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第三章 穢れた愛、それでも遺したもの
穢れた愛、それでも遺したもの8
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ガチャリと開いた扉の向こうにいたのは慧馬で、透巳にとっては見慣れた顔だが小麦たちにとっては知らない成人男性だ。
梓紗は刑事と思われる慧馬に警戒の色を見せたが、彼は何故か透巳の方に睨みを利かせて近づいていく。その表情は怒気に染まっていて透巳は思わず首を傾げる。
「お前ぇ……やること無茶苦茶すぎんだろ!心臓止まるかと思ったわ!」
「そんなに変なことした?」
「したわ!めちゃくちゃ血出てるじゃねぇか!」
透巳の傷ついた右手を掴んだ慧馬は、キョトンとしている彼を叱り始める。一歩間違えば大怪我を追う羽目になっていたので慧馬の怒りは当然だが、透巳に限ってそんなヘマをすることが無いのも両者理解している。だから透巳は慧馬が過剰に怒っている理由が分からず、逆に慧馬はそれでも心配してしまう幼馴染心があるのだ。
「まぁまぁ、そう怒鳴らないで。血圧あがるよ?」
「誰のせいだ誰の」
「それより刑事さんの仕事してよ。これからどうなるとか俺全然詳しくないからそっちで勝手にやって」
置いてけぼり状態でどんどん話が進んでいる現状に、小麦と梓紗は呆然とすることしか出来ない。梓紗に分かるのはただ一つ。これで自分の人生が地に落ちてしまったということ。
小麦に分かるのはただ一つ。透巳のおかげで自身が梓紗から解放されるのだろうということだけだ。
「君には詳しい話を聞かないといけない。俺についてきてもらうよ」
「……そう。分かった……結局、みんな私の邪魔ばかりしたいのね」
厳しい面持ちで梓紗に声をかけた慧馬。すると梓紗は大した抵抗をすることなく、慧馬の指示を享受した。映像という証拠がある以上、どう足掻いても無駄だと考えたのだろう。
全てを諦めた虚ろな目を見せた梓紗は、それから慧馬に黙ったままついていった。これから梓紗がどうなってしまうのか、詳しいことは小麦には分からなかったが、もしかしたらこれが梓紗との最後なのかもしれないと朧気に思った。
「……梓紗、どうなるの?」
「さぁ?少年院とか、そういう施設に入るんじゃない?」
「そっか……」
ポツリと尋ねた小麦に透巳は適当にそう答えた。透巳自身そういった知識が乏しいので詳しく無い上、そもそも興味もないのだ。
「あ、さっきキスしちゃってごめんね」
「っ……だ、だいじょぶ、だから」
「そう?ならいいんだけど」
小麦は内心「よくねぇよ」と全力でツッコみたかったが、そんな空気でも無かったので何とか踏みとどまった。だが小麦は透巳の顔を見るのも難しいほど心臓を鳴らしているというのに、透巳は涼しい顔でいるという状況に不満を覚えてしまった。
この日、結局透巳は病院で手当てをしてもらうこととなり、小麦はそれに付き添う形で学校を早退した。透巳の怪我は見た目ほど酷いものでは無かったが、包帯をグルグルと巻かれてしまったので痛々しいのは変わらなかった。
そして小麦は一時的に児童養護施設で生活することになった。小麦が今まで生活してきたのは加害者である梓紗の実家だ。梓紗の両親も娘が仕出かしたことの整理がつかぬまま、被害者である小麦を預かるのは無理があるだろうと考えたうえでの結果である。
********
梓紗と生徒会室で相対した日から一日後。透巳は朝早くから学校を訪れていた。空気が冷たく、生徒も教師も全くいない学校は新鮮なものだ。
そんな校舎の階段を次々と登る透巳の足取りに迷いはない。透巳が向かっているのは中学校の屋上。そこにいるはずの人物に会いに行くためだ。
屋上の扉を開けると透巳の視界には、裸足で柵の向こう側に佇んでいる梓紗の姿が映る。静かな風に制服はなびき、梓紗のその長い髪も美しくはためいている。
「……へぇ、意外ね。推測できたとしても、アンタは来ないと思ってたわ」
