しあわせの霧

辛妖花

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はじまりは晴れ

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  よく晴れたある日の朝、私は母に電話をした。もう何年も会ってないし、メールやSNSもあまりしていなかった。

「はい?あかり?こんな朝早くにどうしたの?」

  久しぶりの母の声はやはり忙しそうに慌てていた。だが、何かほっとする。

「仕事辞めちゃった···」
「あ、そう」
「え?それだけ?」

  あまりに呆気ない返事に驚いていると、

「だって、あんたが決めた事でしょ?頑張って駄目だったんなら仕方ないじゃない」

  理解があるのは嬉しいが、驚いたり怒られたりするのかと構えていたので、拍子抜けしてしまった。

「で?まだあるの?もう仕事行かないといけないんだけど」

  少々苛立った声に、慌てて本題を切り出す。

「家に帰って良い···?」
「良いよ。ただし、家事全てやる事。いい?」
「あ、え?あ、うん。分かった···」

  間髪入れずに返ってきた返答の意味を、理解する時間が足りない。驚きっぱなしの私に更に付け加える。

「あ、あと、おばあちゃんの看病もよろしく。っても着替え持ってって、話し相手になるくらいだけど。」
「え?!」
「後はメールしとくわ。じゃあ今日からよろしく!」

  ちょっと待って!の声は届かず虚しく部屋にこだまし、電話の切れた音だけが耳に響いた。

「なんじゃそりゃ!!」

  色々な感情が込み上げてきて、思わず口から出ていた。あんなに落ち込んでいたのが嘘の様に、活力がみなぎって怒りが湧いてきた。

  いやいや、まず久しぶりとか今までどうしたかとか無いわけ!?
  仕事なんで辞めたとか聞かないの?しかもなんだ?家事全部やれって!?今日からよろしくって、なんで今から行くの分かるの!
  極めつけに、おばあちゃんの看病って何!!?

「おばあちゃんの、看病って······なに?」



  引っ越し業者に連絡をして、ひとまず今日泊まれるだけの荷物を持ち、マンションを出た。
  大学生から今まで10年間住んできた場所だったが、あまり良い思い出が無いせいか、未練は無かった。

「あ、あいつの荷物どうしよう···」

  徐々に仕事を転々とする様になった元彼の事を思い出した。昨日まで居たのに、今まで忘れていた。
  仕事が忙し過ぎて、気を使う事が出来ず、自分の悩みばかり言い過ぎたのだろう。

「俺の気持ちも知らないで···」

  そう言い残して去って行ってしまった。気の弱い人だった。悪い事をした。また、段々と気持ちが沈んでいく。



  母はバリバリのキャリアウーマンで、現実主義。父の話しは聞いた事が無い。妹に甘い母でも、今まで1度も聞くことは無かった。そのせいか、母に恋愛の相談は出来なかった。
  そんな事を考えながら電車に揺られ、車窓の眺めをぼーっと見ていると、懐かしい街並みが見えてきた。
  駅に着く。春の暖かな日差しを浴びながら歩き出した。

  母の住む高級マンションに着き、持っていた鍵で少々重い扉を開ける。玄関を抜けキッチンを右手に通り過ぎると、リビングだ。荷物を置き、正面の大きなベランダの窓を開ける。爽やかな風とともに、メールの着信音が鳴る。母からだ。

  「おばあちゃんは、月のゆりかごって言う施設に居て、認知症が進んで私の事も忘れているけど、驚かないで話し相手になってあげて。今日面会の予定だったけど、急に仕事のトラブルがあって行けないから、代わりに行ってね。おばあちゃんも喜ぶと思う。施設には連絡してあるからよろしくね」

  とあった。いつもの事だが、急な話しで戸惑う。しかし、5・6年前に会ったおばあちゃんは、笑顔が可愛いくて明るく元気だった。
  仕事が忙し過ぎて、忘れていた。また自分の事ばかりしか見ていなかった事が悔やまれる。他人の事はあんなに必死で取材し、駆け回っていたのに。
  自分への不甲斐なさで怒りが湧いてくる。それを原動力に、小さなバックを引っつかまえて早足で家を出る。



  「月のゆりかご」と言う金色の文字が掲げられた施設に着いた。そう言えば、妹はこの事を知っているのだろうか。2年前に彼氏が出来たと連絡を貰ったきり、何の音沙汰も無かった。
  いや、連絡が無いのは自分から連絡をする事が全く無かったからだろう。
  そんな事を眉間に皺を寄せて悶々と考えていると、後ろから声をかけられる。

「どうしましたか?」

  そっと屈んで顔を覗き込んで来たのは、優しい顔立ちに似合わぬガッシリとした体格で長身の男だった。本当に心配そうに眉を八の字にしている。

「あ、すいません。母の代わりにおばあちゃんの面会に来ました」
「ああ!そうでしたか。何か具合でも悪いのかと思って心配しましたよ」

  そう太陽の様に笑う男は、どうぞと手を施設内へ向け、案内してくれた。



「こちらの部屋に居ますよ。一人部屋なので、気兼ねなくゆっくりしていって下さい。」
「ありがとうございます」

  何かあったらベッドのコールボタンを押して下さいと言って会釈し、男は事務所に戻って行った。名前を聞くのを忘れたが、帰りの挨拶の時にネームプレートを見ようなどと考えながら扉をノックし、スライドさせる。
  早くなる鼓動を感じながら、ベッドに腰掛けているおばあちゃんを見る。

「こんにちは。久しぶりおばあちゃん」


  私の知っている可愛い笑顔で、おばあちゃんが言った。



「あんた誰」



 太陽が眩しい。
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