沈黙のういザード 

豚さん

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26位  ジューンブライドの披露宴で

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六月――
ジューンブライドと呼ばれる季節。

柔らかな初夏の光が、会場の高い天井を照らしていた。
何層にも連なったシャンデリアがその光を受け、白と金のきらめきをやさしく降らせている。

花々の香りは、春の名残と夏の気配をほんのり混ぜたもの。
低く抑えられた弦楽四重奏の音色が、湿り気を帯びた空気を静かに包み込んでいた。

参列者の顔ぶれは、一目で格の違いがわかる。
老舗名家の当主、医師会の重鎮、大企業の創業者。
テレビでしか見たことのない俳優やタレントの姿も、違和感なく溶け込んでいる。

誰もが静かに言葉を交わし、穏やかな笑みを浮かべながらも、
長い年月で身につけた余裕を、その佇まいに滲ませていた。

――理恵の披露宴。

その頃、会場奥の化粧室で――
憂は鏡の前に立ち、深く息を吸っては吐くのを、何度も繰り返していた。

「……だ、大丈夫……」

口に出しても、声はわずかに震える。
しかも――トリ。

それは、理恵の提案だった。

『最後に、憂の歌で締めたい』

そう言われた瞬間、断る理由など、最初からなかった。

けれど、この規模の結婚式。
名家と著名人が居並ぶこの会場で、
すべての祝福を受け止める――
最後の音を任されるということ。

それは、ただの余興、では済まされない。

胸にのしかかるのは、初めて背負う重さだった。

手のひらは、じっとりと汗ばんでいる。
指先が、わずかに冷たい。

「緊張……する……」

誰にともなく呟き、憂はそっとドアを開けて廊下へ出た。

すると――
すぐ先で、落ち着いた声がした。

「……探していましたよ」

振り返ると、そこに新郎が立っていた。

タキシードは完璧に整えられ、背筋は自然に伸びている。
笑みは柔らかく、けれど隙がない。

「あ……」

一瞬、言葉を失う憂。

(理恵さんの旦那様……)

近くで見ると、やはり圧倒される。
派手な顔立ちではない。
けれど、年齢と経験が幾重にも重なったような――
若さでは決して辿り着けない、静かな色気が、確かにそこにあった。

整えられたタキシードの襟元。
無駄のない仕草。
近づくにつれて、ふわりと漂ってくるのは、
甘さを抑えた、清潔で落ち着いた香り。
主張しないのに、気づいた瞬間、意識を持っていかれる。

(……いい匂い……)

思わず、呼吸が浅くなる。
それでも彼は、人を見下ろさない。
急かさない。
視線ひとつ、声の高さひとつにさえ、余裕が宿っている。

ただ、そこに在るだけで。
張り詰めた空気をほどき、相手の呼吸の速さまで整えてしまう人。

一歩、距離が詰まる。
その瞬間、大人の男特有の落ち着きと色気が、静かに迫ってきて――

(……だめ、これは……)

一瞬だけ、その余裕に身を預けてしまいそうになる。

けれど、彼の眼差しに欲はない。
あるのは、包むような配慮と、支える意思だけ。

新郎は、静かに一歩近づき、低く穏やかな声で、口を開いた。

「――はじめまして」

穏やかな声だった。低く、落ち着いていて、耳に心地いい。

新郎は軽く会釈し、柔らかな笑みを浮かべる。

「小鈴の兄で、理恵の夫です」

名乗り方は控えめで、肩書きを誇る様子はない。
けれど、その一言だけで、場の空気がすっと整う。

「今日は来てくださって、ありがとうございます」

形式的な挨拶のはずなのに、言葉の端々に、相手を気遣う余裕が滲んでいた。

憂は、一瞬――言葉を失った。

(……近い……)

胸の奥が、きゅっと縮まる。
呼吸を整えようとしても、うまくいかない。

慌てて視線を落とし、両手をぎゅっと重ねる。

「……あ……」

声が、喉で引っかかった。

(だめ、ちゃんと言わなきゃ)

ぐっと力を入れて、憂は顔を上げる。

「……ご、ご結婚……おめでとうございます」

丁寧に、噛まないように。
けれど、ほんの少しだけ声が震えていた。

言い終えた瞬間、胸いっぱいに息を吸い込む。

新郎は、その様子を見て、ほんのわずか目を細めた。

からかいも、驕りもない。ただ、相手を受け止める余裕だけが、そこにあった。

その静かな眼差しに、憂の心臓は、また一拍だけ速く打つ。

(……理恵さん……こんな人、反則です……)

