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深紅の魔女、エル

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「エル!」
 
 聞き覚えのある声がして、エル・ウェザースプーン伯爵第一令嬢が振り返るとそこには二年前に別れた元婚約者がいた。
 ウッズ公子ハサウェイ。
 エルよりも四歳年上の金髪碧眼の貴公子。
 王国にある二大大学の一つ、ラボス王立学院の大学院を首席で卒業した、将来を約束された王族の一員。
 そして……深紅の髪よりも白銀の髪がいいという理由だけで、エルに婚約破棄を言い渡した最低な男にして、エルの実妹リースの事実上の婚約者。
 肩書だけは立派だが、中身は最低なクソ。
 それがエルが彼に持っている評価だった。

「なにかしら、公子……いいえ、元婚約者ハサウェイ様」
「挨拶だな? さっきの論説は見事だったよ。実技も素晴らしく冴え渡っていて、あれこそ魔法だ!」
「はあ? だから、どうか致しまして? 私、これから学友たちと打ち上げがあるんです。失礼してもよろしくて?」
「あ、いや。待ってくれないか」

 大学院に進学し、将来を嘱望されたときから出世に目がくらんだこの男のことが、エルは心底嫌いだった。
 嫌いというよりも八つ裂きにして犬の餌にしてやりたいくらい、婚約破棄されたことを恨んでいた。
 外見の良さと持ち前の社交性しかなく、まだ自分の魔法の存在に気づいていなかったあの時の自分。
 それに比べて、知性と品格をもち優れた知能も高くて、あっという間に飛び級をし王立学院の大学院へと編入した妹リースの存在を知った時。
 ハサウェイが自分の未来と、ウェザースプーン伯爵家姉妹を天秤にかけて選んだのは、もちろん、妹の方だった。

 このゲス男が。
 魔法学院に編入した時に悔やみ苦しめられたさまざまな出来事が、怒りとともに胸にこみあげてくる。
 ここが妹の通うラボス王立学院と、自分の通うルケティック魔法学院との間で、毎年の恒例となっている二校を代表するさまざまな分野の生徒同士の論説大会の会場でなかったら。
 衆目が集まるその真っただ中でなかったら。
 いつかこの軽薄男に見舞ってやろうと二年前から習い始めた、東洋武術の下段蹴りをその股間にお見舞いしてやるところだ。
 ……やれば父親に迷惑がかかるからしないけれど。

 なんですか、と立ち止まるエルの手を取ってハサウェイは貴族らしく、手の甲にキスをする。
 あまりにもおぞましくて、エルは背筋に寒気が走ったのを感じた。
 しかし、彼はそんなことは気にしていないらしく、近づいてくるなり耳元でとんでもないことをささやきだす。
 
「話が……あるんだ」
「はあ? ああ、いえ失礼。あなたと話したいことは私には御座いませんので」
「待ってくれ。君の才能の素晴らしさに気づけなかった僕の目は節穴だった。どうか、やり直してくれないか」
「……」

 いやいや、こんな場所でそんな発言しますか、普通?
 おまけに檀上にはあなたが私を捨てた時に選んだ女! 実妹のリースがいるんですよ? いまは負けたあの子にねぎらいの言葉をかけてやるべきでしょ!
 そんな当たり前のことがエルの脳裏を過ぎっていくが、あともうすこし近づけばキスしてもおかしくない距離に顔を近づけた野獣もどきの野良犬は平然とした顔をしている。

 女を道具としてでしか判断できないの、このバカ男は……っ。
 一瞬、自分から二年前に平然とした顔でハサウェイを盗んでいった妹に同情心が浮かんだ。 
 しかし、そんな同情心は王都の道端に点在する、生ゴミのなかに放り込んで燃やし尽くすべきだと考え直して、首を軽く振るとエルはゆっくりと後ずさりハサウェイから距離を取った。

「嬉しい申し出ですけど、公子。私、その手の話にはもう、聞き飽きましたの」
「え、なんだと。あいや、聞き飽きたとはどういうことかな……? そんなに婚約の申し込みが多いという、そういう話か?」
「他人の個人情報を根掘り葉掘り聞こうとするなんて、愚かしいことですわ、公子。今はあの子の……妹のリースの側にいてやってくださいな」

