夜に散る純花

花梨姫子

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ミナミの覚悟

ある日の夕暮れ、キャバクラ「月夜の華」の控室は、蛍光灯の優しい光に包まれていた。
香水とヘアスプレーの匂いが、ふんわりと混ざり合っている。

控室の隅では、別のキャストがヒールをカツカツ鳴らしながら歩き、ドアの向こうから誰かの笑い声が聞こえてきた。
雑居ビルのワンフロアにあるこの店に、美津子はエレベーターで上がってきて、控室に入ると、バッグをロッカーにそっとしまった。

いつものグリーンのワンピースドレスに手を伸ばすと、指先がその滑らかな生地に触れるたびに、胸の奥で期待と不安がちりちりと揺れた。

控室の隅では、香織がメイクに夢中になっていた。
美津子と同じ年で、高校の同級生だった香織は、黒いスリット入りのドレスを着て、長い髪をふんわり巻いて、自信満々の笑顔で鏡を見ていた。
口紅を塗り終えると、ドレスのスリットをパッと整え、テーブルの指名リストをちらっと見た。
ドレスの深い胸元が、彼女の鎖骨と胸をはっきりと見せ、太ももまで深く入ったスリットが、動くたびに、しなやかでセクシーな脚をチラリと覗かせていた。

香織はキャバクラで長く働いていて、高校時代は地味だった美津子を、今でもちょっと下に見ている感じがした。
「ねえ、ミナミ、そのドレスばっかり着てるね、今日も谷間めっちゃ出ててセクシーね。変な客、絶対寄ってくるよ。ちゃんと対応できる?」
香織は鏡越しにニヤッと笑い、口紅を塗りながら軽く言った。
若い酔っ払い客のことを見ていた香織の口調には、気遣いというより、高校時代からの優越感がにじみ出ていた。

美津子は一瞬、言葉に詰まって、笑顔でごまかした。
「う、うん……まあ、気をつけるよ、香織」

美津子は鏡の前で髪を軽く整え、深呼吸して心のざわめきを静めようとした。
グリーンのワンピースドレスが、彼女の豊満な曲線を包むたび、過去の視線と今の自分が重なり、胸の奥で小さく疼いた。

その時、控室のドアがそっと開いて、ボーイの山本が入ってきた。
五十代の、ちょっと怖そうな顔の中年男性は、黒いスーツを着ていて、鋭い目をしているけど、夜の世界には似合わない紳士的な感じがした。
普段はフロアで客を見守り、店の秩序を守っている彼が、今は美津子に優しい視線を向けた。
「ミナミさん、準備できましたか?」
彼の声は低くて、丁寧な口調が控室の空気を和ませた。

美津子は振り返って、軽くうなずいた。
「はい、山本さん。もうすぐフロアに出ます」

彼女は笑顔を保ちつつ、内心の動揺を隠そうとした。
でも、山本は一瞬、彼女の表情をじっと見て、控室の椅子に座るように手で促した。
「少しお話ししたいんですが。先日の件、もう大丈夫ですか?」
彼の言葉はストレートだけど、気遣いが感じられて、まるで彼女の心の痛みを優しくなでるようだった。

香織はメイクの手を止めて、鏡越しにちらっと二人を見たけど、何も言わずに口紅を塗り続けた。

美津子は一瞬、ドキッとして、若い酔っ払い客の失礼な言葉が頭に浮かんだ。
山本がすぐに怒鳴ってくれた場面が、胸の奥で温かく響いた。
彼女は小さく息をついて、感謝の笑みを浮かべた。
「あ……はい、大丈夫です。山本さんがすぐ対応してくれて、助かりました」

彼女の声は穏やかだったが、胸の奥では、客の言葉と香織のからかいが引き起こした恥ずかしさと不安が、まだほのかにくすぶっていた。

山本は軽くうなずいて、強面の顔に優しい微笑みを浮かべた。
「ああいう客は少ないですが、たまにはいます。ミナミさん、気にしないでください。あなたは店の大切なキャストですし、佐藤さんや田中さんみたいな常連の方々も、みんな高く評価しています」
彼の言葉は丁寧で、夜の世界の雑然とした雰囲気とは違って、品があるように感じた。
「何かあれば、私が必ず守ります。遠慮なく言ってくださいね」
彼の鋭い目は、保護者のような決意を静かに物語っていて、彼女の心に確かな安心感を与えた。

香織は鏡越しに、軽く鼻を鳴らして、口紅をしまいながら言った。
「ミナミ、山本さんがこう言ってくれるんだから、もっと堂々としてよ。ほら、高校の時みたいにオドオドしてると、客にナメられるよ?」
彼女の声には応援の気持ちもあったけど、昔の関係からくる上から目線の感じがにじみ出ていて、美津子の胸に小さな痛みを残した。
でも、山本さんの落ち着いた支えが、彼女の心をふんわりと軽くしてくれた。

美津子は胸がポカポカして、山本さんの怖そうな見た目と優しい態度のギャップや、香織のちょっと棘のある気遣いに、店の仲間たちとの複雑で温かい絆を感じた。
「ありがとうございます、山本さん……香織も、ほんと頼りにしてるよ」

彼女の声は少し震えたけど、笑顔は本物だった。
あの夜の嫌な気持ちが少しずつ溶けて、キャバクラでの自分の居場所が、柔らかな光のように胸に広がった。
店の仲間たちの支えが、彼女に新しい力を与え、木曜のシフトへの静かな期待を呼び起こした。

山本は立ち上がって、軽く微笑んだ。
「では、ミナミさん、今夜もフロアで輝いてください。常連の方々を魅了できると信じています」
彼は穏やかに言い、黒いスーツの肩を軽く揺らして、控室の柔らかな光を背に静かにドアを閉めた。

香織はメイクを終えて、立ち上がって美津子の肩をポンと叩いた。
「ほら、ミナミ、行くよ。今日も稼がなきゃ! 私の指名、抜かないでよね」
彼女はウインクして、先に控室を出た。

美津子は鏡に向き直って、グリーンのドレスをそっと整えた。
悠一の「めっちゃ魅力的だもん」や、常連客の優しい笑顔が、胸の奥で温かく響いた。
あの夜の嫌な気持ちはまだ少し残っているけど、ミナミとしてここで輝けるかもしれない――そう思った瞬間、鏡の中の自分が、なんだか少し違って見えた。

彼女の心に、控えめだけど、確かな決意が灯り、柔らかな光が瞳に宿った。
鏡に映る「ミナミ」は、昨夜の不安を乗り越えて、常連さんたちを迎える準備ができていた。
美津子は小さくうなずいて、控室のドアを開け、ポップスのBGMが流れるフロアへと踏み出した。
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