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第十二話【金平糖の想い出】雨と紫陽花とあの日の追憶

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ふらふらと吸い寄せらせるように紫陽花に足を向ける。
立ち上がった時によろめいたのは、長い間座り込んでいたせいかもしれない。

楠木の根元から離れるにつれ、美寧の体を雨が濡らしていく。けれどそれにまったく気づいていないかのように、美寧は頬を伝う雫を拭うこともせず、紫陽花の茂みの前に立っていた。


祖父が帰らぬ人となったのも、紫陽花の盛りの頃だった。
雨に濡れる紫陽花はとても美しい。けれど同時に、もう二度と会えない大事な人を思い出させて、胸が苦しくなる。

(おじいさま………)

胸をきゅっと握る。握りしめた手の甲の上をいくつもの雨粒が滑っていく。


***


祖父が亡くなったあと、生家に戻った美寧を待っていたのは、ただ広いだけの空虚な箱だった。

生家である父の家。
父は仕事で毎日遅くまで帰ってこない。時には泊まり込みのこともあり、出張で家を空けることも多い。
社会人になった兄は、今は仕事で海外に行っている。祖父の葬儀の時は会うことが出来たけれど、四十九日も終わらないうちに慌ただしく戻って行った。

食事やその他の家事は、父に雇われた専門家プロがいるから困ることはない。
美寧は彼らの邪魔にならないように、ただ息を潜めてそこにいるだけ。

祖父の家も父の家と同じように雇われた人々が出入りする家ではあるけれど、祖父の家の方は働く人みんなが家族のように和気あいあいとしていた。大抵は美寧の祖父より少し若いくらいの人が多く、皆が美寧を自分の子や孫のように可愛がってくれたのだ。

父の家でそれはない。皆自分の職務に真面目で、美寧に構う者はいない。
まるで自分を必要とする人間なんていないような孤独の中、美寧は祖父を亡くした悲しみに必死に耐えていた。

けれどいつか、父に必要とされる日が来るかもしれない。その時が来たらちゃんと役に立てるようにならないと。

そう考えていた。


状況が変わったのは、その年の正月明けだった。

通例となっている年始のご挨拶の会。
祖父の喪中であるから大々的には行われなかったが、親族や会社関係の方々と挨拶を交わす程度の会だった。
その会が終わったあと、美寧は父の書斎に呼び出された。

『お父さま、お話があるとお伺いしましたが……』

書斎の扉をノックして、中からの返事を聞いてから開けた扉の隙間から滑り込ませるように中に入り、扉を閉める。そして、部屋の正面にある大きなデスクに座る父に声をかけた。
父は美寧の方をチラリと見たが、すぐに視線が外される。美寧は父が口を開くのを黙ってじっと待った。

『………許嫁との顔合わせが決まった』

『え、』

杵島きじま義父ちちの、……おじいさまの一周忌が済んだら、相手との顔合わせになる』

『い、許嫁って……そんないきなり、』

『以前から決まっていたことだ』

言葉を失った美寧に、父は『話はそれだけだ』と言い、美寧に書斎から下がるように言った。


(おとうさまには最初から私は必要なかったのよ………)

見下ろした紫陽花がゆらゆらと揺れる。
雨に打たれる花弁を見下ろしながら、湧き上がる苦い感情に胸が苦しくなっていく。

日暮れ間近の公園には、雨が降っているせいか通りかかる人もまばらだ。
しかも美寧がいる場所は、植え込みや大きな木に囲まれ、見えづらくなっていた。

親子らしい触れ合いなんてなかった。
けれどいつか父の役に立ちたいと思っていた。
だから祖父と暮らした家を出るのは悲しかったけれど、父の家に戻ろうと決めたのだ。

だけど僅か一年。今度は別の人の家に嫁がいかされるという。
どこの誰とも知らない、いつ決まったのか美寧自身は知らない許嫁のもとに。

ていの良い厄介払いだ。

それでも、自分が嫁ぐことで父の仕事に有利に働くことがあるのかもしれない。
どうせ役に立たない、ずっといるかいないか分からなかった娘だ。結婚することで父の役に立てるならそれも良いかもしれない。
学友が口にしていた“恋”も知らない。想う相手もいない。
問題なんてどこにもない。

許嫁との顔合わせまでの半年間、美寧はずっとそう自分に言い聞かせ続けた。

許嫁との顔合わせが近付くにつれ、もともとなかった食欲は皆無と言っていいほどに減り、空腹のときも胃が痛むようになった。
食べると胸やけをするし、食べ過ぎると吐いてしまう。

そんなふうに過ごした数か月。そしてとうとう、許嫁との顔合わせが、明日に迫っていた。

(結局私は、お父さまにとって要らない子だったのよね……)

丸くこんもりとした薄紫の花に向かってこうべを垂れる。
濡れそぼった髪が首元にまとわりつくけれど、そんなことは気にならない。

行き場のなくした想いに耐え切れず、衝動的に家を出て来た。梅雨の最中さなかだというのに傘を持って出ることすら考えなかった。

そろそろ戻らないといけない。
誰にも何も言わずに出てきたから、ひょっとしたら今頃自分のことを探しているかもしれない。もっともそれは父ではなく、雇われた家政婦たちだろうけれど。

美寧がいなくなったら、父だけでなく彼らにも迷惑をかけるだろう。そう分かっているのに、地に足が張り付いたみたいに動かない。

ザーザーと鳴っていた雨音が、少し弱まってきた。けれど厚い雲に覆われた薄暗い空には、太陽が顔を出すことはもうなさそうだ。

「会いたいよ……おじいさま…………」

紫陽花の根元にしゃがみこんだ美寧は、膝を抱えてうずくまった。

止まない雨が美寧の体を濡らしていく。腰まである長い髪は濡れそぼち、肌を滑る水滴が熱を奪っていく。
けれど彼女を濡らすのは雨だれだけで、涙が頬を濡らすことはなかった。


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