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Live1:夜明けの音
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スタンドマイクの前に立つと、視線が一斉にこちらに向いた。
夏でもないのに、制服の襟がじっとりと肌に貼り付く。息を整えるつもりが、喉の奥がカラカラに乾いて上手く吸えなかった。
(大丈夫、音程は昨日よりは……。声も…声も、出る……)
部室の空気は、冷房がついているはずなのに、ひどく暑かった。
部員たちの足元に、練習中の譜面や飲みかけのペットボトルが散乱している。
その中で、未空の音だけが、異物のように部屋に響いた。
曲の最後まで歌い切ったのは、意地だったのかもしれない。
歌い終えたとき、拍手はなく、誰も口を開かなかった。
ただ、ギターの先輩が無言でため息をつき、それを合図にしたように、パーカッションの部員が、きっぱりとこう言った。
「……何度テストしたって同じです!あなたにボーカルは無理!!
もう二度と、来ないでください!!」
──楽々浦未空、歌手志望。
軽音部を、出禁になりました。
ぴしゃりと強く閉められた扉の前で息を止め、涙をこらえる。
「……どうして?私はただ、音楽がやりたいだけなのに……」
一人寂しく歩く廊下は、いつもより広く、長く感じた。
物心ついたときから、いつも音楽が身近にあって、特に歌うことが好きだった。
しかし、公園で練習していたときも、合唱コンクールのときも、誰も未空を褒めはしなかった。それどころか皆が顔をしかめて、口々にこう言うのだ。
「やめろ!音痴!」
ズレるタイミング、ぶれる音程、無駄によく通る大きな声、全部迷惑で仕方がない、もはや騒音だ、と行く先々で批判された。歌手にでもなったつもりか?と、クスクス笑う者もいた。
そこまで言われてしまうと、明るい性格の未空も流石に堪えてしまった。
人前で歌うことをやめ、合唱では口パクをするようになり、一人で練習するときも大きな声が出せなくなってしまった。
もう今後歌手を目指すことはないのだろう、と諦めていた。
しかし、とあるアーティストの存在が、未空の情熱に再び火をつけた。
音楽で生きていく。その果てしない夢を叶えるための第一歩を、もう一度踏み出す決心をした。
その結果が、軽音部の入部テストだったのだ。
「あ・・・」
ぴたりと足を止めた先には、「音楽室」の文字があった。
「……落ち込んだ時には、アレしかないよね!」
教室の扉を開けて、中に入る。
ぴかぴかのグランドピアノに、たくさんの譜面台。長机には生徒ひとクラス分の椅子が並べられている。
黒板の下にある大きなステージには、教室の窓からスポットライトのように西日が差し込んでいた。
未空はステージに上がり、歌詞をしたためている相棒のノートを、くるりと丸めた。
……ここには、怒る人も、笑う人もいない。大丈夫。
そう言い聞かせるように、大きく息を吸った。
♪掴んだつもりの明日が 指の隙間からこぼれてく
叫んでも届かないって決めたのは 誰だったっけ
誰にも聞かれないように 胸の奥で鳴らしてた声
それを 誰かが聴いたなら──
♪まだ消せないビートが この胸の奥 鳴りやまない
諦めたフリした昨日に さよならを言いに来たんだ!
ふう、と満足そうに息をつき、普段のにこにこ笑顔に戻った未空は、一人呟いた。
「……ふふ!やっぱりNeneonさんの新曲最高!」
Neneon。
ネットで人気急上昇中の学生インディーズアーティスト。
圧倒的な音楽センス。誰にも媚びない姿勢。
そして、言葉ひとつで人の心を動かす力。
まさに理想の人!未空は、彼の大ファンだった。
未空の歌手の夢を再び燃え上がらせたのは、彼の存在だったのだ。
「いつか……いつか絶対、Neneonさんと……」
「……ひっでぇな」
扉がガラガラと乱暴に開かれる音がした。
音と声の主のほうを向くと、そこには……。
「誰だよ。クソ音痴」
「……え?」
まるで時間が止まったようだった。息が詰まって、声がかすれた。
「あ……あなた、は……」
「ったく。ちょっと感傷に浸りに来てみるかと思ったらこれか。台無しだな」
未空の眼前に映るのは、ガシガシと頭をかきながらため息をつく男子学生。
憧れのあの人はネット上で顔を出さない。SNSでは音楽関連の告知以外の投稿は一切しない、実にミステリアスな存在である。
それでも、未空には分かってしまったのだ。
目の前の彼が、「Neneon」その人であることを。
「ねっ、Neneonさんですよね!?その……お声……」
「……稲嶺音央。2年」
「な、名前もそれっぽい……それに、年齢も……」
自らを音央と名乗った男子生徒は、きまりが悪そうに顔を逸らした。
「……声だけで分かる割には、気づくの遅かったな。
まあ・・・俺、最近学校に来てなかったし。仕方ねえか」
「う……ぅ…」
「うわああああ~~~~~~~~ッ!!!!!」
未空はぼろぼろと歓喜の涙をこぼして、恐れ多くもNeneonに近づいた。
「あっ、あの!いつもコメントしてるミソラです! 大ファンです!!」
「知ってる」
「新曲鬼リピしてます!!」
「知ってる」
「先輩のおかげでまた音楽に目覚めました!!」
「……それは知らん」
熱烈なファンを前にしても、変わらないクールな態度。切れ長の目に長いまつ毛。聴く者をたちまち虜にさせるテノール。
