73 / 96
連載
閑話 そして、彼の今……中編
しおりを挟む
パウロは蒸し風呂から上がると、冷水を頭から被った。
焼ける様に火照った肌に、冷水が心地いい……
(村を出たらなら、もうこの“蒸し風呂”には入れないのだろうな……)
そんな事を考えて、パウロは脱衣所へと足を向けたのだった。
パウロの浴場通いは、既に日課になっていた。
仕事を終えて、テオドアが営む飯屋で夕食を取り、そして蒸し風呂で汗を流して帰る。
少し前までは、想像にも及ばない充足感に溢れる生活が、ここにはあった。
日雇いで稼いだ小銭で硬いパンと、水の様に薄いスープを買い、飢えを凌いでいたあの日々が嘘の様だった。
それはなにも、パウロに限った事ではなかった。
村に戻って来た誰もが、この村に残る事を選んでいるのがその証拠と言えた。
それは、日銭目的と言う軽い気持ちで戻って来た者たちも例外ではなかった。
「あっ! ローの兄貴っ! 帰る前に一杯どうっすか!
今日、いいもんが入ったんすよ!」
パウロが出入り口へと差し掛かった時、バーカウンターの方から聞き覚えのある大きな声が飛んできた。
振り返れば案の定……カウンター越しに手招きをしていたのはダリオだった。
昔……まだパウロがこの村にいた頃の顔なじみで、何時だってパウロの後をついて回る弟分のような存在だった。
それは今でも健在な様で、顔を合わせる度に何かしら理由をつけてはついて来るのだ。
(こいつも相変わらずだな……)
パウロは少し悩んでから、出入り口ではなくダリオのいるカウンターへと足を向けた。
数日前までは、ただカウンターがあっただけの場所だが、ここ数日で数脚のイスが置かれるようになっていた。
パウロはその一つに腰を下ろした。
「今日、行商が村に来てたのは知ってるっすか?」
「ああ、村の中が賑わっていたな」
パウロが座るのを確認すると、ダリオはカウンターの中で何やらごそごそと作業をしながらそう話を振ってきた。
思えば自分がまだ村にいた頃にも行商は来ていたが、あんなに人で賑わった事はないように思う。
そもそも何かを買えるような金銭など、ほとんど持っていなかった訳だが……
「で、その行商から、小旦那がいいもん仕入れてくれたんすよ!」
「……さっきから言っているその“小旦那”ってのは誰の事だ?」
「えっ? あっ、ああ……ロディフィスの事っすよ。
あのちびっ子を大衆浴場じゃ“小旦那”って、呼んでるんすよ……」
と、ダリオ言うと“んな呼び方してんのはお前だけだろっ!”と、カウンター内にいた従業員と思しき男から透かさず指摘をされていた。
ダリオはシュンと肩を落とし“いいと思うんだがなぁ~”なんて呟いていた。
「……で、そのロディフィスが何を仕入れたと?」
このままでは話が進みそうに無かったので、パウロは先を促す事にした。
「あっ、そうそう!
これっすよこれ!!」
そう言って、ダリオがパウロの前に差し出したのは木製の中サイズジョッキだった。
そのジョッキの中には液体がなみなみと注がれていた。
容器が木製の所為で、色合いははっきりとしないが……多分、琥珀色だろう。それも、結構濃い色の、だ。
表面にうっすらと浮いた泡、そして、ぱちぱちと気泡が弾けるあの独特な音色に乗って、パウロのもとに覚えのある香りが漂って来た。
「これはもしかして……」
「そうエールっすよ! エール!!
小旦那が、かなりの量を仕入れてくれたんすよ!」
ゴクリッと、パウロは目の前のジョッキを凝視して生唾を飲み込んだ。
酒なんて、最後に飲んだのは何時の頃の事だったか……
村に帰ってくるまでは、その日を生きるのに精一杯で余計なものに回す金などまるで無かった。
だが、今は……
「……いくらだ?」
「いいっすよ。おれからの“奢り”っす」
代金を払おうと、財布を取り出そうとした矢先に、ダリオがそう言ってきた。
「くぅ~! 一度言ってみたかったんすよ!
