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三月。
大学の講義も一段落し、街の空気がゆっくりと春へ向かい始めた頃。
マリーが、この家にいるようになったきっかけは、かなり強引だった。
「ねえ、お願い。この子、今ほんとに行くとこなくてさ」
そう言って、姉が半ば押しつけるように連れてきたのが始まりだった。
マリーは姉の親友。
フランス出身で、日本語は驚くほど自然。
背はすらりと高く、整った顔立ちをしているのに、笑うと少し幼さの残る表情になる、不思議な人だった。
初めて顔を合わせたとき、優は一瞬だけ言葉を失った。
――どこかで、会ったことがある気がする。
理由はわからない。
思い出そうとすると、そこだけ白く抜け落ちている。
それでも、声の響きや、視線の柔らかさが、
胸の奥をそっと揺らした。
「はじめまして、マリーです。しばらく……お世話になりますね」
その微笑みを見た瞬間、
初対面という言葉だけが、場違いに感じられた。
最初は、ただの同居人だった。
生活リズムは違い、距離感も慎重。
けれど、同じ空間にいることが、不思議と苦にならなかった。
夜遅く、キッチンで湯を沸かしながら交わす短い会話。
互いの作業を邪魔しない沈黙。
気づけば、言葉を交わさなくても、安心できる時間が増えていた。
――そして、ある夜。
制作がひと段落し、リビングの灯りを落としたあと。
窓の外では、春の風がカーテンを静かに揺らしている。
優は、しばらく迷ってから口を開いた。
「……マリー」
その名前を呼ぶだけで、胸が少し苦しくなる。
「最初から、ずっと思ってた。一緒にいると……落ち着くんだ。理由はうまく言えないけど……離れるのは、嫌だ。恋人として、ちゃんと向き合いたい。もし……嫌じゃなければ」
一瞬の沈黙。
マリーは驚いたように目を見開き、次の瞬間、ぽろりと涙をこぼした。
「……やっと、言ってくれた」
声は震えていたが、笑っていた。
「わたしね、ずっと待ってたの。優君が、自分から言ってくれるのを。年上だから、わたしから言ったらずるい気がして……でも、毎日一緒にいて、このまま何も言われなかったらどうしようって、内心、すごく不安だったの」
そう言って、涙を拭いながら、可愛らしく眉を下げる。
「だから……本当に、嬉しい」
マリーは一歩近づき、優をまっすぐ見つめた。
「わたしも、あなたといると安心する。昔から知ってる人みたいで……気づいたら、好きになってた。優君。わたし、あなたの恋人になりたい」
年上なのに、どこか甘えるような声音だった。
特別な演出も、派手な言葉もない。
けれど、その夜を境に、二人の関係は確かに変わった。
洗面所には、マリーのヘアケア用品。
キッチンには、彼女の選んだスパイス。
リビングには、制作道具が自然に並ぶ。
「居候」という言葉は、もう、どこにも当てはまらなくなっていた。
〇
――そして、いつものように大学から帰宅した日。
玄関を抜け、居間に足を踏み入れた瞬間、違和感が確信に変わる。
――静かすぎる。
棚はすっきりと整理され、いつもなら所狭しと並んでいるはずのキャンバスの山が――ない。
壁も、床も、妙に広い。
「……あれ?」
優は立ち止まり、辺りを見回した。
「他の絵は……?」
首を傾げる優に、マリーは少し照れたように微笑む。
「えっと……憂さんのお友達で、小鈴さんという方がいらして……」
嫌な予感が、じわっと背中を這い上がる。
「……小鈴さん?」
マリーは一瞬だけ間を置き、それから何でもないことのような口調で続けた。
「はい。とても優秀な方で……今年、東京大学に合格されたそうです」
「…………は?」
優は思わず声が裏返った。
「え、ちょっと待って。東京大学って……あの東大?」
