沈黙のういザード 

豚さん

文字の大きさ
254 / 255

35話 憂の進路

しおりを挟む
憂は赤ちゃんの小さな手をそっと見つめながら、
ぽつりと、でもはっきりと言った。

「……あの、理恵さん、旦那さん。ちょっと……大事な話、いいですか?」

理恵が赤ちゃんを抱いたまま、軽く眉を上げる。

「なんだよ。急に改まって」

旦那も穏やかな表情のまま、視線を憂に向ける。

憂は一度深呼吸をして、言葉を紡ぎ始めた。

「……わたし、東大、受けるの……やめようかと思ってます」

病室に、静かな沈黙が落ちた。
理恵の目が、わずかに見開かれる。

少しの間、何も言わずに憂を見つめてから、低く、落ち着いた声で口を開いた。

「……それ、医者になるために無理して決めた進路を、やめるって意味で言ってるんだな? お母さんの記憶を戻したくて。治せる医者になりたいって、自分に言い聞かせて……限界まで背伸びしてたんだろ?」

憂は唇を噛みしめ、小さくうなずく。

「……はい。なりたいって気持ちより、ならなきゃって思いのほうが、ずっと大きかったんです」

理恵は、ふっと短く息を吐いた。

「……やっぱりな」

憂は俯きながら、指を絡めて続ける。

「はい、ずっと考えてて……わたし、本当は、通訳の仕事がしたいんです。世界の人たちの言葉をつないで、国とか立場を越えて、ちゃんと想いを伝える仕事。それなら、地元の大学で語学を徹底的に学びながら、大阪にいながら実力をつけて、いつか世界で通用する通訳士になれるんじゃないかって……」

理恵は赤ちゃんをあやす手を止めず、少しだけ視線を逸らしたまま続ける。
苛立っているようでいて、その声はどこか柔らかい。

「お前さ、東大だの、世界だのって話になると、急に全部一人で背負おうとするだろ」

憂は何も言えず、黙って聞いている。

「地元に残るのも、近くで力をつけるのも……別に、悪い選択じゃねぇよ」

そう言ってから、理恵は一度だけ憂のほうを見る。

「……正直に言えよ。葉月と母親、離れ離れになるのが嫌なんだろ?」

憂の肩が、わずかに揺れた。
一瞬だけ視線を逸らしてから、ぎゅっと唇を結び――
それから、ようやく小さな声で言った。

「葉月姉のこと、ずっと……大好きです。正直、わたしの方が……シスコンかもしれないって、思ってます」

理恵は小さく息を吐く。

「大事な人のそばにいたいって思うのは、逃げでも甘えでもねぇ。それを理由に、自分の人生を決めるのも――立派な覚悟だ」

赤ちゃんの背中を、優しくとん、と叩きながら続ける。

「世界に出るのは、今じゃなくてもいい。行きたくなったら、その時に行けばいいんだよ」

理恵は、ぶっきらぼうに言い切った。

「だから……今の選択が、お前にとって一番大事なもんを守れるなら、それでいいんじゃねぇか」

でも、その声には怒りより、どこか照れと嬉しさが混じっていた。

赤ちゃんが、ちょうどそのタイミングで泣き止み、小さな手で理恵の指をぎゅっと握った。
病室に、再び柔らかな静けさが訪れる。

旦那が静かに口を開いた。

「憂さん。もし、その道を選ぶなら……二条家が全面的にバックアップします」

憂の目がぱっと見開かれる。

「え、えええぇぇ――!?」

旦那は穏やかに微笑んだまま、淡々と言った。

「憂さんが通訳を目指すなら……正面から努力する道は、もちろん尊重します。ただ、その努力が遠回りにならないよう、国際会議の現場、要人対応の研修、語学実績として名前が残る案件――こちらから話を通しておきます。まだ何も決めていなくても構いません。選んだ瞬間に、席が空いている状態にしておくだけです」

にこやかだが、逃げ道を塞ぐ言葉が続く。

憂は慌てて両手を振る。

「ちょ、ちょっと! 外堀埋めないでくださいよ~!まだ何も決まってないのに、そんなに本気で言われると……プレッシャーすごいです!」

理恵がくすっと笑う。

「この野郎、完全に仕事モード入っちゃってるからな。肩書きと人脈総動員して、
裏から話通して、正攻法じゃなくて、大人の汚ぇ近道ってやつだな。でも……まあ、悪くねぇ話」

「……ありがとうございます。でも、わたし……自分の力で、ちゃんと決めたいんです。地元で、ゆっくり、自分の言葉で、誰かの物語を届ける仕事がしたい。それが、今のわたしに一番合ってる……そう思います。」

理恵は赤ちゃんの頭を優しく撫でながら、ふっと息を吐く。

「……ったく。お前らしいな」

旦那が微笑む。

「そうだね。焦らせるつもりはないよ。ただ……どんな道を選んでも、ここはいつでも、憂さんの帰る場所だから」

憂は赤ちゃんの小さなあくびを見つめながら、小さく、でもはっきりとうなずいた。

「……はい。ありがとうございます。ちゃんと、考えて……決めます」

そう言ってうなずいた憂の声は、まだ少し震えていた。
けれど、その表情はどこか晴れている。

赤ちゃんが、ふいに「ふにゃ」と小さな声を立てた。
憂は思わず目を細める。

「……あ」

赤ちゃんの指が、今度は憂の袖をつかんでいた。
頼りない力なのに、離す気配はない。

理恵がそれを見て、鼻で笑う。

「ほらな。もう一人、離れるなって言ってるぞ」

憂は慌てて身を乗り出し、赤ちゃんの手をそっと包んだ。

「ちょ、ちょっと……そんな、勝手に決めないでよ……」

言いながらも、指先に込める力は優しい。

旦那がその様子を見て、静かに笑った。

「どうやら、この家で一番発言力があるのは、この子かもしれないね」

「やめてくださいよ……進路まで赤ちゃんに決められるとか……」

そう言いつつ、憂は赤ちゃんの小さな手を離さなかった。

理恵は肩をすくめる。

「ま、いいじゃねぇか。世界だろうが、地元だろうが、お前が戻ってくる場所は決まってる」

赤ちゃんの頭を、もう一度、軽く撫でる。

赤ちゃんは答える代わりに、また小さなあくびをひとつして、そのまま憂の指を握ったまま眠りに落ちた。

憂は赤ちゃんの小さな手を見つめて、そっと声を落とした。

「……もう。そんなふうに引き止めるなんて……強引なとこ、お母さんに似ちゃったのかなー。ほんと、困るんだけど」

そう言いながら、その声音は驚くほど柔らかい。

赤ちゃんは何も知らずに、すう、と寝息を立てる。
憂はその寝顔に、そっと微笑んだ。

理恵は、照れ隠しのようにそっぽを向いた。

「うるせぇ。それでいいんだよ」

病室の窓の外では、夕方の光がゆっくりと色を変えていく。

大きな夢も、迷いも、覚悟も、全部まだ途中だ。

けれど――
この場所に戻れば、必ず誰かが、手を伸ばしてくれる。

その確信だけを胸に、憂は赤ちゃんの小さな温もりを感じながら、静かに目を閉じた。

ここから先の未来は、まだ、何色にもなれる。

そしてそれを、この家族は――
少し不器用に、でも確かに、見守っていくのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について

沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。 かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。 しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。 現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。 その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。 「今日から私、あなたのメイドになります!」 なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!? 謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける! カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...