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15 遠出
しおりを挟む朝の光が差し込む台所で、こね上げたパン生地をオーブンに入れた。バターの香りが少しずつ広がって、いつもの朝の匂いになる。
──トントン。
あ、この時間のこのノックは……
「カイルさん?」
ドアを開けると、やっぱり彼がそこにいた。朝の光に、深い蒼髪が柔らかく光る。黒地に銀糸が走る制服の上から、群青のローブを羽織った姿。いつもながら完璧で、朝の台所にはちょっと眩しすぎる。
先日の魔道士大会の日の事を思い出すと、少しだけ鼓動が早くなる。でも、彼のいつも通りのクールな表情をみてちょっと安心した。
「おはようございます。お早いですね」
「出勤前だ。体調はどうだ?」
「おかげさまで。この通り元気にしてます」
「そうか」
短く答える声。凛々しい立ち姿のまま、私の方をちらり見た。いつも思うけど、表情の変化が少ない人だなぁ。その彼の視線が一瞬だけ部屋に向く。プロマイドなんて飾ってませんよ。なんてことを思ったけど、きっとパンの香りが漂っていたせいだろう。
「よければ、朝ごはん食べていきませんか? もうすぐパンが焼きあがるんです」
「いや、朝は食べない」
予想通りの返答。いつも通りだ。
「今日のは新作なんですよ。ベーコンを使ったハード系のパンと、ドライフルーツを練り混んだチーズパンです」
少し間があって「そうか」と言いながら、彼は部屋に入ってきた。あ、食べるんだ。
二人で向かい合ってパンを食べる。焼きたての香ばしさと、外の空気のひんやりした感じが混ざって、なんだか穏やかだ。
「……美味いな」
その一言だけで、ちょっと嬉しくなる。
「ありがとうございます。けど、なんかやっぱり、お米が恋しいですねぇ」
「オコメ?」
「えっと、こう小さくて、丸くて、炊くとふわっとする穀物で……」
手振りで伝えながら、言葉を探す。
「……ああ。もしかして、ラオスの事か?」
「それです! セレナにも聞きました! やっぱりあるんですね」
「それがどうした」
「前に住んでた国の主食に似てるんです。ちょっと恋しくなって、食べたいなって思って。アシャルって都市に行けば買えるんですよね?」
「買いに行くのか」
「はい。乗合馬車で行けるって聞いたので行ってみようかと……」
その瞬間、空気がすこしだけ冷えた。視線を向けると、カイルさんの表情がほんのわずかに険しくなっている。
「アシャルは貿易地区で、他国の流入者も多い。治安が悪いわけではないが、女性が一人で行くのはすすめられない」
「そうなんですね。セレナが、ラオスを売っていそうなお店を教えてくれたので、大丈夫かと思っていたんですが」
「……俺も行く」
「え? いや、そんなカイルさん、お忙しいでしょうし、お手を煩わせるわけには……」
「お前に何かあれば、私の責任が問われる」
まっすぐ、揺るがない声。この人にそう言われたら、もう断れるはずがない。それにお米はできる事ならば手に入れたい。
──こうして、私はカイルさんと一緒に「お米」を探しに行くことになった。
◇
五日後。
彼との待ち合わせ場所に行くと、そこにあったのは荷馬車だった。御者台の後ろには荷台がある。
私服のカイルさんは、いつもの団服姿とはまるで印象が違っていた。白のシャツに、黒のベストを重ね、脚にはすっきりとしたグレーのスラックス。袖を少しだけまくっていて、その手首が妙に目を引く。
髪は無造作に下ろし、肩に落ちる光がその蒼をより深く見せていた。ラフなのに、どこか隙がなくて、視線を外すのがむずかしい。
「……これ、乗合馬車じゃないですよね?」
「私が手配した。荷物はどう運ぶ」
確かに。買ったお米を抱えて帰るのは無理だ。重さもある。
「すみません……ありがとうございます」
「構わん」
それだけ言って、彼は手綱を軽く引いた。まさか御者を務めるのも本人だなんて思わなかった。
道中は思っていたよりも穏やかだった。緑の丘が続き、風が頬をくすぐる。空が高くて気持ちいい。
「そんなに楽しいのか?」
「はい! 馬で出かけることなんてないですし、こんなに自然の中を旅するなんて久しぶりです!」
