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26話 9月29日
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9月29日、金曜日の夜。
二条家の地下室スタジオに、静かな熱気が漂っていた。外は夜の帳に包まれ、遠くの街灯の光がちらつくだけ。
だが地下室の中は、別世界のような緊張と熱意で満ちていた。
憂にはまだ内緒で、全員がここに集められていた。
目的はただ一つ――憂のお願いのための、地獄のような音楽合宿。
予定外の強行スケジュールではあったが、誰も文句は言わない。
憂のためなら、どんな苦痛も受け入れる覚悟があった。
地下室スタジオの扉を閉めると、外の静けさとは別世界の熱気が広がった。
壁は防音パネルで覆われ、LED調光の天井が練習に合わせて淡く光を落とす。
床は振動を抑えたフローリング。
奥にはソファセットや冷蔵庫、簡易キッチンまで備えられ、豪華さと実用性を兼ね備えている。
理恵にとっても、このスタジオは特別な場所である。
二条家に嫁いで以来、仕事の合間や思索の時間に、静かに楽器と向き合うためのいこいの場として、何度も足を運んできた。
だからこそ、この場所の空気や響き、光の加減には、誰よりも詳しい自信がある――練習を仕切る立場としても、そして自分の心を落ち着ける場所としても、この地下室は理恵の「居場所」なのだった。
理恵は譜面を手にギターを肩にかけ、メンバーの顔を冷徹に見渡した。
妊娠初期とは思えぬ威圧感で、空気は張り詰める。
「皆、準備はいい?」
「は、はい……!」
小鈴はピアノの前で背筋を伸ばし、気品ある声で答える。
「……ふふ、心得ておりますわ」
秋香はベースを抱え、にこやかに微笑む。
「まあまあまあ、この設備で練習できるのに、厳しいとは……贅沢な悩みですわね」
「僕の手首、もう限界だよ……」
結衣はドラムスティックを握る手を休め、額の汗を拭った。
「リナ、また最初から通すぞ」
「……は、はい、先輩……」
リナは背を丸めた。技術的にはプロ級だ。
だが、OBである理恵の眼差しは冷たく、鋭利で、心臓を締めつける。
「怖い……でも、ここで手を抜けない」
心の奥で震えながら弓を握り直す。
理恵は譜面を置くと、目を細めてリナを見下ろした。
「リナ、音楽を仕事にする人間として、これくらいできなきゃ恥じゃないか?」
声は冷徹だ。
だが、その奥には厳しさを超えた執着心が潜む。
「お前の才能は認める。でも、認めたからには、あたしの作品の中で結果を出す義務がある。わかってるわね?」
理恵の指は弦の上で軽く鳴らされ、空気を震わせる。
「プロとしてお金をもらう立場なら、甘えは許されないわよ」
リナは小さく息を飲む。腕の動きは完璧でも、理恵の視線が容赦なく全身に刺さる。
「はい……わかってます……」
声が震える。
「あたしの目を通して結果を出せ。ここで手を抜くなら、才能があっても奪い去るわよ。死ぬ気でやりなさい」
理恵の口調は冷酷だが、言葉の裏には認めた才能への熱い執着心が垣間見える。
リナは息を整える。心臓は破裂しそうだ。
「怖い……でも、ここで怯むわけにはいかない」
震える手で弓を握り直し、理恵の指示に全神経を集中させた。
「音、もっと芯を出せ。弓の角度、弦の振動を感じろ。楽器をなぞるだけなら、ただの音遊びだ」
理恵の目は冷徹そのもので、甘さを一切許さない。
「……はいっ!」
リナは全身の力を込めて弓を動かす。手首も肩も限界だが、理恵の視線がそれを許さない。
「遅い、弱い、反応が鈍い。音に魂を乗せろ!」
理恵の言葉は叱責の域を超え、刃物のように心を切り裂く。
リナの中で恐怖と尊敬が交錯する。
「怖い……でも、これに応えれば、認めてもらえる……」
理恵はリナの音を聞きながら、わずかに眉を上げた。
