線香の精霊

saki

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線香の精霊

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線香の匂いは、重たい湿気を含んで喉の奥に張り付いていた。
古い木造住宅特有の、腐敗と沈黙が混ざり合ったような、逃げ場のない空気。
畳の隙間から這い出してきた影が、西日に焼かれた壁をゆっくりと侵食していく。
その部屋の隅で、死んだはずの男が、
生前と変わらぬ穏やかな手つきで、
自分の剥がれ落ちた皮膚を丁寧に拾い集めていた。

「本日はお忙しい中、ご足労いただきまして、本当にありがとうございます」
如月さんは、膝の上に揃えた手を震わせながら、深く頭を下げた。
(……早く終わらせたい。この女の、隠しきれない絶望の臭いが鼻について吐き気がする)

「いえ、これも仕事ですから。如月様のお力になれれば幸いです」
私は営業用の柔らかな笑みを浮かべ、カバンから商売道具を取り出した。
特殊清掃業者としての私の裏の顔は、この世に未練を残し、「澱(よど)」となった死者を、あるべき場所へ還す「掃き屋」である。

「主人は……あの人は、まだそこに居るのでしょうか。私には、何も見えなくて」
(見えない方が幸せだってことに、どうしてどいつもこいつも気づかないんだろうな。あんたの旦那は今、自分の指をパズルのように組み直そうとして、指先が崩れるたびに泣きそうな顔をしてる。それを見てあんたは、愛おしいと思えるのか?)

「ええ、ご主人はまだ、このお部屋に名残惜しそうに留まっておいでですよ。とても静かな、穏やかな方ですね」
嘘ではない。如月誠一という男の霊体は、こちらを威嚇するでもなく、ただひたすらに自分の欠損と向き合っていた。
私は祭壇の前に座り、持参した特殊な線香に火を灯した。
白檀をベースに、いくつかの呪術的な香料を配合したそれは、焚き始めた瞬間に部屋の空気を変質させる。

「……あ」
如月さんが小さく声を漏らした。
彼女の視線の先、何もないはずの空間が、陽炎のように揺れている。
「何か、見えますか?」

「いえ……でも、匂いが。誠一さんが好きだった、あの古い図書館のような……少しカビ臭くて、でも落ち着く匂いがします」
(それはあんたの記憶が作り出した幻覚だ。この線香は、生者が最も固執している『死者の記憶』を具現化させる。皮肉なもんだ。一番会いたいと思う時の匂いが、死を呼び寄せる呼び水になるんだから)

私は、作業を続ける。
誠一の霊は、私の存在に気づいている。
彼は拾い集めた皮膚を諦めたのか、ゆっくりと顔を上げた。
眼球のない眼窩が、私をじっと見つめている。
いや、私を通して、その背後にいる妻を見ているのだ。

彼は、口を開いた。
声は出ない。ただ、喉の奥から乾いた砂がこぼれるような音が響くだけだ。
「……ゆ……き……」
「奥様、ご主人が何か仰りたがっています。手を、差し出していただけますか」

「えっ……はい、はい!」
如月さんは、縋るような思いで空中に手を伸ばした。
(馬鹿だな。触れられるわけがない。死は絶対的な断絶だ。お前たちが共有できるのは、この一瞬の、不快なほど甘い喪失感だけだ)

如月さんの指先が、空中で止まる。
そこには誠一の霊の手があるはずだった。
しかし、彼の指は彼女の肌をすり抜け、黒い煤(すす)となって崩れ落ちていく。
線香の煙が、彼の形をなぞっては、無残に掻き消していく。

「あ……ああ、誠一さん。誠一さんなのね」
如月さんの目から涙がこぼれ、畳に染みを作る。
彼女には見えていない。
夫の顔が、今や苦痛に歪み、叫びを上げていることを。
この世に留まろうとすればするほど、霊体は自身の存在という重みに耐えきれず、自らを損壊させていく。
それが「澱」の末路だ。

「さあ、如月様。最後のお別れを。彼を自由にして差し上げてください」
私は冷徹に告げる。
(さっさと諦めろ。これ以上引き止めれば、こいつはただの怪物になる。あんたの愛が、こいつを地獄に繋ぎ止めているんだ)

「嫌……嫌です。行かないで。まだ、お礼も言ってない。あの朝、喧嘩したまま……行ってきますも言わずに……!」
彼女が夫のいた空間に抱きつこうとした瞬間、部屋中の線香の匂いが爆発的に強まった。
むせ返るような、濃厚な死の香り。
誠一の霊が、彼女の肩に手を置いたように見えた。
だが、その手はすでに肉を失い、白骨化した指が彼女のブラウスに食い込んでいる。

「……あり、がとう」
微かな、本当に微かな囁きが、風のように部屋を抜けた。
それは私の術が引き出した、彼の生前最後の一片だった。

その瞬間、誠一の姿は淡い光の粒となって霧散した。
残されたのは、強烈な線香の匂いと、誰もいない空間を抱きしめる一人の女。
そして、夕闇が完全に支配した、静まり返った和室。

「……行っちゃった。行ってしまいました……」
如月さんは、その場に崩れ落ち、子供のように声を上げて泣いた。
私は黙って、燃え尽きた線香の灰を見つめていた。
(……結局、救いなんてのは、残された側が勝手に捏造する物語でしかない。死んだ奴は、ただ無に帰るだけだ。それでも、あの男は最期に笑ったように見えたな。業の深いことだ)

私は、彼女の嗚咽を聞きながら、静かに道具を片付けた。
部屋を出る際、ふと振り返ると、西日に照らされた畳の上に、先ほどまで誠一が拾い集めていた「何か」の欠片が、一瞬だけキラリと光って消えた。

「失礼いたします。お代は後ほど、請求書をお送りします」
私は、いつもの丁寧な、非の打ち所のない礼をして、その家を後にした。
外の空気は、夕立の気配を孕んで湿っていたが、あの部屋の線香の匂いよりは、いくらか呼吸がしやすかった。

帰りの車中、自分の指先に染み付いた匂いを嗅ぐ。
何度洗っても落ちない、死者たちの名残。
(明日は、どんな死体と、どんな愛の成れの果てに出会うんだろうな。……全く、胸糞が悪い仕事だ)
そう呟きながら、私はアクセルを強く踏み込んだ。
目尻に溜まった、自分でも理由のわからない熱い液体が、頬を伝う前に。
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