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第二夜 あなたを悦ばせたい
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「それは、ストレスじゃありませんか。早めに対応された方がよろしいですよ」
例の伝染病の影響で譲治の会社も少なからず影響を受けていた。が、それは毎日満員電車に揺られて出社しなくてもいい、とか、会社が電子決済を導入してくれたおかげでわざわざ書類にハンコをつくためだけに出社しなくてもいい、というほどのものだった。世の中にはあの伝染病のせいで存亡の危機に見舞われている企業も多いと聞く。だが彼の会社は政府の役所だけを相手にする特殊なものだったため、幸運にもその影響は限られていた。
リモートが続いて三日ぶりに出社したその夜、出てきている二三の同僚と仕事帰りに「軽く」と飲みに行った。が、文字通りに「軽く」なってしまい、飲み足りない気分で久しぶりに街をうろついた。どの飲み屋も十時には店じまいしてしまう。少し寂しい気分を抱えて歩く先に、なんとも雰囲気のいいバーを見つけた。
もちろん、初めて入る店だった。
ロンドンのボンドストリートにもかくやという店が多々あるが、そんな佇まいを感じさせる古風なドアを押して入ると、カウンターの後ろにスコッチの逸品の並ぶ瀟洒な重量感と歴史を感じさせる内装の店だった。
「いらっしゃいませ」
短く刈り込み丁寧に櫛を入れた髪の、よくプレスされたシャツに黒いベストの実直そうな中年のバーテンダー。ジャズのカルテット。磨き込まれたカウンターの上の低く暗い灯り。ボックスはせいぜい二つか三つ。譲治は一目でその店の雰囲気に惚れてしまった。もう長いことこんな店を探していたのだ。
ひとまずカウンターにとまると、バーテンダーが寄って来た。彼は静かに目を落としただけで「いかがしましょう」などと余計なことを言わないのも気に入った。酒を飲みに来ているのだ。客が喋るまで黙っている。そんな風情が感じられ、ますます好感を持った。
「この店のスタンダードを、ダブルのオンザロックで」
「バランタインの12年になりますが」
低く落ち着いた、気持ちのいい声の男だ。
「結構です」
男はスッと目の前から動き、プレーンなロックグラスに一つだけ大ぶりの氷をコロンと落とし、分厚い鞣しのコースターの上に置いて差し出した。スポン。コッコック。目の前で琥珀色の液体が注がれる演出。
グラスを傾けた。悪くない。そんな反応を見せるとバーテンダーは静かに目の前から退いた。しかし、最高級ではないにしろ、このランクのボトルがスタンダードであれば、客層はごく限られたものになってしまうのではないかと余計な詮索をしたくなる。そんなスタイルを好む客は少数だろう。おかげでカウンターでカラオケを歌いたがったり、女はいないのかなどと下衆なリクエストをしたり、流行りのポップスを好むような客だけは来ないだろう。実にいい店だと心底気に入ってしまった。
「失礼。おひとりですか」
まあまあの質のアルコールでのどを潤してほっと一息つくとカウンターの奥から声を掛けられた。
「まあ・・・、はい」
「よろしければ、ご一緒させていただいても?・・・」
顔がよくわからないほどに程よく暗い照明のため、その声がまず印象された。低く落ち着いたよく通る声だ。五十から六十ほどか。イントネーションもごく上品なものだ。こんな店に来ているくらいだから、下衆な話題で失望させるような手合いではないだろう。
「・・・ええ。どうぞ」
男はスツールを三つほど超えて一つ空けた隣に移って来た。
譲治の年齢の読みは当たっていた。口髭を蓄えた白髪の紳士。その服装も上質のものだった。彼は作ったことはないが、勤め先の役員クラスに相伴してクラブに連れて行かれた時に、その役員がスーツのことを女性に説明しているのを聞いたことがある。英国製の生地をオーダーメード専門店に誂えさせた、と。その時の役員の着ていたものよりもはるかに質の良いものではないかと見受けたが、そんなウールを緩めに着こなしていた。しかも、夜もなお昼間の陽気を残すこの季節に。
