝ぼけていただけ。それに、彼女は僕を「桜井結月」という女の子だと思っているんだぞ)
そうだ、これは僕に向けられたものではない。「桜井結月」という、僕が作り出した虚像に向けられたものだ。そう考えれば、この興奮も少しは収まるはずだった。
だが、僕の心は別の疑問に苛まれる。
なぜ、千紗はあんなことを…
友達同士で、寝ぼけてキスなんてすることが、女の子の世界では「普通」なのだろうか。それとも、彼女は「桜井結月」に対して、友情以上の何かを感じている…?
もしそうだとしたら、事態は僕が思っているよりも、ずっと複雑で、危険な方向へ進んでいるのかもしれない。
「桜井結月」という存在が、今や僕自身の心を、そして僕を取り巻く人間関係を、大きく揺さぶり始めていた。
甘い記憶と、拭えない罪悪感。そして、新たな謎。
それら全てを抱え込み、僕は一人、重い足取りで自分の部屋へと帰るのだった。
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