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62 ヤヨイ・ブリュンヒルデと女神を取り巻く男たち。そして復讐を誓う女
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絶え間ない砲弾の飛翔音と弾着して激しく吹き上がる水飛沫。木の葉のように揺れるボート。水を掻けども進まぬ苛立たしさ。飛び交う士官たち下士官たちの激励と叱咤。凄まじい爆風。そして至近弾や直撃を浴びて舞い上がるボートと兵たち。
下流に流されてゆく兵に横目で無事を祈りつつ、兵たちの中には自ら大声を張り上げて自分を仲間を鼓舞しようとする者もいた。その一方で信心深い兵の中にはオールを漕ぎつつ神々の名、自分の守護神の名を口にして祈る者もいた。
帝国は多神教の国だった。人々はギリシャ神話だけでなく旧文明のあらゆる宗教の神を奉じていた。どのような神を奉じようとも構わなかった。帝国の国法が禁じているのはただ一つ。「他人の信仰を妨げ冒涜すること勿れ」という一点のみだった。
「運命を司るノルンの神よ! 我らを護りたまえ・・・」
ドイツ系の多い帝国人の中でもとりわけ空挺部隊のドイツ系の比率は高かった。皆それぞれの生母から北欧神話や古代ゲルマンの神話を聞かされて育っていた。ごく少数だが胸の上で十字を切り聖母マリアの名を口にする兵もいた。だが他の大多数は皆オールを掻きながら口々にオーディン、ヴァーリ、クヴァシル、トール・・・。様々な神々の名を呟き加護を乞うた。
小舟たちの先頭で激しく水を被りつつオールを漕ぐヤヨイもまた、彼女の守護神の名を心の中で呼び、祈っていた。
「少尉、ジョー! お願い! わたしを守って! みんなを守って!」
対岸はもうすぐそこ。祈りながら漕ぎ、漕ぎつつ祈った。
ヤヨイの、兵たちのその祈りが天に届いたのかどうかはわからない。
「おお!・・・」
それまで明るかった空ににわかに暗雲が沸き起こり、空が暗くなった。向かう北岸の彼方の空に微かに閃光が走り、遅れて腹に響く遠い雷鳴が轟いた。乾季である冬には珍しく、急速に発達した低気圧が高空で水蒸気を凝結させ始めたのだ。信心深い兵たちの中には祈りが通じたものと感激して涙を浮かべる者もいた。
もうなんでもいい。自然現象でもなんでも。すべて味方につけるのだ。
少尉なら、レオン少尉ならきっとそうするはず。
「みんな、見ろ! 雷神が加勢に来たぞ! 対岸はもうすぐだ。ガンバレ! 死力を尽くせ!」
背後の岸から援護する「黒騎士」の砲声と対岸からの砲撃による砲弾の炸裂の中、ヤヨイの声はよく通った。ともすると縮み上がりそうになる心が遠い雷鳴とヤヨイの激励で鼓舞され、兵たちの心の中に明るい光を差し伸べた。
「おい、あれ・・・」
フォルカーが真っ先にそれに気づき、呟いた。
絶え間ない砲撃と怒号が飛び交う中、その呟きはほとんど周りの者には聞こえなかった。だが、オールを掻き、時折振り返っては兵たちを激励する小隊長の姿が落雷の度に煌めいて見え、ヘルメットの下のブルネットが舞い上がる水飛沫に舞った。その姿に同じ舟に乗り合わせたフリッツやグレタ、ヴォルフガング達もが目を奪われ、左右に位置したリーズルやグレイの舟からもそれは傍見された。
先にヤヨイの姿を赤いマントを翻した帝国皇帝にも見紛うた兵たちだったが、オールを掻き兵たちを鼓舞するそのの姿がまるで光に包まれた女神のように見えた。それをなんと言い表せばいいのか。「軍神マルスの娘」ではすでに飽き足らない。
自分たちはボートの群れの最先頭にいるのだ。にもかかわらず、他の小隊の舟には落ちている砲弾が何故か、降って来ないのだ。
現実にはそれは偶然の産物、単なる確率の問題に過ぎなかった。
例えば海戦での砲撃のように敵味方の艦が航走している場合に比べれば命中率は高い。が、「学者」大隊の船は流れる川をしかも対岸へ移動していた。自然敵の砲撃目標は集団におおまかに、そのほとんどが中央付近に集中せざるを得ない。集団の周辺には比較的着弾が少なくなる道理だった。
が、現に激しい砲火、雨のように飛来する砲弾の中、翻弄され木の葉のように揺れる頼りないボートの上で、しかも次々に仲間の舟がやられている中で神の名を口にして縋っている兵たちにはそうは受け取られなかった。
豊穣の神フレイア(Freya)のように艶めかしい魅力を放ち、かつ、あたかも天空を舞うワルキューレ(Walküre)のブリュンヒルデ(Brünhilde)のような、戦場において生きる者と死ぬ者を定める神の使者であるかのように華麗な畏れを抱かせる存在となっていた。
「自分たちに砲弾が落ちないのは、この地上に舞い降りた女神の放つ眩い光のせいだ」と誰もが思った。
ピカッ!
ズドーンッ!
対岸の極めて至近、敵陣のすぐそばに落雷したその刹那に、兵たちのその「錯覚」は決定的になった。
軍神の降臨だ!
我らが小隊長は神に守られているのだ。
彼女が数々の作戦を成功させてきたのは神々に護られているからだけではない。彼女自身が神だからだ。単なる愛称、ニックネームではない。我らの小隊長は正真正銘、「軍の神、マルス神の愛娘」なのだ、と。
指揮官の極意とは、従う兵をしてその威令をあたかも電光のごとく、神の啓示のごとくに仰がせるにあるという。
レオン少尉が指揮下の兵たちと寝食を共にして彼らの心も身体も支配していたように、雷鳴と砲弾の雨の中、ヤヨイは図らずも少尉のように指揮官としての極意を会得していたのだった。
「岸はもうすぐそこだ! みんな、ガンバレ!」
ヤヨイの力強い声が渡河中の兵たち全員の心に雷電のごとく響いた。
彼女の、マルスの娘の側にいれば死なない!
