忘れたふりの隣で ~マリーがいた季節~  ※番外編のみR18

豚さん

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6章 雨の約束

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 夕方から降りはじめた雨が、夜になって街を濡らしていた。
 赤い観覧車は、そんな空の下で静かに赤く光っていた。
 雨粒がその光を受けて輝き、まるで夜空に浮かぶ小さな惑星のようだった。

「……本当に行くの?」
 俺の問いに、マリーは小さく頷いた。
「ええ。明日には、明日、フランスから“約束の手紙”の差出人に会いに行くの。だから、帰国の手続きをします。」
 その声は穏やかで、どこか遠くの世界から届くようだった。

「どうして……急に?」
「約束、だからです」
 マリーはそう言って、ペンダントを指先で触れた。
 青い石が、雨に濡れた街灯を受けて淡く光る。

「でも、最後にもう一度だけ。――一緒に、乗りませんか?」

 観覧車のゴンドラが、ゆっくりと回りはじめた。
 雨の滴が窓を滑り、外の景色が滲んで見える。
 街の灯が無数の線になって流れていく。
 狭いゴンドラの中で、俺とマリーは向かい合って座っていた。

「ここ……カップルで乗ると別れるって、聞いたことありますか?」
「うん、有名なジンクスだよ」
「でも、逆に“まだ付き合ってない人が乗ると、恋が始まる”っていう噂もあるんですって」
 マリーは少し照れたように笑った。
 赤い光がその頬を染める。

「……どっちになるんだろうね」
「さあ……でも、どちらでもいい気がします」
「どうして?」
「こうして、あなたと一緒に見ている景色が、もう“始まり”みたいだから」

 その言葉に、胸が熱くなった。
 外の雨が静かに降り続ける。
 街の明かりが、彼女の青い瞳の奥に反射して揺れていた。

 ゴンドラが半分ほど上に達した頃、マリーが口を開いた。
「優……わたし、あなたと過ごした日々、全部覚えています。
 紅茶の香りも、春の風も、たこ焼きの味も。全部、大切な思い出です」

「じゃあ……なんで帰るの?」
「Je t’attendrai.――わたしは待っています」
「待つ?」
「ええ。あなたが、すべてを思い出す日まで」

 その声が、観覧車の狭い空間に静かに響いた。
 俺は思わず手を伸ばし、彼女の手を握った。
 その瞬間、彼女が驚いたように息をのむ。
 冷たい手のひらが、ゆっくりと返されて、指が絡んだ。

「……思い出すって、何を?」
「いずれ、きっと分かります」
「ヒントくらい、くれてもいいだろ」
「ふふ……それを言ったら、ジンクスが壊れてしまいます」

 マリーは小さく笑い、目を閉じた。
 雨の音が遠のいて、世界が二人きりになったような静けさ。
 ゴンドラが最も高い場所に達し、
 窓の外に広がる夜景が、まるで星の海のように瞬いていた。

「優」
「……うん」
「あなたと出会えて、よかった」
「そんな言い方、やめろよ。まるで――」
「“さよなら”みたい、ですか?」
「……ああ」

 マリーは微笑んだ。
 その笑みはどこまでも優しくて、悲しかった。
「じゃあ、違う言葉にします。――“ありがとう”。」

 ゴンドラが降りていく。
 街の灯が近づくたび、現実がゆっくり戻ってくる。
 けれど、俺はその瞬間、確かに感じていた。
 この夜、何かが終わり、そして何かが始まるのだと。

 観覧車のドアが開くと、雨上がりの風が吹き込んできた。
 マリーは小さく息を吸い、振り返って言った。

「ねえ、優」
「……なに?」
「ジンクス、信じますか?」
「今は……信じてもいい気がする」
「なら――きっと、これが“始まり”ですね」

 マリーの瞳に、赤い光が映った。
 その光は、まるで“記憶の奥の灯”のように、静かに揺れていた。

 その夜、部屋に戻ってからも、雨の匂いが胸に残っていた。
 濡れたシャツの袖を絞りながら、
 ふと――あの“赤い光”が、どこかで見た光景と重なるのを感じた。
 車のブレーキランプ、濡れた路面、倒れた自分の手。
 そして、泣きながら名を呼ぶ声。
 “お願い、優……!”
 胸の奥が跳ねた瞬間、視界が白く弾けた。
 それでも、俺はまだ信じたくなかった。
 あの夜が、すべての始まりだったことを――。

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