どこを切り取っても魅力しか感じない、現実世界で拝める推しの姿。
居ても立っても居られなくなった未空は、先輩に質問を投げかけた。
「あのっ!あの……先輩って今、ソロで活動されてるんですよね……?」
「?そうだけど」
ほんの少しの期待感に、うるんだ瞳が揺れる。荒ぶる息を整えて、汗ばみ震える手をぎゅっと握る。
これを言わないと、絶対、絶対、後悔すると思ったから。
「わ、私……」
「ネオ先輩と一緒に、音楽がやりたいです!!」
「……あ!?えっ、ぜってぇやだ」
ネオ先輩の実にわかりやすい拒絶の一言が、胸にグサリと突き刺さる。
それでも、ここで引き下がることなんてできなかった。
ネオの肩を揺すって懇願する。
「そ、そこをなんとか!私の夢なんです!憧れなんです!」
「知らねえよ。お前のことなんて」
「し、知ってほしいです!私、まだ全然下手で……音痴ってわかってますし……
でも、それでも、どうしても歌いたいって思ったんです!」
「わかってんなら、一人で勝手に歌ってろよ。
音痴の相手するほど暇じゃねえんだよ」
「……っ、でも、お願いします!!なんでもしますから!!」
「なんでもするとか、あんま言うんじゃねえ……」
少し間を置いて、ネオはバツが悪そうにため息をつく。
「……あのな、さっきから一人で熱くなってるとこ悪ぃんだけど」
「俺、活動辞める予定だから」
音楽室が一瞬で静まり返り、汗が伝う首すじが冷えた。
「………え……?」
「え……?なん……で?」
「う、嘘ですよね?だって、せっかく有名になってきて、これからって時なのに……!」
「そっそれか私の聞き間違いですよね?ねっ、そうですよね?せんぱ──」
「何度でも言ってやるよ。
俺は、音楽を辞める!」
先輩のよく通る低い声が、静かな教室に響いた。
聞き間違いなんかじゃない。
突きつけられたその残酷な現実が、未空を狂わせるのは、あまりにも簡単だった。
「……っ、な……」
「なんでえええええええええええええ~~~~~っっっ!!!!!!!!」
「うおっ……!?」
その強烈な声量に驚いたネオは、慌てて耳をふさぐ。
未空は逃がすまいとネオの腰を引っ掴んで、学校中に響き渡る大声で泣きじゃくる。
「引退なんて絶対に嫌です!!!なんでですかぁ!!!」
「おっお前に話す義理はない……離れろ!声デッカ……」
「先輩が辞めたら私の夢はどうなるんですか!!!」
「だから知らねえよ……」
必死にしがみつく未空を、ネオは雑に振り払った。
「……いいか。絶望的音痴のお前に一言伝えとくけどな」
「音楽は、好きだけでやれるもんじゃない!」
「……!」
「……っでも!私も……歌で人の心を動かせるようになりたいんです!!」
「憧れの人と……「ネオ先輩と」!!」
今の未空にできる、最大限の必死の訴えだった。
憧れの人、と言われたネオの顔は曇って、そっと影を落とした。
「……うるせぇよ」
ネオが音楽室を後にする。ギターを背負ったその後ろ姿は、どこか寂しそうだった。
ぽつんと取り残された未空は、それでも無意識に、彼に手を伸ばしていた。
「ぐす……やだ……やだぁ……」
翌日。
「先輩っ。私が書いた歌詞を見てください」
2年B組。ネオの教室の前で、彼にノートを突きつけた。
「……いや、押しかけてくんなよ。つか、どうやってクラス特定した……?」
ネオの顔を見ていなくても、声色で呆れられているのがよくわかる。
伊達に叩かれながら歌ってきていない。未空は、諦めの悪い女だった。
「きっ、昨日のアレでさよならなんてさせません!音楽続けてもらわなきゃ、困るん、ですから……」
涙の跡がにじんだ目元を、まっすぐネオに向けた。
「……」
少しの間を置いて、ネオが観念して手を差し出す。
「……はあ。見るだけだからな」
未空は、反射で勢いよく返事をした。
「!はいっ!!」
ノートを開いたネオ先輩が、黙って文字の羅列を見つめる。
周りの喧騒も聞こえなくなって、ページを静かにめくる音と、自分の心臓の音だけがこだまする。
……ネオが、一瞬だけ目を見開いた。
「……おい」
「はいっ!」
「放課後、音楽室に集合」
「えっ?」
「……お前、歌はひでぇが、これだけは悪くない。」
放課後の音楽室に、ネオのテノールが響く。
「えっと……歌詞ですか?」
「ああ。お前、嘘とかつけるほど、頭良くなさそうだし」
「え、今サラッとディスりました?」
ひとしきり後輩の歌詞を眺めたあと、ふー、と息をついて、ノートを閉じる先輩。
「ノートを見て感じた。お前が、ただの音痴じゃねえってこと」
「お前、俺と音楽がやりたいとか言ってたな」
「はっ、はい!」
「……なら、こういうのはどうだ」
ネオは胸ポケットから四つ折りの紙を取り出して、未空に見せた。
「俺が駆け出しだった頃、毎日こなしてたトレーニングメニューだ」
几帳面な文字で綴られた、朝昼晩、一週間分のスケジュール。
その内容は、ネオのストイックっぷりを想像させる、実に過酷なものだった。
「えっ……こんなにたくさん、毎日ですか!?」
「お前、これを一週間続けてみろ」
「ええっ!?」
「最終日までついて来られたら、合格としてやる。お前の夢とやらに付き合ってやってもいいだろう」
「お前歌手志望だったよな?なら見せてみろよ。お前の、音楽にかけた情熱ってもんをな」
ネオが未空をまっすぐ見つめる。その瞳は、獲物を見定めるようにギラリと光っていた。
身体が震えて、息が荒くなる。
こんなチャンス、逃す手はない!