“おれからの奢りだ”ってセリフ!」
一瞬迷ったが、折角の好意だ。無碍にするのものでもないだろう、とパウロは素直に受け取ることにした。
「ならありがたく頂くとしようか……
ちなみに、値段はいくらなんだ?」
「一杯400RDって、小旦那からは言われてるっすねぇ~」
同店舗内にあるテオドアの飯屋が、定食一食を500RDで提供している事を考えると、飲み物で一杯400RDという価格は決して安いものではなかったが、だからと言ってまったく手が出ないほど高額なものでもなかった。
むしろ、この村から報酬として自分に支払われた金額を考えれば、余裕で払う事が出来た。
(少し前までは、手も出なかった様なものが今は余裕……か)
そんな事をしみじみ思いながら、パウロは財布を開いてカネを取り出した。
「そうか……ならもう一杯くれないか?」
「もう一杯っすか?」
「ああ、頼む」
「……分かったっす」
パウロから代金を受け取ったダリオは、少し不思議そうな顔をしながらエールの準備に取り掛かった。
とはいえ、やることは大した事ではない。
陶磁器で出来た酒瓶の蓋を開け、中身をジョッキへと移して冷却用の魔術陣に一定時間乗せるだけだ。
この辺りの事は、ロディフィスから作業に当たるもの全員に細かく指示をされている上、ダリオに至ってはロディフィスから“ビールの命はなぁ! 温度なんだよぉ!”と徹底した個別指導を受けていた。
そんな甲斐もあって、程よく冷えた酒をダリオはパウロの前へと置いたのだった。
「はい、これでいいっすか?」
「ああ、すまないな」
ダリオの置いた新しいジョッキを、パウロは持ち上げると何を思ったのか、それをそのままダリオの方へと突き返したのだった。
「えっと……なんすか?」
「俺から奢りだ、受け取れ」
「っ!? あっ、あにきぃ~!!」
感極まったのか、涙を流してジョッキを受け取るダリオ。
一応勤務中ではあったが……
まぁ、一杯くらいで目くじらを立てる事もない。
それで、仕事が手に付かなくなってしまっては問題だが……
それにカウンター内にいる他の従業員も、その光景を見て見ぬ振りをしてくれていた。
しかし……
「町の酒場ならいざ知らず、まさか、こんな田舎の農村で酒が手に入るなんてな思いもよらなかった。
スレーベン領じゃもう、酒は造れないだろうからな……
一体何処から持って来たんだか……」
パウロはジョッキを持ち上げると、喉を鳴らしてジョッキの中身を流し込んだ。
キンと冷えた液体が、喉を流れて腹へと落ちるのが分かる。
一口飲み込む度に、口の中に広がるのは舌を刺激する苦味と僅かな果実の様な甘み……
そして、鼻を抜けて行く、どこか蜜を思わせる甘い香り……
「んぐっんぐっんぐっ……ふぅーっ……」
……つい一息に飲み干してしまった。
空になったジョッキを見つめて、パウロは名残惜しげにカウンターへと戻した。
「……うまいものだな……」
自分の記憶の中の味より、今飲んだ酒の方が格段に美味しく感じられた……
「くっはぁーーー!!
たまんねぇっすね、これっ!!」
対するダリオは、飲み干したジョッキを勢い良くカウンターへと叩き付けた。
辺りにダンッと鈍い音が響く。が……
元々喧騒の多い場所だけに、そんな些細な物音を気に留めるような者はここにはいなかった。
と、思ったら……
「ダリオ。
物を乱暴に扱ってはいけませんよ。
その器一つ作るのに、どれだけの手間が掛かっていると思っているのですか?
“全てのものに感謝の意を持って接せよ”と、聖人様も仰っていますよ」
不意に、凛と鈴の音の様な声がダリオへと飛んできた。
声のした方へと視線を向ければ、思った通りの知った顔がそこにいた。
「げっ……エンリ……」
「女性に向かってその言葉使いはなんですかダリオ?」
いつもの青と白の修道服ではなく、他の村人同様質素な服に身を包んだエンリケッタが、不機嫌そうに眉根を寄せて、ダリオを睨んでいた。
その長い小麦色の髪が、しっとりと濡れているところを見るに彼女もまた風呂上りの様だった。
「はっ、女性って……知ってんだぜ?