「……ふん。まだ足りない。でも、ここまでできるなら、あたしの作品を預ける価値はある」
その瞬間、冷徹さの裏にある奪い取りたいという強引さと執着心が滲む。
リナは息を吐き、震える手を握り直す。
「……でも、憂のためなら、やるしかない」
理恵の鋭い眼差しはまだ緩まない。
だが、わずかに、リナの才能を奪い取りたいと思わせる熱い視線が混ざる――
それが、リナを逃がさない、理恵の冷酷で強引な魅力だった。
結衣はドラムスティックを軽く握りながら、小鈴にささやくように声を落とした。
「ねぇ小鈴。リナちゃんだけ、すごく理恵姐に怒られてるよ……」
小鈴は鍵盤の前で手を組み、上品に微笑む。
「……ええ、わたくしも気づきましたわ。どうやら理恵さんにとって、リナは特別扱いのようですわね」
結衣は眉をひそめ、耳を小鈴に近づける。
「特別……? 怒り方が容赦ないよ。僕なんて叱られても、あんなに怖くないのに」
小鈴は上品に肩をすくめ、少し目を細める。
「理恵さんに認められる才能というのは、逆に重責を伴いますの。リナは憂さんの件もありますし、理恵さんのお気に入りとして厳しく鍛えられているのでしょうね」
結衣は少し感心したように息を吐く。
「へぇ……憂ちゃんみたいな感じか。気に入ってるから、他より厳しくする……そういうことか」
小鈴は鍵盤に軽く指を置き、柔らかくうなずく。
「ええ。憂さんに喜んでいただくために、理恵さんは容赦なく全力を求めますの。そして、才能を認めた者には、奪い取るような強引さで伸ばす……リナも、その厳しさを経験しているのでしょうね」
結衣は小さく息を漏らし、笑いをこらえるように言った。
「……なるほど。怒られるのは嫌だけど、認められてる証拠なんだね。リナちゃん、頑張れ」
小鈴は微笑みを浮かべながら、鍵盤に手を戻す。
「……ふふ、わたくしたちも負けてはいられませんわね。憂さんのためにも、ここで全力を尽くさなくては」
そのとき、秋香がベースを抱え、柔らかい声でそっと加わる。
「あらあら、リナさんのことを心配するのは自然ですわね。ですが、理恵姐さんの熱意は、憂さんへの愛情が混ざっておりますゆえ……厳しさは特別な愛情の裏返しと考えると、少し救われますわ」
結衣は小首をかしげ、眉をひそめる。
「そ、そう?……怖いけど、憂さんのためだから、って感じか」
小鈴は優雅に手を組み直し、秋香に向けて微笑む。
「ええ、秋香さんの仰る通りですわ。リナは理恵さんの作品に触れ、憂さんに喜んでいただく責任を背負っている……だから、あの厳しさも、結果を出すための試練というわけですの」
秋香は弦を軽く弾き、にこやかにうなずいた。
「確かにそうですわね……ですが、わたくし、もっと……理恵姐様の厳しさを、身体ごと味わいたくございますの……ふふ、叱ってくださいませ、もっと厳しく」
結衣はドラムスティックを軽く握りながら、目を丸くした。
「えっ……秋香ちゃん、それマジで言ってるの……?」
小鈴も鍵盤に指を置き直し、上品に眉をひそめる。
「……あの、秋香さん……お、お気持ちは理解できますけれど、少々……度が過ぎますわ」
その時、理恵が目を光らせ、冷たい声を投げた。
「……なんだ、その無駄口は」
小鈴は慌てて手を鍵盤から離す。
「……い、いえ、理恵さん……ただ、リナの励みになるかと……」
理恵の瞳は鋭く光り、口元に薄く笑みを浮かべる。
「励みだと? ふん、ならば昔の白凰時代のやり方を思い出させてやる――走り込み、全員で体を追い込んでみるか?」
秋香は弦を撫でながら、うっとりとした声で小声を落とす。
「……あぁ、理恵姐様……どうかもっと……わたくしを徹底的に追い込んでくださいませ……ふふ、身体も心も、もっと厳しく叱られたいのですの……」
理恵は目を見開き、ドン引きして眉をひそめた。
「……お前、今なんて言った?」
「ええ、もっと厳しく……叱ってください、理恵姐様」
「……ど、どMかお前は……」
理恵は苦笑混じりにツッコミを入れる。