 それが現婚約者であるあなたのせめてもの出来ることでしょ? エルはそう言い、首で妹に向かい彼を促す。
 いま、妹との婚約を破棄して新たに自分に言い寄ろうとしたことは黙っておいてやる。
 そんな姉の優しさだった。
 というよりも、ここで婚約破棄と新たな婚約なんてことをされた日には、実家の伯爵家に国王陛下からお叱りがいくことは間違いないからだ。

 エルは自身を賢いとは思っていなかったけれど、その程度には世間というものを知っているつもりだった。
 だから、こう言えば年上で社交界を知るハサウェイなら……黙って場を去ってくれると思ったのだ。
 だけどバカはバカなりに狡猾で知恵が回るものらしかった。

「分かった。いまはそうするよ」
「ええ、ありがとうございます、公子」

 そう言うと、彼は婚約者のもとに歩き出していく。
 ようやく面倒くさい相手がいなくなったとついでに妹を見ると、リースは視線だけでエルを射殺しそうな勢いでこちらをにらんでいた。

 見下していた姉に、得意の魔法構造学の論説対決で負けた妹は、いつまでも怒りと憎しみと妬みをふくんだ闇色の瞳をエルから外そうとはしない。
 壇上を降りたら待っていたハサウェイに「よく頑張った」と心にもない一言を言われ、抱き締められてようやくその視線を外したが……。

「リースったら。勉強はできても、男を見る目は養うことは王立学院ではできなかったのね……」
「どうしたんだい、エル。いつも明るい君にしては浮かない顔をしているね」
「ブルーザー。……ちょっとね、負かした相手が妹だから……」
「あー……あの、君の婚約者を奪ったっていう噂の彼女かい? それもまた自業自得じゃないかなあ……君に最後は負けたわけだし」
「奪ったって言い方、嫌味よあなた。実の妹に負けた姉ですがなにか?」

 同学年で魔法学院の生徒会長を務めるブルーザー・ブラウン子爵がそう言うのを聞いて、エルは舌を出してやる。
 彼女の機嫌を損ねたかと生徒会長は一瞬、焦るがその仕草を見てほっと胸をなでおろした。
 エルの上段蹴りは、格闘技専門の講師にも認められるほどの腕前で、そんなものをいただきたいのは余程のモノ好きか変態しかいない。
 すまないね、と謝罪する彼に、エルはちょっと嫌味を込めて微笑んでやる。

「あなたの方はどうだったの? きちんと論破してきた?」
「論破って言い方は俺は好きじゃないな。お互いにそれぞれの理論を持ち寄って、どちらが正しいかの正確性を確かめ合っただけだよ」
「そう。どっちでもいいんだけど結果はどうだったの」
「それはもちろん」

 と、ブルーザーはそう言うと片手に持つトロフィーをエルに掲げて見せた。
 別の小会場で行われていた彼の得意とする魔法特許学のやり取りは、どうやら彼の勝利に終わったらしい。

「君の元婚約者には悪いことした」
「元婚約者?」
「ほら、さっきまでここにいた彼だよ、ハサウェイ・ウッズ。一昨年、王立学院の大学院を首席で卒業してから、新設された文化庁の下部組織に配属されたとかで」
「へえ……出世コースを登ってるのね」
「たぶんね。ただ、今回の俺の論説に関しては間に判定委員を設けるやり方だったから」
「それがどうかしたの?」
「彼がその判定委員をやったんだよ。ついでに特許を出願する側は、その判定委員の意見をきちんと覆してやり込めなきゃいけないっていうそんなルールがあってね。毎年これで大体の生徒は負けるんだけど……王立学院も魔法学院も、判定委員には勝てないのが通説でさ」
「……あなた、これまで誰もできなかったことをやったってこと?」
 
 まあ、そうなる。と、ブルーザーは肩をすくめてみせた。
 それを聞いてエルは顔を青くする。試験とはいえ、仮にも相手は王族の末端に位置する公爵家の息子だ。
 そんな相手に恥をかかせたとなれば、ブルーザーのこれから先も危うくなる。
 平気な顔をしてのんびりとしている友人のことが心配になり、エルはそれを告げるが、