「……はいっ、望むところです!!」
「よし、じゃあ着替えて外に出ろ。ウォーミングアップにグラウンド10周!」
ビシッと指差して、未空に命令する先輩。
「じゅ、じゅう!?いきなりですか!?」
「ぐずぐずしてる暇はねえぞ。明日の朝も音楽室に集合。腹式呼吸と発声練習も覚えてもらう」
「俺はお前に期待してるんだぜ?くくっ、この一週間、少しは楽しませてくれよ……?」
悪役みたいな、不適な笑みを浮かべてる……。
(ネオ先輩って、スイッチ入るとドSなんだ……)
「おらっ、さっさとグラウンドに行け!俺も後で行く。サボんなよ!」
「は、はいっ!!」
今日は体育の授業があったから、運動用のジャージは持ってきていたはず。
体力に自信はあるほうだけど、10周かあ……大丈夫かな……。
そんなことを考えながら、期待と不安を胸に、未空は音楽室から飛び出していった。
ぱたぱたと上履きで廊下を駆ける音が遠くなっていく。
静かになった音楽室で、ネオは夕日を背に独り言をこぼした。
「……さすがに諦めるだろ、あいつも」
学校指定のジャージに着替えて、未空はグラウンドに出た。
陸上部の部員たちが先に使っていたから、邪魔にならないように走らせてもらうことにした。
気合を入れて走っていると、クラスメイトの女子生徒が未空の背後から声をかけた。
「あれ?楽々浦さん?運動部入ったのー?」
「いえ!ちょっとね、特別なトレーニング中……うわっ!?」
余所見をした途端に足がもつれて、盛大に顔から転んでしまった。ズシャアと、砂で皮膚が擦れる痛々しい音がした。
「楽々浦さーーーーーーーん!!!」
女子生徒は、未空に駆け寄って介抱しようとした。
「ちょっと、大丈夫!?保健室に……」
でも、彼女にそんな時間はない。気持ちだけ受け取って、血の流れた膝小僧もそのままに、ヨロヨロと立ち上がった。
「……えへへ、お構いなく!これくらい、なんともありません!それでは!」
かっこつけて、振り返らずに走り去る。
まだまだ。これは序章だから。10周走り終えたら、適当に唾をつけて絆創膏でも貼っておこう。
未空は2日目、3日目、4日目と、厳しいトレーニングを乗り越えていく。
喉を壊さないための腹式呼吸の練習。50テイク繰り返して矯正した音程。15分のプランクを3セット。
ネオは未空がどんなにおかしな失敗を繰り返しても、一度たりとも笑ったり、馬鹿にしたりすることはなかった。
プロアーティストのネオが音痴の未空にここまで真摯に入れ込むのは、生来の性格だけではない。
ぼろぼろになりながら自分のあとを必死についてくる彼女の姿が、ただ眩しくて、悔しかった。
こいつなら、あるいは……と、期待と劣等を胸に募らせていた。
「ふう~~~~~……」
「明日で6日目か。ここまでついてくるとは正直思ってなかったぞ」
「えへへ・・・根性だけが取り柄なので」
「まだ気は抜きません。最後まで走り抜けますから。見ててくださいね、先輩!」
「・・・ああ」
短くそう返事をしたネオは、どこかいつもより柔らかい目つきをしていた。
(先輩に認めてもらいたい。そして、彼の隣にふさわしいボーカリストになりたい。
絶対、なってやるんだ!)
笑いあう二人を教室の外から盗み見る、ふたつの影が伸びた。
「ねえ、なんかさあ……あの二人……」
「うん……最近いつも一緒だよね」
「……気に入らない」
6日目の放課後。
トレーニングテストも完遂目前で、未空の心身は疲弊するどころか、妙に浮き足立っていた。
「HR終わり!さて…今日も先輩のところに行かなきゃ」
「……♪~♪」
思わずハミングする。かなり音ズレがマシになった気がする。
廊下をスキップして音楽室に向かおうとする私を……誰かがが引き止めた。
「ねえ。あんた、楽々浦さんだっけ?」
「え?」
振り返ると、そこに立っていたのは、他クラスの女子二人組だった。
ちょっと派手なグループに居そうな感じで、同学年でもちょっと目立ってる子たち。
「は、はいっ。何か用ですか?」
「最近さ、ネオ先輩と二人で何かやってるよね?」
「ネオ先輩……?あ、もしかして、先輩のファンですか!?」
「私、同担歓迎ですよ!ファン同士仲良くしたいです!よろし……、」
浮かれていた未空は、相手の表情なんて気にしていなかった。
だから、急に突き飛ばされたときは、状況の理解が追いつかなかった。
「きゃっ!?」
尻餅をついた未空を見下ろして、蛇のように睨みつけてくる女子生徒。
「おあいにく様。こっちはぜんっぜん歓迎してないんだわ」
「あんた、音痴過ぎて軽音部出禁になったんでしょ?そんな奴がネオ先輩に何の用なの?」
「ねえ、ネオ先輩にくっついて楽しい?」
自分の身に今、何が起きているのか分からない。
白む頭の中を必死に繋ぎとめて、精一杯の弁明をする。
「ご、誤解です!私は先輩と一緒に音楽やるために……テストを……!」
「一緒に音楽?あんたみたいな才能のない奴が?あのネオ先輩と?ありえない……」
未空が床に落とした歌詞ノートを、女子生徒が取り上げた。
「あっ……」
「なにこれ。歌詞ノート?」
かあっと顔が熱くなった。ネオ以外、誰にも見せたことがないノートの中身。
よりによって、この人たちに……。
「ぷっ。こんなこといつも考えてるの?ダッサ」
「自分に酔いすぎだろ。恥ずかし~」
「かっ……返し……て……!」
泣きたくなって、声が震えて、思うように叫べない。
「自分に才能があるって勘違いしてるの?こんなんでネオ先輩に近づこうなんて、笑っちゃう!」
「──身の程、知りなよ?」
女子生徒は、その、ノートを。
未空の目の前で、びりびりに破ってみせた。
「あ………」
はらはらと落ちる切れ端。
ただのゴミ同然に変わり果てた相棒を、ぼうっと見つめた。見つめることしか、できなかった。
(違うのに。私はただ、歌いたいって……。ネオ先輩と、って……)
女子たちの向こう側から、聞き覚えのある静かな声が響いた。
「──どけよ」
「!ね、ネオ先輩……」
見られたくないところを見られた女子生徒は、気まずそうに目を逸らした。
「……歌詞ノートって、魂だろ。それ破るとか、センスねぇな」
ボロボロのノートを奪うネオ。静けさの中に滲む怒りに気圧されて、女子たちが退く。
未空の前で立ち止まったネオが、ばらばらになったノートを拾い集めて、つぶやく。
「なあ」
「こんだけボロボロでも、お前の声……まだ残ってんだろ?」
「……!」
「行くぞ」
ネオが差し出した手を、ゆっくりと取った。ほんのり冷たい、傷痕だらけの細い指。
呆然とする女子二人には目もくれず、未空の手を引いて音楽室へ歩き出す。
「……ミソラ」
「……?」
歩きながら、振り返らずに未空に話しかけるネオ。
いつもと変わらない、冷静なテノール。
「7日目もやれ。朝、いつもの場所で、待っててやるから」
「……。はい……」
7日目の朝。
未空は薄暗い自室の中で、一睡もできず机に向かっていた。
くしゃくしゃのノートが机に置かれている。ページの端がテープで直されている。
(……泣きすぎて、目が腫れちゃった)
──こんなんでネオ先輩に近づこうなんて、笑っちゃう!
