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【一話完結】雪解けの筆跡(あと)
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世界から色が消えて、もう三ヶ月になる。
窓の外に広がるのは、白と、黒と、その中間にある無数の曖昧な灰色だけだ。老いた私の視界には、それくらいが丁度いい。
今朝も、使い古したストーブが喘息のような音を立てて目を覚ました。
私はベッドから這い出し、凍りついた窓ガラスを指先でなぞる。指の熱で雪の結晶が溶け、歪な水滴となって流れ落ちた。その先に、一人の男が立っているのが見えた。
「おはようございます、志乃さん。今日も冷えますね」
玄関を開けると、郵便局員の青年、誠司が立っていた。
彼はいつものように、頬を林檎のように赤く染め、白い息を吐き出しながら笑っている。
「わざわざ、こんな雪の深い日に。ご苦労さま、誠司さん。中に入って、お茶でも飲んでいかない?」
(また来たのか。君のその瑞々しい生命力を見せつけられると、こちらの枯れ果てた心臓に刺さって痛いんだ。せっかく静かに死ぬ準備をしているというのに)
「いえ、仕事中ですから。でも……この手紙だけは、どうしても早く届けたくて」
彼が差し出したのは、薄汚れた茶封筒だった。宛先には、十年前に絶縁したはずの息子の名前がある。
私はそれを、汚物でも受け取るような手つきで受け取った。
「あら、わざわざ。急ぎのものでもなさそうなのに。ありがとうね、誠司さんは本当に親切だわ」
(いっそ途中で失くしてくれればよかったのに。過去を蒸し返すような紙切れなんて、暖炉の火種にすらなりはしない)
「いえ。志乃さんの顔を見ないと、僕も落ち着かないんです。じゃあ、また明日。……あ、玄関先の雪、少し踏み固めておきましたから。滑らないように気をつけてくださいね」
誠司はそう言って、深く積もった雪の中に足を踏み入れていった。
彼が歩くたびに、水分を含んだ雪が「ぐしゃり」と重たい音を立てる。それは単なる雪解けの音ではなく、冬の終わりが泥濘(ぬかるみ)を引きずりながら、無理やり春を連れてこようとする抵抗の音のように聞こえた。
私は扉を閉め、手紙をテーブルに置いた。
部屋の中には、古い紙の匂いと、煮え切らないやかんの蒸気が混じり合っている。
私は長椅子の端に腰掛け、手紙を見つめた。
息子が家を出たのは、あの日、この町を記録的な豪雪が襲った夜だった。私たちは、溶けることのない沈黙を積み上げ、お互いの体温を拒絶した。
「お母さん、もういいんだ」
彼の最後の言葉が、耳の奥で溶け残った氷のようにチリチリと痛む。
私は震える指で封を切った。
中には、一枚の家族写真と、短い言葉が添えられていた。
『子供が生まれました。春になったら、雪の感触を教えに連れていきたいと思っています』
写真の中で、見知らぬ赤ん坊が小さな手を広げて笑っている。
私は思わず、自分の指先を見た。
窓をなぞった時の、あの冷たくて、けれどどこか生ぬるい、溶けかけた雪の感触が蘇る。
「……勝手な子ね。春なんて、まだずっと先なのに」
(この子の指も、きっとこんなふうに柔らかくて、少し触れただけで私の氷を溶かしてしまうんだろう。それはなんて、恐ろしくて、残酷な光栄なのだろう)
気づけば、私は立ち上がっていた。
厚手のコートを羽織り、長靴を履く。
玄関を開けると、先ほど誠司が踏み固めていった足跡が、点々と道を作っていた。
私は外に出て、その足跡を辿るように歩き出した。
足元では、溶け始めた雪がぐしゃり、ぐしゃりと音を立てる。
その感触は、不快なほどに湿っていて、けれど確実に土の匂いを孕んでいた。