「ま、なんとかなるさ」
「そんなのんきなこと言って大丈夫なの?」
「昔の封建主義ならともかく、今はきちんとした法律国家だよ。問題ないさ」
「この王国がきちんとした法律国家だって言うなら、髪の色の違いだけで婚約破棄を申しつけられた私はどうなるのよ!」

 深紅の髪はこの国において厄災の証だと言われてきた。
 はるか昔に神々の戦争をした魔女の髪色が深紅だったから、そんな伝説が生まれたらしい。
 親同士が決めた婚約は、姉よりもはるかに優れた妹の大学院編入によりあっけなく破られてしまったのだ。
 赤い髪はいらない、僕の出世の邪魔になるから。
 ただそれだけの理由で、ハサウェイは妹のリースを選んだ。
 憮然としてそうぼやくエルに、ブルーザーはまあまあ、と声をかける。

「それが通ってしまうのも、また王族の特権というか……そうだね、確かに不公平だ」
「不公平すぎるわよ! そう言っても、あの婚約破棄があったからいまの私があるのだけれど」
「そう思えるのなら、君はとても素敵なレディになったと思うよ。編入してきた頃は、本当に大変だったから」
「……」
 
 どう大変だったのよと言い返したいのを我慢して、エルはついさっきまでは自分が立っていた壇上を見やる。
 二年前、あの場所でスピーチを強要された自分がいた。
 それも編入試験の最優秀合格者とかそんなものではなくて、最下位で合格した編入者への試練のようなもの。
 簡単に言ってしまえば編入試験は合格したけれど、そのあとの科目にはどうせついてこれないだろうから、嫌な思いをさせて自主退学させてしまえという、魔法学院側のいじめだった。

 魔法使いは結果が全て。
 編入初日から身をもってそれを思い知らされたエルだった。
 あれから二年。
 水属性の魔法の中でも最も簡単で最も初歩的な魔法。
 泡魔法しか扱えなかった自分が、全校生徒の代表の一人として論説大会に参加し、勝利をおさめることができたなんて。

「どうかしたのかい? 俺としてはある意味、奇跡が起こったとしか思えない」
「そうかもしれない。でもその奇跡は、ブルーザー。あなたの一言がきっかけだったのよ」
「俺の一言? 何か言ったっけ?」
「覚えてないなら別にいいわ」

 あの時、初対面の彼は何て言ってくれたたんだっけ。
 当時の出来事を思い返しながら、妹に勝つきっかけをくれた生徒会長に心の中でありがとう、とエルは告げていた。


 ◇

 二年前。
 エルは魔法になんて全く興味がない、普通の貴族令嬢だった。
 社交界に憧れてパーティーがあるたびに街の高級デパートに友人の貴族令嬢達と新しいドレスを求めて通いつめ、最新の流行を追い求めてはおしゃれとカッコいい舞台俳優と、世間を知らない彼女たちからせいぜいふんだくってやろうという商人を相手に、彼ら以上の商品知識を貪欲に探究して、出し抜いてやる。

 そんなどこにでもいる……多分どこにでもいる。
 おしゃれや服飾や、美容の知識に関しては専門家でも出し抜いてしまうような……ちょっとだけ普通じゃないかもしれない、貴族令嬢だった。

 政治とか経済なんかに興味はなく、読んだとしてもファッションに関する記事ぐらい。
 貴族の令嬢は、商人に「馬鹿が財布を持ってきた」と言わせるくらい不公平な扱いを受ける存在でしかなくて。
 飽くなき探究心と商人以上の専門知識と、絶対に裏切らないと誓った仲間の結束があって初めて公平な扱いを受けることができた。
 仲間たちを勝たせようという事に意欲的だったエルは、それでも恋愛に関しては興味がないわけではなかったのだ。

