双界の輪廻

テタの工房

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第5話(完結)

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夜明け前の街は、かつての監獄の面影をまだわずかに残していた。
結界は解け、人々の瞳には光が戻った。だが街路の角には、奪われた時間の影がまだたゆたっている。輪は回り始めた——けれど、それを日々の歩みに降ろさなければ、また誰かの痛みが鍵にされてしまう。

凛太郎、柚希、蓮、篠生は、第一世界の中枢へ向かった。
政府の心臓部、白い石の庁舎。その地下深くに、魂の流通を握る「審理盤(しんりばん)」がある。ここで魂の優先順位が並べ替えられ、第二世界の輪に命令が送られていた。

「降ろし方を間違えない」
柚希はそう言って、胸の前で小さな輪を起こす。未完を分配するための、やわらかい器。
篠生は肩で息をしながら笑ってみせる。「派手な破壊は、もうやめだ。編み直す」

彼らは庁舎の防壁を、力ずくではなく輪で抜けた。
受付の女性が目を伏せた瞬間、彼女の机に置かれた写真立てから、笑いかける子どもの未完が輪に移り、女性は静かに立ち上がる。「……どうぞ」
エレベーターは黙って彼らを運び、階層の数字が降りるたび、眠らされていた守衛の意識がほぐれていく。輪は誰も傷つけず、持てる重さだけをそっと手渡していく。

最深部。「審理盤」は目の前に現れた。
巨大な円盤。表面を走る線は法律めいて精緻だが、その裏で人の指が迷った痕跡が生々しく残っている。これは完璧な機械ではない。選ぶたび、誰かの震えを飲み込んで動いてきた装置だ。

「止める?」蓮が問う。
「止めない」凛太郎は首を振る。「続け方を変える」

柚希が円盤の縁に掌を当てる。青が滲む。そこへ凛太郎が自分の輪を重ね、蓮が鈴を鳴らす。
篠生は影で裏側の蝶番(ちょうつがい)を縫い留め、回転の偏りを直す。

その時、低い声が響いた。
「ここを触る権限は、君たちにはない」

黒い外套の群れが現れる。政府監督官。鋼色の視線。
彼らの代表格が歩み出て、凛太郎たちを見据えた。

「秩序は、痛みの集中でしか保てない。君たちの方法は理想的だが、時間がかかる。世界はそんな猶予を持たない」

凛太郎は一歩前に出る。「時間がかかること自体を、僕たちが持つ。分散は遅い。だが壊れにくい」
監督官は嘲る。「遅い間に、誰が死ぬ?」
「今までのやり方でも、誰かが死んだ。違うのは、死の責任が名前のない“必要”に押しつけられてきたことだ」

柚希が続ける。「未完を輪で持ち合えば、意思決定は鈍る。けれど、鈍る分だけ、誰か一人に背負わせる“鍵”が消える。私たちは速さを少し手放し、肩を増やす」

沈黙。
監督官の眉間に、わずかな皺。彼の背中にも、見えない未完が貼り付いているのを凛太郎は知った。彼は良心をねじ伏せ、規則を守るたび、名前のない痛みを自分の奥に押し込めてきた人だ。

「……証明しろ」

凛太郎は頷き、輪をひとつ差し出した。「あなたの未完の半分を、僕が持つ。残りを柚希が持つ。あなたは空いた掌で、審理盤の重さを一緒に受け取ってくれ」

監督官は輪を見下ろし、しばらく動かなかった。
やがて、そっと指先を入れた。輪はわずかに沈み、それでも破れない。彼の肩がひとつ落ちる。顔色が戻り、視線が人間の温度を取り戻す。

「……分かった。三十日。三十日だけ、君たちの方式で回せ。結果が出なければ、旧に復す」

「三十日で世界は変わらない」篠生が苦笑する。
「三十日で“回り方”は変えられる」凛太郎は答えた。

交渉は成立した。監督官は部下に武器を収めさせ、審理盤の周りに輪を並べる。
蓮が鈴を鳴らすと、第二世界の管理塔からも鈴が応えた。輪は回廊を越えて行き来し、第一と第二は「鍵の工場」から「持ち手の共同体」へと役割を変え始めた。

三十日のはじまりは、地味だった。
街角で、人々が輪を回す。職場で、会議は一つ長くなる。病院では、看護師が患者の未完に指をかけ、夜勤の重さを薄く分け合う。学校の廊下で、小さな輪が行き交い、子どもたちが互いの宿題の「分からない」を持ち合う。
審理盤は鈍くなった。だが、致命の決定は減った。救急のベッドは少しだけ空き、裁判の日程は少しだけ延び、その隙間で、当事者の言いかけが輪に移された。

第二世界では、審判者たちが仮面を外した。
「判を押す手より、輪を持つ手のほうが多くなれば、審判という役職は自然に薄くなる」蓮は静かに言い、門の守りに専念した。彼はもう白ではない。ただの蓮。仮面は砕かれ、鈴だけが残った。

篠生は影の縫い目で、古い通路や法の継ぎ目を繕い続けた。派手さはないが、彼の仕事がなければ門は歪み、輪は落ちる。「俺は糸くず拾いが性に合ってる」彼は笑い、夜の隙間に消えてゆく。

