沈黙のういザード 

豚さん

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28話 10月1日

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  10月1日 日曜日。

 病室の朝は、いつもより柔らかい光で満ちていた。
 カーテンの隙間から差し込む日差しが、白いシーツに淡く広がっている。

 泉はベッドに身を起こし、少し不思議そうにその様子を眺めていた。

 ノック。
 扉が開き、見慣れない男性が入ってくる。

 落ち着いた佇まい。
 年齢は壮年、白衣は着ていないが、身のこなしに迷いがない。

「おはようございます、泉さん。今日は少しだけ、いつもと違うことをします」

 彼――千秋の父は、そう言って穏やかに会釈した。

「今日は診察というより……準備、ですね」

 泉は警戒することなく、ゆっくりとうなずいた。

「準備……?」

「ええ」

 彼はベッド脇のテーブルにノートパソコンを置き、丁寧に開く。
 画面の明るさ、音量、角度。
 ひとつひとつを確かめる手つきは、治療というより、舞台の設営に近かった。

「今日は、泉さんのお誕生日だと聞いています」

 その言葉に、泉は一瞬、目を見開く。

「……そう、でしたか」

 思い出したわけではない。
 でも、その響きは、悪くなかった。

「実はですね。お知り合いの方から、ひとつお願いを預かっていまして」

「お願い?」

「ええ。サプライズで、歌を聴いてもらえないかと」

 泉は、少し戸惑ったように瞬きをした。

「……歌?」

「はい。無理に、とは言いません。ただ、もし気が向いたら……数分で終わります」

 押しつけはない。
 拒否の余地も、ちゃんと残されている。

 泉は、パソコンの画面を見る。
 まだ何も映っていない、静かな黒。

「……知っている方、なんですか?」

「ええ。少なくとも、その方は……泉さんを、よく知っています」

 少しだけ、間を置いてから。

「覚えていなくても、構わないとも言っていました」

 泉は、その言葉を、ゆっくりと噛みしめる。

 覚えていなくても、いい。
 その前提が、なぜか胸を楽にした。

「……聴いてみたい、です。歌、好きですし」

 医師は、うなずいた。

「ありがとうございます。では――始めましょう」

 再生ボタンに、指が触れる。

 画面がふっと明るく切り替わった。

 オンライン配信の映像だ。

 映っていたのは――憂。

 気負いのない、ラフな格好だった。
 淡い色のトップスに、少し色落ちしたGパン。
 飾り気はないのに、不思議と目を引く組み合わせ。

 髪はきっちり整えられているわけでもなく、
 後ろでまとめたポニーテールが、動くたびに軽く揺れる。
 途中で何度か手ぐしで直したのだろう、細い後れ毛が、こめかみや首元に自然に残っていた。

 頑張っておしゃれをしたというより、いつもの自分で来ましたという空気。

 けれど――
 その無防備さこそが、画面越しでもはっきり伝わる。

 憂はカメラの向こうを見つめ、
 少しだけ緊張したように息を整えてから、微笑んだ。

「……泉さんこんにちは」

 作りすぎていない声。
 誰かに見せるためというより、届いてほしい相手に向けた、まっすぐな呼びかけ。

 泉の指先が、シーツの上でわずかに動く。

 理由は分からない。
 名前も、関係も、まだ思い出せない。

 それでも――

 この少女の声は、この姿は、なぜか、目を離せなかった。
 憂が一度、小さく息を吸った。

 その背後で、画面が少し引かれる。

 ――そこに、五人が並んで映った。

 ギターを肩に掛けた理恵。
 静かにベースを構える秋香。
 スティックを揃え、背筋を伸ばした結衣。
 電子ピアノの前で、穏やかに微笑む小鈴。
 そして、バイオリンを胸に抱いたリナ。

 全員が、息を揃える。

「泉さん、お誕生日おめでとうございます!」

 音声が重なり、画面越しでも分かるほど、心を込めた声だった。

 憂は少し頬を赤くしながら、続ける。

「……どうしても、お祝いがしたくて。みんなで、一生懸命練習しました」

 両手を軽く握りしめ、まっすぐカメラを見る。

「よかったら……聞いてください」

 病室で、泉はしばらく画面を見つめていた。

 記憶は、まだ曖昧だ。
 彼女たちの名前も、関係も、正直よく分からない。

 それでも。

 泉は、ゆっくりと言葉を選び、穏やかに口を開いた。

「……わざわざ、ありがとうございます」

 少し距離を保った、他人行儀な口調。
 それでも、そこには確かな感謝があった。

「こんなふうに祝ってもらえるなんて、思っていませんでした。本当に……ありがとうございます」

 その言葉を聞いた瞬間、画面の向こうで、五人の表情がふっと和らぐ。

 画面の端で、結衣が小さく息を吸う。

「……ワン」

 スティックが、静かに持ち上がる。

「ツー」

 ――カッ。

 乾いたハイハットの一打。
 それだけで、空気が切り替わった。

 次の瞬間。

 リナのバイオリンが、ひとりで歌い出す。

 細く、澄んだ音。
 けれど芯があり、迷いがない。

 弓が弦をなぞるたび、旋律がゆっくりと形を持っていく。
 主張しすぎず、けれど確かに“導く”音。

 病室の静けさに、一本の線を引くように――
 バイオリンの前奏が、空間を満たしていった。

 泉は、思わず画面から目を離せなくなる。

「……きれい」

 誰に向けたわけでもない、独り言。

 その旋律に寄り添うように、
 次に、小鈴の指が電子ピアノに触れた。

 最初は、ごく控えめに。

 和音が、そっと置かれる。
 バイオリンの旋律を包み込み、足元を整えるような音。

 ひとつ、またひとつ。
 音が増えるたび、曲に奥行きが生まれていく。

 そこへ。

 理恵のギターが、静かに入る。
 旋律ではなく、リズムでもなく――
 温度を足すようなコード。

 低く、やわらかく、確実に。

 さらに、秋香のベースが、地面を作る。
 主張は少ない。
 けれど、その一音一音が、全体を支えている。

 結衣のドラムが、再び刻みを加える。

 派手じゃない。
 でも、確実なテンポ。

 ――五人の音が、ひとつになる。

 画面の中央で、憂は歌わない。
 ただ、静かに立ち、音に身を委ねている。

 その横顔は、誕生日を祝う人の顔で、そして――何か大切なものを、必死に届けようとする人の顔だった。

 泉は、胸の前で手を重ねた。

 知らないはずなのに。
 初めて聞くはずなのに。

 なぜか――
 心の奥が、ゆっくりとほどけていく。

 理由は、分からない。

 もう少しだけ、聞いていたい。
 ただ、この音を。
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