お前、この村の中じゃ未婚女の最年……げぼらぁっ!!」
ダリオの言葉が終わるより早く、エンリケッタは小脇に抱えていた入浴道具一式が詰まった手桶を、ダリオめがけて投げ放っていた。
手桶はまるで吸い寄せられるようにダリオの顔面のど真ん中に命中し、ダリオはカウンターの中で倒れたのだった。
「こんばんわ、パウロさん。
貴方がこちらにいるのは珍しいですね。
いつもは食堂の方で、お姿を拝見しておりましたが……
今日はどうしてこちらに?
確か……甘いものはお嫌いだったと記憶しているのですが?」
エンリケッタは何事も無かった様なすまし顔で、パウロへと話しかけてきた。
しかし、パウロは見てしまっていた……
手桶を投げる瞬間の、まるで怒れる巨鬼の様なエンリケッタの形相を……
「あ……ああ、少しダリオに呼ばれてな……」
「そうなのですか?」
確かに、エンリケッタの言うとおり、パウロは甘いものが得意ではなかった。
故に、牛の乳に果実を混ぜた飲み物……ロディフィスなんかが“フルーツ牛乳”と呼んでいるものを販売しているこちら側にはあまり近づく事はなかったのだ。
「ああ……そう言えば、先日は納屋の扉の建て付けを直して頂い様でありがとうございました。
父も母も、助かったと感謝しておりました」
「いや、大した事はしていない……仕事のついでだっただけだ……」
先日、新しい住居を建設していた際に、近くに住んでいた住人から、直して欲しいところがあると相談を受けて引き受けたのだが、それがエンリケッタの両親だった、と言う訳だ。
「っててて……何しやがるこの暴力女が……
おれに当たったから良いようなものの、外して後ろの商品に当たったらどうするつもりだったんだよ……」
今までカウンターの裏で倒れていたダリオが、鼻の頭をさすりながら再度ゆっくりと姿を現した。
店を任されている、と言う自覚と責任感からか、自分の事よりも店の事を気にしているのは、なかなか見上げたものだとパウロは内心感心していた。
「商品壊したら、おれが小旦那に怒られるだろうが……」
のだが……この男にはどちらも、無かったらしい。
パウロはがっくりと肩を落として、心の中で大きなため息を吐いた。
「私がこの距離で外すと思っているのですか?
……いえ、むしろその方が面白ろかったかもしれませんね……」
「おいっ! 面白いってなんだっ! 面白いって!
人事だと思いやがってっ!
小旦那はなぁ、怒らせると怖ぇんだよ……」
「……冗談ですよ。
物を粗末にしては、聖王教会のシスターとして示しがつきませんからね」
「ってかよー、前から気になってたんだが、エンリのそのヘンな喋り方ってなんなんだよ?
気持ち悪くってしょーがねぇんだけど?」
「きもっ……!?」
「だから、昔みたいにさぁ、巻き舌で人を脅すような話し方してくんねぇーと調子が狂うんだよ……
あっ! もしかしてそうやって“大人しそうに”見せてれば結婚出来るとか思って……ぷぎゃー!!」
尚も何かを言おうとしたダリオの両目に、エンリケッタが無言のまま二本の指を突っ込んだ。
「目があああぁぁ!! 目がああぁぁぁ!!」
見るからに痛そうな……と言うか、実際かなり痛いのだろう。
ダリオはまたしても、カウンターの中で倒れると、痛みから逃れる様にゴロゴロ、ゴロゴロと床の上を転げまわっていた。
(余計な事を言わねば、痛い思いをすることもなかったろうに……)
後先考えず、口を滑らせては痛い目にあっているのは昔と変わらないらしい……
いや、変わっていないと言えば聞こえはいいが、実際は成長していないだけか……
「エンリも程ほどにしておいてやれよ……」
「そこの“バカ”がいけないんですよ」
昔馴染みたちとそんなやり取りをしていると、自分がまだ村にいた“あの頃”が妙に懐かしく思えた。
こんな田舎村が嫌で嫌で、早く村を出たいと思っていた自分は、兄弟の誰よりも早く村を出た。
そんな自分が、今はこうしてまた村へと帰って来ている……
それがなんだか、パウロには少しおかしく思えたのだった。
視線の先には空になったジョッキが一つ。
パウロはカウンターの中にいたダリオとは別の従業員に声をかけると、空になったジョッキと酒の代金をその従業員の男性に渡したのだった。
焼ける様に火照った肌に、冷水が心地いい……
(村を出たらなら、もうこの“蒸し風呂”には入れないのだろうな……)
そんな事を考えて、パウロは脱衣所へと足を向けたのだった。
パウロの浴場通いは、既に日課になっていた。
仕事を終えて、テオドアが営む飯屋で夕食を取り、そして蒸し風呂で汗を流して帰る。
少し前までは、想像にも及ばない充足感に溢れる生活が、ここにはあった。
日雇いで稼いだ小銭で硬いパンと、水の様に薄いスープを買い、飢えを凌いでいたあの日々が嘘の様だった。
それはなにも、パウロに限った事ではなかった。
村に戻って来た誰もが、この村に残る事を選んでいるのがその証拠と言えた。
それは、日銭目的と言う軽い気持ちで戻って来た者たちも例外ではなかった。
「あっ! ローの兄貴っ! 帰る前に一杯どうっすか!