庭の隅にある、枯れたはずの紫陽花の枝を見つめる。
そこには、小さな、本当に小さな、氷に閉ざされた蕾があった。
私は屈み込み、その蕾を包むように雪を払った。
指先に伝わるのは、刺すような冷たさではない。
雪が水へと変わり、形を失っていく瞬間の、曖昧な温もりだった。
「……冷たいわね」
(ああ、冷たい。冷たくて、痛くて、――なんて生温かいんだろう)
私はそのまま、雪の上に座り込んでしまった。
泥の混じった雪が、私の古いスカートを汚していく。
かつて愛した人たちの体温。
突き放した手の痛み。
それらすべてが、足元の雪と一緒に、ゆっくりと形を崩していく。
空を見上げると、いつの間にか灰色の雲の切れ間から、針の穴を通すような細い光が差し込んでいた。
それはまだ「光」と呼ぶにはあまりに頼りないものだったが、私の瞼を微かに熱くした。
私は、汚れを払うこともせず、ただそこにいた。
溶けかけた雪の、そのぐしゃりとした不恰好な感触を、全身で受け止めていた。
春は、決して美しく清らかにやってくるのではない。
凍りついた孤独を、泥にまみれながら、不格好に溶かしていくプロセスそのものなのだ。
「お茶を、淹れ直さなきゃ」
独り言が、白く濁って空に消える。
私は立ち上がり、自分の足跡を刻みながら、家へと戻った。
背中を丸め、少しだけ歩幅を狭めて。
明日、また誠司が来たら。
今度は本当に、一番いい茶葉を淹れてやろうと思う。
彼が運んできたのは、単なる手紙ではなく、私の足元に溜まっていた、重たい雪を溶かすための、最初のひと匙の温もりだったのだから。
(嫌いだったはずの、あの騒がしい足音が、今は少しだけ待ち遠しいなんて。私も随分と、焼きが回ったものだわ)
玄関のドアを閉める直前、もう一度だけ庭を見た。
そこには、私がつけた足跡と、誠司がつけた足跡が、溶けかかった雪の上で、不器用に重なり合っていた。
春の足音は、まだ小さくて、重たい。
けれど、確かにその下で、世界は濡れた呼吸を始めていた。
窓の外に広がるのは、白と、黒と、その中間にある無数の曖昧な灰色だけだ。老いた私の視界には、それくらいが丁度いい。
今朝も、使い古したストーブが喘息のような音を立てて目を覚ました。
私はベッドから這い出し、凍りついた窓ガラスを指先でなぞる。指の熱で雪の結晶が溶け、歪な水滴となって流れ落ちた。その先に、一人の男が立っているのが見えた。
「おはようございます、志乃さん。今日も冷えますね」
玄関を開けると、郵便局員の青年、誠司が立っていた。
彼はいつものように、頬を林檎のように赤く染め、白い息を吐き出しながら笑っている。
「わざわざ、こんな雪の深い日に。ご苦労さま、誠司さん。中に入って、お茶でも飲んでいかない?」
(また来たのか。君のその瑞々しい生命力を見せつけられると、こちらの枯れ果てた心臓に刺さって痛いんだ。せっかく静かに死ぬ準備をしているというのに)
「いえ、仕事中ですから。でも……この手紙だけは、どうしても早く届けたくて」
彼が差し出したのは、薄汚れた茶封筒だった。宛先には、十年前に絶縁したはずの息子の名前がある。
私はそれを、汚物でも受け取るような手つきで受け取った。
「あら、わざわざ。急ぎのものでもなさそうなのに。ありがとうね、誠司さんは本当に親切だわ」
(いっそ途中で失くしてくれればよかったのに。過去を蒸し返すような紙切れなんて、暖炉の火種にすらなりはしない)
「いえ。志乃さんの顔を見ないと、僕も落ち着かないんです。じゃあ、また明日。……あ、玄関先の雪、少し踏み固めておきましたから。滑らないように気をつけてくださいね」
誠司はそう言って、深く積もった雪の中に足を踏み入れていった。