それでも――
不思議と、胸の奥の緊張は、少しずつ溶けていた。

そして、少しだけ表情を和らげて、続ける。

「ありがとうございます。理恵が、あなたのことをよく話していました」

穏やかな口調。
けれど、その声には確かな親しみがあった。

「頼りになる弟子がいるんだ、と。音に向き合う姿勢が、とても真っ直ぐだと」

胸の奥が、じんわりと温かくなる。

「無茶なお願いを聞いてくれて、本当に助かったとも言っていましたよ」

「え……?」

「トリで歌うことになって、相当緊張しているだろう、と」

図星だった。
胸の奥が、きゅっと縮む。

その言葉に、胸の奥がじん、と温かくなる。

新郎は、ほんの少しだけ声を落とした。

「妹とも、仲良くしてくれてありがとうございます。兄として……心から、感謝しています」

「……こちらこそっ!」

憂は反射的に頭を下げた。

すると新郎は、ふっと表情を崩し、ほんのわずか、悪戯っぽい目をした。

「そういえば。理恵から『夜に鏡の前で、俺とイチャイチャしてた』と聞きましたが」

「――えっ!?」

憂の顔が一気に熱くなる。

「な、なんでそんなことまで……!そ、それ誤解です!!」

「はは」

新郎は小さく息を漏らして笑う。

「冗談ですよ。……かまをかけてみただけですが」

新郎は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「どうやら、本当だったみたいですね」

「……っ!」

一拍置いて、憂はぎゅっと拳を握る。

「……もうっ!」

憂は、思わず一歩下がって声を上げた。

「いじわるしないでください……!それ、理恵さんみたいじゃないですか」

頬を膨らませる憂に、新郎は一瞬だけ目を丸くし――
それから、くすっと静かに笑った。

「はは……確かに。あれの影響は、少し受けていますね」

肩をすくめる仕草は控えめなのに、どこか余裕がある。

「でも、おかげで表情がほぐれましたか?」

「……え?」

「さっきより、ずっといい顔です」

からかいは、もうそこまで。
声はすぐに、穏やかな低さに戻る。

少しだけ、声が上ずる。
でも、それが――ちょうどよかった。

新郎は一歩、距離を取る。
その仕草だけで、空気がすっと整う。

「ええ。だから言ったんです」

穏やかな声で、まっすぐに。

「そうやって感情が外に出ると、不思議と、緊張は逃げていく」

憂は、はっとする。

さっきまで胸を締めつけていた圧が、
いつの間にか、和らいでいた。

「今のあなたは、とてもいい顔をしています」

視線が合う。
深く、静かな目。

(……危ない)

一瞬だけ、その大人の余裕に心を預けてしまいそうになる。

けれど、その眼差しに欲はない。
あるのは、支える意志だけ。

新郎は静かに言う。

「最後の音を鳴らす人間が、一番楽しんでいなければいけない。あなたはもう、十分準備してきました」

「……え?」

「いい具合に、力が抜けましたか?」

憂は一瞬きょとんとして、それから、むっと眉を寄せた。

「……わざと、だったんですか?」

「ええ。少しだけ」

「もうっ……いじわるです!」

そう言いながらも、憂の声には、もう震えはなかった。

新郎は、ふと視線を横にやり、わずかに口元を緩めた。

「憂ちゃん。少し、こっちに」

「……え?」

手招きされ、首をかしげながら近づくと――
視線の先に、談笑している二人の姿があった。

結衣と、小鈴の執事をしていた次男。
距離は近く、声は低く、互いに自然体で笑っている。

まるで――
そう、まるで恋人同士のように。

 廊下の向こう、会場に近い一角で――
 結衣と、次男が並んで立っていた。

 距離が、妙に近い。

 声を潜めて話しているのに、
 笑うタイミングが、やけに噛み合っている。

「それでさ、あの時ほんと焦って――」

「いえ……さすがに、あれは厳しかったかと。無理もございませんよ」

 二人同時に笑う。

 その様子を、少し離れたところから見ていた憂は、思わず目を瞬かせた。

 並び方。
 距離感。
 肩が触れそうで触れない、その微妙な近さ。

 憂が、そっと新郎の袖を引く。

「あ、あの……」

「はい?」

「結衣さんと……弟さん……あの……」

 言葉を選びきれず、視線だけで示す。

 新郎は一瞬そちらを見て、すぐに小さく息を漏らした。

「ああ……」

 どこか納得したように、穏やかに頷く。

「仲、いいでしょう?」

「い、いえ、それは……そうなんですけど……」

 憂は小声で続ける。

「……つ、付き合ってたんですか……?」

 新郎は、少しだけ困ったように笑った。

「正式に、というよりは……ようやく、素直に話せるようになった、という感じですね」

「え……?」

「結衣ちゃんも、いろいろあったみたいで」

 言い方はあくまで控えめ。
 それでも、その一言に含まれた察しの量は多い。

 憂は、はっとしてから、そっと視線を戻す。

 確かに、二人の笑顔は――
 無理をしている感じが、まるでない。

 新郎は、くすっと笑った。

「憂ちゃんのおかげですよ」

「わ、わたし、何もしてないです!」

「いいえ」

 穏やかな声で、はっきりと。

「あなたが場を作った。音を鳴らして、空気を緩めて――話せる余白を、ちゃんと残した」

 憂は、ぽかんとする。

「人って、きっかけがないと戻れないこともあるんです」

 そう言ってから、ちらりと二人を見る。

「……それに」

 ほんの少し、声を落として。

「俺の弟、分かりやすいでしょう?」

「……あ」

 確かに。
 結衣の話に、身を乗り出し気味で、完全に聞き役だ。

 憂は、思わず小さく吹き出した。

「……ほんとですね」

 新郎も、肩をすくめる。

「兄妹そろって、面倒な性格で」

「い、いえ……」

 憂は慌てて首を振る。

「……いいと思います」

 その言葉に、新郎は少しだけ目を細めた。

「そう言ってもらえると、兄としては助かります」

 遠くで、スタッフが合図を送る。

 ステージ準備、最終段階。

 新郎は静かに姿勢を正す。

 優しく、けれどはっきりと。

「さあ。新婦さんを、待たせてはいけませんね」

 憂は一度、結衣たちを見てから、小さく笑って頷いた。

「……はい」

 祝福は、音だけじゃなく――
 ちゃんと、人にも、届いていた。

遠くで、照明が落ちていく気配。

憂は一度だけ、胸の前で拳を握りしめる。

(大丈夫。今なら――歌える)

ステージへ向かう足取りは、
確かに、軽くなっていた。

遠くで、会場の照明がゆっくりと落ちていく気配がした。

憂は一度だけ、胸の前で拳を握りしめる。

ステージへ向かう足取りは、さっきより、ほんの少しだけ――
確かに、軽くなっていた。
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