「ええ。その東大です」
にこり、と穏やかにうなずくマリー。
「勉強もそうですけど、判断力と行動力が、少し……規格外で」
「そんなとんでもない人が、なんで俺の家に来たの……!?」
「はい。財閥のお嬢さまで、CDのジャケット用に、ぜひ絵を描いてほしいと、正式に依頼してくださいました」
「仕事としては、よくある話だね。でも、ちゃんと依頼が来るのは、やっぱりありがたいよ」
優がうなずいた、その直後。
マリーはさらっと続けた。
「それで、他の絵もすべて気に入ってくださって……全部、買い取ってくださいました」
「……全部?」
「はい」
「気に入った数点じゃなくて?」
「全部です」
「展示用だけ、とかじゃなく?」
「スケッチも含めて」
「……いや、ちょっと待って、この部屋にあった絵、何枚あると思ってる?」
「数えたら、四十点ほど……でしょうか」
「でしょうか、じゃない!!」
その瞬間、マリーは思い出したように付け加える。
「あと、数十人の黒服の方と料理人の方も一緒にいらして……」
「そこ重要情報だからもっと早く言って!!」
「晩までかけて、家の中を全部片付けてくださいました」
優は、改めて部屋を見渡す。
整いすぎている。
物が減ったというより、生活感という概念が駆逐されている。
「……これ、片付けってレベルじゃないよね?」
「制作に集中できる環境が必要だと」
「誰目線だよ!!依頼主が生活環境まで最適化するな!!」
優は一度深呼吸する。
「……で。値段の話になったよね?」
「はい」
「いくら?」
「紙に書いて、見せてくださいました」
「……正気を保てる数字だった?」
「……少し、多すぎる気がして」
「絶対アウトなやつだ!!」
「なので、そんなにいりませんって言ったんです」
優はほっとしかけた。
が。
「すると、小鈴さん……無言でサングラスをかけ直して」
「うわ、やる気スイッチ入った」
「もう一度、紙に書き直して」
「やめろ」
「ゼロを一つ、足しました」
「足すなぁぁぁ!!交渉って減らす工程だろ!!競り上げ方式じゃねぇんだよ!!」
優は頭を抱えた。
「なにその人……気に入ったから全力課金って、ソシャゲじゃないんだから……」
「とても真剣でした」
「真剣すぎて怖いんだって!!」
改めて部屋を見る。
絵がなくなった壁は、広く、静かで――
少しだけ、心細い。
「……で、その結果がこの空間?」
「はい。小鈴さんが余白は創作の味方ですよと」
「人生の余白まで削られそうなんだけど!?」
優はマリーを見る。
「なあ、マリー」
「はい?」
「その小鈴さんってさ……本当にCDジャケット頼みに来ただけの人だよな?裏で国家予算とか動かしてないよな?」
マリーは少し考え、にこりと微笑んだ。
「とても、音楽と絵が好きな方です」
「情報が優しすぎて逆に怖ぇよ……」
優のツッコミだけが、すっきりしすぎた部屋に、ぽつりと残った。
マリーは少し照れくさそうに肩をすくめる。
「えへへ……憂さんのお友達で、とても頼もしい方なんです」
――そして、キッチン。
そこには、明らかに本気の夕食が並んでいた。
艶やかなうな重。
揚げたての牡蠣フライに、レモンと自家製タルタル。
下処理完璧な豚レバー。
アスパラガスのバターソテー。
ネバネバ野菜のだし和え。
ブロッコリーとあさりのガーリック酒蒸し。
栄養、滋養、精力。
全部盛り。
マリーは少し視線を泳がせ、声を控えめにする。
「……それと、小鈴さんから伝言がありまして」
「嫌な予感しかしないんだけど」
優が即座に返すと、マリーは照れたように小さく笑った。
「夜は……仲良く、頑張ってくださいと」
一瞬、沈黙。
優は料理を一皿ずつ見回し、ゆっくりと理解が追いついていく。
言葉を選びながら、耳まで赤くなった。
「……あー……これ……全部、その……察しがつく用途を想定したラインナップ、だよね?」