「もしかして、物凄く気持ちの悪い勘違いしてない?」
透巳の気配に勘付いた梓紗は一瞬意外そうな相好を見せ、すぐに不敵な笑みを浮かべた。それを目の当たりにした透巳は心底嫌そうな表情で尋ねる。
「私を止めに来たわけじゃないの?」
「は?何で俺がそんな面倒なことしなくちゃいけないんだよ。俺は正義の味方でも何でもない。俺が味方をするのは大事な存在だけだ」
透巳が自分の自殺を止めに来たのではないかと梓紗は考えたのだが、それはどうやら外れだったようだ。梓紗ももちろん透巳がそんなことをする人間だと思っていた訳でもないのだが、それ以外にここに来る理由が分からなかったのだ。
「じゃあ何しに来たのよ」
「死ぬ間際に見る顔が、憎くて憎くて仕方のない男ってどんな気分かなぁって思って」
「あんたクズね」
「否定はしないけど君に言われたくない」
心底性格の悪い動機に梓紗は苦言を呈したがお互い様なので、透巳は不満気な相好を露わにする。
「そう言えばどうやって抜け出してきたの?」
「そんなに気になる?」
「いや別に。ただ日本の警察大丈夫かなと思っただけ。一応大事な兄ちゃんが属してる機関だし」
「いちいち説明するの面倒臭いわ」
透巳は梓紗が目的のためにここを訪れることを予測していたが、どうやってそれを実行するかは見当がついていなかった。梓紗は本来なら今も警察に事情を聞かれているか、キチンとした監視下にあるはずなので彼の疑問は当然のものだ。
それがどんな方法であろうと、ここに梓紗がいるということがその方法の存在を証明しているので、その詳細は正直透巳はどうでも良かったのだ。
「……あんた、むぎのこと好きなの?」
「ん?好きだけど」
「……あら。好きじゃないのね、意外だわ」
「は?好きって言ってるじゃん」
唐突に梓紗はずっと気になっていたことを最期だからと聞くことにした。透巳の人間性からして、どうでもいい人間を助ける様なことはしないと思っていたからこそ、梓紗は彼が小麦を好いているのだと考えた。透巳は首肯したが、何故か二人の会話は噛み合わなくなってしまい彼は首を傾げる。
「嘘ね。嘘というより、アンタのそれは恋慕じゃない。執着が感じられないもの」
「……あぁ。そっち……確かに抱きたいとは思わないね」
「ほらみなさい」
二人の会話が噛み合わなかった原因は〝好き〟という言葉のニュアンスの違いだった。確かに透巳は原因はともあれ、小麦のことを友人として好いている。だがそれは恋愛感情では無い。透巳はこれまで誰かに恋慕の思いを抱いたことも無ければ、性的な目で見たことも無かったのだ。
それを梓紗は見抜いた。彼女は小麦という一人の少女に対し狂った恋慕の情を向け、それがいき過ぎたせいで彼女を苦しめたのだから。
「まぁでも人間としては好きなのね……なら困るんじゃない?」
「なにが?」
「私の自殺を見て見ぬ振りしたってバレたら、軽蔑されるわよ?」
揶揄う様に言った梓紗に透巳はキョトンと首を傾げる。今の小麦にとって透巳は自分を救ってくれた救世主だ。だがそんな透巳が自殺しようとする人間の存在を知っていて、それでも尚救わなかったと分かればその思いも冷めると梓紗は思ったのだ。
小麦は確実に透巳に恋愛感情を抱いている。それは梓紗も透巳も分かっていることだ。そして梓紗は小麦のその感情が、透巳に救ってもらったことによる盲目だとも思っていた。本当の神坂透巳を理解してしまえば、小麦はきっと離れていく。そう踏んでいるのだ。
「バレるバレない以前に、俺から話すつもりだから心配無用だよ」
「え?」
「ねこちゃんの愛を確かめてみるよ。もし軽蔑されたらそれまでだね」
「狂ってるわね」
「あんたに言われたくない……って、今日で二回目だよこの会話」
不敵な笑みを浮かべた透巳に、梓紗は思わず冷や汗を流す。透巳の行動の意味を、彼の思考を何となく把握してしまったからだ。
透巳は小麦を好いている。だがそれは興味に近い感覚だ。彼が愛する家族や友人には到底及ばない感情。それが今透巳が小麦に向けているものだ。そして透巳は小麦が自身の愛を注ぐに値する人間か探っているのだ。
