耽溺愛ークールな准教授に拾われましたー

汐埼ゆたか

文字の大きさ
78 / 88
第十二話【金平糖の想い出】雨と紫陽花とあの日の追憶

[3]ー1

しおりを挟む
[3]


ふらふらと吸い寄せらせるように紫陽花に足を向ける。
立ち上がった時によろめいたのは、長い間座り込んでいたせいかもしれない。

楠木の根元から離れるにつれ、美寧の体を雨が濡らしていく。けれどそれにまったく気づいていないかのように、美寧は頬を伝う雫を拭うこともせず、紫陽花の茂みの前に立っていた。


祖父が帰らぬ人となったのも、紫陽花の盛りの頃だった。
雨に濡れる紫陽花はとても美しい。けれど同時に、もう二度と会えない大事な人を思い出させて、胸が苦しくなる。

(おじいさま………)

胸をきゅっと握る。握りしめた手の甲の上をいくつもの雨粒が滑っていく。


***


祖父が亡くなったあと、生家に戻った美寧を待っていたのは、ただ広いだけの空虚な箱だった。

生家である父の家。
父は仕事で毎日遅くまで帰ってこない。時には泊まり込みのこともあり、出張で家を空けることも多い。
社会人になった兄は、今は仕事で海外に行っている。祖父の葬儀の時は会うことが出来たけれど、四十九日も終わらないうちに慌ただしく戻って行った。

食事やその他の家事は、父に雇われた専門家プロがいるから困ることはない。
美寧は彼らの邪魔にならないように、ただ息を潜めてそこにいるだけ。

祖父の家も父の家と同じように雇われた人々が出入りする家ではあるけれど、祖父の家の方は働く人みんなが家族のように和気あいあいとしていた。大抵は美寧の祖父より少し若いくらいの人が多く、皆が美寧を自分の子や孫のように可愛がってくれたのだ。

父の家でそれはない。皆自分の職務に真面目で、美寧に構う者はいない。
まるで自分を必要とする人間なんていないような孤独の中、美寧は祖父を亡くした悲しみに必死に耐えていた。

けれどいつか、父に必要とされる日が来るかもしれない。その時が来たらちゃんと役に立てるようにならないと。

そう考えていた。


状況が変わったのは、その年の正月明けだった。

通例となっている年始のご挨拶の会。
祖父の喪中であるから大々的には行われなかったが、親族や会社関係の方々と挨拶を交わす程度の会だった。
その会が終わったあと、美寧は父の書斎に呼び出された。

『お父さま、お話があるとお伺いしましたが……』

書斎の扉をノックして、中からの返事を聞いてから開けた扉の隙間から滑り込ませるように中に入り、扉を閉める。そして、部屋の正面にある大きなデスクに座る父に声をかけた。
父は美寧の方をチラリと見たが、すぐに視線が外される。美寧は父が口を開くのを黙ってじっと待った。

『………許嫁との顔合わせが決まった』

『え、』

杵島きじま義父ちちの、……おじいさまの一周忌が済んだら、相手との顔合わせになる』

『い、許嫁って……そんないきなり、』

『以前から決まっていたことだ』

言葉を失った美寧に、父は『話はそれだけだ』と言い、美寧に書斎から下がるように言った。


(おとうさまには最初から私は必要なかったのよ………)

見下ろした紫陽花がゆらゆらと揺れる。
雨に打たれる花弁を見下ろしながら、湧き上がる苦い感情に胸が苦しくなっていく。

日暮れ間近の公園には、雨が降っているせいか通りかかる人もまばらだ。
しかも美寧がいる場所は、植え込みや大きな木に囲まれ、見えづらくなっていた。

親子らしい触れ合いなんてなかった。
けれどいつか父の役に立ちたいと思っていた。
だから祖父と暮らした家を出るのは悲しかったけれど、父の家に戻ろうと決めたのだ。

だけど僅か一年。今度は別の人の家に嫁がいかされるという。
どこの誰とも知らない、いつ決まったのか美寧自身は知らない許嫁のもとに。

ていの良い厄介払いだ。

それでも、自分が嫁ぐことで父の仕事に有利に働くことがあるのかもしれない。
どうせ役に立たない、ずっといるかいないか分からなかった娘だ。結婚することで父の役に立てるならそれも良いかもしれない。
学友が口にしていた“恋”も知らない。想う相手もいない。
問題なんてどこにもない。

許嫁との顔合わせまでの半年間、美寧はずっとそう自分に言い聞かせ続けた。

許嫁との顔合わせが近付くにつれ、もともとなかった食欲は皆無と言っていいほどに減り、空腹のときも胃が痛むようになった。
食べると胸やけをするし、食べ過ぎると吐いてしまう。

そんなふうに過ごした数か月。そしてとうとう、許嫁との顔合わせが、明日に迫っていた。

(結局私は、お父さまにとって要らない子だったのよね……)

丸くこんもりとした薄紫の花に向かってこうべを垂れる。
濡れそぼった髪が首元にまとわりつくけれど、そんなことは気にならない。

行き場のなくした想いに耐え切れず、衝動的に家を出て来た。梅雨の最中さなかだというのに傘を持って出ることすら考えなかった。

そろそろ戻らないといけない。
誰にも何も言わずに出てきたから、ひょっとしたら今頃自分のことを探しているかもしれない。もっともそれは父ではなく、雇われた家政婦たちだろうけれど。