──身の程、知りなよ?
……本当は、まだ怖い。
また声が震えて、また笑われて、
「やっぱり無理だね」って、言われるのが、怖い……。
ふと、継ぎ接ぎのノートが目に入った。
(ネオ先輩が、直してくれたノート……)
おもむろにノートを開くと、白紙のページには。
──「歌え!」
消えないように油性ペンで大きく書かれた、ネオ先輩のメッセージ。
普段の几帳面さの中に力強さが滲んだ文字は、彼なりの不器用な激励だった。
「……ああっ…!」
堰を切ったように、ぼろぼろと涙がこぼれた。
(先輩は。ネオ先輩だけは……私に可能性を見出してくれた)
世界でいちばん大好きな人がくれた、世界でいちばん嬉しい贈り物。
それを疑ってしまっては、もうファンを名乗ることなどできないだろう。
(このノートは、まだ私の声を覚えてる)
──今日が、7日目。最後の日。でもきっと、始まりの日。
ネオのメッセージの下に続くように、新しく歌詞を綴る。
タイトルは……──。
ふっと笑って、顔を上げる。
「行かなきゃ……ネオ先輩が待ってる!」
まだ日が昇らない、暗い音楽室の中で、ネオはギターを弾いていた。
遠くから、ばたばたと慌ただしい足音が聞こえてきて、ネオは手を止めた。
伏せていた視線をふっと上げると、ドアが開いて、待ち望んだ人物の姿が目に入った。
「ぜえっ、はあっ……お、おはようございますっ……!!」
まだ予定より30分も早いのに、わざわざ走ってきたのか?
そんなに目を腫らして、さては昨日寝てないだろ。体調崩すぞ。
お前が夢半ばで逃げ出すような奴じゃないって、分かってたよ。
彼女の顔を見るなり、言いたいことが、話したいことが溢れてきた。
ネオは初めての感覚に戸惑う気持ちを隠すように、不器用にはにかんで返事をした。
「……おはよう」
「今日のトレーニングは「リカバリー」だ」
「りかばりー……?」
ネオがギターのペグをいじりながら言った。
「一週間地獄だったろ。今日は、整える日」
──軽いストレッチ。
「身体が硬いと声が詰まる。筋肉を緩めろ」
「イタタタ……!これ、地味にキツイです……!!」
──低音リラックス発声。
「……♪~……♪」
「マシになったな。7日前より、かなり」
「いっ、今、褒めました!?ネオ先輩褒めましたよね!?」
「……き、記憶違いだ。減点1」
「……今週、どうだった」
7日間の振り返りの時間に入り、ネオは未空に問いかける。
外はほんのり薄明るくなってきて、鳥の声が聞こえ始めた。
「7日間、あっという間でした」
膝の上で拳をぎゅっと握る。あの出来事を思い出すだけで、また声が震えてしまいそうだ。
……でも、ネオ先輩がいるから、大丈夫。
「途中で心が折れて、頭が真っ白になって……やっぱり私なんて、って、思いました」
「ふうん。で、どうすんだ?辞めるか?」
「……辞めません。だって、まだ歌いたいって思ってるから」
欲しい答えが返ってきて、ネオは満足そうに口元を緩ませた。
立ったまま未空に向き合い、まっすぐに見つめる。
「……ならよ。ユニット組むぞ」
「えあっ!?」
「お前、”俺と”やりたいんだろ?音楽」
未空は目を見開いた。
まぎれもない、”合格の合図”。
大好きな人と、一緒に音楽ができる。
それを他でもない本人が認めてくれた瞬間だった。
「え、ええっと!?じゃあ!その……!名前とか、どうしましょうっ……?」
何か案がないかと、慌てて歌詞ノートをめくる未空。
ちらりと覗いた初めて見る文字列を、ネオは見逃さなかった。
「「One More Beat」って、書いてあんな」
「あっ……そ、それは…!」
「わ、私が今朝書いた歌詞のタイトルですっ……。響きが、いいなあと思って……?」
やっぱりノートの中身を見られるのはまだ慣れない。未空は恥ずかしそうにノートで顔を隠した。
「いいじゃん、それ」
「えっ?」
「「一回じゃ足りねえ。まだやれる」って感じがする」
ネオは挑戦的な笑みを浮かべて、また瞳をギラリと光らせた。
それを見た未空は、ノートをそっと胸に当てて、つぶやいた。
「……「One More Beat」……うん、いいかも」
「じゃあ次の目標決めとけ。一曲ライブで披露すんだよ。一ヶ月後の学園フェス」
「いっ、一ヶ月後!?ライブって、ひひひ人前で……!?」
「…逃げんなよ?「One More Beat」」
「~~~っ……!」
初めてネオにからかわれて、涙目で縮こまる未空。
それでも、震える手をぎゅっと握って、顔を上げた。
「……逃げません!だって……」
夏でもないのに、制服の襟がじっとりと肌に貼り付く。息を整えるつもりが、喉の奥がカラカラに乾いて上手く吸えなかった。
(大丈夫、音程は昨日よりは……。声も…声も、出る……)
部室の空気は、冷房がついているはずなのに、ひどく暑かった。
部員たちの足元に、練習中の譜面や飲みかけのペットボトルが散乱している。
その中で、未空の音だけが、異物のように部屋に響いた。
曲の最後まで歌い切ったのは、意地だったのかもしれない。
歌い終えたとき、拍手はなく、誰も口を開かなかった。
ただ、ギターの先輩が無言でため息をつき、それを合図にしたように、パーカッションの部員が、きっぱりとこう言った。
「……何度テストしたって同じです!あなたにボーカルは無理!!