ゲルマン神話だけではない。砲弾に怯え疲れ始めていた兵たちは新たな神を奉じオールを掻く手に勢い力を籠めた。先頭が勢いづけば続くボートの群れも俄然勢いを増した。
「みんな『マルス』に続け!」
「『マルス』に後れを取るな!」
それがひいては敵弾の命中率をさらに下げる要因ともなった。
間もなく、最先頭のヤヨイの舟が船底にゴリゴリと川底を感じた。
砲弾の雨の中、「学者」たちのボートは次々に対岸に着いた。「学者」大隊は川を渡り終えたのである。
「みんな降りろ! 舟を陸(おか)に引き上げてあの土手の陰に退避!」
直前の写真偵察通り、対岸の土手の陰は敵の野砲からは死角になっていた。ヤヨイたち士官は当初の作戦に従いその一帯に兵たちを誘導した。これから一部をボートの守備に残し、いよいよ敵陣に突撃を開始するわけだ。
「各小隊から二名ずつ。土手に昇って見張りに立て! 各隊、損害報告! 」
士官が叫び下士官たちが自分の小隊の兵たちの名前を呼ぶ。点呼が終わるとそれを「優等生」ヨハンセン中尉が集計した。面倒な雑務はみんな中尉か「でぶ」のオットー少尉がやってくれた。ヤヨイは文字通り「旗」をやっていればよかった。
「転覆、破損したボートは7、負傷12名。戦死ゼロ、だ」
集計を終えた「優等生」が教えてくれた。
「行方不明者もいないのですね」
「いない。川に投げ出された者はみんな救助した」
あれだけの砲撃を受けて戦死・行方不明者ゼロとは。それに負傷12名はむしろ少ないと言える。幸先いいことこの上ない。
「まさに、軍神のご加護だ、ヤヨイ!」
ヨハンセン中尉は土手の高みに腰を据えたヤヨイを誇らしげに見上げた。
ヤヨイは満面に笑みを浮かべ力強く頷き、士官たちを見回した。
「では、予定通りに! ヨハンセン中尉、バンドルー中佐に渡河完了の報告をお願いします。グレタ! 『大工』を呼び出して!」
すぐに長いアンテナを立てた大きな箱を背負った大柄な女性兵が寄って来た。通信兵だけはオールを持たず、水に濡らさぬよう防水加工したカンヴァスにラジオを包んで渡河中ずっと抱きしめていたのだった。この通信機が、言わば命綱だった。
「小隊長、向こうが出ました!」
グレタが差し出したヘッドセットを受け取り、片耳に宛て、マイクに話しかける。
「こちら『マルス』。『大工』応答願います」
zz・・・。ラジオが鳴った。
「・・・『大工』だ」
「『学者』全隊渡河完了しました。これより南の敵陣に向かいます」
「わかった。ではこちらも拠点を撤収し会合地点に向かう」
「了解。では、後ほど」
ヘッドセットをグレタに返し、ヤヨイは立ちあがった。そして渡河を終えたばかりの兵たちに向かって、言った。
「Soldaten(ゾルダーツン、兵士諸君)!
これより『学者』大隊はこの陣地の守備に4個小隊を残し、後の全隊で『大工』大隊の救出に向かう。
行くぞ、諸君! 」
無事危険な渡河を終えた兵たちは皆神の啓示を仰ぐようにヤヨイを見上げた。
おおうっ!
兵たちは銃を掲げて一斉に鬨の声を上げた。ヤヨイの命令は雷電のように彼ら彼女らに伝播し、真っ先に土手を駆けのぼる「軍神マルスの娘」に続いて河岸の土手を登り始めた。
もう、「学者」大隊ではなく「マルス」大隊と呼ぶべきかもしれなかった。
兵たちのヤヨイに向ける眼差しはすでに崇拝の域に達していた。レオン少尉なら、
「これこそが理想の戦闘部隊だ!」
とでも言って褒めてくれるかもしれない。
こうして、天空を舞うブリュンヒルデ、「マルスの娘」は軽快に進撃を開始した。
ヤヨイたちがアルムの橋を取り囲む敵部隊に向かって進撃を開始したころ。
ナイグンから東のアイホーに至る街道を、ガソリンエンジンではない木炭蒸気のトラックが濛々たる黒煙を吐きながらトコトコと走っていた。
途中、ナイグンに向かう第六軍の歩兵部隊の隊列に出会うと、隊列の方が道の際に避けて敬礼を送ってくれた。運転するリヨンはその度に答礼をし、東を目指した。
「ねえ、中尉。どこまで行くの?」
助手席に座っている年端もいかない少年が言った。
「何度も言ったろう。ゾマだ。あそこに難民センターができた。お前はそこで行方不明のお父さんとお母さん、そしてお前の弟を探す」
「でもさあ、おねえちゃんは『待ってて』って言ったんだよ。ボクがいなくなったらわかんなくなっちゃうじゃんか!」
「規則だから。戦災で親とはぐれた子供はそこに集められることになってる。いい加減、聞き分けろよ」
「ウソだね」
少年はそんなことを言う。ダブダブのテュニカの袖で鼻の頭を擦るとリヨンに疑い深げな視線を投げた。
「中尉はさ、ヤキモチ妬いてるんでしょ」
「はあ?・・・」
何を言い出すかと思えば、このクソ小生意気な小僧が。
「ボクとおねえちゃんの仲がいいから、ヤキモチ妬いてるんでしょ。だからボクが邪魔なんでしょ」
言うに事欠いて!
なんという子供だろうか!
