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第7話

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 古風な家の小さな部屋。
 そこで毎日開かれる小さくて不完全な演奏会。

 私の演奏配信を始めて100日が経過した。

 演奏する曲は先生が残した譜面。
 今日は何を演奏しようかな。
 曲を選ぶのも密かな楽しみになっていた。

 私は1つの譜面を手にしてピアノの譜面置きに立てかける。
 ピアノの前に座り、鍵盤に指を乗せる。

 最初は7人の視聴しかなかった。
 演奏を重ねる事に視聴者は僅かに増え続けた。

 今では30人程度には視聴者がいる状態である。
 素人の演奏に、それだけ集まれば上場。


「ミソラさん、始めるよ」

「うん、お願いキサラギさん」

 最初は緊張して口から何か出そうであったが、
人間、案外慣れるものである。

 キサラギさんがスマートフォンを操作し、
カメラの横のライトが赤く光る。

 私は何も言わず演奏を始める。
 何かを伝えるのに言葉は要らない。

 私は今日も感情を指に乗せ、鍵盤を弾く。
下手くそで、この曲の良さを伝える事は十二分に出来ない。
だけれど、精一杯、演奏を楽しもう。


 数分間の演奏が終わる。
 記念すべき100回目の演奏も何事も無く終わる。

 私は震える手を見つめながら拳を握る。
 今日の演奏も”楽しかった”。


 ”それは君だけが知っている、君だけの”楽しい”の原点だから”


 先生の言葉を思い出す。
たとえ、見てくれるひとが僅かでも。
たとえ演奏が拙くても。
私は、いつだってこの言葉を思い出し原点に立てる。
”楽しい”と思える。

 ”僕は忘れてしまった感情だから”

 先生がこの言葉を教えてくれた時、彼が呟いた一言。
今だったら分かる。
きっと先生はAI”DIVA”を超える事を目的としてしまい、
演奏する”楽しさ”を忘れてしまったのだろう。

 だから、私は先生が託してくれた演奏の楽しさを忘れない様にします。
視聴者は少ないが、たった数人に先生の曲が届いているなら幸いだと思う。


 窓際から差し込む陽射しが茜色に変わる。
 遅くなるといけない。

「それじゃあ、帰ろうかキサラギさん」

 私がキサラギさんに帰宅を提案すると、
彼女のスマートフォンからピロンっと電子通知音が鳴る。

 キサラギさんがスマートフォンの画面を確認した瞬間、
彼女が驚いた様にピョンピョンと小さく跳ねながら、私に報告する。


「……ミソラさん、見て見て!!」


 息を荒くしながら、私にスマートフォンの画面を見せる。
それは先程の配信のコメント欄。
今まで何も無かったコメント欄に、たった1つコメントがついてた。


『演奏が凄く良かったです。曲も素敵でした』


 シンプルなコメント。
 それを見た瞬間、私は体中がじんわりと熱くなった。

 ……伝わった

 私の演奏が誰かに伝わった。
 先生の曲を褒めてもらえた。

 この不完全で何もかも足りない私の演奏、先生の曲。
 それが誰かの心に響いた。

 ”嬉しさ”がこみ上げるのと同時に
気づけば私の瞳が揺らいでいた。

「あれ?」

 頬に触れると濡れていた。
 私は涙が1つ、2つと溢れ出てくる。


 不完全で不出来な演奏。
それでも、良い演奏だと評価された。
曲が素敵だと言ってもらえた。


 私を知らない、遠く遠くにいる人に確かに伝わったのだ。


 嬉しかった。
 そして、気づいたのだ。

 私に演奏を教えてくれた人。
 沢山の曲を残してくれたあの人。

 先生は、もうこの世に居ないのだと……。


「ああ……ああああああ」

 涙が沢山、沢山、溢れ出てくる。
 胸を押さえて嗚咽の様に泣きわめく。

 私が伝えたかった先生の想い。
 それが今、誰かに伝わったのだ。

 先生が書き残した譜面は無駄ではなかった。
貴方が教えてくれたピアノの演奏は、私を繋げ、誰かの心に残すことが出来た。

 私に”楽しい”の感情を教えてくれた。

 沢山感謝をしたいのに、貴方はもうこの世に居ない。
 後悔しても、時を戻す事は出来ない。


 先生が病気の事を告げてくれたあの日。
 私は何故逃げ出したのか。

 今だったら分かる。

 どうして私が今、こんなにも涙を流しているのか。

 今だったら、この感情を言葉に出来る。


 私が自覚した初めての感情。
それは、どうしようもないくらいに”悲しい”と言う感情なのであった。

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