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第1章 人生激変! 婿を取れ、モブ令嬢!
第1章 人生激変! 婿を取れ、モブ令嬢! ①
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「あらあら、そんな惨めな家柄の分際でこの王立学園に籍を置くなんて、あなたは恥ずかしくないのかしら?」
「オーホッホッホ! ベロニカさんがおっしゃる通りですわ」
「オーホッホッホ! こんな人と同じ空気を吸っていたら頭が腐ってしまいますわ」
「そうね。さ、早く行きましょう、マリリン、【ティナ】」
金糸のような髪をなびかせて引き返そうとするベロニカさんが、私の名前を呼んだ。いつものようにベロニカさんにくっついて、いつものように家柄の低い家の子をいびって。いつもと同じ生活だったはずなのに、その瞬間、まるで濁流が流れ込んでくるみたいに頭の中が【記憶】でいっぱいになった。
ワンルームのボロボロアパートの一室、その隅っこに座り込んで両親の罵倒をただ浴び続ける子どもの姿、ご飯も満足にもらえなくていつもお腹が空かしていた惨めさ。みすぼらしい姿のせいで通っていた学校でもいじめられて、やっとの思いで就職してあの地獄みたいな実家から出ることができたのに、それ以上に地獄だったブラック企業の仕事、毎日のように上司から怒鳴られて、夜遅くまで残業して……そして、迫りくる眩いライト。そうだ、私はあの車に轢かれて――そのまま……!
気づけば、私が大きな音を立てて床に倒れ込んでいた。目の前がぐるぐると回り、頭がガンガンと痛み、吐き気がこみ上げてくる。
「ティナ! どうしたの? 大丈夫!?」
「ティナさん! だ、誰か、誰か来てください! ティナさんが倒れました!」
ベロニカさんとマリリンが血相を変えて私の顔を覗き込んできた。私は「あ……あ……」とかすれた声しか出すことが出来ず、いくばくもしないうちに意識を手放していた。
再び目を覚ました時、私は医務室のベッドで横になっていた。真っ白な天井が視界に入ってくる。それがまぶしくて何度か瞬きをしていると、私が意識を取り戻したことに気づいた二人が慌てて覗き込んできた。まるで絹糸のように美しいブロンドのベロニカさんはただでさえ色白なのに、それを通り越して真っ青になっている。それとは対照的に真っ黒な髪のマリリンは額に汗をにじませていた。二人とも、私の事をすごく心配してくれたみたいだった。
「ティナ! 大丈夫? あなた、倒れたのよ?」
「良かった……目を覚まさなかったらどうしようかと思いましたぁ!」
マリリンの目から涙があふれる。ベロニカさんは「泣かなくたっていいじゃない!」とマリリンに対して怒ったような声をあげるけれど、それも少し鼻声だった。
「あ、あの……」
「どうしたの、ティナ?」
「私、名前って……何でしたっけ? ここは……?」
「まあ! 何てこと!? き、記憶喪失だわ!」
二人が慌てふためくのを見ていると、逆に私の頭は一気に冷静になっていく。
そうだ、私の名前はティナ。ティナ・シモンズ、シモンズ侯爵の長女の16歳。
そして、ここはローズニア王立学園。良家の子女ばかりが通うことを許された、セレブばかりの全寮制の学園。私もみんなと同じように寮で暮らしながら学生生活を送っている。
まるで鉛みたいに重たくなった頭をぐるぐると働かせていると、さらに色々なことを思い出してきた。私の実家は製薬会社を営んでいて、王家からも信頼されている誇り高き家。驕ることを知らずひたむきに仕事に打ち込む真面目な父と心優しく穏やかな母、頭が良くてみんなから信頼されて、しかもかっこよくていつもモテモテな兄。まるで絵に描いたような、理想的な私の家族。
