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35話 憂の進路
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憂は赤ちゃんの小さな手をそっと見つめながら、
ぽつりと、でもはっきりと言った。
「……あの、理恵さん、旦那さん。ちょっと……大事な話、いいですか?」
理恵が赤ちゃんを抱いたまま、軽く眉を上げる。
「なんだよ。急に改まって」
旦那も穏やかな表情のまま、視線を憂に向ける。
憂は一度深呼吸をして、言葉を紡ぎ始めた。
「……わたし、東大、受けるの……やめようかと思ってます」
病室に、静かな沈黙が落ちた。
理恵の目が、わずかに見開かれる。
少しの間、何も言わずに憂を見つめてから、低く、落ち着いた声で口を開いた。
「……それ、医者になるために無理して決めた進路を、やめるって意味で言ってるんだな? お母さんの記憶を戻したくて。治せる医者になりたいって、自分に言い聞かせて……限界まで背伸びしてたんだろ?」
憂は唇を噛みしめ、小さくうなずく。
「……はい。なりたいって気持ちより、ならなきゃって思いのほうが、ずっと大きかったんです」
理恵は、ふっと短く息を吐いた。
「……やっぱりな」
憂は俯きながら、指を絡めて続ける。
「はい、ずっと考えてて……わたし、本当は、通訳の仕事がしたいんです。世界の人たちの言葉をつないで、国とか立場を越えて、ちゃんと想いを伝える仕事。それなら、地元の大学で語学を徹底的に学びながら、大阪にいながら実力をつけて、いつか世界で通用する通訳士になれるんじゃないかって……」
理恵は赤ちゃんをあやす手を止めず、少しだけ視線を逸らしたまま続ける。
苛立っているようでいて、その声はどこか柔らかい。
「お前さ、東大だの、世界だのって話になると、急に全部一人で背負おうとするだろ」
憂は何も言えず、黙って聞いている。
「地元に残るのも、近くで力をつけるのも……別に、悪い選択じゃねぇよ」
そう言ってから、理恵は一度だけ憂のほうを見る。
「……正直に言えよ。葉月と母親、離れ離れになるのが嫌なんだろ?」
憂の肩が、わずかに揺れた。
一瞬だけ視線を逸らしてから、ぎゅっと唇を結び――
それから、ようやく小さな声で言った。
「葉月姉のこと、ずっと……大好きです。正直、わたしの方が……シスコンかもしれないって、思ってます」
理恵は小さく息を吐く。
「大事な人のそばにいたいって思うのは、逃げでも甘えでもねぇ。それを理由に、自分の人生を決めるのも――立派な覚悟だ」
赤ちゃんの背中を、優しくとん、と叩きながら続ける。
「世界に出るのは、今じゃなくてもいい。行きたくなったら、その時に行けばいいんだよ」
理恵は、ぶっきらぼうに言い切った。
「だから……今の選択が、お前にとって一番大事なもんを守れるなら、それでいいんじゃねぇか」
でも、その声には怒りより、どこか照れと嬉しさが混じっていた。
赤ちゃんが、ちょうどそのタイミングで泣き止み、小さな手で理恵の指をぎゅっと握った。
病室に、再び柔らかな静けさが訪れる。
旦那が静かに口を開いた。
「憂さん。もし、その道を選ぶなら……二条家が全面的にバックアップします」
憂の目がぱっと見開かれる。
「え、えええぇぇ――!?」
旦那は穏やかに微笑んだまま、淡々と言った。
「憂さんが通訳を目指すなら……正面から努力する道は、もちろん尊重します。ただ、その努力が遠回りにならないよう、国際会議の現場、要人対応の研修、語学実績として名前が残る案件――こちらから話を通しておきます。まだ何も決めていなくても構いません。選んだ瞬間に、席が空いている状態にしておくだけです」
にこやかだが、逃げ道を塞ぐ言葉が続く。
憂は慌てて両手を振る。
「ちょ、ちょっと! 外堀埋めないでくださいよ~!まだ何も決まってないのに、そんなに本気で言われると……プレッシャーすごいです!」
理恵がくすっと笑う。
「この野郎、完全に仕事モード入っちゃってるからな。肩書きと人脈総動員して、
裏から話通して、正攻法じゃなくて、大人の汚ぇ近道ってやつだな。でも……まあ、悪くねぇ話」
「……ありがとうございます。でも、わたし……自分の力で、ちゃんと決めたいんです。地元で、ゆっくり、自分の言葉で、誰かの物語を届ける仕事がしたい。それが、今のわたしに一番合ってる……そう思います。」
理恵は赤ちゃんの頭を優しく撫でながら、ふっと息を吐く。