 ただ彼女には生まれつきの婚約者ハサウェイがいて、彼には大人の魅力が備わっていてまだ十五歳の幼い少女には若干背伸びをしたい。
 そんな願望に見合う素晴らしい相手だったから、将来の心配なんて全くしていなかった。
 もちろん、学校に通ってきちんとした教養を身につけようなんて思ってもみなかった。
 それが、二年前のエル・ウェザースプーン伯爵第一令嬢。
 姉とは真逆に妹のリースは天才と呼ばれるほどに賢い少女で、選ばれた貴族しか通うことを許されない王立学園の大学院にまで編入してしまうくらい。
 馬鹿な姉と賢い妹。
 どこまでも対比的なこの構造はあまりにも脆くて、そのまま安泰だったはずのエルの将来まで奪い取ってしまった。

「厄災の深紅はいらない。僕には知性溢れる銀髪が良い」

 その一言がエルから何もかもを奪い去っていった。
 もちろんハサウェイからそう告げられて捨てられる前から、エルにだって危機感はあったのだ。
 彼は将来を有望視されていて、父親の伯爵からは彼はいずれ大臣にまでになるだろうと聞かされていたから、あまり頭が良くない自分では彼にふさわしくないのではないかと直接問いかけたことも何度もあった。
 その度に彼は優しそうな顔をして、エルにこう告げた。

「気にしなくていいですよ。僕にとってそのままのあなたが大事だから。何も気にしなくていい、僕がすべて守ってあげるから」

 今から考えればなんてお子様だったんだろうと当時の自分を叱りつけたくなる。
 あっさりと妹に鞍替えした男は、言葉だけは天下一品だったから。
 ハサウェイから婚約破棄を告げられたエルは、それでもどうにかして彼にふさわしい女になろうと考えて、方法がないものかと探していたらハサウェイの兄、魔法師ロバートがある令嬢と婚約した話を耳にする。

 その令嬢は国内でも二大大学として名を馳せていた、ルケティック魔法学院の大学院を卒業した生徒だと知ったとき、エルはこう考えた。
 私もそこに進学し、卒業できれば必ず彼の心は取り戻せるはず。
 妹はもう片方の有名校、ラボス王立学院の大学院に進学していて。
 これもエルにそう決めさせた理由の一つだった。

 魔法なんてほとんど使えないけれど、これまで学んできた色々な雑学があればどうにかなるはず。
 そう思って編入試験に挑んでみたら、見事に合格した。ただし、最下位で。
 編入生代表としてスピーチは任されたものの何を言っていいか分からず、唯一、自分ができる魔法である泡魔法で等身大の泡を作り、その中に入ってみせたら大爆笑の渦が起こった。

 悔しかった。屈辱だった。
 壇上から降りて行き、そこで笑っている生徒を片っ端から殴りつけてやりたい。
 そんな衝動に駆られる自分を抑えるのに精一杯だった。
 それまで仲間たちからリーダーとして慕われてきたエルの心が、負けるな告げていた。
 高級デパートで並みいる凄腕のバイヤーたち相手に対等に渡り合ってきた学ぶことへの自尊心が、必ず首席で卒業して見返してやると心に決意させた。

 でも。
 魔法は知性の象徴で、他のどんな学問にも負けないほどの評価を受けることができる貴族社会で、単なる泡魔法しか使えない自分は負け犬だった。
 勝ち方が分からなくて、授業についていけなくて、どこかでプライドがポッキリと折れて自主退学を言い出す。
 そんな自分の未来の背中が見えたような気がした。
 だけどやはり魔法は実力社会の象徴で。
 彼女を嗤ってさげすむその他大勢とは違い、講師陣と一部の有能な生徒はエルの才能に見惚れていた。
 いや、もうすでに負けを認める生徒すら、その中にはいたのだ。
 当時から生徒会長で学年首席のブルーザーもその一人だった。

「すごいね、君。形が固定化されてないあんな大きな泡を作ってしかもその中に長時間入って喋ることができるのは、とんでもない魔法の才能だよ。泡は常に変化するのに、それを維持するためには全体に均等に魔力をいきわたらせなきゃいけないし、その制御だけでもものすごい集中力を必要とされるっていうのに、まさかあんな舞台で緊張しながらそれを成せるなんて。おまけにあの大きさと持続時間。君の魔力は一体どれほどあるんだ、俺なんかより、よほど優秀じゃないか」

