沈黙のういザード 

豚さん

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32話 二条家専用チャンネル、開幕

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 憂は、まだ理恵の胸に顔をうずめたまま、肩を小さく震わせていた。
 さっきまでの感動の余韻が、まだ残っている。

 ――その頭上で。

 理恵が、やけに事務的な声で言った。

「……いや~。感動的なところ悪いんだけどさ」

 憂が、きょとんと顔を上げる。

「悪いニュースを発表します」

「え?」

 間の抜けた声を出した憂をよそに、理恵は続けた。

「今の映像。二条家専用チャンネルで配信されてました」

 空気が、止まった。

「……え?」

 憂の思考が追いつかない。

 横で、小鈴ががっくり肩を落とす。

「……わたくしの両親も、親戚も、関係者も……全員、観てますわね」

 淡々とした口調が、逆に重い。

 理恵は付け足す。

「もちろん――うちの旦那もみてるって」

「えっ!?!?」

 憂の声がひっくり返った。

「な、なにそれ!? 聞いてない!!」

 混乱する憂に、理恵はポケットから携帯を取り出す。

「はい、証拠」

 画面を、見せた。

 次の瞬間――

「……え?」

 憂の目が、点になる。

 赤。赤。赤。赤。

 画面いっぱいに流れる、真っ赤なスーパーチャット。

 金額欄は、見慣れない桁。

「……ご、五万……」

 言い切る前に、さらに上書きされる。

 理恵の携帯画面では、赤スパの洪水がようやく落ち着いた――
 かに見えた、その瞬間だった。

 今度は、色が変わった。

 最初に流れたのは、深い青。
 その直後、淡い水色。
 続いて、黄緑。
 橙。
 マゼンタ。
 そして、真紅。

 七色が、途切れなく並ぶ。

「……え?」

 憂が瞬きをする間もなく、コメント欄がざわついた。

「これ……まさか……」

 小鈴が、画面を覗き込み、静かに言った。

「……虹スパ、ですわね」

 七色のスーパーチャットが、順番通りに、間髪入れず投げられていく。
 色が変わるたび、通知音が重なり、コメント欄が本当に虹色に染まっていく。

 それは偶然ではない。
 意図された演出だった。

 百円、二百円、五百円。
 千円、二千円、五千円。
 そして。一万円。

 最低金額ごとに決められた色を、あえて順番に並べることで、
 コメント欄そのものを一本の虹に変える――
 視聴者同士の、無言の連携。

「……合計……」

 憂が、そっと呟く。

「18,800円超えだね」

 理恵が、さらっと言った。

「しかも一人とは限らない」

 言い終わる前に、次の虹が重なる。

 青から始まり、また七色。
 さらに、もう一列。

 画面は、完全に虹の帯で埋め尽くされていた。 

 色が変わるたび、通知音が鳴り止まない。

 コメント欄は、すでに地獄だった。

『孫にこの動画見せたい』

『憂ちゃん落ち着いてて偉すぎる。お母様のためのサプライズをこんなに冷静に、でも愛情たっぷりでやってのけるなんて尊い。泣ける。最高の娘すぎる』

『今日という日を墓まで持っていく』

「理恵の今日のギター演奏を聴いて、ふと高校生の頃を思い出しました。あの頃から変わらない、繊細で力強い指先の動き…本当に素晴らしい腕前ですね。歳を重ねても、その情熱と技術が全く衰えていないことに、改めて尊敬と誇らしさを感じます。これからもあなたの音楽を、そばでずっと支え続けたいと思います。愛していますよ、理恵。」

『感動しすぎて逆に目が乾いた』

『憂さんのお母様へ。  誕生日おめでとうございます。憂さんの記憶が少しずつ戻ってるの見て、  胸が熱くなってしまって。 お母様の声、匂い、温もり、失ったはずのものが、かすかに、でも確かに蘇ってる。  それって全部、お母様がずっとそばにいてくれた証なんですよね』