その、まだ小学校の低学年ほどの子供に彼の深奥の真実を暴かれたのに不覚にも動揺してしまい、ちょっとだけハンドル操作を誤りトラックは轍に車輪を取られ大きく揺れた。
「何度も言うけど、ダメだからね」
と、小僧は言った。
「おねえちゃんはボクのお嫁さんになるんだから。中尉には、おねえちゃんは似合わないよ!」
歩兵部隊をやり過ごした後で良かったと思った。そうでなければ、ハンドル操作を誤って、危うく歩兵のニ三人も轢き殺していたかもしれない。あまりなその言いように思わず大人げなくも声を荒げかけた。
「あのなあ!・・・」
だが、子供の言葉だと思い直した。すんでのところで、リヨンはよく自制した。
「・・・ずいぶんなことを言うじゃないか、ボウズ」
辛うじて大人の余裕を装い、問い返した。
「もうっ! ボウズじゃないって。何度言ったらわかるの? ボクはタオ! おねえちゃんに似合うのはボクだから。そこのとこ、よく覚えておきなね」
あったまきた! こんの、くっそ生意気なガキめが!
危険な潜入偵察をし、一時は囚われの身になりながら辛くも生還して息つく間もなく北の豪族に使いし、今再び南に舞い戻って来た。
それというのも全てヤヨイのため、愛する女のためだった。
それなのに・・・。
暗澹たる思いを抱いていると、はるか前方に舞い上がる砂埃が見えて来た。
騎兵の一団だ。猛スピードでみるみるこちらに近づいて来る。蒸気トラックの騒音を上回る地響きさえ感じた。
ああ。あれは空挺部隊の騎兵隊だな・・・。
今度はリヨンがトラックを道の際に避け、馬蹄の響きと砂塵を舞い上げて疾駆する数十機の騎兵たちを通した。
「わお! すっげー・・・」
初めて見るのだろう。大勢の騎兵の集団が全速力ですぐそばを駆け抜けて行くのを、タオは目を丸くして眺めていた。
ナイグンのヤヨイたちがアルムの仲間を救いに行ったのを聞きつけたのだろうと思われた。今から行って間に合うかどうかは、わからんけれど。
騎兵部隊をやり過ごし元の道にトラックを戻した。
去ってゆく騎兵隊を窓から首を出して眺めているタオを見ていると、リヨンはつくづく自分がみじめに思えた。
どうしてボクはここにいるのだろう。なんでこんな不遜なガキのお守りをして戯言に翻弄されねばならないのだろう。チナ語を学んだのはこんなガキの戯言を聞くためだったのか。
気を取り直して再び東を目指すトラックのハンドルを握りつつ、リヨンはそんなことをぼんやりと考えていた。
ポンポンと黒い煙を吐くトラックをやり過ごし、西に向かう第六軍団の歩兵部隊を追い越した騎兵隊の中にヘルムート・シュミット二等兵もいた。彼は焦っていた。
慣れないながらも騎兵部隊に加わり、ようやく腰が馬の躍動に追いついたというのに。
それもこれも軍の、連隊の不可解な命令のせいだった。
アイホー陥落の後、機甲部隊と共にナイグンに赴くと思っていた。それなのに、戦車の半ば以上はガソリン不足で停止したまま。しかもすでに一部だけが先行してしまったというではないか。
そうこうしているうちにナイグンの「学者」大隊がアルムの「大工」大隊救出のためにさらに西へ向かったという情報まで流れて来た。
機甲部隊とともにナイグンに到着してあの「アイゼネス・クロイツ」のマルス、ヴァインライヒ少尉の前にカッコよく登場できると思っていた。それなのに「にわか騎兵隊」への命令はアイホーでの待機だった。
これでは何のために騎兵部隊に志願したのかわからない。
イラついていると空挺部隊「にわか騎兵隊」の総指揮官、ゾマ攻略の中隊長であるジークムント・アイゼナウ大尉がこう言い出した。
「同じ落下傘の仲間がアルムで孤立している。ナイグンの連中も救援に赴いたというじゃないか。我々だけこんなところでのん気に馬の世話をしている場合ではない。ナイグンには連隊長殿がいる。皆で行って直訴しよう!」
もちろん、同行を志願した。そうして同じく同じ空挺部隊の仲間を救わんと志願した「にわか騎兵」たちとともにナイグンまで馬を飛ばしてやってきたのだった。
だが、連隊長の態度は煮え切らないものだった。
「お前たちにはアイホーでの待機を命じたはずだ」
「しかし連隊長殿、『大工』はどうするのですか! 孤立した彼らを見殺しにするのですか?!」
アイゼナウ大尉をはじめ「にわか騎兵」の士官たちが連隊長に詰め寄るのをヘルムートたち騎兵も聞いていた。
「大きな声では言えんが、すでにナイグンの『学者』の隊が向かっている。機甲部隊の一部も支援に付いている。みなトラックで向かったのだ。今ごろは渡河を始めているころだ」
「存じております。ですから我々も加勢に行かんとやって来たのです」
「もう遅い。騎兵が行ってどうなるものでもない。それに工兵隊のボートもあらかた『学者』が持って行ってしまったろう。したがって、お前たちが行ったところで対岸に渡る手段がない。せいぜい橋の手前に陣取るチナの本国軍の牽制ぐらいしか仕事はない。しかも必要なのは戦車であって騎兵ではない。正面からの陣地攻撃を騎兵が行うのは自殺行為だ」
「今連隊長殿が仰いました。行けば牽制ぐらいには役に立てるのですね? 行って機甲部隊の指揮下に入り敵陣の牽制行動を取ります」
アイゼナウ大尉は急に眼に涙を浮かべると、ほとんど叫ぶように訴えた。
「行かせて下さい、連隊長殿!
仲間が孤立し、他の仲間がそれを助けに向かっているのに座して待てと言われるのは苦痛なのです!」
グールド大佐は背をそびやかし彼を取り囲んで気色ばんでいる騎兵たちを見回し、呟いた。
「まったく・・・。『マルス』といい、お前たちといい・・・。揃いも揃ってバカばかり面を並べおって・・・」
「そのバカをお集めになったのは連隊長殿であります!」
そうしてヘルムート達「にわか騎兵」は西に向かった。「マルス」たちと同じ「偵察」名目であることは言うまでもなかった。だから携行する武器も各員の持つ小銃しかない。グールド大佐の言わんとするごとく「行ってどうなる」ものでもない。だが行かずにはいられなかった。
とりわけヘルムートはその思いが強かった。
「よかったな、ヘルムート! これでお前の想いの女に見えられる」
手綱を取って馬の背に跨りながら、アイホーの敵陣地襲撃からずっとそばに居てくれた面倒見のいい兵長が笑った。
「ハイ、兵長殿!」
待ってろアイゼネス・クロイツ! 待ってろ、ヤヨイ! 今オレが助けに行く!