美寧がいなくなったら、父だけでなく彼らにも迷惑をかけるだろう。そう分かっているのに、地に足が張り付いたみたいに動かない。

ザーザーと鳴っていた雨音が、少し弱まってきた。けれど厚い雲に覆われた薄暗い空には、太陽が顔を出すことはもうなさそうだ。

「会いたいよ……おじいさま…………」

紫陽花の根元にしゃがみこんだ美寧は、膝を抱えてうずくまった。

止まない雨が美寧の体を濡らしていく。腰まである長い髪は濡れそぼち、肌を滑る水滴が熱を奪っていく。
けれど彼女を濡らすのは雨だれだけで、涙が頬を濡らすことはなかった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?

すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。 お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」 その母は・・迎えにくることは無かった。 代わりに迎えに来た『父』と『兄』。 私の引き取り先は『本当の家』だった。 お父さん「鈴の家だよ?」 鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」 新しい家で始まる生活。 でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。 鈴「うぁ・・・・。」 兄「鈴!?」 倒れることが多くなっていく日々・・・。 そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。 『もう・・妹にみれない・・・。』 『お兄ちゃん・・・。』 「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」 「ーーーーっ!」 ※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。 ※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 ※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。 ※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)

俺様系和服社長の家庭教師になりました。

蝶野ともえ
恋愛
一葉 翠(いつは すい)は、とある高級ブランドの店員。  ある日、常連である和服のイケメン社長に接客を指名されてしまう。  冷泉 色 (れいぜん しき) 高級和食店や呉服屋を国内に展開する大手企業の社長。普段は人当たりが良いが、オフや自分の会社に戻ると一気に俺様になる。  「君に一目惚れした。バックではなく、おまえ自身と取引をさせろ。」  それから気づくと色の家庭教師になることに!?  期間限定の生徒と先生の関係から、お互いに気持ちが変わっていって、、、  俺様社長に翻弄される日々がスタートした。

あいにくですが、エリート御曹司の蜜愛はお断りいたします。

汐埼ゆたか
恋愛
旧題:あいにくですが、エリート御曹司の蜜愛はお受けいたしかねます。 ※現在公開の後半部分は、書籍化前のサイト連載版となっております。 書籍とは設定が異なる部分がありますので、あらかじめご了承ください。 ――――――――――――――――――― ひょんなことから旅行中の学生くんと知り合ったわたし。全然そんなつもりじゃなかったのに、なぜだか一夜を共に……。 傷心中の年下を喰っちゃうなんていい大人のすることじゃない。せめてもの罪滅ぼしと、三日間限定で家に置いてあげた。 ―――なのに! その正体は、ななな、なんと!グループ親会社の役員!しかも御曹司だと!? 恋を諦めたアラサーモブ子と、あふれる愛を注ぎたくて堪らない年下御曹司の溺愛攻防戦☆ 「馬鹿だと思うよ自分でも。―――それでもあなたが欲しいんだ」 *・゚♡★♡゚・*:.。奨励賞ありがとうございます 。.:*・゚♡★♡゚・* ▶Attention ※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

俺に抱かれる覚悟をしろ〜俺様御曹司の溺愛

ラヴ KAZU
恋愛
みゆは付き合う度に騙されて男性不信になり もう絶対に男性の言葉は信じないと決心した。 そんなある日会社の休憩室で一人の男性と出会う これが桂木廉也との出会いである。 廉也はみゆに信じられない程の愛情を注ぐ。 みゆは一瞬にして廉也と恋に落ちたが同じ過ちを犯してはいけないと廉也と距離を取ろうとする。 以前愛した御曹司龍司との別れ、それは会社役員に結婚を反対された為だった。 二人の恋の行方は……

冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない

彩空百々花
恋愛
誰もが恐れ、羨み、その瞳に映ることだけを渇望するほどに高貴で気高い、今世紀最強の見目麗しき完璧な神様。 酔いしれるほどに麗しく美しい女たちの愛に溺れ続けていた神様は、ある日突然。 「今日からこの女がおれの最愛のひと、ね」 そんなことを、言い出した。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~

ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。 2021/3/10 しおりを挟んでくださっている皆様へ。 こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。 しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗) 楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。 申しわけありません。 新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。 お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。 修正していないのと、若かりし頃の作品のため、 甘めに見てくださいm(__)m

課長のケーキは甘い包囲網

花里 美佐
恋愛
田崎すみれ 二十二歳 料亭の娘だが、自分は料理が全くできない負い目がある。            えくぼの見える笑顔が可愛い、ケーキが大好きな女子。 × 沢島 誠司 三十三歳 洋菓子メーカー人事総務課長。笑わない鬼課長だった。             実は四年前まで商品開発担当パティシエだった。 大好きな洋菓子メーカーに就職したすみれ。 面接官だった彼が上司となった。 しかも、彼は面接に来る前からすみれを知っていた。 彼女のいつも買うケーキは、彼にとって重要な意味を持っていたからだ。 心に傷を持つヒーローとコンプレックス持ちのヒロインの恋(。・ω・。)ノ♡

処理中です...