透巳の全てを知ったとしても小麦がその好意に揺るぎを見せなかったのならば、それはもう信頼に値する人間と認識してもいい。逆に軽蔑されたのならそれはそれで透巳にとっては大した問題でもない。家族や幼馴染の慧馬に嫌われるのとはわけが違うのだから。
「ま。アンタがむぎに見放されるのを地獄で見物させてもらうわ」
「趣味わる。まぁどうでもいいけど」
どこかつまらなそうな表情を浮かべる透巳を見ていた梓紗はふと思い出したように目を見開くと、ニヤリと口角を上げて見せた。
「最期に良いことを教えてあげる。感謝しなさい」
「いいこと?」
透巳の問いかけに、梓紗はその〝良いこと〟について語って返した。それは透巳にとっては突如関係のない方向からやって来た知識で、少々当惑してしまった。だが知っていて損はない情報で、何故それを梓紗が提供してくれたのか一瞬分からなかった。だがその情報の内容からして、教えた方が彼女にとってはメリットがあったのだろうとすぐに結論を導き出す。
梓紗としては僅かな差ではあったが、どちらかと言えば透巳にこの事実を教えた方が良かったというだけなのだ。
「――ふーん。分かった。覚えておく」
「じゃあ、そろそろ死ぬとするわ」
「そ。いってらっしゃい」
とてもこれから死のうとする人間と、それを見届ける相手の会話とは思えないが、どちらも異常な性質だとこうなってしまうのだ。梓紗からは恐怖も躊躇いも感じられない。彼女にとっては小麦が傍にいない世界で生きる方が苦痛なのだから。
「あ、そうだ」
「なによ?」
「アンタのフルネームって何?」
「…………つくづく最悪な男ね」
梓紗が一歩踏み出そうとした時、それを止めるように声を上げた透巳。そんな彼に怪訝そうな視線を向けた梓紗は、透巳の失礼さ加減にほとほと嫌気がさしてきてしまう。
透巳は小麦が彼女を梓紗と呼んでいたことから下の名前は知っていたが、苗字は調べようとしていなかったので知らないのだ。
「廓井梓紗。むぎの人生を語るには欠かせない、一人の狂った女の名前。忘れるんじゃないわよ」
そう言うと、梓紗は透巳の方を見つめながら背中から落下していった。重力とは無慈悲なもので、梓紗の姿は一瞬で透巳の視界から消え去ってしまう。
透巳は何の躊躇いも無く屋上から地面を覗き込むと、仰向けに倒れて血を大量に流している梓紗の遺体を確認した。
その生々しい光景を目の当たりにした透巳は若干顔を顰める。だがそれは凄惨な光景に耐えられなかったからではない。
「……胸糞わる」
舌打ちを一つして、透巳はそう呟いた。彼の言葉を聞いた者も、今の彼の心意を知る者もどこにもいない。だが透巳は梓紗が死んだことに対して少なくともそういった感情を抱いたということだ。
透巳は正義の味方でも、聖人君子でもない。だからやたらと人を救ったりしないし、気に入らない奴なら死んでも仕方が無いと思っている。だからと言ってその相手が死んで喜ぶような腐りきった人間でもない。それを全て理解しているからこそ、透巳の家族や慧馬は彼を受け入れているのだ。
********
すぐ後に教師が梓紗の死体を見つけたことで、その日の学校は急遽休校ということになった。朝っぱらから警察やら救急車やらが中学校に集結してしまったので当たり前だが、経緯を知らない生徒からしてみれば寝耳に水だっただろう。
透巳は表向きの第一発見者が来る前にさっさと帰宅したので学校の騒がしさは見ていない。その内生徒たちにも通告されるだろうと朧気に予想しながら、透巳はある人物の着信を自宅で待っていた。
昼を過ぎた頃、透巳のスマホの着信音が鳴り響く。相手は小麦で透巳は待ってましたと言わんばかりにその電話をとった。
「もしもし」
『……す、透巳くん……あ、梓紗が……』
電話越しの小麦の声は震えていて、透巳はその理由をすべて把握している。生徒への通告はまだ済んでいないが、関係者である小麦には逸早く知らされたのだろう。
『自殺したって……』
「うん……ねこちゃん、ちょっと会って話せるかな?」