もう二度と、来ないでください!!」
──楽々浦未空、歌手志望。
軽音部を、出禁になりました。
ぴしゃりと強く閉められた扉の前で息を止め、涙をこらえる。
「……どうして?私はただ、音楽がやりたいだけなのに……」
一人寂しく歩く廊下は、いつもより広く、長く感じた。
物心ついたときから、いつも音楽が身近にあって、特に歌うことが好きだった。
しかし、公園で練習していたときも、合唱コンクールのときも、誰も未空を褒めはしなかった。それどころか皆が顔をしかめて、口々にこう言うのだ。
「やめろ!音痴!」
ズレるタイミング、ぶれる音程、無駄によく通る大きな声、全部迷惑で仕方がない、もはや騒音だ、と行く先々で批判された。歌手にでもなったつもりか?と、クスクス笑う者もいた。
そこまで言われてしまうと、明るい性格の未空も流石に堪えてしまった。
人前で歌うことをやめ、合唱では口パクをするようになり、一人で練習するときも大きな声が出せなくなってしまった。
もう今後歌手を目指すことはないのだろう、と諦めていた。
しかし、とあるアーティストの存在が、未空の情熱に再び火をつけた。
音楽で生きていく。その果てしない夢を叶えるための第一歩を、もう一度踏み出す決心をした。
その結果が、軽音部の入部テストだったのだ。
「あ・・・」
ぴたりと足を止めた先には、「音楽室」の文字があった。
「……落ち込んだ時には、アレしかないよね!」
教室の扉を開けて、中に入る。
ぴかぴかのグランドピアノに、たくさんの譜面台。長机には生徒ひとクラス分の椅子が並べられている。
黒板の下にある大きなステージには、教室の窓からスポットライトのように西日が差し込んでいた。
未空はステージに上がり、歌詞をしたためている相棒のノートを、くるりと丸めた。
……ここには、怒る人も、笑う人もいない。大丈夫。
そう言い聞かせるように、大きく息を吸った。
♪掴んだつもりの明日が 指の隙間からこぼれてく
叫んでも届かないって決めたのは 誰だったっけ
誰にも聞かれないように 胸の奥で鳴らしてた声
それを 誰かが聴いたなら──
♪まだ消せないビートが この胸の奥 鳴りやまない
諦めたフリした昨日に さよならを言いに来たんだ!
ふう、と満足そうに息をつき、普段のにこにこ笑顔に戻った未空は、一人呟いた。
「……ふふ!やっぱりNeneonさんの新曲最高!」
Neneon。
ネットで人気急上昇中の学生インディーズアーティスト。
圧倒的な音楽センス。誰にも媚びない姿勢。
そして、言葉ひとつで人の心を動かす力。
まさに理想の人!未空は、彼の大ファンだった。
未空の歌手の夢を再び燃え上がらせたのは、彼の存在だったのだ。
「いつか……いつか絶対、Neneonさんと……」
「……ひっでぇな」
扉がガラガラと乱暴に開かれる音がした。
音と声の主のほうを向くと、そこには……。
「誰だよ。クソ音痴」
「……え?」
まるで時間が止まったようだった。息が詰まって、声がかすれた。
「あ……あなた、は……」
「ったく。ちょっと感傷に浸りに来てみるかと思ったらこれか。台無しだな」
未空の眼前に映るのは、ガシガシと頭をかきながらため息をつく男子学生。
憧れのあの人はネット上で顔を出さない。SNSでは音楽関連の告知以外の投稿は一切しない、実にミステリアスな存在である。
それでも、未空には分かってしまったのだ。
目の前の彼が、「Neneon」その人であることを。
「ねっ、Neneonさんですよね!?その……お声……」
「……稲嶺音央。2年」
「な、名前もそれっぽい……それに、年齢も……」
自らを音央と名乗った男子生徒は、きまりが悪そうに顔を逸らした。
「……声だけで分かる割には、気づくの遅かったな。
まあ・・・俺、最近学校に来てなかったし。仕方ねえか」
「う……ぅ…」
「うわああああ~~~~~~~~ッ!!!!!」
未空はぼろぼろと歓喜の涙をこぼして、恐れ多くもNeneonに近づいた。
「あっ、あの!いつもコメントしてるミソラです! 大ファンです!!」
「知ってる」
「新曲鬼リピしてます!!」
「知ってる」
「先輩のおかげでまた音楽に目覚めました!!」
「……それは知らん」
熱烈なファンを前にしても、変わらないクールな態度。切れ長の目に長いまつ毛。聴く者をたちまち虜にさせるテノール。
どこを切り取っても魅力しか感じない、現実世界で拝める推しの姿。
居ても立っても居られなくなった未空は、先輩に質問を投げかけた。
「あのっ!あの……先輩って今、ソロで活動されてるんですよね……?」
「?そうだけど」
ほんの少しの期待感に、うるんだ瞳が揺れる。荒ぶる息を整えて、汗ばみ震える手をぎゅっと握る。
これを言わないと、絶対、絶対、後悔すると思ったから。
「わ、私……」
「ネオ先輩と一緒に、音楽がやりたいです!!」
「……あ!?えっ、ぜってぇやだ」