結衣は小さく息を漏らし、思わず舌を出す。
「……秋香ちゃん、なんでそんなこと言うの……理恵姐、ドン引きしてるじゃん」
アンプから低く安定したベース音が流れ続けている。
秋香は視線も上げず、指先だけで世界を完結させていた。
リズムに身を預け、呼吸すら拍と同調している――完全に、ゾーンだ。
リナは一歩、無意識に後ずさった。
視線は秋香から離れず、けれど真正面から見る勇気もなくて、そっと小鈴の袖を引く。
「……あの秋香先輩、いつもの先輩じゃないでよね? なんか……今、話しかけたらダメなやつな気がする。怖いっていうか……うん、近づいちゃいけない雰囲気……」
「……ご覧なさいませ。秋香さん、今は完全に別世界ですわ」
小鈴は扇子を口元に添え、感心したように囁く。
「ここで下手に声をかけたりいたしますと……より深く音の沼へ沈み、譜面も見ずに難解なフレーズを繰り出し始める――ええ、集中が加速して、言動まで妙に熱量を帯びてしまうのですわ」
ベースの音が一段、太くなる。
理恵はため息をつき、肩をすくめる。
「……まったく。どうしてこう、腕は確かなのに中身が残念なのかね。無駄口の多さも大概だけど……その集中力と音だけは、文句のつけようがない。こんな変態が紛れ込んでるなんて思わなかったけどさ」
秋香はにこにこ笑いながら、静かに弦を弾き続ける。
「……ふふ、構いませんわ、理恵姐様。今は叱責すらリズムに変換されてしまいますの。注意の一言ごとに、拍が研ぎ澄まされて――ええ、ベースが、もっと正確に鳴るだけですわ……!」
結衣が肩をすくめ、にやっと笑って口を挟む。
「はいはい。今日は、理恵姐とリナの絡み付き。あれでしょ?ああいう並びとか空気感とか、百合好き的にポイント高すぎてテンション上がるやつ」
完全に分かっててのちょっかいだった。
その瞬間――
ベースの音が、ぴたりと止まった。
秋香はゆっくり顔を上げ、視線だけを結衣に向ける。
声は低く、静かで、笑みはない。
「……今は、少し黙って。冗談を挟む余裕、ないの。後にしてくれる?」
やさしい人ほど、本気で遮られると怖い。
結衣はようやく、それを悟った。
空気が凍ったまま、数秒。
結衣は一瞬きょとんとしてから、
みるみる肩を落とした。
視線が泳ぎ、指先が落ち着かなくなる。
声も、さっきまでの軽さが消えていた。
「ちょっと、調子乗っただけで……そんなつもりじゃ……ほんと、ごめん。今、邪魔しちゃダメなやつだったよね……」
泣き出しそうなのを必死にこらえる結衣の様子に、からかいの勢いは、完全に消えていた。
張りつめた空気に耐えきれず、リナは小声で小鈴に耳打ちした。
「……小鈴様、この空気、正直つらいです。なんとかできませんか……?」
小鈴は一度だけ、全体を見渡す。
そして扇子を静かに閉じ、微笑んだ。
「――リナ。この場での答えは、沈黙ですわ。余計な言葉は、今の集中を壊すだけ。何も足さず、何も削らず……ただ待つ。音が戻るまで、わたくしたちは沈黙という選択をいたしましょう」
その一言が、張り詰めた空気を、これ以上乱さないための合図だった。
理恵は肩にかけたギターを軽く鳴らし、あえて最後のコードには行かなかった。
「……よし。ここまで」
弦を押さえたまま、音を止める。
ピアノの前では、鍵盤に置かれた指が静止し、バイオリンも弓を浮かせたまま、次の合図を待っている。
「悪くない。でも――まだ完成じゃない」
理恵は全員を見渡し、少しだけ口角を上げた。
「憂が来てからだ。ギターも、ベースも、ドラムも、ピアノも、バイオリンも……あいつの音が入って、初めて完成」
誰も異を唱えない。
むしろ、その言葉に空気が締まる。
「だから今は、合わせるだけでいい。噛み合うところまで確認して、あとは残す」
理恵がギターで静かにリズムを刻むと、ピアノがそれに寄り添い、バイオリンが薄く旋律の影を重ねた。
「――準備しとけ。主役が来たら、一気に仕上げる」
