沈黙のういザード 

豚さん

文字の大きさ
120 / 255

26話 成仏

しおりを挟む
 ホールの出口付近。
 人の流れから少し離れた場所に、静かに立つ人影があった。

 石田――
 六地蔵家を長年支えてきた、寡黙なメイド長。

 背筋を伸ばし、いつもと同じ姿勢で立っている。
 けれど、その佇まいはどこか、見送る者のそれだった。

 雪乃は、吸い寄せられるようにその前へ進んだ。

「……今まで、お疲れさまでした」

 先に口を開いたのは石田だった。
 普段と変わらぬ穏やかな声。
 しかし、その奥には、わずかな震えが滲んでいる。

 雪乃は、真正面から言った。
 視線を逸らさない。
 最後くらいは――逃げない。

「一番、傷つけたのは……あなたでした」

 一瞬、石田のまぶたが伏せられる。

「あなたはずっとこの屋敷のために働いてくださっていたのに……
 私は何度も、あなたの心を踏みにじるようなことをして……」

 言葉が、そこで詰まる。
 胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。

「本当に……ごめんなさい」

 石田は、小さく首を横に振った。

「子どもは、大人に甘えていいのです」

 その声音は――
 主従のものではなかった。
 叱るでもなく、裁くでもなく。

 母の声だった。

「あなたは……甘え方を知らなかっただけ。
 誰に頼ればいいのか、分からなかっただけ」

 ゆっくりと言葉を重ねる。

「それでも全部、自分の責任だと抱え込んで……誰にも渡さず、誰にも預けず――壊れていった」

 石田自身が、悔やむように言葉を落とす。

「止められなかったのは、わたしたち大人の責任でもあります」

「そんな……」

 雪乃が小さく首を振る。

「だから」

 石田は、はっきりと告げた。

「あなたひとりが、背負っていい痛みではないのです」

 その一言に――
 雪乃の膝が、わずかに震えた。

 胸の奥で、張りつめていた糸が、音もなく緩んでいく。

「……ありがとう……ございます……」

 声が、かすれる。

 けれど――
 雪乃の表情は、まだ晴れなかった。

 しばらく沈黙したあと、
 迷うように、けれど覚悟を決めたように、口を開く。

「……お母さんは……」

 石田は、その言葉だけで理解した。

「記憶のこと、ですね」

 雪乃は、ゆっくり頷く。

「……私のことを……もう、覚えていないままで……
 それで……私が、いなくなったら……」

 その先が、言えない。

 娘を失ったという事実すら、理解できないかもしれないという恐怖。

 石田は、一歩だけ近づいた。

「もう、大丈夫です」

 迷いのない声音だった。

「これからは――葉月さんと、憂さんがいます」

 雪乃が、はっと顔を上げる。

「あの方たちは、ちゃんと受け取りました。あなたが守ろうとした日常も、言葉にできなかった想いも」

 石田は、静かに微笑んだ。

「母上のそばには、もうあなたの代わりに立つ人がいます。
 あなたがいなくなっても――
 空白には、ならない」

 その言葉は、雪乃がずっと恐れていた結末を否定してくれた。

「だから……」

 石田は、やさしく、しかしはっきりと言う。

「あなたは、もう休んでいいのですよ」

 許しだった。
 解放だった。

 雪乃の目から、静かに涙が零れる。

「……はい……」

 小さな声。
 けれど、それは確かな肯定だった。

 じんわりと涙が滲む。

「おいでなさい。雪乃様」

 石田は、そっと膝を差し出した。

 雪乃は、戸惑いながらもその膝の上に頭を預けた。

 石田の手が、優しく髪を撫でる。

「ああ……あたたかい……」

 雪乃の視界が、ゆっくりと滲んでいく。

(私……ようやく……子どもに戻れた……)

「雪乃さん」

 ――少し距離の近い呼び方。
 “様”の壁が、そっと解かれた。
 雪乃の肩の力が、ふっと抜けていく。

 膝枕のまま――
 雪乃は感じた。

 自分の輪郭が淡くなり、身体を借りていた憂へと戻っていく感覚。

 胸のエメラルドが、白に近い透明な光を放つ。

 指先の感覚も、足の重みも、息遣いすら――
 くすぐりのように遠ざかっていった。

 千秋の叫びが聞こえる。
 葉月の泣き声も。
 菊子の嗚咽も。
 メイドたちの震える呼吸も。

 全部、湖の向こう側から響いてくるような柔らかな音に変わっていく。

 ――怖くない。

 はじめてそう思えた。

 なぜなら、ここには大人の腕があるから。

 石田は、膝の上にいる雪乃の頬へそっと手を添えた。

「雪乃……」

 ついに、呼び捨て。
 それは仕える者の言葉ではない。
 母が、子を呼ぶ声だった。

 その瞬間――
 雪乃の中で、何かがほどけた。

 背負っていた責任も、
 “姉”であろうとした意地も、
 大人のふりをしていた心も。

 すとん、と落ちるように――
 彼女は、子どもに戻った。

 小さな身体。
 細い肩。
 不安でいっぱいだった、あの日のままの少女。

 雪乃は、石田の胸元に顔をうずめ、震える声で、幼い言葉をこぼす。

「……おかあさん……ごめんね……」

 ぎゅっと、服を掴む指。
 まるで迷子の子どものように。

「……わたし……いなくなっちゃって……
 おかあさん……さみしくない……?」

 御陵家の長女の言葉ではなかった。
 誰かを守ろうとする声でもない。

 ただ、置いていってしまった母を心配する、小学生の女の子の声だった。

 涙が、ぽろぽろと落ちる。

「……ねぇ……もう……ねむっても……いい……?」

 許可を求めるように。
 叱られないか確かめるように。

 “ちゃんと終わっていいか”を、
 母に聞く子どもの声。

 石田は、微笑みながらうなずいた。

「さあ……おやすみ。雪乃」

 その言葉に包まれながら、雪乃はゆっくりと微笑んだ。

 まるで昼寝の続きをするように。
 幸せそうな寝顔で、目を閉じる。

 雪乃は、音もなく光に変わった。

 雪の結晶のようにきらめきながら――
 音符のように舞い上がり――
 星のようにほどけていく。

(ありがとう)

 その言葉だけが、光となって残った。

 空から、小さな雪が静かに降り続けた。

 触れようとしても触れられない――
 光の雪。

 それは、長女がようやく眠れた夜に降りた祝福の雪だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について

沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。 かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。 しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。 現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。 その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。 「今日から私、あなたのメイドになります!」 なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!? 謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける! カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

一夏の性体験

風のように
恋愛
性に興味を持ち始めた頃に訪れた憧れの年上の女性との一夜の経験

至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件

こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。

処理中です...