マリーは否定せず、そっと頷く。
「栄養と体力と……あと、気分も大事だと」
「全部説明されると余計に恥ずかしいから!!」
優は思わず顔を覆った。
「なんで依頼主がそこまで面倒見いいんだよ……CDジャケットの話どこ行った……」
マリーは申し訳なさそうに、でも少しだけ楽しそうに言う。
「小鈴さんにとっては……わたしが憂さんのご家族に贈った誕生日の肖像画が、救いだったそうです。だから、憂さんを大切に思う気持ちのお返しとして、今度はわたしに恩返しをしたい、と」
優は、思わず息を呑む。
「……お返し、ってレベルじゃないだろ、それ」
マリーは困ったように、でも否定せず微笑んだ。
「はい。だからこそ、とても慎重で、とても誠実で……できることは、すべてしたい、と。とても真剣に、幸せを願っておられました」
「願いのスケールがでかすぎるんだって……!」
優は深く息を吐き、改めて料理を見つめる。
「……でも、まあ、ここまで用意されたら……ありがとうって言うしかないよね……」
マリーはくすっと笑い、そっと言った。
「はい。そういうことだと思います」
キッチンには、ガーリックの香りと、気まずさと、小鈴の余計に行き届いた気遣いが、静かに満ちていた。
その視線の先には、マリーが描いた油絵が壁に飾られていた。
虹を背景に、七人の魔法使いたちのキャラクターが整列している。
どこか2D調のタッチでありながら、表情や立ち姿にはそれぞれの「音」が宿っていた。
赤――ギターの姉御肌・理恵。
橙――ベースのお嬢様・秋香。
黄――ドラムのボーイッシュ・結衣。
緑――ボーカルで、やさしく歌う憂。
青――ピアノの貴婦人・小鈴。
藍――楽器は持たないが、料理人のような佇まいの破天荒・葉月。
紫――バイオリンのツンデレ・リナ。
優は、しばらく無言で絵を見つめていた。
「……これ、CDジャケット用に頼まれたんだよね?」
確認するように言うと、マリーは小さくうなずく。
「はい。小鈴さんがお願いしてくださいました。虹の背景で、七人のキャラクターを描いてほしいと」
優はもう一度、全体を眺める。
色の配置、視線の流れ、中央に置かれた虹のアーチ。
「……やっぱり、マリーの絵はすごいな」
ぽつりと漏れた本音だった。
マリーは少し照れたように頬を染め、それでも誇らしげに微笑む。
「でも、これは皆さんのおかげで完成できた絵です」
――と。
そこで、マリーは少し困ったような顔になり、思い出したように続けた。
「それと……小鈴さんから、もう一つお願いがありまして」
「……なに?」
「この絵を、ぜひ使わせてほしいと。それで……」
マリーは言いにくそうに、視線をそらす。
「お礼として、こちらを、と……」
そう言って差し出されたのは――
ずっしりと重そうな、小さなケース。
優が眉をひそめて開ける。
中身を見た瞬間。
「……金の延べ棒!?」
反射的に叫んだ。
鈍い黄金色が、キッチンの照明を反射している。
「いやいやいや!!CDジャケットの依頼で出てくる金の質量じゃないから!!」
マリーは慌てて両手を振る。
「わ、わたしは受け取っていません!あまりにも重すぎて……」
「重さの問題だけじゃない!!」
優は延べ棒と絵を見比べる。
「これ、トレカのトレードじゃないんだからね!?この一枚には希少カード相当の価値があるので金を積みますじゃないんだよ!!」
マリーは少し首を傾げる。
「……でも、小鈴さんは気に入った作品には、それ相応の敬意をと」
「敬意が物理的すぎるんだって!!国家保管庫にありそうな敬意だよそれ!!」
優は頭を抱えた。
「小鈴さんって人、お願い=等価交換って思考回路なの……」
キッチンには、料理の香りと、金属の鈍い輝きと、小鈴という存在の過剰な善意が、静かに満ちていた。