彼が歩くたびに、水分を含んだ雪が「ぐしゃり」と重たい音を立てる。それは単なる雪解けの音ではなく、冬の終わりが泥濘(ぬかるみ)を引きずりながら、無理やり春を連れてこようとする抵抗の音のように聞こえた。
私は扉を閉め、手紙をテーブルに置いた。
部屋の中には、古い紙の匂いと、煮え切らないやかんの蒸気が混じり合っている。
私は長椅子の端に腰掛け、手紙を見つめた。
息子が家を出たのは、あの日、この町を記録的な豪雪が襲った夜だった。私たちは、溶けることのない沈黙を積み上げ、お互いの体温を拒絶した。
「お母さん、もういいんだ」
彼の最後の言葉が、耳の奥で溶け残った氷のようにチリチリと痛む。
私は震える指で封を切った。
中には、一枚の家族写真と、短い言葉が添えられていた。
『子供が生まれました。春になったら、雪の感触を教えに連れていきたいと思っています』
写真の中で、見知らぬ赤ん坊が小さな手を広げて笑っている。
私は思わず、自分の指先を見た。
窓をなぞった時の、あの冷たくて、けれどどこか生ぬるい、溶けかけた雪の感触が蘇る。
「……勝手な子ね。春なんて、まだずっと先なのに」
(この子の指も、きっとこんなふうに柔らかくて、少し触れただけで私の氷を溶かしてしまうんだろう。それはなんて、恐ろしくて、残酷な光栄なのだろう)
気づけば、私は立ち上がっていた。
厚手のコートを羽織り、長靴を履く。
玄関を開けると、先ほど誠司が踏み固めていった足跡が、点々と道を作っていた。
私は外に出て、その足跡を辿るように歩き出した。
足元では、溶け始めた雪がぐしゃり、ぐしゃりと音を立てる。
その感触は、不快なほどに湿っていて、けれど確実に土の匂いを孕んでいた。
庭の隅にある、枯れたはずの紫陽花の枝を見つめる。
そこには、小さな、本当に小さな、氷に閉ざされた蕾があった。
私は屈み込み、その蕾を包むように雪を払った。
指先に伝わるのは、刺すような冷たさではない。
雪が水へと変わり、形を失っていく瞬間の、曖昧な温もりだった。
「……冷たいわね」
(ああ、冷たい。冷たくて、痛くて、――なんて生温かいんだろう)
私はそのまま、雪の上に座り込んでしまった。
泥の混じった雪が、私の古いスカートを汚していく。
かつて愛した人たちの体温。
突き放した手の痛み。
それらすべてが、足元の雪と一緒に、ゆっくりと形を崩していく。
空を見上げると、いつの間にか灰色の雲の切れ間から、針の穴を通すような細い光が差し込んでいた。
それはまだ「光」と呼ぶにはあまりに頼りないものだったが、私の瞼を微かに熱くした。
私は、汚れを払うこともせず、ただそこにいた。
溶けかけた雪の、そのぐしゃりとした不恰好な感触を、全身で受け止めていた。
春は、決して美しく清らかにやってくるのではない。
凍りついた孤独を、泥にまみれながら、不格好に溶かしていくプロセスそのものなのだ。
「お茶を、淹れ直さなきゃ」
独り言が、白く濁って空に消える。
私は立ち上がり、自分の足跡を刻みながら、家へと戻った。
背中を丸め、少しだけ歩幅を狭めて。
明日、また誠司が来たら。
今度は本当に、一番いい茶葉を淹れてやろうと思う。
彼が運んできたのは、単なる手紙ではなく、私の足元に溜まっていた、重たい雪を溶かすための、最初のひと匙の温もりだったのだから。
(嫌いだったはずの、あの騒がしい足音が、今は少しだけ待ち遠しいなんて。私も随分と、焼きが回ったものだわ)
玄関のドアを閉める直前、もう一度だけ庭を見た。
そこには、私がつけた足跡と、誠司がつけた足跡が、溶けかかった雪の上で、不器用に重なり合っていた。
春の足音は、まだ小さくて、重たい。
けれど、確かにその下で、世界は濡れた呼吸を始めていた。
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