でも、私はそれよりも重大な事を思い出していたのだった。頭の中で渦巻くもうひとつの記憶を紐解いていくと、そこにはゲームのソフトをゲーム機本体に差し込んでコントローラーを握る私の姿が見える。
そう。ここは、【私】が死ぬ直前までプレイしていた乙女ゲーム『パープルプリンセスー玉の輿学園へようこそー』の世界だ。それを思い出した瞬間、薄いモヤみたいなのが広がっていた視界も頭の中も一気にクリアになっていた。目の前で私の事を心配してくれているベロニカ・ハワード公爵令嬢はこのゲームのヒロインであり貧民街出身の【イヴ】を徹底的に苛め抜き、卒業パーティーの日にその罪を咎められて学園から追放される悪役令嬢。
そして私とマリリンが、ヒロインをいじめているベロニカの横で「オーホッホッホ」と高笑いばかりしている……いや高笑いしかセリフがないモブ令嬢。そう、モブ。ベロニカのように見せ場があるわけでもなく、ヒロインのように攻略対象と恋をすることもできない、喋ることもほとんどないモブ。その他大勢の内の一人。ゲームの中では名前すら与えられていなかったし、ベロニカが学園を追放された後、私たちがどうなったのかも明らかになっていない。風が吹いてしまえば簡単に飛んで行ってしまうくらい程度の存在。でもきっと、ろくでもない目にしか遭ってないだろう。ベロニカと一緒に学園を追放された可能性が高い。だって、まるで聖女のように心優しいヒロインを一緒になって虐めたのだから……その罰は正しく下るべきだ。私は深く息を吐き、勢いをつけてベッドから起き上がった。まだ胸がムカムカとしているし頭痛も残っているけれど、目が回るような感覚はない。
「ティナさん、起き上がって大丈夫なのですか?」
マリリンはハンカチで涙を拭き、私の肩に手を添えてくれた。
「え、えぇ……ありがとう、マリリン」
「でも急に倒れるなんて、きっと体のどこかが悪いに違いないわよ。一度ちゃんと医者に診てもらった方がいいわ。今度、うちで召し抱えている医者でも紹介するわね」
「ありがとうございます、ベロニカさん」
ベロニカってこんなに優しい一面もあるのに、もったいないなとその横顔を見た。ピンととんがった鼻を、私たちにバレないようにこっそりと拭いている。
起き上がった私は自分の額に触れた。脂汗でベタベタで、とても気持ち悪い。私は二人に「もう大丈夫だから、心配しないで」と告げてから医務室を出て、手洗い場に向かう。
そこには誰もいなくて、蛇口から水滴が落ちる音だけが響いていた。私はネックレスを外し、鏡に映る【この世界の自分】の姿を確認した。お母様譲りの栗色のウェーブがかかった髪、お父様に似た二重瞼。先ほど外した、サファイアがトップについているネックレスはまだ幼かった時にお母様がくれたもの。校則ではアクセサリーの着用は禁止されているけれど、手放したくなくて、誰からも見えないように制服の下に隠しながらこっそり身に着けている。
私は冷たい水で顔を洗った。どんよりと重たい頭が少しだけ軽くなる。ハンカチで顔を拭きながら、大きくため息をついた。
ベロニカと行動を共にするという事は、いずれ学園を追い出されてしまうことになるかもしれない。それでは、今まで優しくしてくれたこの世界の両親に恩をあだで返すことになってしまう。
「……どうしよう」
私が呟くのと同時に、閉じたはずの水滴が蛇口からポタリと落ちていった。今日何度目か分からないため息をつくと、その吐息で目の前の鏡が少しだけ曇る。ベロニカとマリリンは、この王立学園に入学した時からの付き合いで、親しい友人だった。だから、そんな相手を簡単に切り捨てることは考えるだけで心が痛む。けれど、それならどうしたらいいのだろう……悩みながら顔をあげた時、鏡越しに時計が映った。