未完成のままの音が、スタジオに期待として残った。
地下室の空気は、一層熱を帯び、10月1日のサプライズに向けての地獄合宿は、静かに、しかし確実に進行していくのだった。
二条家の地下室スタジオに、静かな熱気が漂っていた。外は夜の帳に包まれ、遠くの街灯の光がちらつくだけ。
だが地下室の中は、別世界のような緊張と熱意で満ちていた。
憂にはまだ内緒で、全員がここに集められていた。
目的はただ一つ――憂のお願いのための、地獄のような音楽合宿。
予定外の強行スケジュールではあったが、誰も文句は言わない。
憂のためなら、どんな苦痛も受け入れる覚悟があった。
地下室スタジオの扉を閉めると、外の静けさとは別世界の熱気が広がった。
壁は防音パネルで覆われ、LED調光の天井が練習に合わせて淡く光を落とす。
床は振動を抑えたフローリング。
奥にはソファセットや冷蔵庫、簡易キッチンまで備えられ、豪華さと実用性を兼ね備えている。
理恵にとっても、このスタジオは特別な場所である。
二条家に嫁いで以来、仕事の合間や思索の時間に、静かに楽器と向き合うためのいこいの場として、何度も足を運んできた。
だからこそ、この場所の空気や響き、光の加減には、誰よりも詳しい自信がある――練習を仕切る立場としても、そして自分の心を落ち着ける場所としても、この地下室は理恵の「居場所」なのだった。
理恵は譜面を手にギターを肩にかけ、メンバーの顔を冷徹に見渡した。
妊娠初期とは思えぬ威圧感で、空気は張り詰める。
「皆、準備はいい?」
「は、はい……!」
小鈴はピアノの前で背筋を伸ばし、気品ある声で答える。
「……ふふ、心得ておりますわ」
秋香はベースを抱え、にこやかに微笑む。
「まあまあまあ、この設備で練習できるのに、厳しいとは……贅沢な悩みですわね」
「僕の手首、もう限界だよ……」
結衣はドラムスティックを握る手を休め、額の汗を拭った。
「リナ、また最初から通すぞ」
「……は、はい、先輩……」
リナは背を丸めた。技術的にはプロ級だ。
だが、OBである理恵の眼差しは冷たく、鋭利で、心臓を締めつける。
「怖い……でも、ここで手を抜けない」
心の奥で震えながら弓を握り直す。
理恵は譜面を置くと、目を細めてリナを見下ろした。
「リナ、音楽を仕事にする人間として、これくらいできなきゃ恥じゃないか?」
声は冷徹だ。
だが、その奥には厳しさを超えた執着心が潜む。
「お前の才能は認める。でも、認めたからには、あたしの作品の中で結果を出す義務がある。わかってるわね?」
理恵の指は弦の上で軽く鳴らされ、空気を震わせる。
「プロとしてお金をもらう立場なら、甘えは許されないわよ」
リナは小さく息を飲む。腕の動きは完璧でも、理恵の視線が容赦なく全身に刺さる。
「はい……わかってます……」
声が震える。
「あたしの目を通して結果を出せ。ここで手を抜くなら、才能があっても奪い去るわよ。死ぬ気でやりなさい」
理恵の口調は冷酷だが、言葉の裏には認めた才能への熱い執着心が垣間見える。
リナは息を整える。心臓は破裂しそうだ。
「怖い……でも、ここで怯むわけにはいかない」
震える手で弓を握り直し、理恵の指示に全神経を集中させた。
「音、もっと芯を出せ。弓の角度、弦の振動を感じろ。楽器をなぞるだけなら、ただの音遊びだ」
理恵の目は冷徹そのもので、甘さを一切許さない。
「……はいっ!」
リナは全身の力を込めて弓を動かす。手首も肩も限界だが、理恵の視線がそれを許さない。
「遅い、弱い、反応が鈍い。音に魂を乗せろ!」
理恵の言葉は叱責の域を超え、刃物のように心を切り裂く。
リナの中で恐怖と尊敬が交錯する。
「怖い……でも、これに応えれば、認めてもらえる……」
理恵はリナの音を聞きながら、わずかに眉を上げた。
「……ふん。まだ足りない。でも、ここまでできるなら、あたしの作品を預ける価値はある」
その瞬間、冷徹さの裏にある奪い取りたいという強引さと執着心が滲む。
