忘れたふりの隣で ~マリーがいた季節~  ※番外編のみR18

豚さん

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5章 帰省

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 午後の光が西の空へ傾きはじめたころ、玄関のチャイムが鳴った。
 俺が扉を開けると、そこに立っていたのは久しぶりの顔――姉だった。
 肩まで伸ばした髪をひとつに結び、少しだけ都会の香りをまとっている。

「ただいま。……元気してた?」
「まあ、なんとか」
「“なんとか”って言い方、信じていいのかな?」
 笑いながら靴を脱ぐ姉。
 その笑顔は相変わらず柔らかいけれど、どこか観察するような目をしていた。

 マリーがキッチンから顔を出した。
 エプロンの紐を結んだまま、少し驚いた表情を浮かべる。
「……こんにちは」
 姉がぴたりと動きを止めた。
 一瞬だけ――時が止まったように見えた。

「え……もしかして、マリーさん?」
 姉の声が、わずかに震えた。
 マリーは静かに微笑み、頷く。
「はい。覚えていてくださったんですね」
「そりゃあ、忘れられるわけないよ。高校の文化祭で同じ展示だったじゃない」
「……そうでしたね」

 その会話は自然に聞こえた。
 けれど、なぜか呼吸の間がほんの少しだけ長かった。
 まるで、用意された“脚本”を読み上げるように。

「え、二人って高校のとき知り合いだったの?」
 俺の問いに、姉が小さく笑った。
「うん、後輩だよ。可愛い子だったの、当時から」
「そんな……大げさです」
 マリーは控えめに笑い、目を伏せた。
 けれど、その目の奥には、ほんの一瞬、懐かしさが滲んだ。

 夜。
 夕食の席には、柔らかな静けさがあった。
 マリーが作ったグラタンの匂いが漂い、アールグレイのポットが湯気を立てている。
 姉はスプーンを口に運びながら、何気ない調子で言った。
「ねえ、マリー。今は留学中なんだっけ?」
「はい。短期ですが……」
「そうなんだ。日本の料理、もう慣れた?」
「ええ、たぶん……手が覚えていましたから」

 その答えに、姉が微かに目を細める。
 だが、すぐに笑顔に戻り、優に視線を向けた。
「優、いい子にしてる?」
「子ども扱いしないでくれ」
「ふふ、やっぱり。そうやって言うと思った」

 何でもない会話のように聞こえる。
 けれど、言葉の端々に妙な緊張があった。
 俺にはまだ、それが何に対するものなのか分からなかった。

 食後、姉とマリーが食器を片づけている。
 俺は洗面所で手を洗い、リビングのドアの隙間から二人の会話が漏れてくるのを耳にした。

「……久しぶりだね。こうして話すの」
「ええ。……でも、優の前では、あのことは言わないでください」
「わかってる。わたしたちの“約束”だから」
 マリーが静かに息を吐く。
「Le mensonge, c’est parfois une forme d’amour.
 ――嘘は、ときどき愛のかたちでもあるの」
マリーの声は、まるで自分自身に言い聞かせるように震えていた。
「……あの頃と変わらないね。その言い方」
「だって、本当にそうなんです。あの人――優を守るためなら、何度でも嘘をつけます」

 ガラスのコップが軽く触れ合う音がした。
 沈黙。
 そして、姉の声が少しだけ震えた。
「……マリー、あなたまで壊れないでね。優を守りたい気持ちは分かるけど、全部背負ったら、あなたが消えてしまう」
「大丈夫です。わたしは平気。――でも、あの人が壊れたら、わたしはきっと……」

 声が途切れる。
 俺は息を止めたまま、動けなかった。
 なぜ姉が“優を守る”なんて言葉を口にしたのか。
 マリーの言う“あの人”とは、いったい誰なのか。
 答えは霧のように遠く、掴めそうで掴めなかった。

 その夜、姉は早めに寝室へ入った。
 マリーは紅茶を淹れながら、静かに言った。
「優……姉さん、優しい人ですね」
「そうだね。昔から、困ってる人を放っておけないタイプ」
「……似てます。あなたと」

 彼女は微笑みながら、カップを両手で包み込む。
 アールグレイの香りが、また部屋いっぱいに広がった。
 その香りが、なぜか切なくて、俺は言葉を失った。

 マリーの瞳が、静かに揺れていた。
「ねえ、優」
「うん?」
「もし……“嘘”にも、やさしい嘘があるなら、信じてくれますか?」
「……たぶん」
「なら、よかった」

 彼女は微笑みながら、カップの中を見つめた。
 紅茶の表面に反射した光の粒が、まるで記憶の破片のようにきらめいていた。

 ――俺はまだ知らなかった。
 この夜、姉とマリーの間に交わされた“嘘”が、
 やがてすべての記憶を結びなおす鍵になることを。
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