プライヤーのパイプが似合いそうな身なりだが、彼の前に灰皿はなかった。
バーテンダーが彼のグラスを移して去ると、その老紳士は口を開いた。
「初めてお目にかかりますかな。この店がお気に召しましたか」
「はあ・・・。なかなかいいお店ですね」
「それはよかった。・・・この店は客を選びますからね」
親ほどの年配の老紳士紳士からの、その言い草が譲治の自尊心をくすぐった。
「この店には品書きがありません。だから今あなたが召上がっている酒をいくらで供するのか。おおよその値段を知らない客は彼に訊くしかない」
彼はカウンターの中のバーテンダーを目で示した。
「それにどんな酒があるかもわからない。どんなカクテルが出来るかも。そういうのは全て彼とやりとりするしかない。そんな面倒な店はごめんだ。そういう客は、来ないのです。せっかくのうまい酒をそういう客と同席して台無しにしたくない。ここはそういう客のための店です」
「・・・はあ」
「あなたのようなお若い方が同好の士とは嬉しいですな。年寄りの気まぐれにつき合ってくださったお礼に、次のは奢らせてください」
「・・・いや、でも」
「遠慮なさらず。偏屈な年寄りと思われるかもしれませんが、寂しいからこういう店に来るのです。お付き合いいただいたお礼と思って頂ければ私も気が楽です」
老紳士はそう言って笑った。
「ところで、少々立ち入ったことを伺ってもよろしいですか?」
「・・・はい?」
「あなたは、なにかお悩み事がおありなのでは」
譲治は黙った。
そういう手口を使って近寄る詐欺がいる、と以前何かで、ネットか週刊誌かで目にしたことがある。このご時世、心配事の一つや二つや三つや五つぐらいなにかしら持っているのが当たり前で、ふいにそんなことを言われて「何故それを知っているんです」などと反応する方がおかしい。そうやって相手に近づき、信用させておいて・・・。この上品な洗練された立ち振る舞いの老紳士がそれなのではないだろうか、と。
「・・・もしかして、警戒しておられますね」
「あ、いや、・・・そんな」
図星を指され、譲治はいささか狼狽えた。
「あっはっは。いや、ムリもありません。ネットや電話で毎日のように人を騙す悪いヤツがいる世の中です。むしろ、それぐらいでなければいけませんよ。あなたの反応は、至極まともです。
これは言わば、年寄りの暇つぶしというヤツです。あなたはたぶん終電までにはお帰りになるでしょう。それまでの暇つぶしにお付き合いいただく、ただそれだけのことです。
私は少々人の心の方面に知識がありまして。失礼ながら店に入って来た時のあなたの表情や振る舞いや仕草を観察させていただいて、もしやと思ってお尋ねしてみたまでです。
おいやなら仰っていただいて結構ですが・・・」
身なりからも、その言葉からもその老人から素性の悪い匂いはしなかった。
「・・・あの、一つお伺いしてもいいですか」
「・・・何なりと」
「何故あなたは、そう思うのですか。私が悩みを抱えていると」
そういうことなら一つ、彼の言う通りに暇つぶしにつき合ってやるのも一興だと思った。言われる通り、あと一時間ほどで終電になる。それまでの余興だと。
「それでは申し上げましょう」
彼は少し手を振り、バーテンダーを呼んで譲治のグラスに注がせた。
「あなたは結婚なさってますね。そして専業か短時間のパートタイムをなさっている奥様がいらっしゃる」
「ああ、この指輪ですね」
譲治は左手の結婚指輪を翳した。
「でも、何故妻のことがわかるのです」
「シャツですよ」
「シャツ、ですか」
「失礼ですがそのシャツはクリーニングしたものではない、家庭でアイロンをかけるときにできる襟の裏側の小じわがあります。それにあなたはこんな時間になるまで帰宅していない。あなた以外にシャツをきちんとプレスできる人がいる。それにそのシャツは量販店で購入されたものです。オーダーしたものではない。袖口に折り返しがありません。それで大体のあなたの収入がわかる。それに靴です」
「靴?」
「履き潰していない。恐らくは毎日小まめにローテーションなさっている。きちんとクリーナーで汚れを取り、靴墨を塗って手入れしてある。恐らく雨の日は湿気を取って丁寧に陰干しまでしている。そんな手間暇を、こんな夜遅くまで外出なさっているご自身がなさるかどうか・・・。奥様がいてもフルタイムで働いているのではないだろうと思ったのです」