「あっ! 大変!」
今日は夕方から図書委員の仕事がある日だった。私は慌ててネックレスを付けて、お手洗いを飛び出して図書室に向かう。まだ体は本調子ではなくて、途中で何度もよろめいてしまった。図書室に着いた時には再び汗が噴き出していて、図書委員長にはとても心配されてしまったけれど、私はそれを押しのけて腕章を付けた。
図書委員は、クラスで誰もやりたがる人がおらず、担任の先生がベロニカにさせようとしたときに「そう言えば、ティナって本読むの好きだったわよね?」とか言われて、無理やり押し付けられた仕事だった。確かに本は好きだけど……と渋々始めたけれど、やってみたら案外私に向いていて、今ではお気に入りの時間になっている。静かな図書室で、貸し出しの手続きをしたり、新しく届いた本にラベルを貼ったり、帰ってきた本を本棚に戻したり。こんな地味で黙々とした作業が性に合っているのは、もしかしたら前世のブラック企業時代に根気よくデータ入力をしていたせいかもしれない。記憶を取り戻した今ならそう思う。……前世を思い出すとやっぱり気分が悪くなってきた。私はげんなりとした気分になりながら、返却されてきた本を本棚に戻すためにラックに書籍を詰め込んでいった。
ずっしりと重たくなったラックを押しながら、本棚を巡る。歴史の本の返却が多いのは、きっとどこかのクラスで課題が出たからに違いない。前は薬草の本が根こそぎなくなったこともあって、一斉に返却された時はみんな大変そうだったな。そんな事を考えながら、静まり返った図書室をゆっくりと歩く。柔らかな夕日が窓から差し込み、オレンジ色に本棚が染まっていく。何度か深呼吸をしている内に、私の気分も少しずつ良くなっていくのを感じていた。
貸し出しが一番多いのは小説。最近、人気作家のシリーズ作品を大量入荷したおかげか、図書室の利用者も少しずつ増えてきて、図書委員長が喜んでいたのを思い出す。私は作者順に並んでいる本棚に向き合い、一冊ずつ返ってきたばかりの本棚に戻していく。その途中、静かな図書室の中で人の気配を感じた。ふとした好奇心に駆られて本棚の奥を覗き込むと、赤い髪が揺れていた。
「……あ、アルフレッド様」
そこにいたのは、このローズニア王国の皇太子であるアルフレッド様だった。王家の血筋の証でもある、まるで炎のような真っ赤な髪はとても目立つのに、どうして私は気づかなかったのだろう? 私が彼の名を呼んだことに気づいたのか、彼も私の方を向いた。目が合うと、体中に緊張が走る。彼とは同じ学年で、入学してからずっと同じ教室で学んできたけれど、あちらは皇太子、私はただの侯爵令嬢。私との身分の違いは雲泥の差どころではない。あまり話をしたこともなく、声をかけようとするたびに背中にだらだらと汗が伝ってしまい、会話どころではなくなってしまう。ベロニカは彼の事を狙っているので積極的に話しかけに行くので、その度に「度胸あるね」とマリリンと言いあっていた。
ぎこちなくお辞儀をする私に、彼は思いもよらぬ一言を言った。
「体はもう大丈夫なのか?」
「……え?」
「教室で突然倒れたじゃないか。あの時、一緒に医務室まで行っただろう?」
「はい?」
「いや、君は気を失っていたから覚えていないのか。医務室まで運んだのは俺だ」
「……はえぇえ!?」
思わず大きな声が出てしまい、私は慌てて口を塞いだ。図書室では静かな声で話をするのがルール。それを図書委員が破ってしまうのはよくない。けれど、彼のその一言は私を宙に飛び上がらせるくらい驚くものだった。だって、マリリンもベロニカもそんな事言っていなかったし……言ってよ!
