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102話 それは、とても長い一日 その五
しおりを挟む「くそっ……まだ追いつかないのか……」
俺は肩で息を切りながら、近場に立っている木へと手をついて体重を預ける。
対策本部を後にした俺は、急ぎ足で森をひた進んだのだが、先発した討伐組の影すら見えないでいた。
道を間違えた、ということはないだろう。
現に、所々枝葉が切り落とされた跡や、大人数が通った痕跡がみて取れる。それは、彼らが間違いなくここを通ったという証だ。
大荷物、かつ大人数での行軍。
子供の足でも急げば合いつけると高を括っていたが……
どうやら俺は大きな思い違いをしていたらしい。
以前、俺は怪我が完治した毛玉を森へと帰すため、クマのおっさんたちと一緒に北の森へと入ったことがあった。
俺が彼らの行動予測に使ったのは、この時の移動速度をベースにしていた。
あの時はガキの俺たちに合わせてペースを落としてくれていただろうから、それなりの上方補正を入れての予測、だったのが……
それでも、まだまだ足りなかったらしい。
そりゃそうだよな。いくら平和な時期が長ったとはいえ、それでも彼らは村を守るため日夜訓練に明け暮れている立派な戦士なのだ。
俺は、自分で気づかぬうちに彼らの実力というもをナメていたらしい。
こりゃ、反省だな。
しかし……
これでは一体どれだけ離されているのか、皆目見当が付かない。
実はすぐ近くにいるのか、それともずっと離れているのか。
まさか、大声を上げてクマのおっさんたちを呼びかけながら進む、なんて訳にもいかんしな……
それでクマのおっさんでなく、本物の熊の方が出てきたら目も当てられない。
「しゃーない。このままじゃ追いつくどころの話じゃなしな……あれを使ってみるか」
俺はそう独り言ちると、その場に腰を落としてカバンを開く。そしてそのままカバンをまさぐり、一枚の板っ切れを引っ張出した。
大きさは、俺の手の平より一回りほど大きいくらいのサイズで、片面は真っ黒に染まっていた。
多少見えにくいがその黒く染まった面には、びっしりと魔術陣が彫り込まれている。
とはいえ、これ単品で何らかの働きをするような魔道具ではない。
俺はそれを一度地面に置き、更に、カバンから一つ瓶を取り出した。
木で栓をされた、茶色がかった小ぶりな瓶。中には黒色のインクが入っている。
俺はインク瓶を一つ取ると、栓を外し木の板の黒く染まった面に適量を振りかける。
そして、そこらに生えている葉を適当にむしると、それを使い板全体にインクが広かるように馴染ませる。
十分にインクが広がったところで、俺は木の板を手に取り着ていたシャツをめくり腹を出す。
で、腹部の少し上辺りに木の板を押し付けた。
そう、この板は魔術陣を転写するためのスタンプなのである。
魔術陣の人体への適用。いわば魔術エンチャント、とでも呼ぶべき代物がこのスタンプだった。
これもまた、俺の魔術陣研究によって生み出された技術の一つだ。
とはいえ、これは実験段階の技術で、この技術によって何ができるのかはまだまだ未知数なのだけど……
俺は木の板を数度ぐりぐりと押し付け、ゆっくりと離す。と、そこにはくっきりと魔術陣がスタンプされていた。
よし、綺麗に線が出ているな。
ここで滲んだり、掠れたりしてしまっては魔術陣がうまく機能しなくなってしまうからな。慎重に、だ。
ちなみに、インクは速乾性の物を使用している。
実はこのインク、印刷機の実用化の際に、複数作られた村産のインクの一つだ。
が、空気に触れるとすぐに硬質化してしまうという特性があるため、印刷用としては使い物にならないガラクタだった。
だが、俺にしてみれば実に都合がいい物だったため、レシピを控えて普段から実験用に少量を保管するようにしていた。
人体へ魔術陣を適用する場合、皮脂や汗で魔術陣が滲んだり流れ落ちてしまうことが一番の問題だったからな。
だが、この硬化するインクを使えば、そういった問題を一発で解決することができるのだ。
「おっ? きたきた……」
程なくして、腹からじんわりと魔力が抜けていく感覚と共に、体から急速に重さが軽減されていった。
なんというか、見えない水に浸っている感覚とでもいうのか……
実験では何度も行っていたが、この腹の内側がふわっと浮く感じはどうにも慣れんな。
この魔術陣の効果は、端的に言ってしまえば力のベクトルを変更する、というものだった。
人が地に足を付き歩くことができる、ということはこの世界にも重力、もしくはそれに類似する力が働いていることの証明だ。
この世界が地球と同じ球体なのか、それとも平面な大地を巨大な象と亀が支えているようなファンタジーなものなのかは知らないが、とにかく、その辺りの現象は異世界も地球も違いはない。
何はともあれ、物体は必ず下へと落ちる。
ならば、その力の方向を変えてやれば?
物体を空へと落とす、そんなことも可能だということだ。
運動エネルギーのベクトル変化は俺の十八番だ。
一度アイデアが浮かべば、それを実現することなど造作もなかった。
という訳で、今の俺は魔術陣の効果によって、体にかかる重力を三分の一程に軽減されている状態になっていた。
俺はその場で立ち上がり、軽くステップを踏む。
ふわふわした体は、自分が立っていることすら忘れてしまいそうなほど軽く、うっかり強く踏み込み過ぎれば、何処かへと飛んで行ってしまいそうだ。
おお! 体が軽いこと、軽いこと。
俺の体重が大体三〇キログラム重前後くらいだと仮定すると、それが三分の一にまで軽減されている訳だから
現重量は大体一〇キログラム重前後といったところか……
そりゃ、軽い訳だ。
気分はまるで、月面に降り立ったアームストロング船長だな。
この技術は元は、木材や岩石といった重量物を運搬する技術として開発していたのだが、実験の最中にまぁ……いろいろあってこんなものができてしまった。
失敗は成功の母、と言うしな。結果オーライだ。
体も慣れてきて力加減も分ったところで、俺は踏んでいたステップを止める。
当然だが、この状態での移動の練習は何度もしている。
とはいえ、殆どの練習は平原などの、障害物が少ないところでばかりだったので、森という障害物の多いところでこれを使うのは初めてなのだが、まぁなんとかなるだろう。
こんなことなら、障害物を避けて移動する方法も練習しておくんだった。と、今更いっても意味ないか……
俺は広げていた荷物を片付けると、足に力を込めて一歩を蹴りだした。
「っ!?」
たったその一歩だけで、視界がぐっと加速する。そのあまりの速さに、今までの苦労は何だったのかと笑いそうになる。
この状態での移動の基本は、力を入れ過ぎずなるべく低姿勢を維持し、高く飛び過ぎないように注意することだ。
いつでも足が地面に届くようにしておかないと、急な方向転換などができないからな。
練習していた時、調子に乗って飛び跳ね過ぎで何度木に激突したことか……
俺は地を蹴り、一段加速。目前に迫っていた藪をひょいと飛び越え先を急ぐ。
さて、追跡続行だ。
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