ネオ先輩の実にわかりやすい拒絶の一言が、胸にグサリと突き刺さる。
それでも、ここで引き下がることなんてできなかった。
ネオの肩を揺すって懇願する。
「そ、そこをなんとか!私の夢なんです!憧れなんです!」
「知らねえよ。お前のことなんて」
「し、知ってほしいです!私、まだ全然下手で……音痴ってわかってますし……
でも、それでも、どうしても歌いたいって思ったんです!」
「わかってんなら、一人で勝手に歌ってろよ。
音痴の相手するほど暇じゃねえんだよ」
「……っ、でも、お願いします!!なんでもしますから!!」
「なんでもするとか、あんま言うんじゃねえ……」
少し間を置いて、ネオはバツが悪そうにため息をつく。
「……あのな、さっきから一人で熱くなってるとこ悪ぃんだけど」
「俺、活動辞める予定だから」
音楽室が一瞬で静まり返り、汗が伝う首すじが冷えた。
「………え……?」
「え……?なん……で?」
「う、嘘ですよね?だって、せっかく有名になってきて、これからって時なのに……!」
「そっそれか私の聞き間違いですよね?ねっ、そうですよね?せんぱ──」
「何度でも言ってやるよ。
俺は、音楽を辞める!」
先輩のよく通る低い声が、静かな教室に響いた。
聞き間違いなんかじゃない。
突きつけられたその残酷な現実が、未空を狂わせるのは、あまりにも簡単だった。
「……っ、な……」
「なんでえええええええええええええ~~~~~っっっ!!!!!!!!」
「うおっ……!?」
その強烈な声量に驚いたネオは、慌てて耳をふさぐ。
未空は逃がすまいとネオの腰を引っ掴んで、学校中に響き渡る大声で泣きじゃくる。
「引退なんて絶対に嫌です!!!なんでですかぁ!!!」
「おっお前に話す義理はない……離れろ!声デッカ……」
「先輩が辞めたら私の夢はどうなるんですか!!!」
「だから知らねえよ……」
必死にしがみつく未空を、ネオは雑に振り払った。
「……いいか。絶望的音痴のお前に一言伝えとくけどな」
「音楽は、好きだけでやれるもんじゃない!」
「……!」
「……っでも!私も……歌で人の心を動かせるようになりたいんです!!」
「憧れの人と……「ネオ先輩と」!!」
今の未空にできる、最大限の必死の訴えだった。
憧れの人、と言われたネオの顔は曇って、そっと影を落とした。
「……うるせぇよ」
ネオが音楽室を後にする。ギターを背負ったその後ろ姿は、どこか寂しそうだった。
ぽつんと取り残された未空は、それでも無意識に、彼に手を伸ばしていた。
「ぐす……やだ……やだぁ……」
翌日。
「先輩っ。私が書いた歌詞を見てください」
2年B組。ネオの教室の前で、彼にノートを突きつけた。
「……いや、押しかけてくんなよ。つか、どうやってクラス特定した……?」
ネオの顔を見ていなくても、声色で呆れられているのがよくわかる。
伊達に叩かれながら歌ってきていない。未空は、諦めの悪い女だった。
「きっ、昨日のアレでさよならなんてさせません!音楽続けてもらわなきゃ、困るん、ですから……」
涙の跡がにじんだ目元を、まっすぐネオに向けた。
「……」
少しの間を置いて、ネオが観念して手を差し出す。
「……はあ。見るだけだからな」
未空は、反射で勢いよく返事をした。
「!はいっ!!」
ノートを開いたネオ先輩が、黙って文字の羅列を見つめる。
周りの喧騒も聞こえなくなって、ページを静かにめくる音と、自分の心臓の音だけがこだまする。
……ネオが、一瞬だけ目を見開いた。
「……おい」
「はいっ!」
「放課後、音楽室に集合」
「えっ?」
「……お前、歌はひでぇが、これだけは悪くない。」
放課後の音楽室に、ネオのテノールが響く。
「えっと……歌詞ですか?」
「ああ。お前、嘘とかつけるほど、頭良くなさそうだし」
「え、今サラッとディスりました?」
ひとしきり後輩の歌詞を眺めたあと、ふー、と息をついて、ノートを閉じる先輩。
「ノートを見て感じた。お前が、ただの音痴じゃねえってこと」
「お前、俺と音楽がやりたいとか言ってたな」
「はっ、はい!」
「……なら、こういうのはどうだ」
ネオは胸ポケットから四つ折りの紙を取り出して、未空に見せた。
「俺が駆け出しだった頃、毎日こなしてたトレーニングメニューだ」
几帳面な文字で綴られた、朝昼晩、一週間分のスケジュール。
その内容は、ネオのストイックっぷりを想像させる、実に過酷なものだった。
「えっ……こんなにたくさん、毎日ですか!?」
「お前、これを一週間続けてみろ」
「ええっ!?」
「最終日までついて来られたら、合格としてやる。お前の夢とやらに付き合ってやってもいいだろう」
「お前歌手志望だったよな?なら見せてみろよ。お前の、音楽にかけた情熱ってもんをな」
ネオが未空をまっすぐ見つめる。その瞳は、獲物を見定めるようにギラリと光っていた。
身体が震えて、息が荒くなる。
こんなチャンス、逃す手はない!