「失礼ですが、それは多分に、カンではないのですか?」
多少の胡散臭さを感じた。
「私のカンはよく当たるのですよ。それに、あなたのお悩みの原因も、おそらくあなたのご家庭にあるのではと、思っています」
譲治は黙った。再び警戒の衣を纏う必要がありそうだった。
「当たらぬとも、遠からず、ではありませんか」
なんだろう、この人は・・・。
奢りの一杯を嘗めた。少し蒸し暑さを感じた。
「こんな時間まで飲み歩く。家に、こんなに丁寧にあなたの身の回りに心を配り心を砕く女(ひと)が待っているのに。奥さんとなるべく顔を会わせたくない。どうですか? 満更見当違いでもないでしょう。
それが、ストレスにまでなってしまっているのではないですか。早めに対応された方がよろしいですよ」
譲治は予定通り終電で帰った。
ほとんどはリモートでこなせる仕事だが、週に最低一度は出社する。彼はそれを二度にし、月曜の朝と金曜日の午後に決めていた。妻には月曜は半日で上がることは話していない。つまり、妻にウソをついていた。図書館か本屋か今日のように一人飲み歩いてワザと夜遅く帰る。
あれは、あの紳士の言葉はほとんどでまかせだ。ハッタリの類だ。そのぐらいは譲治にもわかる。だが、なぜ彼がわかったのかは知らないが、全部事実だった。そのことに妙な暑苦しさと寒気を同時に感じていた。
彼が言ったこと。それがストレスになっているのは自覚している。この奇妙で厄介な伝染病が世界中に蔓延する前から感じていた苦痛だった。ましてや、このリモートで譲治も妻も家に二人きりでいることが増えてしまった。苦痛は倍加していたのだ。
彼は妻の、愛する妻の紗和にストレスを感じ始めていた。
重苦しい気分で家のドアを開けた。部屋は暗かったが、二階の寝室に向かう階段のローライトはついていた。ごそもそと音がしてパタパタとスリッポンの音が降りてきて、
「お帰りなさい・・・」
暗闇に灯がともり、ガウンを羽織った紗和が階段の途中に立っていた。
「ただいま。遅くなって、ごめんな」
「ううん。お仕事お疲れ様」
「たまにしか出社しなくなったんで、課長がしつこいんだよ」
どうせ酒の匂いでそれとわかる。用意した言い訳をスラスラと口にした。
紗和は和風の美しい瞳を少し曇らせつつ、疲れた笑顔で夫を迎えた。リンスと、つい最近変わったコロンの甘い香りが漂う。
「おなかは?」
「うん、食ってきた」
とても食欲がわかないが、そんなウソをつかねば紗和は用意しようとするだろう。妻の甘い香りのする身体の横を素通りし、リビングに向かった。
ソファーにカバンを放り投げ、ジャケットとネクタイを外す。
「そっちは? 仕事、どうだった? 」
「むしろ忙しいみたい。担当増やしてもいいかって、言われちゃった」
紗和は翻訳事務所でアルバイトをしていた。この忌まわしい伝染病が発生してからは、彼女もリモートで、主に家でプロの翻訳家の下訳をしている。
「『巣ごもり需要』ってやつか・・・。で、なんて答えたの」
「主人と相談してから、って・・・」
「受ければいいじゃないか。どうせ家に籠りっきりなんだからせめて仕事に忙殺される方が気が紛れるよ」
その言葉に何か言いたそうにしていた妻だったがキッチンに立ちミキサーを取り出してオレンジやバナナといった幾種類かのフルーツを刻み始めた。色の濃いフルーツが健康にいいと何かで調べたようで、譲治が夜遅く帰った日などはそれをジュースにして飲ませようとする。皮を剥くのがめんどくさい。以前文句を言ったことがあるので工夫を凝らしてくれているのだ。
それほどまでに気を使ってくれる妻の愛情。それはわかっている。わかりすぎるぐらいに十分にわかっているのだ。でも、それが、苦痛だった。
「お風呂あがってからでいいから、飲んでね。高血圧と脳の海馬にいいんだって」
「いつもありがとうな」
そういってバスルームに向かった。
「寝てていいからな。少し長く浸かりたい。おやすみ」
そんな言葉を吐きながら。そんな態度が、これほど自分に献身してくれる妻をどれだけないがしろにし、傷つけるかもわかっている。わかっているのだ!