彼の内心を傍からみれば滑稽以外の何物でもなかったが、彼は深い満足を得てただひたすらに馬を駆った。
ナイグンを出発した「にわか騎兵」の巻き上げる砂塵を遠望するどころか、仮に双眼鏡があったとしてもその尾根からでは望見できなかったろう。
今次戦役ではまだお互いにまみえていなかったが、その尾根のピークに立って南を見つめる人影もまた、ヤヨイに深く関わっている一人だった。
レイは霞の向こうに横たわるかつてのミン家の領地、ゾマ、アイホー、ナイグンに至る一帯を、今はもうすべて帝国軍に占領されてしまった土地を、そのアルカイックな面(おもて)に何の表情も浮かべず、身動ぎもせずにただ見つめていた。
薬を盛られ、眠らされ、気が付いたらここまで連れて来られていた。その時はすでに遅く、全てが奪われてしまった後だった。裏切られた形とはなった。だが、時が経ち心が落ち着いてみればクオの深い胸の内に思い至らずにはいられなかった。自分がクオの立場でもこうしただろう、と。終生思いが届かない愛する女。その女を生かそうとすればこうするしかなかったのだ、と。
さっき、背後の山の向こう、ミンの里のある辺りから遠い爆発音と共に煙が上がるのが見えた。里の者達も館に火をかけてどこぞに落ち延びたのだろう。
家老のマーはどうしただろうか。
彼があの頑迷な父を説き伏せ得たとも思えない。恐らくは何らかの方法で父を黙らせ、自らはナイグンにでも赴いたのかもしれない。彼のことだから若い者たちを落ち延びさせたあと、自ら敵陣に突っ込んで玉砕して遂げたかもしれない。マーはそういう男だった。彼こそはこの武闘派の豪族ミンを体現した、ミンの背骨とも思える男だったから。
幼馴染のクオも、マーも。みんな、死んだのだ。
ミンは、終わった。
「クオ・・・。では貴様は我にどうせよというのだ」
レイは独り言ちた。
幼いころから父にその才覚を愛でられ、いずれはチナを乗っ取り新たなミンの王家を打ち立てその女王にと薫陶を受けて育った。
だがどうだ。
ミンは土壇場で道を誤った。帝国の力を知るレイの諫めも聞かず、最後の最後でチナと帝国を天秤にかける愚を犯し、土地も民も全て奪われる仕儀となった。
しかもレイ自身多くの兵を死なせ、無辜の命を殺め、多くの子を害して来た。いまさら帝国の風下で下々の民のように慎ましやかな生き方など、できぬ・・・。
この遣る瀬無さを抱いたまま、ただ無為に生きて行けというのか。それはあまりに酷だぞ、クオ・・・。
自らのために涙するのは愚か者だ。
かねてより思い、陥らぬように自らを躾て来た悪弊に思わず釣り込まれそうになり、慌てて自らを鼓舞し、打った。
では、新たな敵を見つけ、それを討つ!
この上は、ミンが成し遂げられずに終わった王国を作り上げるか、それとも今ある王国を倒し、女王として君臨するか。
それには、どうしても帝国が邪魔だと気付いた。
チナはもう死に体だ。それはレイが一番よく知っていた。これからチナは誰が王となろうが死骸となって帝国の餌となるだけだ。
ミンは自滅した。だから今はもう帝国に恨みはない。
だが帝国を倒さねば、自分が生きられぬのだ。
帝国をして内部から腐らせ、弱体化させて新たな覇権をそこに打ち立て、この世界に覇を唱えるのだ。
それこそが、我が生きる道だ!
そう思い詰めてやっと、レイは物思いから覚めアルカイックな貌に闘志の炎を灯した。背後を振り返った。
「シャオピン!」
クオから頭(かしら)の命を託された忠実な家臣はどこからともなく風のように現れてレイの前に片膝をついた。
「お嬢! お呼びですか?」
もう頭ではない。レイに諭されて呼び方を変えたシャオピンだった。お嬢という歳でもないのではあるけれども。再び家臣を従え頭となって号令するかどうかは今後のレイの動きひとつだった。
「シャオピン。我は決めたぞ。これから我は帝国を倒すために生きる。お前はどうする? どのように身の振り方を定めてもよい。だが、我に従うなら、お前とは契りを交わさねばならぬ。その命、我が預かることになるぞ。それでも、よいか」
シャオピンは黙したままその面を上げた。
「クオ様よりお嬢の身柄をお預かりしてより、我はお嬢の下僕でございます。既にこの命、お嬢に捧げてございます。その上にお嬢と契りなど・・・。あまりにも、もったいのうございます」
フン。
レイは左手で腰の半月刀を抜き去ると、手首の無い右腕を切りつけ、鮮血を流した。
「来い、シャオピン」
忠実な家臣もまた、自らの刀で甲を切りつけ、翳した。
二人は血を流している甲と腕とを擦り付け合った。二人の血が混じり合い、互いの体内に溶け合った。
「これで我とお前は義姉弟になった」
レイは言った。
「ははっ!」
「姉として命ずる。お前はこれより帝国に潜入し帝国の情報を集めるのだ。何でもよい。帝国にとて弱点はある。必ずある。それを探り出し、帝国に楔を打ち込む下地を作るのだ。ミンの家来たちだった者たちにも接触しろ。同志として糾合するのだ。帝国を二分するほどの亀裂を生み出すのが、目的だ」
「お嬢、我は嬉しゅうございます」
シャオピンは流れる血を舐めながら不敵な笑みを浮かべた。
「これで生きる張り合いが生まれました」
「頼りにしているぞ、シャオピン。抜かるなよ」
「御意!」
「我もミンの里に立ち寄った後帝国に潜入する。カプトゥ・ムンディーのチナ人街で落ち合おう。では行け!」
「はっ!」
