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1910年
第十三章:夏の報と溶けるアイスクリーム
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明治四十三年(一九一〇年)八月下旬。
残暑厳しい中、藤原家私邸の書斎には、夏の強い陽射しが差し込んでいた。
その光を浴びながら、朱音は机に広げられた官報の号外を前に、深く、深く、顔を歪めていた。
読み上げられたのは、極めて重い歴史の決定だった。
「日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下は、両国間の特殊にして親密なる関係を顧み…韓国を日本帝国に併合するに如かざることを確信し…」
朱音は、血の熱が引いていくような感覚を覚えた。
「決まってしまったか」
顔を上げて、背後に控える執事、中村源蔵に振り向く。
「これで良かったのか、源蔵。私には性急に思える。韓国は経済的に困窮し技術も未熟だ。国家として自立させてから併合ではいかんのか?」
朱音の血統主義は、他国の「国体の尊厳」にも深く共感していた。
彼女にとって、皇帝の国が、事実上消滅するという事態は、絶対的な価値観を揺るがすものだった。
源蔵は、いつものように冷静沈着に答える。
「既定路線だったのですよ、これは。お嬢様が生まれた頃の清との戦争から始まり、明治三十八年(一九〇五年)には、もう日本は露西亜に対する外郭として、韓国の財政の逼迫や近代化の為にと、併合は決まっていたのです」
源蔵はそう言って、卓上にアイスクリームを恭しく配した。
「新聞や世間も『祝っておる』が、これは簡単なことではないぞ。韓皇帝は事実上、廃止と言っていい。もし、陛下が同じ立場になるとすれば…考えたくも無い」
朱音は、冷たいアイスクリームを前にしても、その憂慮を拭えなかった。
「前韓国皇帝が万国平和会議に密使を送り、日本の不当支配だと訴えておりましたが、あれも結果的に併合を加速させました」
源蔵は、朱音の好みのアールグレイを、静かに淹れながら続けた。
「誇りを取るか、実利を取るか。李完用(イ・ワニョン)という男は、実利を選んだのだな。容易いことではあるまい。後の世には売国奴と罵られるであろうな…」
朱音は、その歴史の皮肉に唸り込んでしまった。
彼女の純粋な倫理観は、この俗世の政治の非情さを前に、深く沈んでいく。
「そうなるでしょう。お嬢様、そろそろアイスクリームが溶けてしまいますよ?」
源蔵は、そう言うと、静かにスプーンを手に取った。
そして、溶けかかったアイスクリームを掬い、朱音の口元へと迷いなく運んだ。
朱音は、沈んだ思考の底ゆえに無意識のうちに口が開いてしまった。
パクッ。
冷たっ、甘っ…!
朱音は、強烈な冷たさと甘さに、一瞬で思考から引き戻された。
口元のスプーンと、それを持つ源蔵の無表情な顔を見る。
瞬間、彼女の顔が緋色に染まった。
「源蔵、お前ッ!」
「気は紛れましたか、お嬢様?」
源蔵は、一切の悪びれた様子もなく、平然と問う。
「お前はいつもいつも…この破廉恥な奴め!」
朱音は、手元の官報も、韓国併合の重苦しさも忘れ、執事の許されざる行為に激怒した。
緋色の剣士の矜持は、この「俗な」愛情表現の前では、いつも無力なのだった。
残暑厳しい中、藤原家私邸の書斎には、夏の強い陽射しが差し込んでいた。
その光を浴びながら、朱音は机に広げられた官報の号外を前に、深く、深く、顔を歪めていた。
読み上げられたのは、極めて重い歴史の決定だった。
「日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下は、両国間の特殊にして親密なる関係を顧み…韓国を日本帝国に併合するに如かざることを確信し…」
朱音は、血の熱が引いていくような感覚を覚えた。
「決まってしまったか」
顔を上げて、背後に控える執事、中村源蔵に振り向く。
「これで良かったのか、源蔵。私には性急に思える。韓国は経済的に困窮し技術も未熟だ。国家として自立させてから併合ではいかんのか?」
朱音の血統主義は、他国の「国体の尊厳」にも深く共感していた。
彼女にとって、皇帝の国が、事実上消滅するという事態は、絶対的な価値観を揺るがすものだった。
源蔵は、いつものように冷静沈着に答える。
「既定路線だったのですよ、これは。お嬢様が生まれた頃の清との戦争から始まり、明治三十八年(一九〇五年)には、もう日本は露西亜に対する外郭として、韓国の財政の逼迫や近代化の為にと、併合は決まっていたのです」
源蔵はそう言って、卓上にアイスクリームを恭しく配した。
「新聞や世間も『祝っておる』が、これは簡単なことではないぞ。韓皇帝は事実上、廃止と言っていい。もし、陛下が同じ立場になるとすれば…考えたくも無い」
朱音は、冷たいアイスクリームを前にしても、その憂慮を拭えなかった。
「前韓国皇帝が万国平和会議に密使を送り、日本の不当支配だと訴えておりましたが、あれも結果的に併合を加速させました」
源蔵は、朱音の好みのアールグレイを、静かに淹れながら続けた。
「誇りを取るか、実利を取るか。李完用(イ・ワニョン)という男は、実利を選んだのだな。容易いことではあるまい。後の世には売国奴と罵られるであろうな…」
朱音は、その歴史の皮肉に唸り込んでしまった。
彼女の純粋な倫理観は、この俗世の政治の非情さを前に、深く沈んでいく。
「そうなるでしょう。お嬢様、そろそろアイスクリームが溶けてしまいますよ?」
源蔵は、そう言うと、静かにスプーンを手に取った。
そして、溶けかかったアイスクリームを掬い、朱音の口元へと迷いなく運んだ。
朱音は、沈んだ思考の底ゆえに無意識のうちに口が開いてしまった。
パクッ。
冷たっ、甘っ…!
朱音は、強烈な冷たさと甘さに、一瞬で思考から引き戻された。
口元のスプーンと、それを持つ源蔵の無表情な顔を見る。
瞬間、彼女の顔が緋色に染まった。
「源蔵、お前ッ!」
「気は紛れましたか、お嬢様?」
源蔵は、一切の悪びれた様子もなく、平然と問う。
「お前はいつもいつも…この破廉恥な奴め!」
朱音は、手元の官報も、韓国併合の重苦しさも忘れ、執事の許されざる行為に激怒した。
緋色の剣士の矜持は、この「俗な」愛情表現の前では、いつも無力なのだった。
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