「あの、申し訳ございませんでした! 重かったでしょうに……」
勢いよく頭を下げた瞬間、私の首元からネックレスが落ちていった。どうやら先ほど付け直した時、上手く金具がかみ合っていなかったみたい。サファイアはトンッと軽くジャンプして、アルフレッド様の足元に落ちた。それを彼が拾ってくれる。
「あの、ありがとうございます……重ね重ね、申し訳ございません」
「オーホッホッホ! ベロニカさんがおっしゃる通りですわ」
「オーホッホッホ! こんな人と同じ空気を吸っていたら頭が腐ってしまいますわ」
「そうね。さ、早く行きましょう、マリリン、【ティナ】」
金糸のような髪をなびかせて引き返そうとするベロニカさんが、私の名前を呼んだ。いつものようにベロニカさんにくっついて、いつものように家柄の低い家の子をいびって。いつもと同じ生活だったはずなのに、その瞬間、まるで濁流が流れ込んでくるみたいに頭の中が【記憶】でいっぱいになった。
ワンルームのボロボロアパートの一室、その隅っこに座り込んで両親の罵倒をただ浴び続ける子どもの姿、ご飯も満足にもらえなくていつもお腹が空かしていた惨めさ。みすぼらしい姿のせいで通っていた学校でもいじめられて、やっとの思いで就職してあの地獄みたいな実家から出ることができたのに、それ以上に地獄だったブラック企業の仕事、毎日のように上司から怒鳴られて、夜遅くまで残業して……そして、迫りくる眩いライト。そうだ、私はあの車に轢かれて――そのまま……!
気づけば、私が大きな音を立てて床に倒れ込んでいた。目の前がぐるぐると回り、頭がガンガンと痛み、吐き気がこみ上げてくる。
「ティナ! どうしたの? 大丈夫!?」
「ティナさん! だ、誰か、誰か来てください! ティナさんが倒れました!」
ベロニカさんとマリリンが血相を変えて私の顔を覗き込んできた。私は「あ……あ……」とかすれた声しか出すことが出来ず、いくばくもしないうちに意識を手放していた。
再び目を覚ました時、私は医務室のベッドで横になっていた。真っ白な天井が視界に入ってくる。それがまぶしくて何度か瞬きをしていると、私が意識を取り戻したことに気づいた二人が慌てて覗き込んできた。まるで絹糸のように美しいブロンドのベロニカさんはただでさえ色白なのに、それを通り越して真っ青になっている。それとは対照的に真っ黒な髪のマリリンは額に汗をにじませていた。二人とも、私の事をすごく心配してくれたみたいだった。
「ティナ! 大丈夫? あなた、倒れたのよ?」
「良かった……目を覚まさなかったらどうしようかと思いましたぁ!」
マリリンの目から涙があふれる。ベロニカさんは「泣かなくたっていいじゃない!」とマリリンに対して怒ったような声をあげるけれど、それも少し鼻声だった。
「あ、あの……」
「どうしたの、ティナ?」
「私、名前って……何でしたっけ? ここは……?」
「まあ! 何てこと!? き、記憶喪失だわ!」
二人が慌てふためくのを見ていると、逆に私の頭は一気に冷静になっていく。
そうだ、私の名前はティナ。ティナ・シモンズ、シモンズ侯爵の長女の16歳。
そして、ここはローズニア王立学園。良家の子女ばかりが通うことを許された、セレブばかりの全寮制の学園。私もみんなと同じように寮で暮らしながら学生生活を送っている。
まるで鉛みたいに重たくなった頭をぐるぐると働かせていると、さらに色々なことを思い出してきた。私の実家は製薬会社を営んでいて、王家からも信頼されている誇り高き家。驕ることを知らずひたむきに仕事に打ち込む真面目な父と心優しく穏やかな母、頭が良くてみんなから信頼されて、しかもかっこよくていつもモテモテな兄。まるで絵に描いたような、理想的な私の家族。
でも、私はそれよりも重大な事を思い出していたのだった。頭の中で渦巻くもうひとつの記憶を紐解いていくと、そこにはゲームのソフトをゲーム機本体に差し込んでコントローラーを握る私の姿が見える。