 憂が叫ぶ。

 さらに流れる。

『お嬢さんのバイオリン所作、美しすぎて胸が痛いレベル。コンサートで直接拝見したいです。あの優雅な指先と音色に癒されたい』

『ドラムの子、ボーイッシュさが刺さりまくった。スティック捌き見て惚れてたのに、小鈴のお兄ちゃんが彼氏ってマジかよ。くそー羨ましい』

『ベース見て震えた。集中力が職人そのもの、周りが見えてないくらい没入してる。あの低音の安定感、神がかってる』

『小鈴たん神アシストすぎて草』

『全員まとめて拝みたい』

 小鈴が、額に手を当てて小さくため息をついた。

「……思っていた以上に、視聴者層が濃いですわね」

 理恵は肩をすくめる。

「まあ、二条家だし」

「それ理由になってないよ!?」

 赤スパは、まだ止まらない。

 憂は、携帯画面と理恵の顔を交互に見て、完全にフリーズした。

「……わたし……いま……全国デビュー……?」

 地下室の騒然とした空気の中で、小鈴は静かに、しかし確実に疲れ切った顔をしていた。

 額に手を当て、深々とため息。

「……はぁ……」

 全員の視線が、そっと小鈴に向く。

 小鈴は、上品さを崩さないまま、ゆっくりと口を開いた。

「この発案……わたくしではございませんの」

「え?」

 憂が、まだ混乱したまま聞き返す。

「わたくしのお母さまですわ」

 その瞬間、空気が一段階だけ冷えた。

「……お母さま?」

 小鈴は、こめかみを押さえながら続ける。

「兄の披露宴でございます。余興があまりにも感動的だったそうで」

 ちらり、と理恵を見る。

「感動は共有されるべきですわ。身内限定なら品も保たれますでしょう。どうせなら映像で残しましょう――と」

「嫌な予感しかしないんだけど」

 結衣が小声で突っ込む。

 小鈴は、にっこり微笑んだまま、致命的な一言を落とした。

「是非、配信を、と」

「……あっ」

 憂が、理解した顔になる。

「まさか……」

「ええ」

 小鈴は視線を逸らし、淡々と言い切った。

「隠しカメラは、前日から設置済みですわ」

「前日!?」

「事前テストも完璧でした」

「完璧にしなくていいのに!?」

 小鈴は、ほんの少しだけ眉をひそめる。

「本当に……悪趣味ですわ」

 言葉はきついが、声はどこか諦めきっている。

「感動すると、すぐ皆に見せたがるのが、あの方の悪い癖で……あら、だって家族ですもの泣く姿も含めて、宝物ですわなどと……」

 理恵が、ぽつりと感想を漏らす。

「……姑えげつない」

「ええ。血筋ですわ」

 小鈴は、深く、深くため息をついた。

「ちなみに……」

 憂が、嫌な予感しかしない顔で聞く。

「ちなみに……?」

「コメント欄の孫に見せたいと嫁に来てほしいは、半分以上、親戚筋ですわ」

「こわい!!」

 憂が悲鳴を上げる。

 小鈴は、きっぱりと言った。

「ございませんわね」

 そして、最後にとどめ。

 優雅に微笑みながら。

「本日の件、永久保存版だそうですわ」

「やめてえええええ!!」

 地下室に、再び悲鳴と笑い声が響き渡った。

 赤スパと虹スパは、まだ止まる気配がなかった。

 理恵の携帯画面には、なおも更新され続ける履歴が並んでいた。
 赤、虹、赤、虹――桁の感覚が、完全に麻痺する。

 憂は、呆然とその数字を見つめる。

「……これ……お祝い、だよね……?」

 理恵は一瞬だけ画面を確認し、肩をすくめて言った。

「うん。お祝い金」

 小鈴が、静かに補足する。

「二条家界隈では、よくある金持ちの道楽ですわ」

 秋香が乾いた笑みを浮かべる。

「……道楽の桁じゃないですわね」

 結衣は顔を真っ赤にして、視線をそらしながら小さくつぶやいた。

「う、うわ……こんなところで、僕の彼氏も見てるなんて……恥ずかしすぎる……だ、誰か助けて……ほんと、どうしよう……」

 リナは小さく呟く。

「……人生、何が起こるかわからないわね……」

 憂は、理恵の胸元をぎゅっと掴んだまま、震える声で言った。

「……夢じゃないよね……?」

 理恵は、頭をぽんと叩く。

「現実。しかも重たい」

『いつも娘がお世話になっております。小鈴の母でございます。憂さんの歌声が、心の奥深くまで優しく響いて、涙が止まりませんわ。お母様の記憶が少しずつ回復なさったようで、本当によかったですわね。あと理恵さん。姑、という呼び方はどうかお控えいただけますと幸いですわ』