柚希は街を歩いた。
彼女の輪は、触れるだけで増える。彼女は人工の魂だったが、いまや「分配の設計そのもの」になりつつあった。
夜、庁舎の屋上で凛太郎と並んで座ると、街中で回る小さな輪の気配が、星明かりのように伝わってきた。

「ねえ、凛太郎」
「ん?」
「私、たぶんここから少しずつ解ける。怖くはないの。輪の中に、私は残るから」

凛太郎は手を伸ばし、彼女の指を握る。掌はたしかに温かいのに、指先は透け始めている。
「いなくならないでくれ、とは言わない」
「ありがとう」
「でも、いなくなるたびに、どこに行ったかを教えてくれ」
柚希は青を瞬かせた。「街角の輪。子どもが落とした輪っか。病室のカーテンのひだ。あなたが手を伸ばした先の、ひんやりした空気。そこにいる」

二人はしばらく黙って、輪の音を聞いた。

二十七日目。
凛太郎は、あの男に会いに行った。地下施設で出会った、爆破事件の被害者の父。彼は「管理された魂」を解かれ、いまは静かな集合住宅に暮らしていた。台所には、孫の描いた絵が貼られている。

「来ると思っていたよ」
男は椅子をすすめた。
凛太郎は頭を下げる。「あの時、あなたはこう言った。『赦すつもりはない。だが終わらせたい』と」
男は頷く。「気持ちは変わらない」
凛太郎は輪を取り出した。「なら、これを半分持ってほしい。赦しじゃなく、“持ち合い”として」
男は輪に触れた。掌に沈む重みを確かめ、しばらく黙った後、吐息をこぼす。
「赦すと言ってしまえば、あの子は二度目に殺される気がする。赦さないと言えば、私が死ねない。……半分持とう。残り半分は、お前が持て」

輪が座卓の上で小さく鳴った。
凛太郎は泣かなかった。泣くのは簡単で、簡単なことは慎重に取り扱うべきだと思った。ただ深く息を吸い、輪が沈まないのを確かめた。

三十日目の朝。
監督官は審理盤の前に立ち、結果報告を受け取った。死者はゼロにはならない。現実は厳しい。だが、決定の質が変わっていた。
「取り返しがつかない決定」を急いで下す件数が、確かに減っている。延期された分、輪が増え、当事者の声が紙ではなく人に触れた。

「遅い」監督官は言った。
「遅い」凛太郎も言った。
二人は顔を見合わせ、同じ言葉の中で、違う熱を感じる。
監督官は書類に印を押し、期限なしの実験継続に同意した。「責任は私も持つ。三十日で軽くなったわけではない。だが沈まない。これが“遅さ”の意味か」

柚希は微笑み、輪を一つ、彼の袖口に結わえた。「あなたが誰かに責められる時、その輪が手を増やしてくれる」

「……ずるい発明だな」
「発明じゃない。人のやり方の思い出」

その夜、凛太郎は橋の上に立った。
古びた木製の欄干。最初の夜に似ている。彼の左側には蓮。右側には篠生。
柚希は——目に見えない。けれど、欄干の木目の節に、風の縁に、確かにいた。

「終わったか?」篠生が訊く。
「終わらないさ」凛太郎は笑う。「輪は終わらせるために回らない。続けるために回る」
蓮が鈴を鳴らす。遠くの門が応える。「門番が必要なくなる日が来るかな」
「来たら寂しいか?」
「少し。でも、嬉しい」
篠生は欄干にもたれた。「俺の仕事は、ほつれを縫うことだ。終わらない方が向いてる」

凛太郎は夜明けの方向を見る。高層ビルの縁が薄く白み、遥か上空で織機の踏み木の音が、かすかな拍として聞こえてくる。零世界は遠く、近い。踏み方は変わり、節には0の痕が残り、そこに小さな1が滲む。息継ぎの合図だ。

「柚希」
呼ぶと、風が頬を撫でた。輪が掌にふくらむ。
『いるよ』
声ではない。けれど確かに返事だった。

凛太郎は輪を欄干に置いた。
「これは皆のものだ。誰かの鍵じゃない。持てる人が、持てる時に、持つ」
輪は粒子にほどけ、橋を渡る人々の手へと散っていった。朝刊を抱える老人の手。眠そうな学生の手。夜勤明けの看護師の手。誰かの空いた片手。

彼は静かに目を閉じ、息を吐く。
罪は消えない。けれど、独りの鍵であり続ける必要も、もうない。
未完は残る。けれど、残るものを持ち合う輪が、確かにある。

やがて、東の空に陽がのぼる。
第二世界の瓦の艶が、第一世界のガラスに映る。
二つの世界は重なり、輪は螺旋になって、ゆっくりと昇っていった。

「さあ、行こう」
凛太郎は欄干から背を離し、朝の街へ歩き出した。
蓮の鈴が小さく応え、篠生の影が柔らかく伸びる。
風が柚希の気配を運び、どこかで小さな輪が、からん、と鳴った。

——輪廻は、終わらない。
だからこそ、続け方を選べる。
鍵ではなく、持ち手として。

物語はここでいったん閉じる。
新しい一日は、もう始まっている。
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