「……はいっ、望むところです!!」
「よし、じゃあ着替えて外に出ろ。ウォーミングアップにグラウンド10周!」
ビシッと指差して、未空に命令する先輩。
「じゅ、じゅう!?いきなりですか!?」
「ぐずぐずしてる暇はねえぞ。明日の朝も音楽室に集合。腹式呼吸と発声練習も覚えてもらう」
「俺はお前に期待してるんだぜ?くくっ、この一週間、少しは楽しませてくれよ……?」
悪役みたいな、不適な笑みを浮かべてる……。
(ネオ先輩って、スイッチ入るとドSなんだ……)
「おらっ、さっさとグラウンドに行け!俺も後で行く。サボんなよ!」
「は、はいっ!!」
今日は体育の授業があったから、運動用のジャージは持ってきていたはず。
体力に自信はあるほうだけど、10周かあ……大丈夫かな……。
そんなことを考えながら、期待と不安を胸に、未空は音楽室から飛び出していった。
ぱたぱたと上履きで廊下を駆ける音が遠くなっていく。
静かになった音楽室で、ネオは夕日を背に独り言をこぼした。
「……さすがに諦めるだろ、あいつも」
学校指定のジャージに着替えて、未空はグラウンドに出た。
陸上部の部員たちが先に使っていたから、邪魔にならないように走らせてもらうことにした。
気合を入れて走っていると、クラスメイトの女子生徒が未空の背後から声をかけた。
「あれ?楽々浦さん?運動部入ったのー?」
「いえ!ちょっとね、特別なトレーニング中……うわっ!?」
余所見をした途端に足がもつれて、盛大に顔から転んでしまった。ズシャアと、砂で皮膚が擦れる痛々しい音がした。
「楽々浦さーーーーーーーん!!!」
女子生徒は、未空に駆け寄って介抱しようとした。
「ちょっと、大丈夫!?保健室に……」
でも、彼女にそんな時間はない。気持ちだけ受け取って、血の流れた膝小僧もそのままに、ヨロヨロと立ち上がった。
「……えへへ、お構いなく!これくらい、なんともありません!それでは!」
かっこつけて、振り返らずに走り去る。
まだまだ。これは序章だから。10周走り終えたら、適当に唾をつけて絆創膏でも貼っておこう。
未空は2日目、3日目、4日目と、厳しいトレーニングを乗り越えていく。
喉を壊さないための腹式呼吸の練習。50テイク繰り返して矯正した音程。15分のプランクを3セット。
ネオは未空がどんなにおかしな失敗を繰り返しても、一度たりとも笑ったり、馬鹿にしたりすることはなかった。
プロアーティストのネオが音痴の未空にここまで真摯に入れ込むのは、生来の性格だけではない。
ぼろぼろになりながら自分のあとを必死についてくる彼女の姿が、ただ眩しくて、悔しかった。
こいつなら、あるいは……と、期待と劣等を胸に募らせていた。
「ふう~~~~~……」
「明日で6日目か。ここまでついてくるとは正直思ってなかったぞ」
「えへへ・・・根性だけが取り柄なので」
「まだ気は抜きません。最後まで走り抜けますから。見ててくださいね、先輩!」
「・・・ああ」
短くそう返事をしたネオは、どこかいつもより柔らかい目つきをしていた。
(先輩に認めてもらいたい。そして、彼の隣にふさわしいボーカリストになりたい。
絶対、なってやるんだ!)
笑いあう二人を教室の外から盗み見る、ふたつの影が伸びた。
「ねえ、なんかさあ……あの二人……」
「うん……最近いつも一緒だよね」
「……気に入らない」
6日目の放課後。
トレーニングテストも完遂目前で、未空の心身は疲弊するどころか、妙に浮き足立っていた。
「HR終わり!さて…今日も先輩のところに行かなきゃ」
「……♪~♪」
思わずハミングする。かなり音ズレがマシになった気がする。
廊下をスキップして音楽室に向かおうとする私を……誰かがが引き止めた。
「ねえ。あんた、楽々浦さんだっけ?」
「え?」
振り返ると、そこに立っていたのは、他クラスの女子二人組だった。
ちょっと派手なグループに居そうな感じで、同学年でもちょっと目立ってる子たち。
「は、はいっ。何か用ですか?」
「最近さ、ネオ先輩と二人で何かやってるよね?」
「ネオ先輩……?あ、もしかして、先輩のファンですか!?」
「私、同担歓迎ですよ!ファン同士仲良くしたいです!よろし……、」
浮かれていた未空は、相手の表情なんて気にしていなかった。
だから、急に突き飛ばされたときは、状況の理解が追いつかなかった。
「きゃっ!?」
尻餅をついた未空を見下ろして、蛇のように睨みつけてくる女子生徒。
「おあいにく様。こっちはぜんっぜん歓迎してないんだわ」
「あんた、音痴過ぎて軽音部出禁になったんでしょ?そんな奴がネオ先輩に何の用なの?」
「ねえ、ネオ先輩にくっついて楽しい?」
自分の身に今、何が起きているのか分からない。
白む頭の中を必死に繋ぎとめて、精一杯の弁明をする。
「ご、誤解です!私は先輩と一緒に音楽やるために……テストを……!」
「一緒に音楽?あんたみたいな才能のない奴が?あのネオ先輩と?ありえない……」
未空が床に落とした歌詞ノートを、女子生徒が取り上げた。
「あっ……」
「なにこれ。歌詞ノート?」
かあっと顔が熱くなった。ネオ以外、誰にも見せたことがないノートの中身。
よりによって、この人たちに……。
「ぷっ。こんなこといつも考えてるの?ダッサ」
「自分に酔いすぎだろ。恥ずかし~」
「かっ……返し……て……!」
泣きたくなって、声が震えて、思うように叫べない。
「自分に才能があるって勘違いしてるの?こんなんでネオ先輩に近づこうなんて、笑っちゃう!」
「──身の程、知りなよ?」
女子生徒は、その、ノートを。
未空の目の前で、びりびりに破ってみせた。
「あ………」
はらはらと落ちる切れ端。
ただのゴミ同然に変わり果てた相棒を、ぼうっと見つめた。見つめることしか、できなかった。
(違うのに。私はただ、歌いたいって……。ネオ先輩と、って……)
女子たちの向こう側から、聞き覚えのある静かな声が響いた。
「──どけよ」
「!ね、ネオ先輩……」
見られたくないところを見られた女子生徒は、気まずそうに目を逸らした。
「……歌詞ノートって、魂だろ。それ破るとか、センスねぇな」
ボロボロのノートを奪うネオ。静けさの中に滲む怒りに気圧されて、女子たちが退く。
未空の前で立ち止まったネオが、ばらばらになったノートを拾い集めて、つぶやく。
「なあ」
「こんだけボロボロでも、お前の声……まだ残ってんだろ?」
「……!」
「行くぞ」
ネオが差し出した手を、ゆっくりと取った。ほんのり冷たい、傷痕だらけの細い指。
呆然とする女子二人には目もくれず、未空の手を引いて音楽室へ歩き出す。
「……ミソラ」
「……?」
歩きながら、振り返らずに未空に話しかけるネオ。
いつもと変わらない、冷静なテノール。
「7日目もやれ。朝、いつもの場所で、待っててやるから」
「……。はい……」
7日目の朝。
未空は薄暗い自室の中で、一睡もできず机に向かっていた。
くしゃくしゃのノートが机に置かれている。ページの端がテープで直されている。
(……泣きすぎて、目が腫れちゃった)
──こんなんでネオ先輩に近づこうなんて、笑っちゃう!