それでも、まともに妻に向き合えないでいた。
烏の行水。そんな言葉はもう死語だろう。カラスだって、毎日のように苦痛に苛まれる自分よりかは幸せなんじゃないだろうか。そんな下らないイメージを弄びながら、寝支度して寝室に上がった。
妻はやはり、待っていた。
「寝ててくれていいのに。眠れないのか。今度、心療内科に行ってみようか・・・」
そう言ってダブルの紗和の横に身を滑り込ませた。妻に背を向けて、眠りにつく。それで眠れれば御の字。そうでない夜は・・・。
「あなた・・・」
紗和は素裸だった。静かにしがみついて来た。
「これだけでいいんです。ただ、抱いてくれるだけで。他には何も要らないんです!」
愛する妻の豊かな乳房、柔らかな身体が譲治の背中を責める。愛しい紗和の、その心の叫びは譲治の胸を突いた。女盛りの、今にも弾けそうな情熱と性欲の入り混じったものを迸(ほとばし)らせて譲治に迫ってくる。
紗和の手がパジャマ越しに譲治の股間を愛撫した。
「ごめんなさい。許してください。どうしたらあなたが振り向いてくれるのか、わからないんです!」
愛する妻の嗚咽を背中で聞く。
たまらずに寝がえりを打ち、その愛らしい妻の身体を掻き抱く。抱きしめる。
だが、譲治のモノはまるで反応がない。男として夫として妻にに応えることができない。愛しい妻の、その切ないほどの叫びに応えてやることが、できないのだ。
こんな残酷があるだろうか。この、死にたくなるほどの、もどかしさ。そして、切なさ。
それが、譲治を次第に病ませているストレスの、モトの素、だった。
このままでは二人ともダメになる。
譲治は、まるで奮い立たないおのれのモノを紗和の身体に押し付け、彼女の漆黒の髪を撫でながら無言で慟哭した。
例の伝染病の影響で譲治の会社も少なからず影響を受けていた。が、それは毎日満員電車に揺られて出社しなくてもいい、とか、会社が電子決済を導入してくれたおかげでわざわざ書類にハンコをつくためだけに出社しなくてもいい、というほどのものだった。世の中にはあの伝染病のせいで存亡の危機に見舞われている企業も多いと聞く。だが彼の会社は政府の役所だけを相手にする特殊なものだったため、幸運にもその影響は限られていた。
リモートが続いて三日ぶりに出社したその夜、出てきている二三の同僚と仕事帰りに「軽く」と飲みに行った。が、文字通りに「軽く」なってしまい、飲み足りない気分で久しぶりに街をうろついた。どの飲み屋も十時には店じまいしてしまう。少し寂しい気分を抱えて歩く先に、なんとも雰囲気のいいバーを見つけた。
もちろん、初めて入る店だった。
ロンドンのボンドストリートにもかくやという店が多々あるが、そんな佇まいを感じさせる古風なドアを押して入ると、カウンターの後ろにスコッチの逸品の並ぶ瀟洒な重量感と歴史を感じさせる内装の店だった。
「いらっしゃいませ」
短く刈り込み丁寧に櫛を入れた髪の、よくプレスされたシャツに黒いベストの実直そうな中年のバーテンダー。ジャズのカルテット。磨き込まれたカウンターの上の低く暗い灯り。ボックスはせいぜい二つか三つ。譲治は一目でその店の雰囲気に惚れてしまった。もう長いことこんな店を探していたのだ。
ひとまずカウンターにとまると、バーテンダーが寄って来た。彼は静かに目を落としただけで「いかがしましょう」などと余計なことを言わないのも気に入った。酒を飲みに来ているのだ。客が喋るまで黙っている。そんな風情が感じられ、ますます好感を持った。
「この店のスタンダードを、ダブルのオンザロックで」
「バランタインの12年になりますが」
低く落ち着いた、気持ちのいい声の男だ。
「結構です」
男はスッと目の前から動き、プレーンなロックグラスに一つだけ大ぶりの氷をコロンと落とし、分厚い鞣しのコースターの上に置いて差し出した。スポン。コッコック。目の前で琥珀色の液体が注がれる演出。