「……ったく。お前らしいな」
旦那が微笑む。
「そうだね。焦らせるつもりはないよ。ただ……どんな道を選んでも、ここはいつでも、憂さんの帰る場所だから」
憂は赤ちゃんの小さなあくびを見つめながら、小さく、でもはっきりとうなずいた。
「……はい。ありがとうございます。ちゃんと、考えて……決めます」
そう言ってうなずいた憂の声は、まだ少し震えていた。
けれど、その表情はどこか晴れている。
赤ちゃんが、ふいに「ふにゃ」と小さな声を立てた。
憂は思わず目を細める。
「……あ」
赤ちゃんの指が、今度は憂の袖をつかんでいた。
頼りない力なのに、離す気配はない。
理恵がそれを見て、鼻で笑う。
「ほらな。もう一人、離れるなって言ってるぞ」
憂は慌てて身を乗り出し、赤ちゃんの手をそっと包んだ。
「ちょ、ちょっと……そんな、勝手に決めないでよ……」
言いながらも、指先に込める力は優しい。
旦那がその様子を見て、静かに笑った。
「どうやら、この家で一番発言力があるのは、この子かもしれないね」
「やめてくださいよ……進路まで赤ちゃんに決められるとか……」
そう言いつつ、憂は赤ちゃんの小さな手を離さなかった。
理恵は肩をすくめる。
「ま、いいじゃねぇか。世界だろうが、地元だろうが、お前が戻ってくる場所は決まってる」
赤ちゃんの頭を、もう一度、軽く撫でる。
赤ちゃんは答える代わりに、また小さなあくびをひとつして、そのまま憂の指を握ったまま眠りに落ちた。
憂は赤ちゃんの小さな手を見つめて、そっと声を落とした。
「……もう。そんなふうに引き止めるなんて……強引なとこ、お母さんに似ちゃったのかなー。ほんと、困るんだけど」
そう言いながら、その声音は驚くほど柔らかい。
赤ちゃんは何も知らずに、すう、と寝息を立てる。
憂はその寝顔に、そっと微笑んだ。
理恵は、照れ隠しのようにそっぽを向いた。
「うるせぇ。それでいいんだよ」
病室の窓の外では、夕方の光がゆっくりと色を変えていく。
大きな夢も、迷いも、覚悟も、全部まだ途中だ。
けれど――
この場所に戻れば、必ず誰かが、手を伸ばしてくれる。
その確信だけを胸に、憂は赤ちゃんの小さな温もりを感じながら、静かに目を閉じた。
ここから先の未来は、まだ、何色にもなれる。
そしてそれを、この家族は――
少し不器用に、でも確かに、見守っていくのだった。
ぽつりと、でもはっきりと言った。
「……あの、理恵さん、旦那さん。ちょっと……大事な話、いいですか?」
理恵が赤ちゃんを抱いたまま、軽く眉を上げる。
「なんだよ。急に改まって」
旦那も穏やかな表情のまま、視線を憂に向ける。
憂は一度深呼吸をして、言葉を紡ぎ始めた。
「……わたし、東大、受けるの……やめようかと思ってます」
病室に、静かな沈黙が落ちた。
理恵の目が、わずかに見開かれる。
少しの間、何も言わずに憂を見つめてから、低く、落ち着いた声で口を開いた。
「……それ、医者になるために無理して決めた進路を、やめるって意味で言ってるんだな? お母さんの記憶を戻したくて。治せる医者になりたいって、自分に言い聞かせて……限界まで背伸びしてたんだろ?」
憂は唇を噛みしめ、小さくうなずく。
「……はい。なりたいって気持ちより、ならなきゃって思いのほうが、ずっと大きかったんです」
理恵は、ふっと短く息を吐いた。
「……やっぱりな」
憂は俯きながら、指を絡めて続ける。
「はい、ずっと考えてて……わたし、本当は、通訳の仕事がしたいんです。世界の人たちの言葉をつないで、国とか立場を越えて、ちゃんと想いを伝える仕事。それなら、地元の大学で語学を徹底的に学びながら、大阪にいながら実力をつけて、いつか世界で通用する通訳士になれるんじゃないかって……」
理恵は赤ちゃんをあやす手を止めず、少しだけ視線を逸らしたまま続ける。
苛立っているようでいて、その声はどこか柔らかい。
「お前さ、東大だの、世界だのって話になると、急に全部一人で背負おうとするだろ」
憂は何も言えず、黙って聞いている。
「地元に残るのも、近くで力をつけるのも……別に、悪い選択じゃねぇよ」
そう言ってから、理恵は一度だけ憂のほうを見る。
「……正直に言えよ。葉月と母親、離れ離れになるのが嫌なんだろ?」
憂の肩が、わずかに揺れた。
一瞬だけ視線を逸らしてから、ぎゅっと唇を結び――
それから、ようやく小さな声で言った。
「葉月姉のこと、ずっと……大好きです。正直、わたしの方が……シスコンかもしれないって、思ってます」
理恵は小さく息を吐く。