──身の程、知りなよ?
……本当は、まだ怖い。
また声が震えて、また笑われて、
「やっぱり無理だね」って、言われるのが、怖い……。
ふと、継ぎ接ぎのノートが目に入った。
(ネオ先輩が、直してくれたノート……)
おもむろにノートを開くと、白紙のページには。
──「歌え!」
消えないように油性ペンで大きく書かれた、ネオ先輩のメッセージ。
普段の几帳面さの中に力強さが滲んだ文字は、彼なりの不器用な激励だった。
「……ああっ…!」
堰を切ったように、ぼろぼろと涙がこぼれた。
(先輩は。ネオ先輩だけは……私に可能性を見出してくれた)
世界でいちばん大好きな人がくれた、世界でいちばん嬉しい贈り物。
それを疑ってしまっては、もうファンを名乗ることなどできないだろう。
(このノートは、まだ私の声を覚えてる)
──今日が、7日目。最後の日。でもきっと、始まりの日。
ネオのメッセージの下に続くように、新しく歌詞を綴る。
タイトルは……──。
ふっと笑って、顔を上げる。
「行かなきゃ……ネオ先輩が待ってる!」
まだ日が昇らない、暗い音楽室の中で、ネオはギターを弾いていた。
遠くから、ばたばたと慌ただしい足音が聞こえてきて、ネオは手を止めた。
伏せていた視線をふっと上げると、ドアが開いて、待ち望んだ人物の姿が目に入った。
「ぜえっ、はあっ……お、おはようございますっ……!!」
まだ予定より30分も早いのに、わざわざ走ってきたのか?
そんなに目を腫らして、さては昨日寝てないだろ。体調崩すぞ。
お前が夢半ばで逃げ出すような奴じゃないって、分かってたよ。
彼女の顔を見るなり、言いたいことが、話したいことが溢れてきた。
ネオは初めての感覚に戸惑う気持ちを隠すように、不器用にはにかんで返事をした。
「……おはよう」
「今日のトレーニングは「リカバリー」だ」
「りかばりー……?」
ネオがギターのペグをいじりながら言った。
「一週間地獄だったろ。今日は、整える日」
──軽いストレッチ。
「身体が硬いと声が詰まる。筋肉を緩めろ」
「イタタタ……!これ、地味にキツイです……!!」
──低音リラックス発声。
「……♪~……♪」
「マシになったな。7日前より、かなり」
「いっ、今、褒めました!?ネオ先輩褒めましたよね!?」
「……き、記憶違いだ。減点1」
「……今週、どうだった」
7日間の振り返りの時間に入り、ネオは未空に問いかける。
外はほんのり薄明るくなってきて、鳥の声が聞こえ始めた。
「7日間、あっという間でした」
膝の上で拳をぎゅっと握る。あの出来事を思い出すだけで、また声が震えてしまいそうだ。
……でも、ネオ先輩がいるから、大丈夫。
「途中で心が折れて、頭が真っ白になって……やっぱり私なんて、って、思いました」
「ふうん。で、どうすんだ?辞めるか?」
「……辞めません。だって、まだ歌いたいって思ってるから」
欲しい答えが返ってきて、ネオは満足そうに口元を緩ませた。
立ったまま未空に向き合い、まっすぐに見つめる。
「……ならよ。ユニット組むぞ」
「えあっ!?」
「お前、”俺と”やりたいんだろ?音楽」
未空は目を見開いた。
まぎれもない、”合格の合図”。
大好きな人と、一緒に音楽ができる。
それを他でもない本人が認めてくれた瞬間だった。
「え、ええっと!?じゃあ!その……!名前とか、どうしましょうっ……?」
何か案がないかと、慌てて歌詞ノートをめくる未空。
ちらりと覗いた初めて見る文字列を、ネオは見逃さなかった。
「「One More Beat」って、書いてあんな」
「あっ……そ、それは…!」
「わ、私が今朝書いた歌詞のタイトルですっ……。響きが、いいなあと思って……?」
やっぱりノートの中身を見られるのはまだ慣れない。未空は恥ずかしそうにノートで顔を隠した。
「いいじゃん、それ」
「えっ?」
「「一回じゃ足りねえ。まだやれる」って感じがする」
ネオは挑戦的な笑みを浮かべて、また瞳をギラリと光らせた。
それを見た未空は、ノートをそっと胸に当てて、つぶやいた。
「……「One More Beat」……うん、いいかも」
「じゃあ次の目標決めとけ。一曲ライブで披露すんだよ。一ヶ月後の学園フェス」
「いっ、一ヶ月後!?ライブって、ひひひ人前で……!?」
「…逃げんなよ?「One More Beat」」
「~~~っ……!」
初めてネオにからかわれて、涙目で縮こまる未空。
それでも、震える手をぎゅっと握って、顔を上げた。
「……逃げません!だって……」
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