今にも泣きそうな小麦に透巳は静かな声でそう提案した。その時の透巳の相好はどこか緊張しているような、不安を感じているようなものだった。そして透巳は自覚する。
透巳は自分が思っているよりもずっと、小麦のことを気に入ったいたのだということに。
梓紗は刑事と思われる慧馬に警戒の色を見せたが、彼は何故か透巳の方に睨みを利かせて近づいていく。その表情は怒気に染まっていて透巳は思わず首を傾げる。
「お前ぇ……やること無茶苦茶すぎんだろ!心臓止まるかと思ったわ!」
「そんなに変なことした?」
「したわ!めちゃくちゃ血出てるじゃねぇか!」
透巳の傷ついた右手を掴んだ慧馬は、キョトンとしている彼を叱り始める。一歩間違えば大怪我を追う羽目になっていたので慧馬の怒りは当然だが、透巳に限ってそんなヘマをすることが無いのも両者理解している。だから透巳は慧馬が過剰に怒っている理由が分からず、逆に慧馬はそれでも心配してしまう幼馴染心があるのだ。
「まぁまぁ、そう怒鳴らないで。血圧あがるよ?」
「誰のせいだ誰の」
「それより刑事さんの仕事してよ。これからどうなるとか俺全然詳しくないからそっちで勝手にやって」
置いてけぼり状態でどんどん話が進んでいる現状に、小麦と梓紗は呆然とすることしか出来ない。梓紗に分かるのはただ一つ。これで自分の人生が地に落ちてしまったということ。
小麦に分かるのはただ一つ。透巳のおかげで自身が梓紗から解放されるのだろうということだけだ。
「君には詳しい話を聞かないといけない。俺についてきてもらうよ」
「……そう。分かった……結局、みんな私の邪魔ばかりしたいのね」
厳しい面持ちで梓紗に声をかけた慧馬。すると梓紗は大した抵抗をすることなく、慧馬の指示を享受した。映像という証拠がある以上、どう足掻いても無駄だと考えたのだろう。
全てを諦めた虚ろな目を見せた梓紗は、それから慧馬に黙ったままついていった。これから梓紗がどうなってしまうのか、詳しいことは小麦には分からなかったが、もしかしたらこれが梓紗との最後なのかもしれないと朧気に思った。
「……梓紗、どうなるの?」
「さぁ?少年院とか、そういう施設に入るんじゃない?」
「そっか……」
ポツリと尋ねた小麦に透巳は適当にそう答えた。透巳自身そういった知識が乏しいので詳しく無い上、そもそも興味もないのだ。
「あ、さっきキスしちゃってごめんね」
「っ……だ、だいじょぶ、だから」
「そう?ならいいんだけど」
小麦は内心「よくねぇよ」と全力でツッコみたかったが、そんな空気でも無かったので何とか踏みとどまった。だが小麦は透巳の顔を見るのも難しいほど心臓を鳴らしているというのに、透巳は涼しい顔でいるという状況に不満を覚えてしまった。
この日、結局透巳は病院で手当てをしてもらうこととなり、小麦はそれに付き添う形で学校を早退した。透巳の怪我は見た目ほど酷いものでは無かったが、包帯をグルグルと巻かれてしまったので痛々しいのは変わらなかった。
そして小麦は一時的に児童養護施設で生活することになった。小麦が今まで生活してきたのは加害者である梓紗の実家だ。梓紗の両親も娘が仕出かしたことの整理がつかぬまま、被害者である小麦を預かるのは無理があるだろうと考えたうえでの結果である。
********
梓紗と生徒会室で相対した日から一日後。透巳は朝早くから学校を訪れていた。空気が冷たく、生徒も教師も全くいない学校は新鮮なものだ。
そんな校舎の階段を次々と登る透巳の足取りに迷いはない。透巳が向かっているのは中学校の屋上。そこにいるはずの人物に会いに行くためだ。
屋上の扉を開けると透巳の視界には、裸足で柵の向こう側に佇んでいる梓紗の姿が映る。静かな風に制服はなびき、梓紗のその長い髪も美しくはためいている。
「……へぇ、意外ね。推測できたとしても、アンタは来ないと思ってたわ」
「もしかして、物凄く気持ちの悪い勘違いしてない?」
透巳の気配に勘付いた梓紗は一瞬意外そうな相好を見せ、すぐに不敵な笑みを浮かべた。それを目の当たりにした透巳は心底嫌そうな表情で尋ねる。
「私を止めに来たわけじゃないの?」