リナは息を吐き、震える手を握り直す。
「……でも、憂のためなら、やるしかない」
理恵の鋭い眼差しはまだ緩まない。
だが、わずかに、リナの才能を奪い取りたいと思わせる熱い視線が混ざる――
それが、リナを逃がさない、理恵の冷酷で強引な魅力だった。
結衣はドラムスティックを軽く握りながら、小鈴にささやくように声を落とした。
「ねぇ小鈴。リナちゃんだけ、すごく理恵姐に怒られてるよ……」
小鈴は鍵盤の前で手を組み、上品に微笑む。
「……ええ、わたくしも気づきましたわ。どうやら理恵さんにとって、リナは特別扱いのようですわね」
結衣は眉をひそめ、耳を小鈴に近づける。
「特別……? 怒り方が容赦ないよ。僕なんて叱られても、あんなに怖くないのに」
小鈴は上品に肩をすくめ、少し目を細める。
「理恵さんに認められる才能というのは、逆に重責を伴いますの。リナは憂さんの件もありますし、理恵さんのお気に入りとして厳しく鍛えられているのでしょうね」
結衣は少し感心したように息を吐く。
「へぇ……憂ちゃんみたいな感じか。気に入ってるから、他より厳しくする……そういうことか」
小鈴は鍵盤に軽く指を置き、柔らかくうなずく。
「ええ。憂さんに喜んでいただくために、理恵さんは容赦なく全力を求めますの。そして、才能を認めた者には、奪い取るような強引さで伸ばす……リナも、その厳しさを経験しているのでしょうね」
結衣は小さく息を漏らし、笑いをこらえるように言った。
「……なるほど。怒られるのは嫌だけど、認められてる証拠なんだね。リナちゃん、頑張れ」
小鈴は微笑みを浮かべながら、鍵盤に手を戻す。
「……ふふ、わたくしたちも負けてはいられませんわね。憂さんのためにも、ここで全力を尽くさなくては」
そのとき、秋香がベースを抱え、柔らかい声でそっと加わる。
「あらあら、リナさんのことを心配するのは自然ですわね。ですが、理恵姐さんの熱意は、憂さんへの愛情が混ざっておりますゆえ……厳しさは特別な愛情の裏返しと考えると、少し救われますわ」
結衣は小首をかしげ、眉をひそめる。
「そ、そう?……怖いけど、憂さんのためだから、って感じか」
小鈴は優雅に手を組み直し、秋香に向けて微笑む。
「ええ、秋香さんの仰る通りですわ。リナは理恵さんの作品に触れ、憂さんに喜んでいただく責任を背負っている……だから、あの厳しさも、結果を出すための試練というわけですの」
秋香は弦を軽く弾き、にこやかにうなずいた。
「確かにそうですわね……ですが、わたくし、もっと……理恵姐様の厳しさを、身体ごと味わいたくございますの……ふふ、叱ってくださいませ、もっと厳しく」
結衣はドラムスティックを軽く握りながら、目を丸くした。
「えっ……秋香ちゃん、それマジで言ってるの……?」
小鈴も鍵盤に指を置き直し、上品に眉をひそめる。
「……あの、秋香さん……お、お気持ちは理解できますけれど、少々……度が過ぎますわ」
その時、理恵が目を光らせ、冷たい声を投げた。
「……なんだ、その無駄口は」
小鈴は慌てて手を鍵盤から離す。
「……い、いえ、理恵さん……ただ、リナの励みになるかと……」
理恵の瞳は鋭く光り、口元に薄く笑みを浮かべる。
「励みだと? ふん、ならば昔の白凰時代のやり方を思い出させてやる――走り込み、全員で体を追い込んでみるか?」
秋香は弦を撫でながら、うっとりとした声で小声を落とす。
「……あぁ、理恵姐様……どうかもっと……わたくしを徹底的に追い込んでくださいませ……ふふ、身体も心も、もっと厳しく叱られたいのですの……」
理恵は目を見開き、ドン引きして眉をひそめた。
「……お前、今なんて言った?」
「ええ、もっと厳しく……叱ってください、理恵姐様」
「……ど、どMかお前は……」
理恵は苦笑混じりにツッコミを入れる。
結衣は小さく息を漏らし、思わず舌を出す。
「……秋香ちゃん、なんでそんなこと言うの……理恵姐、ドン引きしてるじゃん」
