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悪徳の実を齧ろと囁くのは蛇なのか、己の心そのものなのか

変わってしまった夫

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 明治六年十月、征韓論というものに破れた西郷様は鹿児島にお帰りになった。
 そのあとに続くようにして、衛の恩人である少将様も辞表を出した。
 衛は東京に残ったままだった。
 西郷様は鹿児島に士族を教育する私学校を作るらしいとも聞いたが、和田倉門外の兵学寮で講師をしていた衛は呼ばれなかった。
 来年にはフランス式の士官学校が市ヶ谷に設立されるとも聞いたが、そこの講師としても衛は招かれてはいない。

 あっという間に冬になりもうすぐ師走だ。
 六月に加藤家に輿入れしたのが遠い昔のように感じる。

「あなたは素晴らしい先生だと思いますのに。」

「俺は無学無教養すぎるんだ。そんなもんだよ。」

 私は夫の上着を受け取りながら、たった数か月で夫が老けてしまったようだと悲しく思った。
 豊かで黒々している髪の毛には白髪など無く、顔に皺だってありもしないのだから老けてといういい方はおかしいが、彼から覇気というものが消えてしまったような気がする。

 尊敬する方が鹿児島に帰られてしまったから?
 あなたがそこに向かえないのは、あなたが士族ではないから?

 でも、士族であることがそんなに大事な事なのだろうか。
 確かに、士族であった人達には、徴兵などの政府のありようは受け入れられるどころか、生きるための手段を奪われたようなものかもしれないが。

 利秋様のように先を読める人に言わせれば、衛は東京に取り残されて良かったね、ということらしい。
 西郷様が今後不満不平の士族をかき集めて、兵に仕立てて政府に叛乱を起こそうと考えていると彼には思われるらしい。
 私学校を作られるのは、士族の方々を教育し直して、別の生きる道を模索しているかもしれなくてよ?

 けれど利秋様は違うと言って首を振った。
 そして、酷い事も言い放った。

「加藤こそ鹿児島に消えてくれても良かったものを!」

「まあ!酷い!加藤が鹿児島に行くのならば、妻の私だって付いていくと言うのに!」

「夫を受け入れない妻とは離れた方があれも幸せなのではないのか?」

 最近の利秋様は私にお優しくない。
 自分で観劇などに誘っておいて、そしてこんな風な当て擦りを言うのだ。

「どうした?浮かぬ顔をして?」

 夫の声が私の物思いを破った。
 この私を心配してくれる目はいつも通りだと、私は衛に微笑んでいた。
 あの夜以降も夜の勉強はしているが、あの夜の前にあった勉強後のひと時が一切無くなり、衛は私にそれはもう丁寧な振舞いをするようになったのだ。
 ええと、今までだって丁寧だったけれど、なんだか彼と私の間に線引きがされたようだと言えばいいのだろうか。

「いいえ。あなたが標準語でばかり話すのが寂しくなったのよ。」

「仕方が無い。君の話す言葉を話せなければ、今後はどこでもやっていけなくなるからな。」

「あなたの言葉は好きでしたのに。」

「では、では、俺と鹿児島に行ってくれるか?」

 それはあなたも西郷様のもとに行かれるという事ですか?
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