「は?何で俺がそんな面倒なことしなくちゃいけないんだよ。俺は正義の味方でも何でもない。俺が味方をするのは大事な存在だけだ」
透巳が自分の自殺を止めに来たのではないかと梓紗は考えたのだが、それはどうやら外れだったようだ。梓紗ももちろん透巳がそんなことをする人間だと思っていた訳でもないのだが、それ以外にここに来る理由が分からなかったのだ。
「じゃあ何しに来たのよ」
「死ぬ間際に見る顔が、憎くて憎くて仕方のない男ってどんな気分かなぁって思って」
「あんたクズね」
「否定はしないけど君に言われたくない」
心底性格の悪い動機に梓紗は苦言を呈したがお互い様なので、透巳は不満気な相好を露わにする。
「そう言えばどうやって抜け出してきたの?」
「そんなに気になる?」
「いや別に。ただ日本の警察大丈夫かなと思っただけ。一応大事な兄ちゃんが属してる機関だし」
「いちいち説明するの面倒臭いわ」
透巳は梓紗が目的のためにここを訪れることを予測していたが、どうやってそれを実行するかは見当がついていなかった。梓紗は本来なら今も警察に事情を聞かれているか、キチンとした監視下にあるはずなので彼の疑問は当然のものだ。
それがどんな方法であろうと、ここに梓紗がいるということがその方法の存在を証明しているので、その詳細は正直透巳はどうでも良かったのだ。
「……あんた、むぎのこと好きなの?」
「ん?好きだけど」
「……あら。好きじゃないのね、意外だわ」
「は?好きって言ってるじゃん」
唐突に梓紗はずっと気になっていたことを最期だからと聞くことにした。透巳の人間性からして、どうでもいい人間を助ける様なことはしないと思っていたからこそ、梓紗は彼が小麦を好いているのだと考えた。透巳は首肯したが、何故か二人の会話は噛み合わなくなってしまい彼は首を傾げる。
「嘘ね。嘘というより、アンタのそれは恋慕じゃない。執着が感じられないもの」
「……あぁ。そっち……確かに抱きたいとは思わないね」
「ほらみなさい」
二人の会話が噛み合わなかった原因は〝好き〟という言葉のニュアンスの違いだった。確かに透巳は原因はともあれ、小麦のことを友人として好いている。だがそれは恋愛感情では無い。透巳はこれまで誰かに恋慕の思いを抱いたことも無ければ、性的な目で見たことも無かったのだ。
それを梓紗は見抜いた。彼女は小麦という一人の少女に対し狂った恋慕の情を向け、それがいき過ぎたせいで彼女を苦しめたのだから。
「まぁでも人間としては好きなのね……なら困るんじゃない?」
「なにが?」
「私の自殺を見て見ぬ振りしたってバレたら、軽蔑されるわよ?」
揶揄う様に言った梓紗に透巳はキョトンと首を傾げる。今の小麦にとって透巳は自分を救ってくれた救世主だ。だがそんな透巳が自殺しようとする人間の存在を知っていて、それでも尚救わなかったと分かればその思いも冷めると梓紗は思ったのだ。
小麦は確実に透巳に恋愛感情を抱いている。それは梓紗も透巳も分かっていることだ。そして梓紗は小麦のその感情が、透巳に救ってもらったことによる盲目だとも思っていた。本当の神坂透巳を理解してしまえば、小麦はきっと離れていく。そう踏んでいるのだ。
「バレるバレない以前に、俺から話すつもりだから心配無用だよ」
「え?」
「ねこちゃんの愛を確かめてみるよ。もし軽蔑されたらそれまでだね」
「狂ってるわね」
「あんたに言われたくない……って、今日で二回目だよこの会話」
不敵な笑みを浮かべた透巳に、梓紗は思わず冷や汗を流す。透巳の行動の意味を、彼の思考を何となく把握してしまったからだ。
透巳は小麦を好いている。だがそれは興味に近い感覚だ。彼が愛する家族や友人には到底及ばない感情。それが今透巳が小麦に向けているものだ。そして透巳は小麦が自身の愛を注ぐに値する人間か探っているのだ。
透巳の全てを知ったとしても小麦がその好意に揺るぎを見せなかったのならば、それはもう信頼に値する人間と認識してもいい。逆に軽蔑されたのならそれはそれで透巳にとっては大した問題でもない。家族や幼馴染の慧馬に嫌われるのとはわけが違うのだから。