グラスを傾けた。悪くない。そんな反応を見せるとバーテンダーは静かに目の前から退いた。しかし、最高級ではないにしろ、このランクのボトルがスタンダードであれば、客層はごく限られたものになってしまうのではないかと余計な詮索をしたくなる。そんなスタイルを好む客は少数だろう。おかげでカウンターでカラオケを歌いたがったり、女はいないのかなどと下衆なリクエストをしたり、流行りのポップスを好むような客だけは来ないだろう。実にいい店だと心底気に入ってしまった。
「失礼。おひとりですか」
まあまあの質のアルコールでのどを潤してほっと一息つくとカウンターの奥から声を掛けられた。
「まあ・・・、はい」
「よろしければ、ご一緒させていただいても?・・・」
顔がよくわからないほどに程よく暗い照明のため、その声がまず印象された。低く落ち着いたよく通る声だ。五十から六十ほどか。イントネーションもごく上品なものだ。こんな店に来ているくらいだから、下衆な話題で失望させるような手合いではないだろう。
「・・・ええ。どうぞ」
男はスツールを三つほど超えて一つ空けた隣に移って来た。
譲治の年齢の読みは当たっていた。口髭を蓄えた白髪の紳士。その服装も上質のものだった。彼は作ったことはないが、勤め先の役員クラスに相伴してクラブに連れて行かれた時に、その役員がスーツのことを女性に説明しているのを聞いたことがある。英国製の生地をオーダーメード専門店に誂えさせた、と。その時の役員の着ていたものよりもはるかに質の良いものではないかと見受けたが、そんなウールを緩めに着こなしていた。しかも、夜もなお昼間の陽気を残すこの季節に。
プライヤーのパイプが似合いそうな身なりだが、彼の前に灰皿はなかった。
バーテンダーが彼のグラスを移して去ると、その老紳士は口を開いた。
「初めてお目にかかりますかな。この店がお気に召しましたか」
「はあ・・・。なかなかいいお店ですね」
「それはよかった。・・・この店は客を選びますからね」
親ほどの年配の老紳士紳士からの、その言い草が譲治の自尊心をくすぐった。
「この店には品書きがありません。だから今あなたが召上がっている酒をいくらで供するのか。おおよその値段を知らない客は彼に訊くしかない」
彼はカウンターの中のバーテンダーを目で示した。
「それにどんな酒があるかもわからない。どんなカクテルが出来るかも。そういうのは全て彼とやりとりするしかない。そんな面倒な店はごめんだ。そういう客は、来ないのです。せっかくのうまい酒をそういう客と同席して台無しにしたくない。ここはそういう客のための店です」
「・・・はあ」
「あなたのようなお若い方が同好の士とは嬉しいですな。年寄りの気まぐれにつき合ってくださったお礼に、次のは奢らせてください」
「・・・いや、でも」
「遠慮なさらず。偏屈な年寄りと思われるかもしれませんが、寂しいからこういう店に来るのです。お付き合いいただいたお礼と思って頂ければ私も気が楽です」
老紳士はそう言って笑った。
「ところで、少々立ち入ったことを伺ってもよろしいですか?」
「・・・はい?」
「あなたは、なにかお悩み事がおありなのでは」
譲治は黙った。
そういう手口を使って近寄る詐欺がいる、と以前何かで、ネットか週刊誌かで目にしたことがある。このご時世、心配事の一つや二つや三つや五つぐらいなにかしら持っているのが当たり前で、ふいにそんなことを言われて「何故それを知っているんです」などと反応する方がおかしい。そうやって相手に近づき、信用させておいて・・・。この上品な洗練された立ち振る舞いの老紳士がそれなのではないだろうか、と。
「・・・もしかして、警戒しておられますね」
「あ、いや、・・・そんな」
図星を指され、譲治はいささか狼狽えた。
「あっはっは。いや、ムリもありません。ネットや電話で毎日のように人を騙す悪いヤツがいる世の中です。むしろ、それぐらいでなければいけませんよ。あなたの反応は、至極まともです。