そう。ここは、【私】が死ぬ直前までプレイしていた乙女ゲーム『パープルプリンセスー玉の輿学園へようこそー』の世界だ。それを思い出した瞬間、薄いモヤみたいなのが広がっていた視界も頭の中も一気にクリアになっていた。目の前で私の事を心配してくれているベロニカ・ハワード公爵令嬢はこのゲームのヒロインであり貧民街出身の【イヴ】を徹底的に苛め抜き、卒業パーティーの日にその罪を咎められて学園から追放される悪役令嬢。
そして私とマリリンが、ヒロインをいじめているベロニカの横で「オーホッホッホ」と高笑いばかりしている……いや高笑いしかセリフがないモブ令嬢。そう、モブ。ベロニカのように見せ場があるわけでもなく、ヒロインのように攻略対象と恋をすることもできない、喋ることもほとんどないモブ。その他大勢の内の一人。ゲームの中では名前すら与えられていなかったし、ベロニカが学園を追放された後、私たちがどうなったのかも明らかになっていない。風が吹いてしまえば簡単に飛んで行ってしまうくらい程度の存在。でもきっと、ろくでもない目にしか遭ってないだろう。ベロニカと一緒に学園を追放された可能性が高い。だって、まるで聖女のように心優しいヒロインを一緒になって虐めたのだから……その罰は正しく下るべきだ。私は深く息を吐き、勢いをつけてベッドから起き上がった。まだ胸がムカムカとしているし頭痛も残っているけれど、目が回るような感覚はない。
「ティナさん、起き上がって大丈夫なのですか?」
マリリンはハンカチで涙を拭き、私の肩に手を添えてくれた。
「え、えぇ……ありがとう、マリリン」
「でも急に倒れるなんて、きっと体のどこかが悪いに違いないわよ。一度ちゃんと医者に診てもらった方がいいわ。今度、うちで召し抱えている医者でも紹介するわね」
「ありがとうございます、ベロニカさん」
ベロニカってこんなに優しい一面もあるのに、もったいないなとその横顔を見た。ピンととんがった鼻を、私たちにバレないようにこっそりと拭いている。
起き上がった私は自分の額に触れた。脂汗でベタベタで、とても気持ち悪い。私は二人に「もう大丈夫だから、心配しないで」と告げてから医務室を出て、手洗い場に向かう。
そこには誰もいなくて、蛇口から水滴が落ちる音だけが響いていた。私はネックレスを外し、鏡に映る【この世界の自分】の姿を確認した。お母様譲りの栗色のウェーブがかかった髪、お父様に似た二重瞼。先ほど外した、サファイアがトップについているネックレスはまだ幼かった時にお母様がくれたもの。校則ではアクセサリーの着用は禁止されているけれど、手放したくなくて、誰からも見えないように制服の下に隠しながらこっそり身に着けている。
私は冷たい水で顔を洗った。どんよりと重たい頭が少しだけ軽くなる。ハンカチで顔を拭きながら、大きくため息をついた。
ベロニカと行動を共にするという事は、いずれ学園を追い出されてしまうことになるかもしれない。それでは、今まで優しくしてくれたこの世界の両親に恩をあだで返すことになってしまう。
「……どうしよう」
私が呟くのと同時に、閉じたはずの水滴が蛇口からポタリと落ちていった。今日何度目か分からないため息をつくと、その吐息で目の前の鏡が少しだけ曇る。ベロニカとマリリンは、この王立学園に入学した時からの付き合いで、親しい友人だった。だから、そんな相手を簡単に切り捨てることは考えるだけで心が痛む。けれど、それならどうしたらいいのだろう……悩みながら顔をあげた時、鏡越しに時計が映った。
「あっ! 大変!」
今日は夕方から図書委員の仕事がある日だった。私は慌ててネックレスを付けて、お手洗いを飛び出して図書室に向かう。まだ体は本調子ではなくて、途中で何度もよろめいてしまった。図書室に着いた時には再び汗が噴き出していて、図書委員長にはとても心配されてしまったけれど、私はそれを押しのけて腕章を付けた。
