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第1章 レンズ越しの世界
第4話 相合い傘
しおりを挟む昨日とは違い、人間が疎らに同じ方向へ向かっていく。
今日の登校は、少しだけ時間を遅らせた。
静かな風が頬を撫で、心が穏やかになる。
そんな中、曲がり角の先に、人影がひとつ。
「お、山野くんじゃん! 奇遇だね。一緒に学校行かない?」
元気な声に顔を向けると、そこには金髪の女の子――龍園 結の姿があった。
奇遇、か 。
角で待ち伏せしていたように見えたのは、気のせいだろうか。
本来、“奇遇”とは偶然の再会に使う言葉のはずだが――。
「おい、龍園! お前またこいつと一緒かよ……」
もうひとつ声があった。柊だった。
「は? あんたには関係ないでしょ。とっとと行きなさいよ」
柊は俺を睨みながら、舌打ち混じりに走り去っていく。
金髪が朝日に揺れていた。
少しだけ寝癖の残る髪に、風が遊ぶように吹いていた。
「……なによ、じっと見ちゃって」
「いや。珍しく寝癖ついてるなって思っただけだ」
「なっ……ちょ、やだ! なんで言うのよ、そういうの!」
わたわたと髪を直す龍園を横目に、ふと口元が緩んだ。
「……わらった? 今、笑ったでしょ」
「笑ってない」
「絶対笑ったし!」
何気ないやり取り。
けれど、それがどこかくすぐったくて、心がほんの少しだけ、あたたかくなった。
人と並んで歩く朝。
ただ、それだけのことが、こんなにも穏やかだとは知らなかった。
◇
教室のドアを開けた瞬間、空気が変わった。
「カーップルご登場!」
叫んだのは柊だった。
その後ろで、クラスの男子たちが一斉にどよめき、笑い声が弾ける。
黒板には、チョークで大きく描かれた“相合い傘”。
その下には――。
山野 主そして――龍園 結。
名前が、並んでいた。
その絵を見た龍園が、ぴたりと立ち止まる。
数秒の沈黙のあと、俺のほうに顔を向ける。
「……好きじゃねえし!」
潤んだ目を逸らしながら、そう言い捨てて席へ向かってしまった。
俺は――なにも言えなかった。
そして、再び胸の奥に、黒いものが渦巻いていた。
「はいはい、おやめなさい! 最低ですわ」
その声とともに、ひとりの女子が黒板の前に立っていた。
緑がかった美しく巻いた縦ロールが揺れ、制服のリボンを整えながら、落ち着いた動作で黒板のチョークを消していく。
「柊くんたち、男子全員、謝りなさい」
「はあ? なんで俺らが」
「“相合い傘”をネタにするの、幼稚すぎますわ。それに、相手の気持ちもお考えになって?」
教室の空気が一気に引き締まる。
女子の名前は、天童 彩。
このクラスの実質的なまとめ役で、生徒会にも名を連ねるお嬢様だと聞いている。
彼女は俺のほうにゆっくりと歩み寄ると、ふっと優しく微笑んだ。
「山野くん、大丈夫でした? 嫌な気持ちに、なってないかしら?」
優しい瞳に、少しだけ戸惑った。
「はい、席につきなさい。授業はじめますよ」
担任が場を落ち着かせるように、間に入ってくる。
しばらくすると、チャイムが鳴り授業が始まる。
俺の教科書は今日も届いていない。
無言のまま、山田が自分の教科書をすっと机の中央に寄せる。
その動作はもう慣れたものだった。
けれど――今日は、何かが違った。
ちら、と山田の視線を感じた。横目で俺の表情を窺っている。
普段よりも距離が近く、わずかに指先が触れた。
それだけで、胸の奥がざわめいた。
『昨日……龍園さんと、何かあったの?』
なんて、問いかけるような空気が、沈黙のなかに滲んでいた。
一方で、俺の思考は別の場所にあった。
『……好きじゃねえし』
朝、龍園に言われたその一言が、何度も胸に突き刺さっていた。
突き放すような声。潤んだ目。
それなのに、どこかで期待していた自分が、情けなかった。
視線を横にずらす。
そこには、教科書を真剣に見つめる山田の横顔があった。
小さく息をする音。整った睫毛。微かに揺れる黒髪。
その姿――ふいに、湧き上がる衝動があった。
抱きしめたい……?