『結衣さんのドラム、凛々しくて心が震えるほど。こんな素敵な姿を、特別に近くで見守れることが、僕の宝物です。本当にありがとうございます』

『特別に近くで見守れるって、お前結衣ちゃんの彼氏確定じゃんww凛々しい言葉で、独占してんじゃねぇよクソがwww』

『こんなに純粋に想いを届けられる子、なかなかいない。憂ちゃん、ほんとにえらい。ずっと応援してる』

『記憶が戻り始めたって聞いた瞬間、こっちまで震えた……これが本当の家族の絆だね。おめでとう』

『憂さん、よく頑張ったね。これからもゆっくりでいいから、一歩ずつ進んでいって』

『名前呼んでくれた瞬間、奇跡を見た気がした……憂ちゃん、お母さん、葉月ちゃん、みんな幸せになってね』

 憂は、しばらく言葉を失ったまま画面を見つめていた。
 数字も、コメントも、現実感がなさすぎて――
 でも、胸の奥に残っているものだけは、はっきりしていた。

 憂は、ゆっくりと顔を上げる。
 少し涙の跡を残したまま、でも、まっすぐに。

「……あの……」

 地下室が、静まる。
 配信の向こうも、不思議とコメントの流れが一瞬止まった。

 憂は深く息を吸って、丁寧に言葉を選んだ。
 小さく、頭を下げる。

「本当に……ありがとうございます。わたし一人だったら、きっとここまで来られませんでした」

 視線が、理恵へ。
 秋香へ。
 結衣へ。
 小鈴へ。
 リナへ。

「二条家の皆さんが支えてくれて、一緒に音を作ってくれて、見守ってくれたから……お母さんの記憶が、戻り始めたんです。完全じゃないし、時間もかかると思います。でも……確かに、名前を呼んでくれました」

 憂は、胸に手を当てる。

「それだけで、もう……十分すぎるくらいで……」

 一瞬、言葉が詰まる。
 それでも、ちゃんと前を向いた。

「本当に、ありがとうございます。わたしを支えてくれた二条家の皆さんにも、
 ……画面の向こうで見てくれている皆さんにも」

 深く、もう一度頭を下げる。

「この気持ち、絶対に忘れません」

 ――次の瞬間。

 コメント欄が、爆発した。

『うおおおおおおおおおお!!』

『ういちゃんしゅき』

『これは泣く!!』

『そんなこと言われたら投げるしかないだろ!!』

『憂様……強い……』

『この配信見てたら、自分の家族にもっと優しくしたくなった。でも明日からまたケンカする』

『記憶戻り始めたのマジで奇跡』

『憂ちゃんに全財産あげたい→実行→破産→でも後悔ゼロwwwww』

『涙を我慢しなくていいよ。憂はひとりじゃないから。ずっと、そばで見守ってるね』

『憂さんの声が、胸の奥に残ってる。これからも、どんな日も、優しく生きていってね』

『お誕生日おめでとう、お母さんもきっと、どこかで微笑んでるよ。私たちみんな、憂さんの味方だよ』

『御陵家は人生』

 通知音が、連続で鳴り始める。

 赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤  赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤 赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤。

金額は、もはや確認不能。

『ぬおおおおおお赤スパ連打ァァ!!』

『お祝金です!!』

『憂様の涙を堪えたあの顔を拝見した瞬間、俺の魂は完全に砕け散りました。この世のすべてが色褪せ、憂様の存在だけが永遠の光となった。憂様は俺の女神。俺の救世主。俺の信仰の対象。憂様の幸せが俺の救済であり、憂様の涙が俺の贖罪であり、憂様の笑顔が俺の天国です。もう他の何もいらない。憂様だけを信じ、憂様だけを愛し、憂様だけに人生を捧げます。憂様、俺はあなたの信者です。この赤スパは、俺の信仰の証。受け取ってください』

『音楽感動しました!! 販売まだですか?てか、もう我慢の限界なんですけど!?!!』

『俺はリナ憂派です。正直、秋香さんって性格きつすぎません?裏で何やってるか分からないし、ああいう女が一番怖い。どうせ計算で動いてるんでしょ』

 画面は再び真っ赤に染まり、まるで心臓の鼓動のように、通知音が鳴り続ける。

 秋香は淡々と画面を見据えたまま、静かに言った。

「このコメント、誰ですか?発信元は記録されていますよね。では、こちらで特定して、必要な情報は正式に開示しますわね」

 声は低く、落ち着いていた。
 怒鳴りもしない。感情を乗せることもない。

 だからこそ、その一言は、軽い悪口のつもりで投げられた言葉に、はっきりとした重さを返していた。

 結衣が、呆然としながら呟いた。

「……もう、感動で殴ってくる配信じゃん……」

 小鈴はそっと微笑む。

「……まあ……コメント、ひどすぎますわね」

 理恵は腕を組み、満足そうに鼻で笑った。

「ほらな。だから言っただろ」

 憂は、画面いっぱいの赤を見て、そして仲間たちを見回して――

 小さく、でも確かに、笑った。

 それはもう、一人で抱える涙じゃなかった。

 画面の合計金額は、さらに跳ね上がり――
 軽く五千万円を超えていた。

 それは、愛情と悪ノリと財力が全力で暴走した、とんでもないお誕生日祝いの結末だった。
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