今日、いいもんが入ったんすよ!」
パウロが出入り口へと差し掛かった時、バーカウンターの方から聞き覚えのある大きな声が飛んできた。
振り返れば案の定……カウンター越しに手招きをしていたのはダリオだった。
昔……まだパウロがこの村にいた頃の顔なじみで、何時だってパウロの後をついて回る弟分のような存在だった。
それは今でも健在な様で、顔を合わせる度に何かしら理由をつけてはついて来るのだ。
(こいつも相変わらずだな……)
パウロは少し悩んでから、出入り口ではなくダリオのいるカウンターへと足を向けた。
数日前までは、ただカウンターがあっただけの場所だが、ここ数日で数脚のイスが置かれるようになっていた。
パウロはその一つに腰を下ろした。
「今日、行商が村に来てたのは知ってるっすか?」
「ああ、村の中が賑わっていたな」
パウロが座るのを確認すると、ダリオはカウンターの中で何やらごそごそと作業をしながらそう話を振ってきた。
思えば自分がまだ村にいた頃にも行商は来ていたが、あんなに人で賑わった事はないように思う。
そもそも何かを買えるような金銭など、ほとんど持っていなかった訳だが……
「で、その行商から、小旦那がいいもん仕入れてくれたんすよ!」
「……さっきから言っているその“小旦那”ってのは誰の事だ?」
「えっ? あっ、ああ……ロディフィスの事っすよ。
あのちびっ子を大衆浴場じゃ“小旦那”って、呼んでるんすよ……」
と、ダリオ言うと“んな呼び方してんのはお前だけだろっ!”と、カウンター内にいた従業員と思しき男から透かさず指摘をされていた。
ダリオはシュンと肩を落とし“いいと思うんだがなぁ~”なんて呟いていた。
「……で、そのロディフィスが何を仕入れたと?」
このままでは話が進みそうに無かったので、パウロは先を促す事にした。
「あっ、そうそう!
これっすよこれ!!」
そう言って、ダリオがパウロの前に差し出したのは木製の中サイズジョッキだった。
そのジョッキの中には液体がなみなみと注がれていた。
容器が木製の所為で、色合いははっきりとしないが……多分、琥珀色だろう。それも、結構濃い色の、だ。
表面にうっすらと浮いた泡、そして、ぱちぱちと気泡が弾けるあの独特な音色に乗って、パウロのもとに覚えのある香りが漂って来た。
「これはもしかして……」
「そうエールっすよ! エール!!
小旦那が、かなりの量を仕入れてくれたんすよ!」
ゴクリッと、パウロは目の前のジョッキを凝視して生唾を飲み込んだ。
酒なんて、最後に飲んだのは何時の頃の事だったか……
村に帰ってくるまでは、その日を生きるのに精一杯で余計なものに回す金などまるで無かった。
だが、今は……
「……いくらだ?」
「いいっすよ。おれからの“奢り”っす」
代金を払おうと、財布を取り出そうとした矢先に、ダリオがそう言ってきた。
「くぅ~! 一度言ってみたかったんすよ!