――しばしの沈黙。
優は、ふと何か思い当たったように、再び壁の絵へ視線を戻した。
七人の魔法使い。
虹の下で、それぞれの色と役割をまといながら並んでいる。
その中で――
緑の衣をまとい、やさしく歌うボーカルの少女。
「……なあ、マリー」
「はい?」
「さっきから、ちょっと気になってたんだけどさ」
優は腕を組み、憂の描かれた部分をじっと見つめる。
「この子……憂さんだけ、他より感情の密度が高くない?」
「密度、ですか?」
「うん。線の入り方も、色の重ね方も……なんていうか、描き込みの気合いが一段違う」
マリーは一瞬、言葉を探すように視線を泳がせてから、
小さくうなずいた。
「……実は」
やっぱりか、という顔で優が身構える。
「ジャケットのご依頼が終わったあと、小鈴さんから、もう一度だけ時間をいただきたいとお願いされまして」
「……もう一度?」
「はい。本当に描いてほしい絵が、もう一枚あると」
嫌な予感が、確信に変わる。
「それが?」
マリーは言葉の代わりに、そっと携帯を差し出した。
画面に映っていたのは、文化祭の日の一枚。
憂の衣装は、黒いワンピースに真っ白なフリルエプロン。
首元には小さな翡翠色のリボン。
少し緊張したのか、きれいに結ばれきらず、それでも本人は何度も整えたのだろう跡が残っている。
袖口のレースには細かな刺繍。
動くたびに揺れて、忙しなく働く彼女の手元を、そっと飾っていた。
背筋は伸びているのに、どこか落ち着かず、「失敗していないか」を確かめるような表情。
派手さはない。
でも、目が離せない。
それは――
誰かのために一生懸命でいようとする姿が、そのまま写り込んでしまった一枚だった。
「憂さんのお姉さんから小鈴さんに、憂さんのメイド服姿の画像を分けていただいたそうで……それを直接見て描くのではなく、そのとき心に残った印象だけを頼りに、肖像画にしてほしい、というお願いなんです」
数秒、完全に言葉を失う。
「………………は?」
「画像を見て描くのではなく、その場で感じた印象を、記憶から描いてほしいと」
「記憶から!?なんでそんな高度な芸術家ムーブを要求するの!?」
マリーは困ったように微笑む。
「あれは衣装ではなく、彼女の内面がいちばん自然に外へ出ていた瞬間だったと……」
優は頭を抱えた。
「分析が深すぎる!!」
「とても真剣に、お話しされていました」
「真剣すぎるんだよ!!」
優は天井を仰ぐ。
「……で?」
「はい?」
「その本当に描いてほしい一枚が、今回の一番の目的だったってこと?」
マリーは、こくりと頷いた。
「はい。ジャケットの絵は、その前提のお仕事だったようです」
「前座が豪華すぎるだろ!!」
優は料理、空っぽの壁、延べ棒のケースを順番に見回す。
「だから、絵を全部買い取って、部屋を片付けて、制作環境を整えて、
栄養満点の夕食まで用意して……」
小さく息を吸う。
「全部、憂さんのメイド肖像画のための布石?」
「そういうことだと思います」
「重い!!愛が、重力と質量を持ってる!!」
マリーは少しだけ申し訳なさそうに言った。
「でも……とても大切にされていました」
「そこは否定できないのが、また怖いんだよな……」
優は、もう一度、壁の絵を見る。
虹の下に並ぶ七人の魔法使い。
その中で、青の貴婦人――小鈴は、
どこか目的を果たしたような穏やかな微笑みを浮かべているようにも見えた。
優はため息混じりに言う。
「……やっぱこの人、CDジャケットの依頼主じゃなくて、スポンサー兼守護霊兼、熱心すぎるファン枠だよな」
マリーは、やさしく微笑んだ。
「とても心強い存在ですね」
「加護が過剰だけどね……」
キッチンには、料理の香りと、金の鈍い輝きと、一人の少女のメイド服姿が生んだ、想定外に大きな物語が、静かに満ちていた。
