各務課長が「君の時間を十分ください」と言った結果

汐埼ゆたか

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各務課長の十分

各務課長の十分③

 足早に会社を出た後、私は駅までの道のりを呆然と歩く。
 
 課長が告白を撤回したのは、きっと一時の気の迷いに気づいたからだ。
 彼は恋愛も結婚も会社以外ですると言っていた。だから部下の私は彼にとって恋愛対象外のはずだ。
 あの告白は〝お見合い相手を追い払うための恋人ごっこ〟という特別な状況下で、ハラハラドキドキを恋と勘違いした。いわゆる〝吊り橋効果〟だ。頭のよい彼は、きっとそれに気づいたのだろう。

 これでよかったのよ……。

 私だって、振られたばかりですぐ次に行くなんて軽薄な女だと思われずに済んだ。

 彼はそんな意地の悪い考え方をする人ではないと、もうひとりの自分が頭の隅から訴えかけてくる。けれどその声を意識の外へ追いやった。

 五年越しに自覚したばかりの恋心が、気づいた途端に行方を失った。まるで自分も迷子になったような心細さが胸に押し寄せてきて、足元を見つめながらトボトボと歩いていく。

「実花子!」

 背後からの声に振り向くと、スーツ姿の男性が立っていた。

「慎士……」

 サイドを短く刈り上げたツーブロックヘアがしっくりとはまっているのは、別れたばかりの元カレだ。同じ会社に勤めてはいるけれど、オフィス階が別々のせいで遭遇率は低い。おかげで別れた直後なのに『元カレとバッタリ会ったらどうしよう』とは一ミリも考えなかった。

「なんで連絡して来ないんだ」
「へ?」

 ぽかんとした私を彼は思い切り睨みつけてきた。

「別れ話を一度や二度持ちかけられたくらいで引き下がるか? 普通はもっと、話し合いたいとかやり直させてほしいとかって頼み込むもんじゃないのか⁉」

 想像もしていなかった言い分に、開いた口が塞がらない。

 そもそもそっちが『もう連絡してくるな』って言ったんじゃないの⁉

 一瞬考えたけれど口を閉じる。どちらだって同じだ。私はこの人とやり直したいとは思えないのだから。

「ごめんなさい」と切りだすと、慎士が眉間のしわを緩める。

「わかったなら――」
「あなたとはやり直せない」

 きっぱりと言いきった。

「あなたが望むようなかわいい女にはなれないし、あなたの言動にもついて行けない。このまま別れた方がお互いのためだわ」

 慎士から電話であんなふうに別れを告げられたのはショックだったけれど、その時点で私の中では完全に終止符が打たれた。
 前の遠距離恋愛のときも同じような感じだったから、意外と自分は別れを引きずらないタイプだと思っていた。

 けれど思い返せば、課長が海外に赴任したときは、自分でも驚くほど落ち込んだ。それは社会に出て右も左もわからない時期に一から育ててくれた頼れる先輩がいなくなった心細さ――刷り込み現象のようなものだと思っていた。
 そこから指導担当である彼の名を汚すわけにはいかないと思い直し、仕事に励むようになった。仕事に打ち込んでいる間は胸の痛みを忘れられたのも、仕事に熱中した原因だった気がする。

 私、やっぱり各務課長のことを……。

 慎士との話で、自分がいかに鈍感だったかを再認識した。

「おまえ……ほかに男ができたのか⁉」
「そんなわけ……」

 完全に否定しきれなかった。今の私の気持ちがすでに慎士以外の男性に向いているからだ。あいまいに言葉を濁したせいで、慎士が目の色を変える。

「そうなんだな! どいつだっ、俺の知っているやつか⁉」

 慎士がこちらに向かって手を伸ばす。反射的に目をギュッと閉じた。

「やめなさい」

 聞こえた声に恐る恐る目を開けると、目の前にスラリとした背中があった。
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