 ブルーザーにそう言われた時、正直泣きそうだった。
 彼の言葉が嫌味でも嘘でも元気付けるためにかけてくれた単なる思いつきでも、何でもよかった。
 たとえそれが真実でなくても。
 そう言ってくれる人間が一人でもいるのなら、たぶん自分がこの場所で頑張っていけると思ったから。

 それから、ブルーザーや彼以外の友人たちと持ち前の社交性の良さで交流を結び、エルはハサウェイに振り向いてほしくて思いつきで編入したことを、とてつもなく恥じた。
 最初に褒めてくれたあの一言は何も恐れはなくて、魔法学園に通う生徒の誰もがもっともっと素晴らしい魔法使いになりたいと、そう願っていることを知ったから。
 単純に魔法が大好きでその次に家族のためにそして自分自身の可能性を疑うことなく。
 友人になった誰もが自分たちと同じように魔法を愛するようになったエルのことを受け入れてくれたから。
 彼らの純粋な思いを踏みにじるような独善的な考えで生きてきた自分を恥ずかしいと思ったから。
 
 それからエルは魔法ではなく自分自身を研究した。
 今までの魔法理論だと、エルの作り出せる巨大な泡の理由が見つからなかったからだ。
 それまでの魔法は詠唱を通じて言霊を使役し、世界に存在する魔力を魔法に変えて形にするものだった。
 ところがエルの場合、詠唱しても言霊には何も通じなかったのだ。
 それどころか呪文を唱えたら起こすことができる泡はとてもとても小さなもので、呪文を唱えない無詠唱なら。
 心の中でイメージをしてそれを現実に起こすことができるそのやり方なら。
 エルの泡はどこまでも巨大に膨れていって、ひどい時には学び舎の尖塔の一つをまるまるその内側に閉じ込めた。

 常識ではない何か別の魔法理論がこの世には存在する。
 そう考えたエルは、ずっとずっと昔のこと。
 髪色にもある厄災の魔女なんて存在が生きていた、神代の時代のことを手当たり次第に調べまくった。
 古代の遺跡に行ったり、ドラゴンが眠るという伝説のあるダンジョンに潜ったり、まだ活性している火山の火口にあるはずの神殿に降り立とうとしたり。
 そんな無茶苦茶な冒険を快く手伝ってくれたのは、いつもブルーザーと学院の仲間たちだった。
 死にそうな目にあって逃げることもできず、あと少しで死にそうな目にあったことも何度もある。
 そんな時は決まって学院の講師たちが助けにきてくれて、あとからとんでもない量のレポートを書かされたり、学院で飼っている魔獣の世話をさされたり。
 寝る暇も惜しんで一年したころ、ようやくエルは自分の能力の解析に成功する。
 それは古代では当たり前のように使われていた、無詠唱による精霊との意思疎通の果てに起こせる失われた魔法。

 今では何と呼んでもいいかもわからない、無詠唱魔法としか言えないようなそんなもの。
 自分の可能性が見えたエルは、それからはその社交性を生かすことにした。
 攻撃を受けるたびに弾力性を活かして防御にする防具としての泡魔法。
 生活の中でさまざまな汚れやしみなどを除去する生活魔法としての泡魔法。
 それらの特許取り、商人ギルドと交渉に次ぐ交渉を重ねて独自の販売網を作り上げ、商品を用意してエルは貴族令嬢としては珍しく経済的に成功を収めた。


 ◇


 忙しく日々が過ぎゆくなかで、エルは念願の首席卒業を手にするチャンスを得た。
 それが今回の、王立学院と対抗した論説大会。
 大会で優勝したエルにはもちろん、学校長から栄誉賞が与えられる。
 そんなところまであっという間に過ぎ去った二年間を回想して、エルはあ、と声を出してしまう。
 これまで学年首席だったのは……今隣に立っているブルーザーだと気づいたからだ。