“おれからの奢りだ”ってセリフ!」
一瞬迷ったが、折角の好意だ。無碍にするのものでもないだろう、とパウロは素直に受け取ることにした。
「ならありがたく頂くとしようか……
ちなみに、値段はいくらなんだ?」
「一杯400RDって、小旦那からは言われてるっすねぇ~」
同店舗内にあるテオドアの飯屋が、定食一食を500RDで提供している事を考えると、飲み物で一杯400RDという価格は決して安いものではなかったが、だからと言ってまったく手が出ないほど高額なものでもなかった。
むしろ、この村から報酬として自分に支払われた金額を考えれば、余裕で払う事が出来た。
(少し前までは、手も出なかった様なものが今は余裕……か)
そんな事をしみじみ思いながら、パウロは財布を開いてカネを取り出した。
「そうか……ならもう一杯くれないか?」
「もう一杯っすか?」
「ああ、頼む」
「……分かったっす」
パウロから代金を受け取ったダリオは、少し不思議そうな顔をしながらエールの準備に取り掛かった。
とはいえ、やることは大した事ではない。
陶磁器で出来た酒瓶の蓋を開け、中身をジョッキへと移して冷却用の魔術陣に一定時間乗せるだけだ。
この辺りの事は、ロディフィスから作業に当たるもの全員に細かく指示をされている上、ダリオに至ってはロディフィスから“ビールの命はなぁ! 温度なんだよぉ!”と徹底した個別指導を受けていた。
そんな甲斐もあって、程よく冷えた酒をダリオはパウロの前へと置いたのだった。
「はい、これでいいっすか?」
「ああ、すまないな」
ダリオの置いた新しいジョッキを、パウロは持ち上げると何を思ったのか、それをそのままダリオの方へと突き返したのだった。
「えっと……なんすか?」
「俺から奢りだ、受け取れ」
「っ!? あっ、あにきぃ~!!」
感極まったのか、涙を流してジョッキを受け取るダリオ。
一応勤務中ではあったが……
まぁ、一杯くらいで目くじらを立てる事もない。
それで、仕事が手に付かなくなってしまっては問題だが……
それにカウンター内にいる他の従業員も、その光景を見て見ぬ振りをしてくれていた。
しかし……
「町の酒場ならいざ知らず、まさか、こんな田舎の農村で酒が手に入るなんてな思いもよらなかった。
スレーベン領じゃもう、酒は造れないだろうからな……
一体何処から持って来たんだか……」
パウロはジョッキを持ち上げると、喉を鳴らしてジョッキの中身を流し込んだ。
キンと冷えた液体が、喉を流れて腹へと落ちるのが分かる。
一口飲み込む度に、口の中に広がるのは舌を刺激する苦味と僅かな果実の様な甘み……
そして、鼻を抜けて行く、どこか蜜を思わせる甘い香り……
「んぐっんぐっんぐっ……ふぅーっ……」
……つい一息に飲み干してしまった。
空になったジョッキを見つめて、パウロは名残惜しげにカウンターへと戻した。
「……うまいものだな……」
自分の記憶の中の味より、今飲んだ酒の方が格段に美味しく感じられた……
「くっはぁーーー!!
たまんねぇっすね、これっ!!」
対するダリオは、飲み干したジョッキを勢い良くカウンターへと叩き付けた。
辺りにダンッと鈍い音が響く。が……
元々喧騒の多い場所だけに、そんな些細な物音を気に留めるような者はここにはいなかった。
と、思ったら……
「ダリオ。
物を乱暴に扱ってはいけませんよ。
その器一つ作るのに、どれだけの手間が掛かっていると思っているのですか?
“全てのものに感謝の意を持って接せよ”と、聖人様も仰っていますよ」
不意に、凛と鈴の音の様な声がダリオへと飛んできた。
声のした方へと視線を向ければ、思った通りの知った顔がそこにいた。
「げっ……エンリ……」
「女性に向かってその言葉使いはなんですかダリオ?」
いつもの青と白の修道服ではなく、他の村人同様質素な服に身を包んだエンリケッタが、不機嫌そうに眉根を寄せて、ダリオを睨んでいた。
その長い小麦色の髪が、しっとりと濡れているところを見るに彼女もまた風呂上りの様だった。
「はっ、女性って……知ってんだぜ?
