夜に散る純花

花梨姫子

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『月夜の華』の綻び

夏の夕暮れ時、空は茜色に染まっていたが、じっとりとした暑さがまだ残っていた。
薄暗い光の中で、『月夜の華』という熟女キャバクラの看板が、そこにあるのが見えた。
ネオンが輝くのはまだ先のことだった。

美津子のスニーカーの音が、ビルの前のアスファルトに小さく響いた。

湿った夏の空気がカットソーに絡みつき、美津子の豊かな胸の柔らかい曲線が浮き上がって見えた。
美津子の胸は、カットソー越しでもその大きさがわかるほどだった。

唇の腫れがまだじんわりと痛んだ。
谷間に残る粘つく感触が、昨夜の人妻サロン『Velvet Moon』のフラットシートでの出来事を、鮮やかに思い出させた。

カバンに入ったままの封筒が、なぜだかやけに重く感じられた。
悠一の優しい笑顔を思い出すたび、彼を裏切ってしまった痛みが、胸を締め付けるように苦しかった。

「もう二度と……あんなことを……」
美津子の小さな呟きは、夕暮れの空気にそっと溶けていった。

昨夜の記憶を打ち消すように、美津子は震える手で肩から下げたカバンの紐をぎゅっと握り締めた。
ビルの入り口には、背の高い山本がいて、ほうきで地面をきれいにしていた。
白いシャツには、汗がじっとり滲んでいるのが見えた。

山本は夕暮れの光の中で、穏やかな笑顔を見せた。
「お、ミナミさん! いつもよりちょっと早い時間ですね。体調、大丈夫ですか?」

低い声だった。
優しさと気遣いがにじむ口調が、蒸し暑い夕暮れの空気に柔らかく響いた。

美津子の心臓が小さく跳ねた。
昨日自分が「体調不良」で休んだことになっているという事実が、胸に冷たい波を立てるようだった。

「山本さん……う、うん、ありがとうございます……もう大丈夫です……」
そう言った美津子の声は、震えを隠しきれていなかった。

目を伏せた美津子は、カットソーの裾をぎゅっと握りしめた。
その時、山本の視線が一瞬、汗で体に貼りついたカットソーの深い谷間に落ちたのが分かった。

山本の視線はすぐに美津子の顔に戻った。
彼は小さく咳払いして、ほうきの柄を握り直した。

「昨日、店長から急に体調不良で休むって聞きました。心配しましたよ。まあ、無理しないでくださいね。ミナミさんの……いや、元気な姿、お客さんも喜びますから」

山本の軽やかな言葉が、美津子の心にじんわりと染み渡った。
彼の気遣いに、美津子の心は少しだけ安堵した。

「山本さん、ありがとうございます……」

美津子はそう呟くように言って、小さく会釈した。
山本の気遣いに、少しだけ肩の力が抜ける。
そのままビルの中に入り、エレベーターに乗って4階の『月夜の華』へと向かう。

エレベーターを降りると、すでに賑やかな話し声が聞こえてきた。
重厚なドアを押し開けると、目の前には店長の西田がいて、その傍らには香織が立っているのが見えた。

「あ、美津子! やっと来た! 昨日、『Velvet Moon』で結構頑張ったって聞いたよー!」
香織の声は、その場の空気を明るくするような、弾んだ声だった。
その隣で、西田は気まずそうに目を泳がせ、香織の発言に内心焦っているようだった。

『月夜の華』での自信に満ちた微笑みが、身体の線に沿うニットワンピースに包まれた華奢な姿に宿っていた。
しかし、その笑顔の片隅には、ふと冷たい影がよぎるのが見えた。

それは美津子の胸に鋭い痛みを刺した。
香織の視線が、汗で肌に貼りつく美津子のカットソーが強調する、胸元の深い谷間に吸い寄せられるように落ちていった。

「ねえ、美津子のその胸、昨日めっちゃ目立ったらしいじゃん。なんか……胸でサービスまでしたって、ほんと?」
香織は軽く笑いながら、まるで世間話のように言った。
その言葉は、無邪気なふりをしながらも、美津子にとって昨夜の屈辱をえぐる、鋭い刃のように胸に突き刺さった。
美津子の喉は締め付けられるように苦しかった。

「香織……あなた、なんで……」

美津子の声は震え、唇を噛みしめて言葉を絞り出した。

「『キャバクラと大差ない』って言ったよね? 昨日、あんなことになるなんて……私、本当に想像してなかった……!」
怒りに震え、美津子の目は涙で滲んでいた。

香織の顔から笑みが消え、空間に重苦しい沈黙が訪れた。
西田は、気まずそうに視線をそらした。

そんな中で、怒りに震える美津子を見て、香織は思わず目を丸くした。

香織は髪をかき上げながら、慌てた口調でまくしたてた。
「え、美津子、ちょっと、なに? そんなに怒ることないじゃない! 仕事なんだから、ただの! キャバクラだって、お客さんに愛想振りまくのと変わらないでしょ……美津子がそんな風に受け止めるなんて、思わなかったな……」