思わず笑ってしまう。ちらりと視線を向けると、彼の横顔が見えた。
「すみません、カイルさんは大変ですけど」
「別に、大丈夫だ」
相変わらずクールだけど、言葉の奥に少しだけ優しさを感じた。
アルヴェリア王国の南にある貿易地区アシャル。
街の通りには異国の香辛料の匂いが漂い、店の軒先には鮮やかな布や装飾品が並ぶ。人々の話す言葉にもいろんな訛りが混じっていて、活気に満ちていた。
「すごい……なんだか異国に来たみたいです」
「実際、異国の者も多い」
彼は馬車を預けに行き、戻ってくると私の前に立った。
「……はぐれるなよ」
短く言ったその声に、すぐに笑って返す。
私が馬車の預かり金を出そうと財布を探すと、カイルさんが手をひらりと払って制した。
「いい。余計な手間をかけるな」
「え…あ、すみません。ありがとうございます」
「構わん。」
その一言で会話は終わる。なんだか申し訳ない気持ちがふくらむけれど、深追いはしないことにした。彼がそう言うなら、それが一番だ。
馬車を離れて路地に入ると、空気がぱっと変わった。香辛料と晒し布の匂い、遠くから聞こえる太鼓のような音。アシャルは、想像以上に「異国」が混ざり合っている。屋台の前を通るたび、赤や黄色や緑の粉末が並んでいて、それぞれが強い香りを放っている。乾いた果実や、ざく切りのハーブ、葉っぱの束。
ローリエに似た葉っぱを見つけたとき、私は目を輝かせた。
「あの葉っぱってローリエに似てる。もしかして、カレーが作れるかも!」
「ちょっとだけ香辛料を見ていいですか?」と聞くと、彼は黙って頷いた。やった、と心の中で飛び跳ねつつ、私は市場の賑わいに足を踏み入れる。
店先には小さな紙袋に詰められたスパイスがずらり。ターメリックの黄、チリの赤、クミンの褐色。匂いを嗅ぎ比べるたびに、頭の中で作る料理の香りが広がる。いくつかの葉やホールスパイス、地元の珍しいブレンドもある。
店主は私の拙い説明を聞いて、にこりと笑いながらお勧めを並べてくれる。
(カレーに必要なのは、ターメリックとコリアンダーとクミン、あと他のスパイスってなんだろう……)
いつもは市販のルーを使うけど、この世界にそんなものは無い。思い出せる香りと雰囲気を伝えると、店主はうんうんとうなずき、いくつかの小袋を私に渡してくれた。私が香りを確かめると、暖かい土っぽさと芳ばしさが鼻をくすぐり、私は思わず顔をほころばせる。
カレーに入れたら美味しくなるだろうスパイス数種類を入れた小袋を手にする。手のひらがほくほくと温かい気がする。こういう買い物は本当に楽しい。
カイルさんは、そんな私をクールに見ている。表情は相変わらず変わらないけれど、その目線がずっと私の買い物を追っているのがわかる。
私は小走りに彼のところへ戻り、手にした小袋を見せた。
「おまたせしました! 買えました」
「探していたのは、それか?」
「……あ、お米忘れてた! お米がないとカレーが本気で楽しめない!」
急に、自分の目的を思い出した。香辛料だけ買って満足してしまっていたとは。
「早急に米を探さねば」と思ったところで、ちょうどお腹が鳴った。恥ずかしくてぺこんと顔を伏せる。すると、彼が「何か食べるか」と言いながら、広場の屋台を指し示してくれた。
広場には小さな屋台が幾つも並び、煮込み鍋の湯気、香ばしい肉の油、甘いシロップの匂い。揚げ物の屋台では、油でカリッと揚がる音が響く。肉を串に刺した屋台、見たことのない緑色のスープの屋台、焼き菓子の並ぶ屋台。
私は迷いながら、スパイシーな煮込みが乗ったパンと、暖かい甘いミルクティーを選んだ。カイルさんは、鶏肉にスパイスをまぶして揚げたものと、エールのような飲み物だ。
外のベンチに座って、二人で食べる。太陽がぽかぽかと照らし、行き交う人々の笑い声が遠くで響く。私は口に入れた煮込みのスパイスの香りに満足した顔になる。
カイルさんが「そんなに美味いか」と聞くので、私は大げさに笑って「美味しいし、楽しいし、幸せです」と正直に答えた。
すると、彼がほんの少しだけ微笑んだ。その私は動揺してしまう。
すぐに目をそらしたけど、頬が火照って仕方がなかった。
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