お前、この村の中じゃ未婚女の最年……げぼらぁっ!!」
ダリオの言葉が終わるより早く、エンリケッタは小脇に抱えていた入浴道具一式が詰まった手桶を、ダリオめがけて投げ放っていた。
手桶はまるで吸い寄せられるようにダリオの顔面のど真ん中に命中し、ダリオはカウンターの中で倒れたのだった。
「こんばんわ、パウロさん。
貴方がこちらにいるのは珍しいですね。
いつもは食堂の方で、お姿を拝見しておりましたが……
今日はどうしてこちらに?
確か……甘いものはお嫌いだったと記憶しているのですが?」
エンリケッタは何事も無かった様なすまし顔で、パウロへと話しかけてきた。
しかし、パウロは見てしまっていた……
手桶を投げる瞬間の、まるで怒れる巨鬼の様なエンリケッタの形相を……
「あ……ああ、少しダリオに呼ばれてな……」
「そうなのですか?」
確かに、エンリケッタの言うとおり、パウロは甘いものが得意ではなかった。
故に、牛の乳に果実を混ぜた飲み物……ロディフィスなんかが“フルーツ牛乳”と呼んでいるものを販売しているこちら側にはあまり近づく事はなかったのだ。
「ああ……そう言えば、先日は納屋の扉の建て付けを直して頂い様でありがとうございました。
父も母も、助かったと感謝しておりました」
「いや、大した事はしていない……仕事のついでだっただけだ……」
先日、新しい住居を建設していた際に、近くに住んでいた住人から、直して欲しいところがあると相談を受けて引き受けたのだが、それがエンリケッタの両親だった、と言う訳だ。
「っててて……何しやがるこの暴力女が……
おれに当たったから良いようなものの、外して後ろの商品に当たったらどうするつもりだったんだよ……」
今までカウンターの裏で倒れていたダリオが、鼻の頭をさすりながら再度ゆっくりと姿を現した。
店を任されている、と言う自覚と責任感からか、自分の事よりも店の事を気にしているのは、なかなか見上げたものだとパウロは内心感心していた。
「商品壊したら、おれが小旦那に怒られるだろうが……」
のだが……この男にはどちらも、無かったらしい。
パウロはがっくりと肩を落として、心の中で大きなため息を吐いた。
「私がこの距離で外すと思っているのですか?
……いえ、むしろその方が面白ろかったかもしれませんね……」
「おいっ! 面白いってなんだっ! 面白いって!
人事だと思いやがってっ!
小旦那はなぁ、怒らせると怖ぇんだよ……」
「……冗談ですよ。
物を粗末にしては、聖王教会のシスターとして示しがつきませんからね」
「ってかよー、前から気になってたんだが、エンリのそのヘンな喋り方ってなんなんだよ?
気持ち悪くってしょーがねぇんだけど?」
「きもっ……!?」
「だから、昔みたいにさぁ、巻き舌で人を脅すような話し方してくんねぇーと調子が狂うんだよ……
あっ! もしかしてそうやって“大人しそうに”見せてれば結婚出来るとか思って……ぷぎゃー!!」
尚も何かを言おうとしたダリオの両目に、エンリケッタが無言のまま二本の指を突っ込んだ。
「目があああぁぁ!! 目がああぁぁぁ!!」
見るからに痛そうな……と言うか、実際かなり痛いのだろう。
ダリオはまたしても、カウンターの中で倒れると、痛みから逃れる様にゴロゴロ、ゴロゴロと床の上を転げまわっていた。
(余計な事を言わねば、痛い思いをすることもなかったろうに……)
後先考えず、口を滑らせては痛い目にあっているのは昔と変わらないらしい……
いや、変わっていないと言えば聞こえはいいが、実際は成長していないだけか……
「エンリも程ほどにしておいてやれよ……」
「そこの“バカ”がいけないんですよ」
昔馴染みたちとそんなやり取りをしていると、自分がまだ村にいた“あの頃”が妙に懐かしく思えた。
こんな田舎村が嫌で嫌で、早く村を出たいと思っていた自分は、兄弟の誰よりも早く村を出た。
そんな自分が、今はこうしてまた村へと帰って来ている……
それがなんだか、パウロには少しおかしく思えたのだった。
視線の先には空になったジョッキが一つ。
パウロはカウンターの中にいたダリオとは別の従業員に声をかけると、空になったジョッキと酒の代金をその従業員の男性に渡したのだった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
10,262
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。