大学の講義も一段落し、街の空気がゆっくりと春へ向かい始めた頃。
マリーが、この家にいるようになったきっかけは、かなり強引だった。
「ねえ、お願い。この子、今ほんとに行くとこなくてさ」
そう言って、姉が半ば押しつけるように連れてきたのが始まりだった。
マリーは姉の親友。
フランス出身で、日本語は驚くほど自然。
背はすらりと高く、整った顔立ちをしているのに、笑うと少し幼さの残る表情になる、不思議な人だった。
初めて顔を合わせたとき、優は一瞬だけ言葉を失った。
――どこかで、会ったことがある気がする。
理由はわからない。
思い出そうとすると、そこだけ白く抜け落ちている。
それでも、声の響きや、視線の柔らかさが、
胸の奥をそっと揺らした。
「はじめまして、マリーです。しばらく……お世話になりますね」
その微笑みを見た瞬間、
初対面という言葉だけが、場違いに感じられた。
最初は、ただの同居人だった。
生活リズムは違い、距離感も慎重。
けれど、同じ空間にいることが、不思議と苦にならなかった。
夜遅く、キッチンで湯を沸かしながら交わす短い会話。
互いの作業を邪魔しない沈黙。
気づけば、言葉を交わさなくても、安心できる時間が増えていた。
――そして、ある夜。
制作がひと段落し、リビングの灯りを落としたあと。
窓の外では、春の風がカーテンを静かに揺らしている。
優は、しばらく迷ってから口を開いた。
「……マリー」
その名前を呼ぶだけで、胸が少し苦しくなる。
「最初から、ずっと思ってた。一緒にいると……落ち着くんだ。理由はうまく言えないけど……離れるのは、嫌だ。恋人として、ちゃんと向き合いたい。もし……嫌じゃなければ」
一瞬の沈黙。
マリーは驚いたように目を見開き、次の瞬間、ぽろりと涙をこぼした。
「……やっと、言ってくれた」
声は震えていたが、笑っていた。
「わたしね、ずっと待ってたの。優君が、自分から言ってくれるのを。年上だから、わたしから言ったらずるい気がして……でも、毎日一緒にいて、このまま何も言われなかったらどうしようって、内心、すごく不安だったの」
そう言って、涙を拭いながら、可愛らしく眉を下げる。
「だから……本当に、嬉しい」
マリーは一歩近づき、優をまっすぐ見つめた。
「わたしも、あなたといると安心する。昔から知ってる人みたいで……気づいたら、好きになってた。優君。わたし、あなたの恋人になりたい」
年上なのに、どこか甘えるような声音だった。
特別な演出も、派手な言葉もない。
けれど、その夜を境に、二人の関係は確かに変わった。
洗面所には、マリーのヘアケア用品。
キッチンには、彼女の選んだスパイス。
リビングには、制作道具が自然に並ぶ。
「居候」という言葉は、もう、どこにも当てはまらなくなっていた。
〇
――そして、いつものように大学から帰宅した日。
玄関を抜け、居間に足を踏み入れた瞬間、違和感が確信に変わる。
――静かすぎる。
棚はすっきりと整理され、いつもなら所狭しと並んでいるはずのキャンバスの山が――ない。
壁も、床も、妙に広い。
「……あれ?」
優は立ち止まり、辺りを見回した。
「他の絵は……?」
首を傾げる優に、マリーは少し照れたように微笑む。
「えっと……憂さんのお友達で、小鈴さんという方がいらして……」
嫌な予感が、じわっと背中を這い上がる。
「……小鈴さん?」
マリーは一瞬だけ間を置き、それから何でもないことのような口調で続けた。
「はい。とても優秀な方で……今年、東京大学に合格されたそうです」
「…………は?」
優は思わず声が裏返った。
「え、ちょっと待って。東京大学って……あの東大?」
「ええ。その東大です」
にこり、と穏やかにうなずくマリー。
「勉強もそうですけど、判断力と行動力が、少し……規格外で」