これは言わば、年寄りの暇つぶしというヤツです。あなたはたぶん終電までにはお帰りになるでしょう。それまでの暇つぶしにお付き合いいただく、ただそれだけのことです。
私は少々人の心の方面に知識がありまして。失礼ながら店に入って来た時のあなたの表情や振る舞いや仕草を観察させていただいて、もしやと思ってお尋ねしてみたまでです。
おいやなら仰っていただいて結構ですが・・・」
身なりからも、その言葉からもその老人から素性の悪い匂いはしなかった。
「・・・あの、一つお伺いしてもいいですか」
「・・・何なりと」
「何故あなたは、そう思うのですか。私が悩みを抱えていると」
そういうことなら一つ、彼の言う通りに暇つぶしにつき合ってやるのも一興だと思った。言われる通り、あと一時間ほどで終電になる。それまでの余興だと。
「それでは申し上げましょう」
彼は少し手を振り、バーテンダーを呼んで譲治のグラスに注がせた。
「あなたは結婚なさってますね。そして専業か短時間のパートタイムをなさっている奥様がいらっしゃる」
「ああ、この指輪ですね」
譲治は左手の結婚指輪を翳した。
「でも、何故妻のことがわかるのです」
「シャツですよ」
「シャツ、ですか」
「失礼ですがそのシャツはクリーニングしたものではない、家庭でアイロンをかけるときにできる襟の裏側の小じわがあります。それにあなたはこんな時間になるまで帰宅していない。あなた以外にシャツをきちんとプレスできる人がいる。それにそのシャツは量販店で購入されたものです。オーダーしたものではない。袖口に折り返しがありません。それで大体のあなたの収入がわかる。それに靴です」
「靴?」
「履き潰していない。恐らくは毎日小まめにローテーションなさっている。きちんとクリーナーで汚れを取り、靴墨を塗って手入れしてある。恐らく雨の日は湿気を取って丁寧に陰干しまでしている。そんな手間暇を、こんな夜遅くまで外出なさっているご自身がなさるかどうか・・・。奥様がいてもフルタイムで働いているのではないだろうと思ったのです」
「失礼ですが、それは多分に、カンではないのですか?」
多少の胡散臭さを感じた。
「私のカンはよく当たるのですよ。それに、あなたのお悩みの原因も、おそらくあなたのご家庭にあるのではと、思っています」
譲治は黙った。再び警戒の衣を纏う必要がありそうだった。
「当たらぬとも、遠からず、ではありませんか」
なんだろう、この人は・・・。
奢りの一杯を嘗めた。少し蒸し暑さを感じた。
「こんな時間まで飲み歩く。家に、こんなに丁寧にあなたの身の回りに心を配り心を砕く女(ひと)が待っているのに。奥さんとなるべく顔を会わせたくない。どうですか? 満更見当違いでもないでしょう。
それが、ストレスにまでなってしまっているのではないですか。早めに対応された方がよろしいですよ」
譲治は予定通り終電で帰った。
ほとんどはリモートでこなせる仕事だが、週に最低一度は出社する。彼はそれを二度にし、月曜の朝と金曜日の午後に決めていた。妻には月曜は半日で上がることは話していない。つまり、妻にウソをついていた。図書館か本屋か今日のように一人飲み歩いてワザと夜遅く帰る。
あれは、あの紳士の言葉はほとんどでまかせだ。ハッタリの類だ。そのぐらいは譲治にもわかる。だが、なぜ彼がわかったのかは知らないが、全部事実だった。そのことに妙な暑苦しさと寒気を同時に感じていた。
彼が言ったこと。それがストレスになっているのは自覚している。この奇妙で厄介な伝染病が世界中に蔓延する前から感じていた苦痛だった。ましてや、このリモートで譲治も妻も家に二人きりでいることが増えてしまった。苦痛は倍加していたのだ。
彼は妻の、愛する妻の紗和にストレスを感じ始めていた。
重苦しい気分で家のドアを開けた。部屋は暗かったが、二階の寝室に向かう階段のローライトはついていた。ごそもそと音がしてパタパタとスリッポンの音が降りてきて、
「お帰りなさい・・・」
暗闇に灯がともり、ガウンを羽織った紗和が階段の途中に立っていた。