図書委員は、クラスで誰もやりたがる人がおらず、担任の先生がベロニカにさせようとしたときに「そう言えば、ティナって本読むの好きだったわよね?」とか言われて、無理やり押し付けられた仕事だった。確かに本は好きだけど……と渋々始めたけれど、やってみたら案外私に向いていて、今ではお気に入りの時間になっている。静かな図書室で、貸し出しの手続きをしたり、新しく届いた本にラベルを貼ったり、帰ってきた本を本棚に戻したり。こんな地味で黙々とした作業が性に合っているのは、もしかしたら前世のブラック企業時代に根気よくデータ入力をしていたせいかもしれない。記憶を取り戻した今ならそう思う。……前世を思い出すとやっぱり気分が悪くなってきた。私はげんなりとした気分になりながら、返却されてきた本を本棚に戻すためにラックに書籍を詰め込んでいった。
ずっしりと重たくなったラックを押しながら、本棚を巡る。歴史の本の返却が多いのは、きっとどこかのクラスで課題が出たからに違いない。前は薬草の本が根こそぎなくなったこともあって、一斉に返却された時はみんな大変そうだったな。そんな事を考えながら、静まり返った図書室をゆっくりと歩く。柔らかな夕日が窓から差し込み、オレンジ色に本棚が染まっていく。何度か深呼吸をしている内に、私の気分も少しずつ良くなっていくのを感じていた。
貸し出しが一番多いのは小説。最近、人気作家のシリーズ作品を大量入荷したおかげか、図書室の利用者も少しずつ増えてきて、図書委員長が喜んでいたのを思い出す。私は作者順に並んでいる本棚に向き合い、一冊ずつ返ってきたばかりの本棚に戻していく。その途中、静かな図書室の中で人の気配を感じた。ふとした好奇心に駆られて本棚の奥を覗き込むと、赤い髪が揺れていた。
「……あ、アルフレッド様」
そこにいたのは、このローズニア王国の皇太子であるアルフレッド様だった。王家の血筋の証でもある、まるで炎のような真っ赤な髪はとても目立つのに、どうして私は気づかなかったのだろう? 私が彼の名を呼んだことに気づいたのか、彼も私の方を向いた。目が合うと、体中に緊張が走る。彼とは同じ学年で、入学してからずっと同じ教室で学んできたけれど、あちらは皇太子、私はただの侯爵令嬢。私との身分の違いは雲泥の差どころではない。あまり話をしたこともなく、声をかけようとするたびに背中にだらだらと汗が伝ってしまい、会話どころではなくなってしまう。ベロニカは彼の事を狙っているので積極的に話しかけに行くので、その度に「度胸あるね」とマリリンと言いあっていた。
ぎこちなくお辞儀をする私に、彼は思いもよらぬ一言を言った。
「体はもう大丈夫なのか?」
「……え?」
「教室で突然倒れたじゃないか。あの時、一緒に医務室まで行っただろう?」
「はい?」
「いや、君は気を失っていたから覚えていないのか。医務室まで運んだのは俺だ」
「……はえぇえ!?」
思わず大きな声が出てしまい、私は慌てて口を塞いだ。図書室では静かな声で話をするのがルール。それを図書委員が破ってしまうのはよくない。けれど、彼のその一言は私を宙に飛び上がらせるくらい驚くものだった。だって、マリリンもベロニカもそんな事言っていなかったし……言ってよ!
「あの、申し訳ございませんでした! 重かったでしょうに……」
勢いよく頭を下げた瞬間、私の首元からネックレスが落ちていった。どうやら先ほど付け直した時、上手く金具がかみ合っていなかったみたい。サファイアはトンッと軽くジャンプして、アルフレッド様の足元に落ちた。それを彼が拾ってくれる。
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