「そんなとんでもない人が、なんで俺の家に来たの……!?」
「はい。財閥のお嬢さまで、CDのジャケット用に、ぜひ絵を描いてほしいと、正式に依頼してくださいました」
「仕事としては、よくある話だね。でも、ちゃんと依頼が来るのは、やっぱりありがたいよ」
優がうなずいた、その直後。
マリーはさらっと続けた。
「それで、他の絵もすべて気に入ってくださって……全部、買い取ってくださいました」
「……全部?」
「はい」
「気に入った数点じゃなくて?」
「全部です」
「展示用だけ、とかじゃなく?」
「スケッチも含めて」
「……いや、ちょっと待って、この部屋にあった絵、何枚あると思ってる?」
「数えたら、四十点ほど……でしょうか」
「でしょうか、じゃない!!」
その瞬間、マリーは思い出したように付け加える。
「あと、数十人の黒服の方と料理人の方も一緒にいらして……」
「そこ重要情報だからもっと早く言って!!」
「晩までかけて、家の中を全部片付けてくださいました」
優は、改めて部屋を見渡す。
整いすぎている。
物が減ったというより、生活感という概念が駆逐されている。
「……これ、片付けってレベルじゃないよね?」
「制作に集中できる環境が必要だと」
「誰目線だよ!!依頼主が生活環境まで最適化するな!!」
優は一度深呼吸する。
「……で。値段の話になったよね?」
「はい」
「いくら?」
「紙に書いて、見せてくださいました」
「……正気を保てる数字だった?」
「……少し、多すぎる気がして」
「絶対アウトなやつだ!!」
「なので、そんなにいりませんって言ったんです」
優はほっとしかけた。
が。
「すると、小鈴さん……無言でサングラスをかけ直して」
「うわ、やる気スイッチ入った」
「もう一度、紙に書き直して」
「やめろ」
「ゼロを一つ、足しました」
「足すなぁぁぁ!!交渉って減らす工程だろ!!競り上げ方式じゃねぇんだよ!!」
優は頭を抱えた。
「なにその人……気に入ったから全力課金って、ソシャゲじゃないんだから……」
「とても真剣でした」
「真剣すぎて怖いんだって!!」
改めて部屋を見る。
絵がなくなった壁は、広く、静かで――
少しだけ、心細い。
「……で、その結果がこの空間?」
「はい。小鈴さんが余白は創作の味方ですよと」
「人生の余白まで削られそうなんだけど!?」
優はマリーを見る。
「なあ、マリー」
「はい?」
「その小鈴さんってさ……本当にCDジャケット頼みに来ただけの人だよな?裏で国家予算とか動かしてないよな?」
マリーは少し考え、にこりと微笑んだ。
「とても、音楽と絵が好きな方です」
「情報が優しすぎて逆に怖ぇよ……」
優のツッコミだけが、すっきりしすぎた部屋に、ぽつりと残った。
マリーは少し照れくさそうに肩をすくめる。
「えへへ……憂さんのお友達で、とても頼もしい方なんです」
――そして、キッチン。
そこには、明らかに本気の夕食が並んでいた。
艶やかなうな重。
揚げたての牡蠣フライに、レモンと自家製タルタル。
下処理完璧な豚レバー。
アスパラガスのバターソテー。
ネバネバ野菜のだし和え。
ブロッコリーとあさりのガーリック酒蒸し。
栄養、滋養、精力。
全部盛り。
マリーは少し視線を泳がせ、声を控えめにする。
「……それと、小鈴さんから伝言がありまして」
「嫌な予感しかしないんだけど」
優が即座に返すと、マリーは照れたように小さく笑った。
「夜は……仲良く、頑張ってくださいと」
一瞬、沈黙。
優は料理を一皿ずつ見回し、ゆっくりと理解が追いついていく。
言葉を選びながら、耳まで赤くなった。
「……あー……これ……全部、その……察しがつく用途を想定したラインナップ、だよね?」
マリーは否定せず、そっと頷く。
「栄養と体力と……あと、気分も大事だと」
