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15 潮目

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 侍従のカイルさんは言った。自分に使われるのが嫌ならとっとと官吏になれ、と。

 その時はよく分からなかったが、官吏になってみて僕はその意味が分かった。同じ主人に仕えながら、侍従と官吏は全く違う世界と言っていいほど違うのだ。

 両者の間には不可侵条約のようなものがある。カイルさんは陛下の御信頼を得て宮で自由に振舞っているように見えたけれど、官吏の領分には絶対に踏み込んでいないのだ。要望は伝えるものの、「お任せしますね」という態度である。

 ただ、官吏をまとめる宰相に対しては、「お任せしますと申し上げたはずですが?」になってるみたいだけど。

 官吏となった僕に対しても親しい様子は変わらないものの、一線引いて接してくるようになった。直轄領の補佐官になってからは、公の場では「ザイ補佐官」「ザイ殿」と呼ばれる。

 初めは挙動不審になってしまいそうなくらい、物凄い違和感があった。
 しかし、それも次第に慣れていった。

 つまり、僕は油断しきっていた。

 ※

「ザイ、ほらおいで」

 ある日突然、僕のところに単身、陛下がお越しになった。

 野遊びに行くような気軽さで誘われて僕がノコノコとついていった先は、酸鼻を極める戦場だった。

 僕は人が血を流すのは見慣れてしまっている。宰相様のご子息様の僕は、小さい頃から命を狙われていたから。

 それでも、この時は何度も吐いた。

 投降しない敵は利用価値がなければ斬って捨てるしかない。そうやって打ち捨てられた何百もの遺体の中を帝国軍は進む。あの鉄錆と腐敗の匂いはなかなか慣れるもんじゃない。

「しっかりおし、ザイ。でないと死ぬから」

「はい……」

 いや、僕、文官なんですけど、なんて申し上げられる状況ではない。

 僕が地方にやられたり外国を回らされたりしていたのは、父のせいだけではなかったらしい。「私も陛下も、帝国に不利益がないのなら宰相の好きにさせるつもりだ」という補佐の閣下のお言葉を僕は思い出す。

 あちこち回らされたお陰で、僕は外国の地理と情勢に詳しい。それに、直轄領や地方官仲間を通じて人員や物資の確保に目処がつく。さらに、実戦に出たことのあるカイルさんや母、昔兵糧の輸送を請け負っていた元商人の父から折に触れ戦の話を聞いていたから、戦の型も自然に学んでいる。

 そんな僕の指示を聞いて軍や侍従の方々が四方八方に飛び、帝国軍は日の出の勢いで進む。

「商人は向こうから仕事を取りに来るからいいのだけれど、官とのやりとりが今ひとつうまくいかなくて困っていたのだよ。我が帝国に優秀な文官は数多いけれど、天幕の生活に慣れている文官は、なかなかいないからね。お前がいてくれて助かった。お前の働きで、全く様子が違ってきたよ」

 陛下からお褒め預かったけれど、この業務量、一人地方官の時に匹敵するかそれ以上。流石に無理です! と音を上げる直前、北の宮から応援の官吏五名が送られてきた。

 人生で初めての戦場に、皆さん冗談でなく震えてらした。だけど、限界に近い状態の僕が

「助かりますうぅっ! ずっと僕一人でっ! 指示内容は簡単なのに、手続きが厳格で煩雑でっ! だから、僕以外に分かる人がいなくてっ! だからっ、だからっ、ありがとうございますうぅっ!」

って号泣したもんだから、何か色々ぶっ飛んだらしい。すぐにテキパキと動き出した。お陰で、僕は軍からの要望を伝え、官吏たちに仕事を割り振るだけで済むようになった。

 流石は北の宮の官吏の皆さん、一月もすれば軍の意図を正確に理解し、僕に相談なしで大抵のことがこなせるようになっていた。

 ただ、慣れない移動続きの生活に疲れが見えてきた。そこで、第二陣、第三陣と北の宮から応援の官吏を呼び寄せ、交代で業務に当たるようになった。

 そろそろ、僕はお役御免かな、と思っていたら、今度は最前線に連れていかれた。

「従軍はさせても、実戦に出すおつもりはないと仰っていらしたのに」

 先行していたカイルさんが、本隊に合流していた。カイルさんが珍しく不機嫌に申し上げるのに、陛下が仰る。

「状況による、と言っていたろう? 東の宮さまのお墨付きもいただけたのだし。お前だって、そのつもりで教えていただろうに」

 顔をしかめるカイルさんをよそに、陛下が僕に仰る。

「さて、ザイ、ここからが本番だよ」

 そこからは転戦に次ぐ転戦。文官を軍に現地徴用という異例の勅で将軍の直下に付けられた僕は、わずかの間でいっぱしの指揮官となってしまった。

 ※

 でも、ここまでは僕の予想の範囲。やたら東の宮様の接受の担当(戦闘訓練含む)が回ってきていたから、そういうこともあるかもしれないと思っていたから。

 でもね、これは予想外。

 あの突然の従軍から帰還後、半年も経ってない今、僕は雪山で震えてます。
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