「大事な人のそばにいたいって思うのは、逃げでも甘えでもねぇ。それを理由に、自分の人生を決めるのも――立派な覚悟だ」
赤ちゃんの背中を、優しくとん、と叩きながら続ける。
「世界に出るのは、今じゃなくてもいい。行きたくなったら、その時に行けばいいんだよ」
理恵は、ぶっきらぼうに言い切った。
「だから……今の選択が、お前にとって一番大事なもんを守れるなら、それでいいんじゃねぇか」
でも、その声には怒りより、どこか照れと嬉しさが混じっていた。
赤ちゃんが、ちょうどそのタイミングで泣き止み、小さな手で理恵の指をぎゅっと握った。
病室に、再び柔らかな静けさが訪れる。
旦那が静かに口を開いた。
「憂さん。もし、その道を選ぶなら……二条家が全面的にバックアップします」
憂の目がぱっと見開かれる。
「え、えええぇぇ――!?」
旦那は穏やかに微笑んだまま、淡々と言った。
「憂さんが通訳を目指すなら……正面から努力する道は、もちろん尊重します。ただ、その努力が遠回りにならないよう、国際会議の現場、要人対応の研修、語学実績として名前が残る案件――こちらから話を通しておきます。まだ何も決めていなくても構いません。選んだ瞬間に、席が空いている状態にしておくだけです」
にこやかだが、逃げ道を塞ぐ言葉が続く。
憂は慌てて両手を振る。
「ちょ、ちょっと! 外堀埋めないでくださいよ~!まだ何も決まってないのに、そんなに本気で言われると……プレッシャーすごいです!」
理恵がくすっと笑う。
「この野郎、完全に仕事モード入っちゃってるからな。肩書きと人脈総動員して、
裏から話通して、正攻法じゃなくて、大人の汚ぇ近道ってやつだな。でも……まあ、悪くねぇ話」
「……ありがとうございます。でも、わたし……自分の力で、ちゃんと決めたいんです。地元で、ゆっくり、自分の言葉で、誰かの物語を届ける仕事がしたい。それが、今のわたしに一番合ってる……そう思います。」
理恵は赤ちゃんの頭を優しく撫でながら、ふっと息を吐く。
「……ったく。お前らしいな」
旦那が微笑む。
「そうだね。焦らせるつもりはないよ。ただ……どんな道を選んでも、ここはいつでも、憂さんの帰る場所だから」
憂は赤ちゃんの小さなあくびを見つめながら、小さく、でもはっきりとうなずいた。
「……はい。ありがとうございます。ちゃんと、考えて……決めます」
そう言ってうなずいた憂の声は、まだ少し震えていた。
けれど、その表情はどこか晴れている。
赤ちゃんが、ふいに「ふにゃ」と小さな声を立てた。
憂は思わず目を細める。
「……あ」
赤ちゃんの指が、今度は憂の袖をつかんでいた。
頼りない力なのに、離す気配はない。
理恵がそれを見て、鼻で笑う。
「ほらな。もう一人、離れるなって言ってるぞ」
憂は慌てて身を乗り出し、赤ちゃんの手をそっと包んだ。
「ちょ、ちょっと……そんな、勝手に決めないでよ……」
言いながらも、指先に込める力は優しい。
旦那がその様子を見て、静かに笑った。
「どうやら、この家で一番発言力があるのは、この子かもしれないね」
「やめてくださいよ……進路まで赤ちゃんに決められるとか……」
そう言いつつ、憂は赤ちゃんの小さな手を離さなかった。
理恵は肩をすくめる。
「ま、いいじゃねぇか。世界だろうが、地元だろうが、お前が戻ってくる場所は決まってる」
赤ちゃんの頭を、もう一度、軽く撫でる。
赤ちゃんは答える代わりに、また小さなあくびをひとつして、そのまま憂の指を握ったまま眠りに落ちた。
憂は赤ちゃんの小さな手を見つめて、そっと声を落とした。
「……もう。そんなふうに引き止めるなんて……強引なとこ、お母さんに似ちゃったのかなー。ほんと、困るんだけど」
そう言いながら、その声音は驚くほど柔らかい。
赤ちゃんは何も知らずに、すう、と寝息を立てる。
憂はその寝顔に、そっと微笑んだ。
理恵は、照れ隠しのようにそっぽを向いた。
「うるせぇ。それでいいんだよ」
病室の窓の外では、夕方の光がゆっくりと色を変えていく。
大きな夢も、迷いも、覚悟も、全部まだ途中だ。
けれど――
この場所に戻れば、必ず誰かが、手を伸ばしてくれる。
その確信だけを胸に、憂は赤ちゃんの小さな温もりを感じながら、静かに目を閉じた。
ここから先の未来は、まだ、何色にもなれる。
そしてそれを、この家族は――
少し不器用に、でも確かに、見守っていくのだった。
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