クオの従者シャオピンは再び風のように去った。
「これでよし!」
その気配を感じつつ、流れ雪が舞いきたる中を、レイもまたミンの里に向かうべく馬に跨り尾根を降りた。
あらたに帝国の土地となった西南の地にも本格的な冬がやってきていた。
下流に流されてゆく兵に横目で無事を祈りつつ、兵たちの中には自ら大声を張り上げて自分を仲間を鼓舞しようとする者もいた。その一方で信心深い兵の中にはオールを漕ぎつつ神々の名、自分の守護神の名を口にして祈る者もいた。
帝国は多神教の国だった。人々はギリシャ神話だけでなく旧文明のあらゆる宗教の神を奉じていた。どのような神を奉じようとも構わなかった。帝国の国法が禁じているのはただ一つ。「他人の信仰を妨げ冒涜すること勿れ」という一点のみだった。
「運命を司るノルンの神よ! 我らを護りたまえ・・・」
ドイツ系の多い帝国人の中でもとりわけ空挺部隊のドイツ系の比率は高かった。皆それぞれの生母から北欧神話や古代ゲルマンの神話を聞かされて育っていた。ごく少数だが胸の上で十字を切り聖母マリアの名を口にする兵もいた。だが他の大多数は皆オールを掻きながら口々にオーディン、ヴァーリ、クヴァシル、トール・・・。様々な神々の名を呟き加護を乞うた。
小舟たちの先頭で激しく水を被りつつオールを漕ぐヤヨイもまた、彼女の守護神の名を心の中で呼び、祈っていた。
「少尉、ジョー! お願い! わたしを守って! みんなを守って!」
対岸はもうすぐそこ。祈りながら漕ぎ、漕ぎつつ祈った。
ヤヨイの、兵たちのその祈りが天に届いたのかどうかはわからない。
「おお!・・・」
それまで明るかった空ににわかに暗雲が沸き起こり、空が暗くなった。向かう北岸の彼方の空に微かに閃光が走り、遅れて腹に響く遠い雷鳴が轟いた。乾季である冬には珍しく、急速に発達した低気圧が高空で水蒸気を凝結させ始めたのだ。信心深い兵たちの中には祈りが通じたものと感激して涙を浮かべる者もいた。
もうなんでもいい。自然現象でもなんでも。すべて味方につけるのだ。
少尉なら、レオン少尉ならきっとそうするはず。
「みんな、見ろ! 雷神が加勢に来たぞ! 対岸はもうすぐだ。ガンバレ! 死力を尽くせ!」
背後の岸から援護する「黒騎士」の砲声と対岸からの砲撃による砲弾の炸裂の中、ヤヨイの声はよく通った。ともすると縮み上がりそうになる心が遠い雷鳴とヤヨイの激励で鼓舞され、兵たちの心の中に明るい光を差し伸べた。
「おい、あれ・・・」
フォルカーが真っ先にそれに気づき、呟いた。
絶え間ない砲撃と怒号が飛び交う中、その呟きはほとんど周りの者には聞こえなかった。だが、オールを掻き、時折振り返っては兵たちを激励する小隊長の姿が落雷の度に煌めいて見え、ヘルメットの下のブルネットが舞い上がる水飛沫に舞った。その姿に同じ舟に乗り合わせたフリッツやグレタ、ヴォルフガング達もが目を奪われ、左右に位置したリーズルやグレイの舟からもそれは傍見された。
先にヤヨイの姿を赤いマントを翻した帝国皇帝にも見紛うた兵たちだったが、オールを掻き兵たちを鼓舞するそのの姿がまるで光に包まれた女神のように見えた。それをなんと言い表せばいいのか。「軍神マルスの娘」ではすでに飽き足らない。
自分たちはボートの群れの最先頭にいるのだ。にもかかわらず、他の小隊の舟には落ちている砲弾が何故か、降って来ないのだ。
現実にはそれは偶然の産物、単なる確率の問題に過ぎなかった。
例えば海戦での砲撃のように敵味方の艦が航走している場合に比べれば命中率は高い。が、「学者」大隊の船は流れる川をしかも対岸へ移動していた。自然敵の砲撃目標は集団におおまかに、そのほとんどが中央付近に集中せざるを得ない。集団の周辺には比較的着弾が少なくなる道理だった。
が、現に激しい砲火、雨のように飛来する砲弾の中、翻弄され木の葉のように揺れる頼りないボートの上で、しかも次々に仲間の舟がやられている中で神の名を口にして縋っている兵たちにはそうは受け取られなかった。
豊穣の神フレイア(Freya)のように艶めかしい魅力を放ち、かつ、あたかも天空を舞うワルキューレ(Walküre)のブリュンヒルデ(Brünhilde)のような、戦場において生きる者と死ぬ者を定める神の使者であるかのように華麗な畏れを抱かせる存在となっていた。
「自分たちに砲弾が落ちないのは、この地上に舞い降りた女神の放つ眩い光のせいだ」と誰もが思った。
ピカッ!
ズドーンッ!
対岸の極めて至近、敵陣のすぐそばに落雷したその刹那に、兵たちのその「錯覚」は決定的になった。
軍神の降臨だ!
我らが小隊長は神に守られているのだ。
彼女が数々の作戦を成功させてきたのは神々に護られているからだけではない。彼女自身が神だからだ。単なる愛称、ニックネームではない。我らの小隊長は正真正銘、「軍の神、マルス神の愛娘」なのだ、と。
指揮官の極意とは、従う兵をしてその威令をあたかも電光のごとく、神の啓示のごとくに仰がせるにあるという。
レオン少尉が指揮下の兵たちと寝食を共にして彼らの心も身体も支配していたように、雷鳴と砲弾の雨の中、ヤヨイは図らずも少尉のように指揮官としての極意を会得していたのだった。
「岸はもうすぐそこだ! みんな、ガンバレ!」
ヤヨイの力強い声が渡河中の兵たち全員の心に雷電のごとく響いた。
彼女の、マルスの娘の側にいれば死なない!