アンプから低く安定したベース音が流れ続けている。
秋香は視線も上げず、指先だけで世界を完結させていた。
リズムに身を預け、呼吸すら拍と同調している――完全に、ゾーンだ。
リナは一歩、無意識に後ずさった。
視線は秋香から離れず、けれど真正面から見る勇気もなくて、そっと小鈴の袖を引く。
「……あの秋香先輩、いつもの先輩じゃないでよね? なんか……今、話しかけたらダメなやつな気がする。怖いっていうか……うん、近づいちゃいけない雰囲気……」
「……ご覧なさいませ。秋香さん、今は完全に別世界ですわ」
小鈴は扇子を口元に添え、感心したように囁く。
「ここで下手に声をかけたりいたしますと……より深く音の沼へ沈み、譜面も見ずに難解なフレーズを繰り出し始める――ええ、集中が加速して、言動まで妙に熱量を帯びてしまうのですわ」
ベースの音が一段、太くなる。
理恵はため息をつき、肩をすくめる。
「……まったく。どうしてこう、腕は確かなのに中身が残念なのかね。無駄口の多さも大概だけど……その集中力と音だけは、文句のつけようがない。こんな変態が紛れ込んでるなんて思わなかったけどさ」
秋香はにこにこ笑いながら、静かに弦を弾き続ける。
「……ふふ、構いませんわ、理恵姐様。今は叱責すらリズムに変換されてしまいますの。注意の一言ごとに、拍が研ぎ澄まされて――ええ、ベースが、もっと正確に鳴るだけですわ……!」
結衣が肩をすくめ、にやっと笑って口を挟む。
「はいはい。今日は、理恵姐とリナの絡み付き。あれでしょ?ああいう並びとか空気感とか、百合好き的にポイント高すぎてテンション上がるやつ」
完全に分かっててのちょっかいだった。
その瞬間――
ベースの音が、ぴたりと止まった。
秋香はゆっくり顔を上げ、視線だけを結衣に向ける。
声は低く、静かで、笑みはない。
「……今は、少し黙って。冗談を挟む余裕、ないの。後にしてくれる?」
やさしい人ほど、本気で遮られると怖い。
結衣はようやく、それを悟った。
空気が凍ったまま、数秒。
結衣は一瞬きょとんとしてから、
みるみる肩を落とした。
視線が泳ぎ、指先が落ち着かなくなる。
声も、さっきまでの軽さが消えていた。
「ちょっと、調子乗っただけで……そんなつもりじゃ……ほんと、ごめん。今、邪魔しちゃダメなやつだったよね……」
泣き出しそうなのを必死にこらえる結衣の様子に、からかいの勢いは、完全に消えていた。
張りつめた空気に耐えきれず、リナは小声で小鈴に耳打ちした。
「……小鈴様、この空気、正直つらいです。なんとかできませんか……?」
小鈴は一度だけ、全体を見渡す。
そして扇子を静かに閉じ、微笑んだ。
「――リナ。この場での答えは、沈黙ですわ。余計な言葉は、今の集中を壊すだけ。何も足さず、何も削らず……ただ待つ。音が戻るまで、わたくしたちは沈黙という選択をいたしましょう」
その一言が、張り詰めた空気を、これ以上乱さないための合図だった。
理恵は肩にかけたギターを軽く鳴らし、あえて最後のコードには行かなかった。
「……よし。ここまで」
弦を押さえたまま、音を止める。
ピアノの前では、鍵盤に置かれた指が静止し、バイオリンも弓を浮かせたまま、次の合図を待っている。
「悪くない。でも――まだ完成じゃない」
理恵は全員を見渡し、少しだけ口角を上げた。
「憂が来てからだ。ギターも、ベースも、ドラムも、ピアノも、バイオリンも……あいつの音が入って、初めて完成」
誰も異を唱えない。
むしろ、その言葉に空気が締まる。
「だから今は、合わせるだけでいい。噛み合うところまで確認して、あとは残す」
理恵がギターで静かにリズムを刻むと、ピアノがそれに寄り添い、バイオリンが薄く旋律の影を重ねた。
「――準備しとけ。主役が来たら、一気に仕上げる」
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