「ま。アンタがむぎに見放されるのを地獄で見物させてもらうわ」
「趣味わる。まぁどうでもいいけど」
どこかつまらなそうな表情を浮かべる透巳を見ていた梓紗はふと思い出したように目を見開くと、ニヤリと口角を上げて見せた。
「最期に良いことを教えてあげる。感謝しなさい」
「いいこと?」
透巳の問いかけに、梓紗はその〝良いこと〟について語って返した。それは透巳にとっては突如関係のない方向からやって来た知識で、少々当惑してしまった。だが知っていて損はない情報で、何故それを梓紗が提供してくれたのか一瞬分からなかった。だがその情報の内容からして、教えた方が彼女にとってはメリットがあったのだろうとすぐに結論を導き出す。
梓紗としては僅かな差ではあったが、どちらかと言えば透巳にこの事実を教えた方が良かったというだけなのだ。
「――ふーん。分かった。覚えておく」
「じゃあ、そろそろ死ぬとするわ」
「そ。いってらっしゃい」
とてもこれから死のうとする人間と、それを見届ける相手の会話とは思えないが、どちらも異常な性質だとこうなってしまうのだ。梓紗からは恐怖も躊躇いも感じられない。彼女にとっては小麦が傍にいない世界で生きる方が苦痛なのだから。
「あ、そうだ」
「なによ?」
「アンタのフルネームって何?」
「…………つくづく最悪な男ね」
梓紗が一歩踏み出そうとした時、それを止めるように声を上げた透巳。そんな彼に怪訝そうな視線を向けた梓紗は、透巳の失礼さ加減にほとほと嫌気がさしてきてしまう。
透巳は小麦が彼女を梓紗と呼んでいたことから下の名前は知っていたが、苗字は調べようとしていなかったので知らないのだ。
「廓井梓紗。むぎの人生を語るには欠かせない、一人の狂った女の名前。忘れるんじゃないわよ」
そう言うと、梓紗は透巳の方を見つめながら背中から落下していった。重力とは無慈悲なもので、梓紗の姿は一瞬で透巳の視界から消え去ってしまう。
透巳は何の躊躇いも無く屋上から地面を覗き込むと、仰向けに倒れて血を大量に流している梓紗の遺体を確認した。
その生々しい光景を目の当たりにした透巳は若干顔を顰める。だがそれは凄惨な光景に耐えられなかったからではない。
「……胸糞わる」
舌打ちを一つして、透巳はそう呟いた。彼の言葉を聞いた者も、今の彼の心意を知る者もどこにもいない。だが透巳は梓紗が死んだことに対して少なくともそういった感情を抱いたということだ。
透巳は正義の味方でも、聖人君子でもない。だからやたらと人を救ったりしないし、気に入らない奴なら死んでも仕方が無いと思っている。だからと言ってその相手が死んで喜ぶような腐りきった人間でもない。それを全て理解しているからこそ、透巳の家族や慧馬は彼を受け入れているのだ。
********
すぐ後に教師が梓紗の死体を見つけたことで、その日の学校は急遽休校ということになった。朝っぱらから警察やら救急車やらが中学校に集結してしまったので当たり前だが、経緯を知らない生徒からしてみれば寝耳に水だっただろう。
透巳は表向きの第一発見者が来る前にさっさと帰宅したので学校の騒がしさは見ていない。その内生徒たちにも通告されるだろうと朧気に予想しながら、透巳はある人物の着信を自宅で待っていた。
昼を過ぎた頃、透巳のスマホの着信音が鳴り響く。相手は小麦で透巳は待ってましたと言わんばかりにその電話をとった。
「もしもし」
『……す、透巳くん……あ、梓紗が……』
電話越しの小麦の声は震えていて、透巳はその理由をすべて把握している。生徒への通告はまだ済んでいないが、関係者である小麦には逸早く知らされたのだろう。
『自殺したって……』
「うん……ねこちゃん、ちょっと会って話せるかな?」
今にも泣きそうな小麦に透巳は静かな声でそう提案した。その時の透巳の相好はどこか緊張しているような、不安を感じているようなものだった。そして透巳は自覚する。
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