「全部説明されると余計に恥ずかしいから!!」
優は思わず顔を覆った。
「なんで依頼主がそこまで面倒見いいんだよ……CDジャケットの話どこ行った……」
マリーは申し訳なさそうに、でも少しだけ楽しそうに言う。
「小鈴さんにとっては……わたしが憂さんのご家族に贈った誕生日の肖像画が、救いだったそうです。だから、憂さんを大切に思う気持ちのお返しとして、今度はわたしに恩返しをしたい、と」
優は、思わず息を呑む。
「……お返し、ってレベルじゃないだろ、それ」
マリーは困ったように、でも否定せず微笑んだ。
「はい。だからこそ、とても慎重で、とても誠実で……できることは、すべてしたい、と。とても真剣に、幸せを願っておられました」
「願いのスケールがでかすぎるんだって……!」
優は深く息を吐き、改めて料理を見つめる。
「……でも、まあ、ここまで用意されたら……ありがとうって言うしかないよね……」
マリーはくすっと笑い、そっと言った。
「はい。そういうことだと思います」
キッチンには、ガーリックの香りと、気まずさと、小鈴の余計に行き届いた気遣いが、静かに満ちていた。
その視線の先には、マリーが描いた油絵が壁に飾られていた。
虹を背景に、七人の魔法使いたちのキャラクターが整列している。
どこか2D調のタッチでありながら、表情や立ち姿にはそれぞれの「音」が宿っていた。
赤――ギターの姉御肌・理恵。
橙――ベースのお嬢様・秋香。
黄――ドラムのボーイッシュ・結衣。
緑――ボーカルで、やさしく歌う憂。
青――ピアノの貴婦人・小鈴。
藍――楽器は持たないが、料理人のような佇まいの破天荒・葉月。
紫――バイオリンのツンデレ・リナ。
優は、しばらく無言で絵を見つめていた。
「……これ、CDジャケット用に頼まれたんだよね?」
確認するように言うと、マリーは小さくうなずく。
「はい。小鈴さんがお願いしてくださいました。虹の背景で、七人のキャラクターを描いてほしいと」
優はもう一度、全体を眺める。
色の配置、視線の流れ、中央に置かれた虹のアーチ。
「……やっぱり、マリーの絵はすごいな」
ぽつりと漏れた本音だった。
マリーは少し照れたように頬を染め、それでも誇らしげに微笑む。
「でも、これは皆さんのおかげで完成できた絵です」
――と。
そこで、マリーは少し困ったような顔になり、思い出したように続けた。
「それと……小鈴さんから、もう一つお願いがありまして」
「……なに?」
「この絵を、ぜひ使わせてほしいと。それで……」
マリーは言いにくそうに、視線をそらす。
「お礼として、こちらを、と……」
そう言って差し出されたのは――
ずっしりと重そうな、小さなケース。
優が眉をひそめて開ける。
中身を見た瞬間。
「……金の延べ棒!?」
反射的に叫んだ。
鈍い黄金色が、キッチンの照明を反射している。
「いやいやいや!!CDジャケットの依頼で出てくる金の質量じゃないから!!」
マリーは慌てて両手を振る。
「わ、わたしは受け取っていません!あまりにも重すぎて……」
「重さの問題だけじゃない!!」
優は延べ棒と絵を見比べる。
「これ、トレカのトレードじゃないんだからね!?この一枚には希少カード相当の価値があるので金を積みますじゃないんだよ!!」
マリーは少し首を傾げる。
「……でも、小鈴さんは気に入った作品には、それ相応の敬意をと」
「敬意が物理的すぎるんだって!!国家保管庫にありそうな敬意だよそれ!!」
優は頭を抱えた。
「小鈴さんって人、お願い=等価交換って思考回路なの……」
キッチンには、料理の香りと、金属の鈍い輝きと、小鈴という存在の過剰な善意が、静かに満ちていた。
――しばしの沈黙。
優は、ふと何か思い当たったように、再び壁の絵へ視線を戻した。
七人の魔法使い。