唐突だった。自分でも驚くほどに。
けれど、確かに湧いた。
胸の奥が、まるで何かを欲するように疼いていた。
チャイムが鳴った。昼休みの合図。
ガタガタと椅子が引かれる音が広がるなか、俺はぼんやりと教卓を見つめていた。
教室のドアの前で、龍園が立ち止まる。
俺のほうをちらりと見た。
けれど、すぐに視線を逸らし、無言のまま教室を出ていった。
その表情は、怒っているようにも、泣きそうにも見えた。
「……あの」
隣から、小さな声がした。
山田が、机に手提げ袋を置いていた。
中から出てきたのは、包み布にくるまれたお弁当箱。
そして――彼女は、そっと自分のマスクに手をかけた。
淡く息を吸って、指先が迷いながらも、マスクの紐を外す。
現れた口元は、思っていたよりもずっと繊細で、控えめに閉じられた唇は、どこか恥ずかしげに震えていた。
「……その、あまり見ないで、ください」
顔を赤くしながら、うつむく山田。
なのに、視線を外せなかった。
ただ、静かにご飯を口に運ぶその姿に、胸の奥がふっと温かくなるのを感じていた。
山田も……人間なんだ。
それは、当たり前のことだった。
けれど、どこかで「他人」と思っていた心に、初めて溶け込んできた瞬間だった。
山田が、そっとお弁当を口に運ぶ。
食べるたびに小さく瞬きをして、喉を鳴らして、ごくりと飲み込む。
その仕草の一つひとつが、やけに丁寧で、見ているだけで心が静まっていく。
言葉はない。けれど、それが嫌ではなかった。
むしろ、この沈黙が、心地よかった。
まるで、そこにいるだけでいい―― 。
そんなふうに、初めて思えた気がした。
「あ! ここにいたんだ!」
急に教室のドアが開き、元気な声が飛び込んできた。
白髪にショートツイン、そして眼帯が特徴的な池田まり。
その後ろから、志貴が困ったような顔で肩をすくめてついてくる。
「ごめんヌシ、朝のこと……ちょっと、妹に話しちまってさ」
いつものように片目を閉じて、志貴が謝ってきた。
「ちょ、ちょっとっていうか、めっちゃ言ってたじゃん。『黒板にでっけえ相合い傘描かれててさー、龍園が泣きそうな顔で"好きじゃねえし"って投げ捨てたんだぜ』って!」
まりは、まるで実況するみたいに両手を振りながら言った。
そして、そのまま勢いよく山野の方へ駆け寄ろうとして――。
ふと、止まった。
視線の先には、机をくっつけて一緒にお弁当を食べている、山田の姿。
マスクを外し、そっと俯きながらご飯を食べている彼女と、その姿を静かに見つめていた山野。
まりの顔が、僅かに曇った。
その大きな目が、揺れている。
そして、さっきまでの笑顔が、どこかぎこちなくなっていた。
「……な、なーんだ。もう大丈夫そうじゃん」
無理に明るく言いながら、まりは小さく唇を尖らせた。
その変化に、山田も気づいたようだった。
マスクをそっと装着し、背筋を伸ばす。
だけど、瞳は微かに震えていた。
「……あの、わたし、お手洗い行きますね」
静かに立ち上がると、丁寧に弁当箱をしまって席を離れた。
まりは、去っていく山田の背中を目で追って、再び視線を俺に戻す。
そして――どこか不機嫌そうに、ぼそっと呟いた。
「……誰にでも優しくしないでよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がふわりと温かくなった。
――俺、山田と……友達になれたんだ。
この言葉を聞いて、そう思えたことが嬉しかった。
友達、こんなにも……心に沁みるものだったとは。
……だけど。
まりの顔が、少しだけ不機嫌そうに見えたのは、なぜだろう。
その視線は、どこか、朝の龍園を思い出させた。
……まりとは、友達……だよな?
戸惑いが、心の中でゆっくりと波紋を広げていく。
わからない。けれど、何かが、確かに少しずつ変わっていく気がした。
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