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第1章 レンズ越しの世界
第7話 閉ざされた過去
しおりを挟む天童の家は、驚くほど広かった。
けれど、想像していたような豪奢さではなかった。
敷き詰められた絨毯も、高そうな調度品もあるにはあるが、どこか抑制されていて、整いすぎていた。
きっとこれが、いわゆる“上流階級”の家なのだろう。
通された応接間に、静かな足音と共に天童が現れた。
「お越しいただき、ありがとうございますわ。……粗茶ですが、どうぞ」
銀のティーセット。差し出されたティーカップから、やさしく香りが立つ。
紅茶の銘柄なんて知らないが、きっと高級なものだろうと思った。
俺が手に取るのを待って、天童は一口、それから話し始めた。
「山田さんのことですが……入学してからの二年間、彼女は、ほとんど誰とも話していませんでしたの」
天童の表情に、少しだけ陰が差す。
「クラス替えのたびに話しかけてくれる子もおりましたけれど、彼女は――どこか、心を閉ざしていたのですわ。いいえ……自ら、拒絶していたように見えましたの」
拒絶――。
確かに、俺が初めて顔を見たとき、あの怯えたような視線を思い出す。
「人間不信……だったのかもしれませんわね。ご両親にさえも、どこか壁を作っていたように、お見受けしました」
天童はそっとカップを置いた。紅茶の表面に、小さく波紋が揺れる。
「けれど……あなたと出会って、ほんの少しだけですけれど、彼女は変わりましたの」
俺は、黙って天童を見た。
「授業中に目線を動かすようになりました。あなたの方へ。声が聞こえたとき、表情が動いていたこともありましたの。そんなの、入学以来一度もなかったことですわ」
確かに伝わっていた、彼女の些細な変化。
そして、天童もそれを見逃さなかった。
「……山野くん。あなたが彼女を、ほんの少しですが……動かせたのですわ」
やわらかく、けれど確かな口調だった。
その言葉に、どう返せばよかったのか、わからなかった。
ただ――。
俺の中に、またひとつ、確かな想いが芽生えた気がした。
天童の言葉が落ち着いたころ、ふいに彼女がもう一度、ティーカップに視線を落とした。
「……それと、もう一人。お話ししておきたい方がいますの」
カチン、と紅茶のスプーンを受け皿に置く小さな音。
その静けさに乗せて、名前が口をついて出た。
「……龍園、のこと、でしょうか」
「察しが早くて助かりますわ。――ええ、相合い傘事件。彼女とあなたの間に、少し関わりが生まれたように思えましたの」
俺は黙ってうなずく。けれど、たしかに彼女の距離は少し近づいた気がしていた。
天童は、少し目を伏せてから話し始めた。
「彼女は、一年生のときは金髪ではありませんでしたの。地味で、目立たない存在でしたわ」
――意外、だった。
今の明るくて快活な姿からは、想像がつかない。
「ある日、教室で……いじめに遭っていたそうですわ。手のつけられないような陰湿なものだったそうです。そのとき、助けたのが――柊くん、でした」
「柊が?」
「ええ。彼にも色々ありますけれど、曲がった正義を通せる子ではないようですわ。……その日を境に、龍園さんは少しずつ変わり始めました」
天童は、すっと俺に視線を向ける。
「そして、二年生になって突然、髪を金に染めて登校してきたのです。“変わる”ために。自分自身を、過去の自分から――守るために、ですわ」
“変わるため”。
その言葉が、胸に残った。
変わろうとする意志。それは、俺にも思い当たる節がある。
……俺もまた、ここで“変わろう”としているのだから。
◇
天童宅を後にした帰り道、空はもうすっかり夕焼けに染まっていた。
街灯が少しずつ灯り始めて、風が少しだけ冷たくなった。
山田のこと。
龍園のこと。
人間の“変化”というものが、頭から離れない。
誰もが何かを抱え、何かを背負って生きている。
それがこの世界の“人間”なら――。
……俺も、その中の一人に、なれるのだろうか。
問いの答えは、まだわからなかった。
帰ろうと思っていた足が、気づけば駅とは反対の方向を歩いていた。
自分でも、なぜそうしていたのかは、よくわからなかった。
気づけば、目の前には――普通の、マンション。
大きくも、小さくもない。ただ、人の暮らしを丁寧に支えていそうな建物。
エントランスの呼び鈴の前で、俺は少しだけためらった。
……来たところで、迷惑かもしれない。
でも、行かずにはいられなかった。
ピンポン、とチャイムを押す。
しばらくして、扉が静かに開いた。
「……はい?」
出てきたのは、彼女の――母親だった。
落ち着いた物腰の女性。けれど、その目の奥に、疲れと戸惑いが滲んでいた。
「あなたが……山野くん、でしょうか?」
「……はい」
そう答えると、彼女はふっと目を細め、深々と頭を下げた。
「このたびは、娘を助けてくださって、本当に……ありがとうございました」
深く、静かな礼だった。
言葉ではなく、その佇まいから――心の底から感謝しているのが伝わってきた。
でも、次に続いた言葉は、俺の胸を少しだけ冷たくした。
「申し訳ないのですが……もう、お見舞いは遠慮させていただきたいのです」
――え?
「今の娘は……まだ、誰とも会いたがっていません」
そう言って、扉の奥に視線を落とす。
その目が、微かに揺れているのがわかった。
――そうか。
無理もない。
あの出来事の直後、心を閉ざすのは当然だった。
「……わかりました。伝えたいことがあれば、お願いします」
「……ええ、ありがとう。本当に、ありがとう……」
母親は、もう一度深く頭を下げた。
扉が、静かに閉まる。
帰り道。夕焼けがすっかり夜の帳に変わっていた。
街の喧騒は遠く、風が冷たい。
山田には、会えなかった。
言葉も、何も届けられなかった。
それでも――ほんの少しだけ。
彼女の心の一部に、何かが残ってくれていたらいいと、そう思った。
俺はポケットに手を突っ込み、街の灯りの中へと歩き出す。
その背中は少しだけ、人間の匂いがしていた。
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