 自分自身のことで頭がいっぱいになっていた。
 本当なら、彼が首席で卒業するはずなのに。その栄光の座を、自分はあっという間に掠め取ってしまったのだ。
 たった一度の論説大会の優勝という功績だけで。
 そのことに気づいて恐る恐るブルーザーの顔を見たら、彼はちゃんと理解していたみたいで調子に乗るな、と叱られた。

「お前は一回だけ。俺はこれまで何度も優勝してるの、ついでに……困るんだよ。首席では卒業できないんだ」
「どういう、こと?」
「首席になれるのは貴族の子弟子女だけ。俺はすでに当主だから」

 そう言われてエルは納得する。
 確かに彼は出会った頃からブルーザー・ブラウン子爵家当主様だった。

「なるほどね、言われてみればその通りだわ」
「そんなことよりも、いいのかよ?」
「……なにが?」
「何がって。さっきのお前の元婚約者」
「あー……聞こえてたんだ?」
「そんなつもりはなかったけどな。今度は妹と婚約破棄して、またお前に鞍替えしたらとんだ恥さらしだ」
「でも……伯爵家と公爵家の家同士の約束は何も破っていないから。合法よ……そうね、できることとしたらこれくらいかしら」

 やっぱり場所なんて関係ない。
 そう考えたエルは、会場を後にした妹とハサウェイを追いかけることにした。
 外はまだ続いている論説大会を聞こうとする人とこれから会場を後にしようとする人でごった返していて、都合がいいことにハサウェイは彼の家が所有する馬車に乗り込もうとしていたところだった。
 妹のリースと共に。
 小走りに後を追いかけて扉は閉める寸前で彼に追いついたエルは、ちょっと待ってと小さく叫び声をあげた。

「どうしたんだ。君から来てくれるなんて、さっきの話を考えてくれたのか」
「どういうこと?」

 リースはまだハサウェイから何も告げられていないらしい。
 勝ちを得た姉がまだ何か文句を言いにきたのかと、憎そうな視線を寄越してくる。

「君は黙っていてくれ。これは僕とエルの会話だ」
「ハサウェイ様?」

 そんな妹たちのやり取りなんてもうどうでもよかった。
 エルはこちらに顔を近づけようとするハサウェイの頬を軽くひっぱたいてから、心の奥底にずっと溜め込んでいた一言をようやく吐き出した。

「公子! あなたに婚約破棄をされて幸せでした。本当の私を見つけることができたから。ですからご心配なく……いまさら新たに婚約などして頂かなくても。わたし、あなたがいなくても、ちゃんと生きてきますから。妹と末永くお幸せに!」

 ついでに頬を張られて現実を受け入れられないまま、呆然としているハサウェイの腹に強烈な拳の一撃をお見舞いする。
 なんでこんなくだらないことで二年間も悩んだんだろうと、思いつめてた自分がバカみたいに感じれてしまった。
 婚約者が姉に殴られて悶絶し、それを見た妹が声にならない悲鳴をあげたのを見て、エルは長かった溜飲がようやく下がったのを感じた。
 こちらに崩れて倒れこんでくるハサウェイの身体を馬車に押し込むと、「お幸せに!」ともう一度告げて足で扉を蹴り飛ばして閉じてやる。

「あーあ……やっちまったなぁ。あの蹴りを食らわせたのか?」
「まさか! ちょっとだけ軽くなぐっ……撫でただけ」
「本当か? 思いっきり殴ったんじゃないんだろうな?」
「知らない! 知らないの! もう関係ないんだから!」

 この場所では関係なくても伯爵家と公爵家の間には大問題が起きるだろうなあ、と後からやってきたブルーザーがぼやくのをよそに、エルは憤然としてその場を立ち去ったのだった。
 そして半年後。
 卒業式の当日がやってきた。
 学年首席で魔法学院の卒業するエルの周りには数多くの友人たちがいて、エルの才能だけにではなく生き方まで共感してくれた新しい恋人のブルーザーがいた。

 そういえば、ハサウェイは婚約者であるリースから浮気による不貞を疑われて訴えられ、爵位を継承するどころか、公職まで追放されどこかで浮浪者をしているという噂が流れてきたが、それは幸せを手にしたエルにとっては、どうでもいい無関係な話だった。

 エルは成功を手にしたのだ!
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