ゲルマン神話だけではない。砲弾に怯え疲れ始めていた兵たちは新たな神を奉じオールを掻く手に勢い力を籠めた。先頭が勢いづけば続くボートの群れも俄然勢いを増した。
「みんな『マルス』に続け!」
「『マルス』に後れを取るな!」
それがひいては敵弾の命中率をさらに下げる要因ともなった。
間もなく、最先頭のヤヨイの舟が船底にゴリゴリと川底を感じた。
砲弾の雨の中、「学者」たちのボートは次々に対岸に着いた。「学者」大隊は川を渡り終えたのである。
「みんな降りろ! 舟を陸(おか)に引き上げてあの土手の陰に退避!」
直前の写真偵察通り、対岸の土手の陰は敵の野砲からは死角になっていた。ヤヨイたち士官は当初の作戦に従いその一帯に兵たちを誘導した。これから一部をボートの守備に残し、いよいよ敵陣に突撃を開始するわけだ。
「各小隊から二名ずつ。土手に昇って見張りに立て! 各隊、損害報告! 」
士官が叫び下士官たちが自分の小隊の兵たちの名前を呼ぶ。点呼が終わるとそれを「優等生」ヨハンセン中尉が集計した。面倒な雑務はみんな中尉か「でぶ」のオットー少尉がやってくれた。ヤヨイは文字通り「旗」をやっていればよかった。
「転覆、破損したボートは7、負傷12名。戦死ゼロ、だ」
集計を終えた「優等生」が教えてくれた。
「行方不明者もいないのですね」
「いない。川に投げ出された者はみんな救助した」
あれだけの砲撃を受けて戦死・行方不明者ゼロとは。それに負傷12名はむしろ少ないと言える。幸先いいことこの上ない。
「まさに、軍神のご加護だ、ヤヨイ!」
ヨハンセン中尉は土手の高みに腰を据えたヤヨイを誇らしげに見上げた。
ヤヨイは満面に笑みを浮かべ力強く頷き、士官たちを見回した。
「では、予定通りに! ヨハンセン中尉、バンドルー中佐に渡河完了の報告をお願いします。グレタ! 『大工』を呼び出して!」
すぐに長いアンテナを立てた大きな箱を背負った大柄な女性兵が寄って来た。通信兵だけはオールを持たず、水に濡らさぬよう防水加工したカンヴァスにラジオを包んで渡河中ずっと抱きしめていたのだった。この通信機が、言わば命綱だった。
「小隊長、向こうが出ました!」
グレタが差し出したヘッドセットを受け取り、片耳に宛て、マイクに話しかける。
「こちら『マルス』。『大工』応答願います」
zz・・・。ラジオが鳴った。
「・・・『大工』だ」
「『学者』全隊渡河完了しました。これより南の敵陣に向かいます」
「わかった。ではこちらも拠点を撤収し会合地点に向かう」
「了解。では、後ほど」
ヘッドセットをグレタに返し、ヤヨイは立ちあがった。そして渡河を終えたばかりの兵たちに向かって、言った。
「Soldaten(ゾルダーツン、兵士諸君)!
これより『学者』大隊はこの陣地の守備に4個小隊を残し、後の全隊で『大工』大隊の救出に向かう。
行くぞ、諸君! 」
無事危険な渡河を終えた兵たちは皆神の啓示を仰ぐようにヤヨイを見上げた。
おおうっ!
兵たちは銃を掲げて一斉に鬨の声を上げた。ヤヨイの命令は雷電のように彼ら彼女らに伝播し、真っ先に土手を駆けのぼる「軍神マルスの娘」に続いて河岸の土手を登り始めた。
もう、「学者」大隊ではなく「マルス」大隊と呼ぶべきかもしれなかった。
兵たちのヤヨイに向ける眼差しはすでに崇拝の域に達していた。レオン少尉なら、
「これこそが理想の戦闘部隊だ!」
とでも言って褒めてくれるかもしれない。
こうして、天空を舞うブリュンヒルデ、「マルスの娘」は軽快に進撃を開始した。
ヤヨイたちがアルムの橋を取り囲む敵部隊に向かって進撃を開始したころ。
ナイグンから東のアイホーに至る街道を、ガソリンエンジンではない木炭蒸気のトラックが濛々たる黒煙を吐きながらトコトコと走っていた。
途中、ナイグンに向かう第六軍の歩兵部隊の隊列に出会うと、隊列の方が道の際に避けて敬礼を送ってくれた。運転するリヨンはその度に答礼をし、東を目指した。
「ねえ、中尉。どこまで行くの?」
助手席に座っている年端もいかない少年が言った。
「何度も言ったろう。ゾマだ。あそこに難民センターができた。お前はそこで行方不明のお父さんとお母さん、そしてお前の弟を探す」
「でもさあ、おねえちゃんは『待ってて』って言ったんだよ。ボクがいなくなったらわかんなくなっちゃうじゃんか!」
「規則だから。戦災で親とはぐれた子供はそこに集められることになってる。いい加減、聞き分けろよ」
「ウソだね」
少年はそんなことを言う。ダブダブのテュニカの袖で鼻の頭を擦るとリヨンに疑い深げな視線を投げた。
「中尉はさ、ヤキモチ妬いてるんでしょ」
「はあ?・・・」
何を言い出すかと思えば、このクソ小生意気な小僧が。
「ボクとおねえちゃんの仲がいいから、ヤキモチ妬いてるんでしょ。だからボクが邪魔なんでしょ」
言うに事欠いて!
なんという子供だろうか!
その、まだ小学校の低学年ほどの子供に彼の深奥の真実を暴かれたのに不覚にも動揺してしまい、ちょっとだけハンドル操作を誤りトラックは轍に車輪を取られ大きく揺れた。
「何度も言うけど、ダメだからね」
と、小僧は言った。
「おねえちゃんはボクのお嫁さんになるんだから。中尉には、おねえちゃんは似合わないよ!」
歩兵部隊をやり過ごした後で良かったと思った。そうでなければ、ハンドル操作を誤って、危うく歩兵のニ三人も轢き殺していたかもしれない。あまりなその言いように思わず大人げなくも声を荒げかけた。
「あのなあ!・・・」
だが、子供の言葉だと思い直した。すんでのところで、リヨンはよく自制した。
「・・・ずいぶんなことを言うじゃないか、ボウズ」
辛うじて大人の余裕を装い、問い返した。
「もうっ! ボウズじゃないって。何度言ったらわかるの? ボクはタオ! おねえちゃんに似合うのはボクだから。そこのとこ、よく覚えておきなね」
あったまきた! こんの、くっそ生意気なガキめが!