その声は軽やかさを保とうとしていた。

「違う……!」
美津子の声が店内に響き渡った。

震える手は、カットソーの裾を強く握り潰していた。
美津子の胸の谷間には、汗が光っていた。

照明に妖しく映る香織の姿に、美津子は怒りをぶつけた。
「香織、あなた知ってたよね? 『Velvet Moon』の……サービス……私はそんなことするなんて、想像もしてなかったのに……!  私をはめたんでしょ……!」

美津子の怒りに満ちた言葉が、香織の笑みを一瞬にして切り裂いた。

香織の瞳に鋭い光が一瞬宿り、その拍子に、ニットワンピースの裾がかすかに揺れた。

「はめたって? 美津子、馬鹿なこと言わないでよ。私はちゃんと『ピンサロのヘルプだよ』って言ったよね? そして『行ってみたら』って勧めただけのこと。あそこに行くって決めたのは、美津子自身の意思じゃない!」
香織の言葉は鋭く、美津子を責め立てた。

そこには、微かな嘲笑が混じっていた。

香織の言葉が、美津子の心を重い波で押し潰した。
膝が震え、店の壁の大きな鏡に映る自分の姿は、まるで別人のように遠く小さく感じられた。

「私の、意思……? そんなはず……私が……」
そう呟いた瞬間、悠一の笑顔と、あのフラットシートの冷たい革の感触が脳裏に浮かび、美津子の言葉はかき消された。

香織の「美津子自身の意思」という言葉が、美津子の胸に重い石を押し付けた。
昨夜の口内に残る鉄のような味、胸にまとわりつく熱い粘液が、紛れもない裏切りの証として美津子の身体に鮮明に蘇ってきた。

「だって……香織、あなた……私が、あの店……その、ピンサロってところが、どんな場所か、よく知らないって、わかってたはず……でしょ?」
美津子の声は途切れがちだった。

美津子の瞳が潤んだ。
香織は一瞬、美津子から目を逸らした。

「まあ……そんな気はしてたけどさ。いかがわしい店だってことくらい、わかってたんじゃない? 少なくとも触られるかもくらいなことは覚悟してたでしょ? それを知ってて引き受けたなら、正直、大した違いはないと思うけど?」

その言葉は軽やかでありながら、鋭い刃のように美津子の胸をえぐった。

香織の言葉を聞き、美津子は息を呑んだ。
胸が強く締め付けられる。

「触られるだけとは、わけが違うの……! 仕事だからって、あんなこと……絶対におかしい……!」
美津子の声は、怒りと悲しみで震えた。

空気を切り裂いたその言葉に、香織の顔は一瞬で強張った。

「は? おかしい? 美津子、ふざけないでよ! その世界のことをバカにしてんの!? 私が以前、そっちの仕事をしてたって知ってて言ってるわけ?」

香織の鋭い声には、彼女の過去の経験に裏打ちされたプライドと、激しい怒りがほとばしっていた。

空気が凍りつく中、美津子の胸には後悔の棘が深く突き刺さった。

言い過ぎた自分に美津子は唇を噛んだ。
彼女の指はカットソーの裾を強く握りしめていた。

美津子の胸元、谷間に光る汗が一滴、するりと滑り落ちた。
「香織……ごめん……言い過ぎた……」

小さく呟かれた言葉は、夏の蒸し暑い空気に吸い込まれて消えた。

香織は鼻で笑うように言った。
「美津子、さ。いい加減、大人になりなよ。仕事なんだから、割り切ればいいじゃん。『月夜の華』だって、客の欲に笑顔で応えるの、同じでしょ? 美津子のその胸、めっちゃ稼げるんだから、感謝して欲しいくらいなんだけど?」

軽やかなその言葉の裏には、怒りと優越感がひそみ、美津子の胸を強く締め付けた。

西田が、二人の間に割って入るように、気弱な声で話し始めた。
「あ、あの、ミナミさん……昨日は、お疲れ様でした。ピンサロの店長さん、とても感謝していましたよ。君の働きを、本当に評価しているって……また、来てもらえないかって、言ってました……」
そして、おずおずと続けた。
「昨日のことは、私と、その、香織さんしか知らないことだから……どうか、安心してね。えっと、準備ができたらで大丈夫なんだけど……開店までまだ少し時間があるから、フロアのチェックを、お願いしてもいいかな? 今日も、予約が入ってるから……」

その声に美津子の心臓が跳ね上がった。
香織は軽く笑っている。

香織はスマホを手に椅子にもたれると、美津子に言い放った。
「ほら、美津子。仕事だよ。『月夜の華』のミナミとして、胸張って笑顔で頑張んな!」

その笑みは励ましを装いつつ優越感を漂わせ、空気を重くした。

美津子は震える手でバッグを固く握りしめた。
香織の「美津子自身の意思」という言葉と、店長の純粋な期待が、『月夜の華』の舞台に立つ美津子の心を、かつての輝きとは異なる意味合いの重みで締め付けた。
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