虹の下で、それぞれの色と役割をまといながら並んでいる。
その中で――
緑の衣をまとい、やさしく歌うボーカルの少女。
「……なあ、マリー」
「はい?」
「さっきから、ちょっと気になってたんだけどさ」
優は腕を組み、憂の描かれた部分をじっと見つめる。
「この子……憂さんだけ、他より感情の密度が高くない?」
「密度、ですか?」
「うん。線の入り方も、色の重ね方も……なんていうか、描き込みの気合いが一段違う」
マリーは一瞬、言葉を探すように視線を泳がせてから、
小さくうなずいた。
「……実は」
やっぱりか、という顔で優が身構える。
「ジャケットのご依頼が終わったあと、小鈴さんから、もう一度だけ時間をいただきたいとお願いされまして」
「……もう一度?」
「はい。本当に描いてほしい絵が、もう一枚あると」
嫌な予感が、確信に変わる。
「それが?」
マリーは言葉の代わりに、そっと携帯を差し出した。
画面に映っていたのは、文化祭の日の一枚。
憂の衣装は、黒いワンピースに真っ白なフリルエプロン。
首元には小さな翡翠色のリボン。
少し緊張したのか、きれいに結ばれきらず、それでも本人は何度も整えたのだろう跡が残っている。
袖口のレースには細かな刺繍。
動くたびに揺れて、忙しなく働く彼女の手元を、そっと飾っていた。
背筋は伸びているのに、どこか落ち着かず、「失敗していないか」を確かめるような表情。
派手さはない。
でも、目が離せない。
それは――
誰かのために一生懸命でいようとする姿が、そのまま写り込んでしまった一枚だった。
「憂さんのお姉さんから小鈴さんに、憂さんのメイド服姿の画像を分けていただいたそうで……それを直接見て描くのではなく、そのとき心に残った印象だけを頼りに、肖像画にしてほしい、というお願いなんです」
数秒、完全に言葉を失う。
「………………は?」
「画像を見て描くのではなく、その場で感じた印象を、記憶から描いてほしいと」
「記憶から!?なんでそんな高度な芸術家ムーブを要求するの!?」
マリーは困ったように微笑む。
「あれは衣装ではなく、彼女の内面がいちばん自然に外へ出ていた瞬間だったと……」
優は頭を抱えた。
「分析が深すぎる!!」
「とても真剣に、お話しされていました」
「真剣すぎるんだよ!!」
優は天井を仰ぐ。
「……で?」
「はい?」
「その本当に描いてほしい一枚が、今回の一番の目的だったってこと?」
マリーは、こくりと頷いた。
「はい。ジャケットの絵は、その前提のお仕事だったようです」
「前座が豪華すぎるだろ!!」
優は料理、空っぽの壁、延べ棒のケースを順番に見回す。
「だから、絵を全部買い取って、部屋を片付けて、制作環境を整えて、
栄養満点の夕食まで用意して……」
小さく息を吸う。
「全部、憂さんのメイド肖像画のための布石?」
「そういうことだと思います」
「重い!!愛が、重力と質量を持ってる!!」
マリーは少しだけ申し訳なさそうに言った。
「でも……とても大切にされていました」
「そこは否定できないのが、また怖いんだよな……」
優は、もう一度、壁の絵を見る。
虹の下に並ぶ七人の魔法使い。
その中で、青の貴婦人――小鈴は、
どこか目的を果たしたような穏やかな微笑みを浮かべているようにも見えた。
優はため息混じりに言う。
「……やっぱこの人、CDジャケットの依頼主じゃなくて、スポンサー兼守護霊兼、熱心すぎるファン枠だよな」
マリーは、やさしく微笑んだ。
「とても心強い存在ですね」
「加護が過剰だけどね……」
キッチンには、料理の香りと、金の鈍い輝きと、一人の少女のメイド服姿が生んだ、想定外に大きな物語が、静かに満ちていた。
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