危険な潜入偵察をし、一時は囚われの身になりながら辛くも生還して息つく間もなく北の豪族に使いし、今再び南に舞い戻って来た。
それというのも全てヤヨイのため、愛する女のためだった。
それなのに・・・。
暗澹たる思いを抱いていると、はるか前方に舞い上がる砂埃が見えて来た。
騎兵の一団だ。猛スピードでみるみるこちらに近づいて来る。蒸気トラックの騒音を上回る地響きさえ感じた。
ああ。あれは空挺部隊の騎兵隊だな・・・。
今度はリヨンがトラックを道の際に避け、馬蹄の響きと砂塵を舞い上げて疾駆する数十機の騎兵たちを通した。
「わお! すっげー・・・」
初めて見るのだろう。大勢の騎兵の集団が全速力ですぐそばを駆け抜けて行くのを、タオは目を丸くして眺めていた。
ナイグンのヤヨイたちがアルムの仲間を救いに行ったのを聞きつけたのだろうと思われた。今から行って間に合うかどうかは、わからんけれど。
騎兵部隊をやり過ごし元の道にトラックを戻した。
去ってゆく騎兵隊を窓から首を出して眺めているタオを見ていると、リヨンはつくづく自分がみじめに思えた。
どうしてボクはここにいるのだろう。なんでこんな不遜なガキのお守りをして戯言に翻弄されねばならないのだろう。チナ語を学んだのはこんなガキの戯言を聞くためだったのか。
気を取り直して再び東を目指すトラックのハンドルを握りつつ、リヨンはそんなことをぼんやりと考えていた。
ポンポンと黒い煙を吐くトラックをやり過ごし、西に向かう第六軍団の歩兵部隊を追い越した騎兵隊の中にヘルムート・シュミット二等兵もいた。彼は焦っていた。
慣れないながらも騎兵部隊に加わり、ようやく腰が馬の躍動に追いついたというのに。
それもこれも軍の、連隊の不可解な命令のせいだった。
アイホー陥落の後、機甲部隊と共にナイグンに赴くと思っていた。それなのに、戦車の半ば以上はガソリン不足で停止したまま。しかもすでに一部だけが先行してしまったというではないか。
そうこうしているうちにナイグンの「学者」大隊がアルムの「大工」大隊救出のためにさらに西へ向かったという情報まで流れて来た。
機甲部隊とともにナイグンに到着してあの「アイゼネス・クロイツ」のマルス、ヴァインライヒ少尉の前にカッコよく登場できると思っていた。それなのに「にわか騎兵隊」への命令はアイホーでの待機だった。
これでは何のために騎兵部隊に志願したのかわからない。
イラついていると空挺部隊「にわか騎兵隊」の総指揮官、ゾマ攻略の中隊長であるジークムント・アイゼナウ大尉がこう言い出した。
「同じ落下傘の仲間がアルムで孤立している。ナイグンの連中も救援に赴いたというじゃないか。我々だけこんなところでのん気に馬の世話をしている場合ではない。ナイグンには連隊長殿がいる。皆で行って直訴しよう!」
もちろん、同行を志願した。そうして同じく同じ空挺部隊の仲間を救わんと志願した「にわか騎兵」たちとともにナイグンまで馬を飛ばしてやってきたのだった。
だが、連隊長の態度は煮え切らないものだった。
「お前たちにはアイホーでの待機を命じたはずだ」
「しかし連隊長殿、『大工』はどうするのですか! 孤立した彼らを見殺しにするのですか?!」
アイゼナウ大尉をはじめ「にわか騎兵」の士官たちが連隊長に詰め寄るのをヘルムートたち騎兵も聞いていた。
「大きな声では言えんが、すでにナイグンの『学者』の隊が向かっている。機甲部隊の一部も支援に付いている。みなトラックで向かったのだ。今ごろは渡河を始めているころだ」
「存じております。ですから我々も加勢に行かんとやって来たのです」
「もう遅い。騎兵が行ってどうなるものでもない。それに工兵隊のボートもあらかた『学者』が持って行ってしまったろう。したがって、お前たちが行ったところで対岸に渡る手段がない。せいぜい橋の手前に陣取るチナの本国軍の牽制ぐらいしか仕事はない。しかも必要なのは戦車であって騎兵ではない。正面からの陣地攻撃を騎兵が行うのは自殺行為だ」
「今連隊長殿が仰いました。行けば牽制ぐらいには役に立てるのですね? 行って機甲部隊の指揮下に入り敵陣の牽制行動を取ります」
アイゼナウ大尉は急に眼に涙を浮かべると、ほとんど叫ぶように訴えた。
「行かせて下さい、連隊長殿!
仲間が孤立し、他の仲間がそれを助けに向かっているのに座して待てと言われるのは苦痛なのです!」
グールド大佐は背をそびやかし彼を取り囲んで気色ばんでいる騎兵たちを見回し、呟いた。
「まったく・・・。『マルス』といい、お前たちといい・・・。揃いも揃ってバカばかり面を並べおって・・・」
「そのバカをお集めになったのは連隊長殿であります!」
そうしてヘルムート達「にわか騎兵」は西に向かった。「マルス」たちと同じ「偵察」名目であることは言うまでもなかった。だから携行する武器も各員の持つ小銃しかない。グールド大佐の言わんとするごとく「行ってどうなる」ものでもない。だが行かずにはいられなかった。
とりわけヘルムートはその思いが強かった。
「よかったな、ヘルムート! これでお前の想いの女に見えられる」
手綱を取って馬の背に跨りながら、アイホーの敵陣地襲撃からずっとそばに居てくれた面倒見のいい兵長が笑った。
「ハイ、兵長殿!」
待ってろアイゼネス・クロイツ! 待ってろ、ヤヨイ! 今オレが助けに行く!
