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第1章 レンズ越しの世界
第6話 眺めが良い右側
しおりを挟む扉を開けると、冷たい風が頬を掠める。空は、どこまでも青く澄んでいた。
人間たちが、同じ方向へと歩いていく。見慣れた朝の光景――のはずだった。
いつもなら、心が静かになる時間。
だけど今日は、胸の奥に小さな棘のような違和感が残っていた。
寮の階段を降りると、そこには――。
「おはよう、……山野くん」
朝日を浴びた金髪が、キラキラと光っていた。龍園の姿があった。
言葉よりも先に、彼女が何かを伝えようとしているのがわかった。
――俺に、人間の感情が読めた。
かつての俺には理解できなかったはずの人間の揺らぎが、なぜか、このときだけは見えた。
「昨日のことは、何も言わないよ。でもね、ひとつだけ、言わなきゃいけないことがあったんだ」
彼女は、視線を落とす。
その瞳が、少しだけ揺れていた。
「相合い傘事件だよ。あのとき、好きじゃないって言った」
――やっぱり、昨日のことか。別に今はもう気にしていない。
でも、彼女がずっと気にしていたことが、ひしひしと伝わっていた。昨日、一日中ずっと。
「私はさ、まだあんたと会って数日。……ううん、三日? そんな短時間じゃ、ふつうは好きになれないじゃん」
それはわかっていた。ただ――「好きじゃない」と言い切られたとき、胸の奥に何かが渦巻いたのを覚えている。
「気にしてない――」
そう言いかけた瞬間、彼女の言葉が食い気味に重なった。
「でも、好きじゃないってのは嘘だよ。あんたのこと、もっと知りたいって思ったの。……昨日の、あの姿を見て」
あの姿。
山田のために、俺は怒り、そして震えた。
――それが、ちゃんと“向き合う”ってことなのだろうか。
分からない。でも、彼女がそう思ってくれたのなら、たぶん少しは届いたのかもしれない。
「すごく、かっこよかったよ。……守ってやれよな! 山田のこと!」
それだけを告げて、彼女は走り出した。
けれど、数歩進んだところで立ち止まり、振り返る。
「嘘ついてごめんな! これで、五百円のことはチャラだかんね!」
金髪を揺らして、彼女はまた走り出す。
その背中が、朝日に照らされて、少し眩しかった。
◇
「今日から山田さんは体調不良のため、しばらくお休みになります」
その言葉が、黒板の前から淡々と告げられる。
右側が空いていた。
そこから見える景色は、いつもよりずっと広く見えた。
山田がいない右側は――眺めが良かった。
……昨日の出来事を思えば、休むのも無理はない。
横井の件で、あんな目にあって……。
「では、授業を始めます」
教師の声に、教室が静まる。
ノートを開くふりをしながら、何度も、右側を見てしまう。
空いた席。
――寂しい、のか?
いや、少し違う。けれど、それに似た感覚が胸に残っていた。
授業終了のチャイムが鳴る。
――お昼か。今日は、屋上に行こう。
立ち上がり、食堂へ向かう人の流れをすり抜けるようにして、階段を登る。
静けさの向こう、誰もいない屋上の扉を開けた。
――変わらない。ここは、相変わらず風が気持ちいい。
空を見上げる。
風が、頬を撫でていく。
右側が空いたままの教室が、まだ胸のどこかに引っかかっていた。
手すりにもたれながら、遠くの雲を目で追っていた。
静かで、心が落ち着く時間――そのはずだった。
「おーい、山野ー!」
振り返ると、明るい声と共に赤茶の髪が風になびいていた。
「ここだと思ったよ。お昼時、静かなとこ行くなら屋上かなって」
池田志貴が、笑いながら近づいてくる。その後ろに、妹のまりもぴょこぴょこと続いていた。
「……昨日、大丈夫だった?」
志貴が真顔で聞いてきた。笑顔の裏に、ちゃんと心配が滲んでいる。
「ああ、なんとか」
そう答えると、まりが山野の隣にちょこんと座った。
風が彼女の短いツインテールを揺らす。
「……ヌシくん、今日、ちょっと元気ないかも」
そう呟いたまりの声は、風に消えそうなほど小さかった。
でも、その声に宿る優しさは、山野の胸に微かに残った。
彼女の視線が、僕の背中に向いているのがわかった。
ほんの少しだけ、眉をひそめるような、気にかけるようなそんな表情。
――たぶん、昨日のことがまだ気になってるんだろうな。
まりは言葉にしないけれど、その目が、俺に何かを伝えようとしているようだった。
「ねぇ、主くん。今日、放課後ひま?」
まりが聞こうとしたその時――。
「――ごめんなさい。ちょっと、いいかしら?」
透き通った声が、屋上の空気を割った。
制服の胸元に委員長章。翠の髪が陽光を受けて揺れている。
天童 彩だった。
「山野くん、今日の放課後、委員長室まで来てもらえるかしら。少し、話がありますの」
山野は短く頷く。天童はそれを確認すると、軽く一礼して、すぐに背を向けて去っていった。
残された三人の間に、しばし風だけが吹いていた。
「……あの人、なんか……すごいな」
「うん。話って、何だろうね?」
まりと志貴の言葉を受けながら、山野はただ、右側の空いた席のことを思い出していた。
チャイムが鳴る。
まりが「あっ」と小さく声を上げた。
「授業戻らなきゃね」と志貴が言い、俺たちは屋上をあとにした。
階段を下りながら、まりは何か言いかけてやめた。
けれど、その背中から伝わるものは、なんとなく、優しさに似ていた。
◇
放課後。言われたとおり、委員長室へ向かう。
夕陽が差し込む部屋の中、天童は窓際に立っていた。
緑がかった長い髪が、茜色に染まっている。
「お待ちしておりましたわ、山野くん」
振り返った彼女は、いつも通り穏やかな微笑みを浮かべていた。
だけど、その奥にあるものを読み取ろうとしてしまうのは、俺の癖だ。
少しでも、人間のことを知りたいという気持ちが、俺をそうさせた。
「山田さんのことですけれど……担任の先生から、伝言を預かっておりますの」
天童は手元の紙をちらと見てから、続けた。
「明日、登校なさった際は、そのまま職員室へお越しくださいませ。とのことです」
「わかった」
「それと……もし、彼女の様子を見に行きたいとお思いでしたら――こちらを」
差し出された小さな封筒。中には、山田の住所が丁寧に書かれていた。
「ご家族からも、了承は得ておりますの。……ただし、ひとつだけ条件がございます」
天童の声音が少しだけ低くなる。視線がまっすぐ、俺を射抜いてきた。
「このあと、私の家へ来ていただけますか? どうしても……お話しておきたいことがございますの」
その瞳に迷いはなかった。俺を試すようでもあり、すがるようでもある。
……何かがある。彼女もまた、何かを。
そんな風に感じた。
「わかった。行くよ」
俺は、そう答えていた。
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