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1909年
第十章:恩賜館の晩餐会と緋色の...
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明治四十二年(一九〇九年)十二月二十五日夕刻。
空はすでに暗闇に染まり、庭には先日の雪が名残を残していた。街にはガス燈が灯り始め、暖かな火が、赤坂から移築されたばかりの恩賜館の重厚な洋風建築を照らしていた。
朱音は、いつもの緋色の羅紗袴ではなく、同じ色の緋の絹を用いた、厳かなドレスを身に纏っていた。その鮮烈な色は、ガス燈の下で燃える炎のようだった。
馬車を降り、恩賜館の前に立つ。護衛官である尾崎が、朱音の隣でコートの襟を正した。
尾崎が、いつもの賑やかな口調で朱音に話しかける。
「朱音様が、陛下がご出席なさらない晩餐会に出席するとは、あまりないんじゃないですか?」
朱音は、一点の曇りもない澄んだ瞳で、恩賜館を見上げた。
「そうだな、あまりないが、今回は墓参りのようなものだ。先に亡くなられた伊藤殿の私邸であったし、墓地は公表されておらぬからな。忘れたか? 尾崎。」
朱音の言葉には、元老を失った悲しみと、国家への献身に対する敬意が込められていた。彼女は、尾崎の顔をまっすぐ見た。
「忘れてません!」
尾崎の顔が、真の目的を見透かされ、わずかに引き攣った。
「今回の晩餐会の主役は、私だ。世俗を賑わす緋色の剣士。内閣のプロパガンダに利用されるとなれば、たまったものではない。分かっていたのだろう、尾崎」
朱音は、あえて尾崎に近づき、声を潜める。
「分かっています!」
今回は、尾崎も自身の立場を自覚していたようだ。
それにな、と朱音は呟き、尾崎に手を伸ばした。
「エスコート、してくれるのでしょう?」
尾崎は、朱音の優雅な仕草に動揺し、返答が早口になりすぎた。
「はい!エスコートさせていただきまちゅ!」
達人としての完璧な剣術とは裏腹に、世俗の常識には疎い朱音だが、尾崎の動揺だけは見逃さなかった。
「尾崎。そうなのだな?」
朱音は、優雅に彼の腕を組む。尾崎の体は、硬直して石のようになった。
「何がですか?」
尾崎の返す言葉は早かったが、すでに手遅れだった。
「顔に出ておるぞ。お前が私の警護となったこと、今回の晩餐会のエスコート役に抜擢されたこと、父上の考えそうなものよ」
朱音の瞳は、尾崎の動揺の理由を、まるで剣の軌道を読むように正確に見抜いていた。
そして、朱音は、この晩餐会の真の目的であり、彼女の血統の重荷ともいえる、核心の言葉を告げた。
「尾崎。お前が私の婿になるのだろう?」
朱音の言葉は、周囲の喧騒を消し去るほど静かだった。
尾崎は、覚悟を決めたかのように、深々と頭を下げた。
「…はい」
「ハッキリ言わぬか!だが、籍は入れぬぞ。この偶像が終わるまでは」
朱音は、右手で自身の緋色のドレスの胸元を、強く掴んだ。「緋色の剣士」という偶像として存在する限り、彼女個人の人生は始まらない。
「分かっております。婚姻の際には、私は男爵にと、藤原公は仰られておりました」
尾崎は、自分が「俗な血」の出自であるにもかかわらず、婿入りに際して華族の地位を約束されていることを確認した。彼の背筋は、ようやく機関員としての威厳を取り戻すかのように伸びてきた。
「ならば良し。では晩餐会へ行くぞ、気後れするなよ」
朱音は、尾崎に腕を組まれたまま、自信に満ちた足取りで恩賜館の廊下を歩き出した。その背中には、血統の矜持と、政略結婚という冷たい現実が同居していた。
だが、それだけでは無いかも知れない。
空はすでに暗闇に染まり、庭には先日の雪が名残を残していた。街にはガス燈が灯り始め、暖かな火が、赤坂から移築されたばかりの恩賜館の重厚な洋風建築を照らしていた。
朱音は、いつもの緋色の羅紗袴ではなく、同じ色の緋の絹を用いた、厳かなドレスを身に纏っていた。その鮮烈な色は、ガス燈の下で燃える炎のようだった。
馬車を降り、恩賜館の前に立つ。護衛官である尾崎が、朱音の隣でコートの襟を正した。
尾崎が、いつもの賑やかな口調で朱音に話しかける。
「朱音様が、陛下がご出席なさらない晩餐会に出席するとは、あまりないんじゃないですか?」
朱音は、一点の曇りもない澄んだ瞳で、恩賜館を見上げた。
「そうだな、あまりないが、今回は墓参りのようなものだ。先に亡くなられた伊藤殿の私邸であったし、墓地は公表されておらぬからな。忘れたか? 尾崎。」
朱音の言葉には、元老を失った悲しみと、国家への献身に対する敬意が込められていた。彼女は、尾崎の顔をまっすぐ見た。
「忘れてません!」
尾崎の顔が、真の目的を見透かされ、わずかに引き攣った。
「今回の晩餐会の主役は、私だ。世俗を賑わす緋色の剣士。内閣のプロパガンダに利用されるとなれば、たまったものではない。分かっていたのだろう、尾崎」
朱音は、あえて尾崎に近づき、声を潜める。
「分かっています!」
今回は、尾崎も自身の立場を自覚していたようだ。
それにな、と朱音は呟き、尾崎に手を伸ばした。
「エスコート、してくれるのでしょう?」
尾崎は、朱音の優雅な仕草に動揺し、返答が早口になりすぎた。
「はい!エスコートさせていただきまちゅ!」
達人としての完璧な剣術とは裏腹に、世俗の常識には疎い朱音だが、尾崎の動揺だけは見逃さなかった。
「尾崎。そうなのだな?」
朱音は、優雅に彼の腕を組む。尾崎の体は、硬直して石のようになった。
「何がですか?」
尾崎の返す言葉は早かったが、すでに手遅れだった。
「顔に出ておるぞ。お前が私の警護となったこと、今回の晩餐会のエスコート役に抜擢されたこと、父上の考えそうなものよ」
朱音の瞳は、尾崎の動揺の理由を、まるで剣の軌道を読むように正確に見抜いていた。
そして、朱音は、この晩餐会の真の目的であり、彼女の血統の重荷ともいえる、核心の言葉を告げた。
「尾崎。お前が私の婿になるのだろう?」
朱音の言葉は、周囲の喧騒を消し去るほど静かだった。
尾崎は、覚悟を決めたかのように、深々と頭を下げた。
「…はい」
「ハッキリ言わぬか!だが、籍は入れぬぞ。この偶像が終わるまでは」
朱音は、右手で自身の緋色のドレスの胸元を、強く掴んだ。「緋色の剣士」という偶像として存在する限り、彼女個人の人生は始まらない。
「分かっております。婚姻の際には、私は男爵にと、藤原公は仰られておりました」
尾崎は、自分が「俗な血」の出自であるにもかかわらず、婿入りに際して華族の地位を約束されていることを確認した。彼の背筋は、ようやく機関員としての威厳を取り戻すかのように伸びてきた。
「ならば良し。では晩餐会へ行くぞ、気後れするなよ」
朱音は、尾崎に腕を組まれたまま、自信に満ちた足取りで恩賜館の廊下を歩き出した。その背中には、血統の矜持と、政略結婚という冷たい現実が同居していた。
だが、それだけでは無いかも知れない。
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