彼の内心を傍からみれば滑稽以外の何物でもなかったが、彼は深い満足を得てただひたすらに馬を駆った。
ナイグンを出発した「にわか騎兵」の巻き上げる砂塵を遠望するどころか、仮に双眼鏡があったとしてもその尾根からでは望見できなかったろう。
今次戦役ではまだお互いにまみえていなかったが、その尾根のピークに立って南を見つめる人影もまた、ヤヨイに深く関わっている一人だった。
レイは霞の向こうに横たわるかつてのミン家の領地、ゾマ、アイホー、ナイグンに至る一帯を、今はもうすべて帝国軍に占領されてしまった土地を、そのアルカイックな面(おもて)に何の表情も浮かべず、身動ぎもせずにただ見つめていた。
薬を盛られ、眠らされ、気が付いたらここまで連れて来られていた。その時はすでに遅く、全てが奪われてしまった後だった。裏切られた形とはなった。だが、時が経ち心が落ち着いてみればクオの深い胸の内に思い至らずにはいられなかった。自分がクオの立場でもこうしただろう、と。終生思いが届かない愛する女。その女を生かそうとすればこうするしかなかったのだ、と。
さっき、背後の山の向こう、ミンの里のある辺りから遠い爆発音と共に煙が上がるのが見えた。里の者達も館に火をかけてどこぞに落ち延びたのだろう。
家老のマーはどうしただろうか。
彼があの頑迷な父を説き伏せ得たとも思えない。恐らくは何らかの方法で父を黙らせ、自らはナイグンにでも赴いたのかもしれない。彼のことだから若い者たちを落ち延びさせたあと、自ら敵陣に突っ込んで玉砕して遂げたかもしれない。マーはそういう男だった。彼こそはこの武闘派の豪族ミンを体現した、ミンの背骨とも思える男だったから。
幼馴染のクオも、マーも。みんな、死んだのだ。
ミンは、終わった。
「クオ・・・。では貴様は我にどうせよというのだ」
レイは独り言ちた。
幼いころから父にその才覚を愛でられ、いずれはチナを乗っ取り新たなミンの王家を打ち立てその女王にと薫陶を受けて育った。
だがどうだ。
ミンは土壇場で道を誤った。帝国の力を知るレイの諫めも聞かず、最後の最後でチナと帝国を天秤にかける愚を犯し、土地も民も全て奪われる仕儀となった。
しかもレイ自身多くの兵を死なせ、無辜の命を殺め、多くの子を害して来た。いまさら帝国の風下で下々の民のように慎ましやかな生き方など、できぬ・・・。
この遣る瀬無さを抱いたまま、ただ無為に生きて行けというのか。それはあまりに酷だぞ、クオ・・・。
自らのために涙するのは愚か者だ。
かねてより思い、陥らぬように自らを躾て来た悪弊に思わず釣り込まれそうになり、慌てて自らを鼓舞し、打った。
では、新たな敵を見つけ、それを討つ!
この上は、ミンが成し遂げられずに終わった王国を作り上げるか、それとも今ある王国を倒し、女王として君臨するか。
それには、どうしても帝国が邪魔だと気付いた。
チナはもう死に体だ。それはレイが一番よく知っていた。これからチナは誰が王となろうが死骸となって帝国の餌となるだけだ。
ミンは自滅した。だから今はもう帝国に恨みはない。
だが帝国を倒さねば、自分が生きられぬのだ。
帝国をして内部から腐らせ、弱体化させて新たな覇権をそこに打ち立て、この世界に覇を唱えるのだ。
それこそが、我が生きる道だ!
そう思い詰めてやっと、レイは物思いから覚めアルカイックな貌に闘志の炎を灯した。背後を振り返った。
「シャオピン!」
クオから頭(かしら)の命を託された忠実な家臣はどこからともなく風のように現れてレイの前に片膝をついた。
「お嬢! お呼びですか?」
もう頭ではない。レイに諭されて呼び方を変えたシャオピンだった。お嬢という歳でもないのではあるけれども。再び家臣を従え頭となって号令するかどうかは今後のレイの動きひとつだった。
「シャオピン。我は決めたぞ。これから我は帝国を倒すために生きる。お前はどうする? どのように身の振り方を定めてもよい。だが、我に従うなら、お前とは契りを交わさねばならぬ。その命、我が預かることになるぞ。それでも、よいか」
シャオピンは黙したままその面を上げた。
「クオ様よりお嬢の身柄をお預かりしてより、我はお嬢の下僕でございます。既にこの命、お嬢に捧げてございます。その上にお嬢と契りなど・・・。あまりにも、もったいのうございます」
フン。
レイは左手で腰の半月刀を抜き去ると、手首の無い右腕を切りつけ、鮮血を流した。
「来い、シャオピン」
忠実な家臣もまた、自らの刀で甲を切りつけ、翳した。
二人は血を流している甲と腕とを擦り付け合った。二人の血が混じり合い、互いの体内に溶け合った。
「これで我とお前は義姉弟になった」
レイは言った。
「ははっ!」
「姉として命ずる。お前はこれより帝国に潜入し帝国の情報を集めるのだ。何でもよい。帝国にとて弱点はある。必ずある。それを探り出し、帝国に楔を打ち込む下地を作るのだ。ミンの家来たちだった者たちにも接触しろ。同志として糾合するのだ。帝国を二分するほどの亀裂を生み出すのが、目的だ」
「お嬢、我は嬉しゅうございます」
シャオピンは流れる血を舐めながら不敵な笑みを浮かべた。
「これで生きる張り合いが生まれました」
「頼りにしているぞ、シャオピン。抜かるなよ」
「御意!」
「我もミンの里に立ち寄った後帝国に潜入する。カプトゥ・ムンディーのチナ人街で落ち合おう。では行け!」
「はっ!」
クオの従者シャオピンは再び風のように去った。
「これでよし!」
その気配を感じつつ、流れ雪が舞いきたる中を、レイもまたミンの里に向かうべく馬に跨り尾根を降りた。
あらたに帝国の土地となった西南の地にも本格的な冬がやってきていた。
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