「ただいま。遅くなって、ごめんな」
「ううん。お仕事お疲れ様」
「たまにしか出社しなくなったんで、課長がしつこいんだよ」
どうせ酒の匂いでそれとわかる。用意した言い訳をスラスラと口にした。
紗和は和風の美しい瞳を少し曇らせつつ、疲れた笑顔で夫を迎えた。リンスと、つい最近変わったコロンの甘い香りが漂う。
「おなかは?」
「うん、食ってきた」
とても食欲がわかないが、そんなウソをつかねば紗和は用意しようとするだろう。妻の甘い香りのする身体の横を素通りし、リビングに向かった。
ソファーにカバンを放り投げ、ジャケットとネクタイを外す。
「そっちは? 仕事、どうだった? 」
「むしろ忙しいみたい。担当増やしてもいいかって、言われちゃった」
紗和は翻訳事務所でアルバイトをしていた。この忌まわしい伝染病が発生してからは、彼女もリモートで、主に家でプロの翻訳家の下訳をしている。
「『巣ごもり需要』ってやつか・・・。で、なんて答えたの」
「主人と相談してから、って・・・」
「受ければいいじゃないか。どうせ家に籠りっきりなんだからせめて仕事に忙殺される方が気が紛れるよ」
その言葉に何か言いたそうにしていた妻だったがキッチンに立ちミキサーを取り出してオレンジやバナナといった幾種類かのフルーツを刻み始めた。色の濃いフルーツが健康にいいと何かで調べたようで、譲治が夜遅く帰った日などはそれをジュースにして飲ませようとする。皮を剥くのがめんどくさい。以前文句を言ったことがあるので工夫を凝らしてくれているのだ。
それほどまでに気を使ってくれる妻の愛情。それはわかっている。わかりすぎるぐらいに十分にわかっているのだ。でも、それが、苦痛だった。
「お風呂あがってからでいいから、飲んでね。高血圧と脳の海馬にいいんだって」
「いつもありがとうな」
そういってバスルームに向かった。
「寝てていいからな。少し長く浸かりたい。おやすみ」
そんな言葉を吐きながら。そんな態度が、これほど自分に献身してくれる妻をどれだけないがしろにし、傷つけるかもわかっている。わかっているのだ!
それでも、まともに妻に向き合えないでいた。
烏の行水。そんな言葉はもう死語だろう。カラスだって、毎日のように苦痛に苛まれる自分よりかは幸せなんじゃないだろうか。そんな下らないイメージを弄びながら、寝支度して寝室に上がった。
妻はやはり、待っていた。
「寝ててくれていいのに。眠れないのか。今度、心療内科に行ってみようか・・・」
そう言ってダブルの紗和の横に身を滑り込ませた。妻に背を向けて、眠りにつく。それで眠れれば御の字。そうでない夜は・・・。
「あなた・・・」
紗和は素裸だった。静かにしがみついて来た。
「これだけでいいんです。ただ、抱いてくれるだけで。他には何も要らないんです!」
愛する妻の豊かな乳房、柔らかな身体が譲治の背中を責める。愛しい紗和の、その心の叫びは譲治の胸を突いた。女盛りの、今にも弾けそうな情熱と性欲の入り混じったものを迸(ほとばし)らせて譲治に迫ってくる。
紗和の手がパジャマ越しに譲治の股間を愛撫した。
「ごめんなさい。許してください。どうしたらあなたが振り向いてくれるのか、わからないんです!」
愛する妻の嗚咽を背中で聞く。
たまらずに寝がえりを打ち、その愛らしい妻の身体を掻き抱く。抱きしめる。
だが、譲治のモノはまるで反応がない。男として夫として妻にに応えることができない。愛しい妻の、その切ないほどの叫びに応えてやることが、できないのだ。
こんな残酷があるだろうか。この、死にたくなるほどの、もどかしさ。そして、切なさ。
それが、譲治を次第に病ませているストレスの、モトの素、だった。
このままでは二人ともダメになる。
譲治は、まるで奮い立たないおのれのモノを紗和の身体に押し付け、彼女の漆黒の髪を撫でながら無言で慟哭した。
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