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第一章 潜伏

02 第一艦隊旗艦「ミカサ」

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 黒い軍艦が、同型艦3隻を従えて白い波を切り、青い海原を力強く突き進んでいた。

 真っ赤な帝国旗を掲げる軍艦の名は戦艦ミカサ。帝国海軍第一艦隊の旗艦だ。

 高い二本煙突からは黒々した煙を吐き、蒸気レシプロエンジンの心地良い振動が鋼鉄製の艦体を生き物のように震わせていた。

 やや波が荒い。ローリング(横揺れ)を抑えるためにギリギリまで注水しているので喫水が低い。ピッチング(前後の揺れ)が大きいために舳先が波を被るが、五千トンの鋼鉄製の巨艦は快調にうねりを切ってゆく。戦闘時にはハリネズミの針のように舷側から飛び出している速射砲の扉は全て閉められ、今はハリネズミも大人しく、スマートに見える。


 

 力強いエンジンの響きと眼下の艦体に寄せる波の音を除けばブリッジは静かだった。

 10数名の士官と下士官は皆一様にネイビーブルーの開襟シャツの下にトラウザーズを穿き、黒革の短靴を履いて佇立し、前方を見据えていた。

 艦体やや前よりに設けられたブリッジの窓には高価な分の厚いガラスがはめ込まれ、そこから艦首前方を見下ろせた。海軍最大の艦砲である口径100ミリの巨砲が2門、一基の連装回転砲塔から突き出て砲身を舳先に向けているのが見える。陸軍最大野砲100ミリ榴弾砲の流用だが、この船には前後一基ずつの連装砲塔に合計4門積まれている。それでも、砲は艦体や砲塔の大きさに比べやや小さな印象を受ける。今、砲の筒先には覆いがされ、戦闘状態にはないことがわかる。

 操作卓につく士官の右舷側にただ一人、司令官用の固定椅子に座って悠然としているのがこの第一艦隊の司令官。階級が中将であることが銀の肩章でわかる。

 彼の背後には2人の士官が立っていた。艦隊司令部の幕僚たちだ。

 幕僚の一人が命令を発した。

「ミカサより各艦に達する。これより無線通信による艦隊運動試験を行う。左舷一斉回頭用意!」

 無線通信士官が幕僚の命令を操作盤に固定したマイクに復唱、伝達した。

「ミカサより各艦に達する。艦隊運動試験を開始する。左舷一斉回頭用意!」

「ビスマルク、アイ!」

「ヴィクトリー、アイ!」

「エンタープライズ、アイ!」

 低い天井から吊られているスピーカーが各艦の応諾(アンサー)が入ってくるのを伝えていた。

「司令。各艦アンサーしました」

 通信士の報告に、司令官はウム、と頷いた。それを見て幕僚長が声を上げた。階級章は少将。

「全艦、左舷一斉回頭!」

 命令を通信士官が伝えるのと同時にミカサの艦長が操舵手に取舵(左に回頭)を指示する。

「レフト・フル・ラダー(取舵一杯)!」

「レフト・フル・ラダー、アイ」

 旗艦の操舵手と通信士官が前後して復唱し、艦首左舷側の波が盛り上がり甲板を洗ってゆく。艦体が右に大きく傾く。

「ビスマルク、レフト・フル・ラダー、アイ」

「エンタープライズ、レフト・フル・ラダー・・・」

 各艦から次々とアンサーが入る。

「ミッド・シップ(舵戻せ)!」

「ミッド・シップ、アイ!」

 旗艦ミカサの艦長は大佐の階級章を着けた背の高い男だった。短くクリューカットした黒髪に白いものが少し混じっている。その広い背中を見ていると自然に安心感を覚える。彼のよく通る太い声はそれだけで兵たちを鼓舞しているように感じられた。混戦乱戦の時には彼の姿がこのブリッジにあるだけで頼もしい存在と映るだろう。

 陸戦ではあったが、すでに実戦を経験していた目には、そんな風に印象された。

「ポートスティア、270(進路270を維持)」

「ポートスティア、270、アイ」

 操舵手が舵輪を逆に回して取り舵を戻し、最初の航路から90度左折したコースに艦を乗せる。

「ビスマルク、ポートスティア、270、アイ・・・」

「二番艦、コースに入り本艦と平航。続いて三番、四番艦も、今、並航しました!」

 ブリッジ左舷側で艦隊運動を観測していた士官が逐次状況を報告する。4艦全てが90度回頭のコースに乗った。

 ブリッジの後方に立ち、事の成り行きを見守っていたヤヨイたちバカロレア工学部電気学科の院生と助教授のフェルミ先生の横で別の士官がクロノグラフ(秒時計)のボタンをカチ、と押した。

「発令用意から運動終了まで、24秒!」

「おお!」

 ヤヨイのすぐ隣にはさらに数名の艦隊司令部幕僚が立っていて、彼らからも大きなどよめきが上がった。

「今までの旗旒信号(マストに掲げた信号旗)なら2分はかかっていた。素晴らしい!」

「アンサーは必要ないかも知れませんな」

 そうした幕僚たちの感想を耳にしても、コマンダーシートの中将は東洋風の穏やかな横顔を変えなかった。帆船の時代から叩き上げた海の男。顔半分を覆う白いひげの下には長年潮風に揉まれた深い皴が幾重にも刻まれ、その表情には微かに笑みさえ浮かべ、泰然自若を保ちゆったりと前を向いて座っていた。

「続いて逆順単縦陣に移行する。再度左舷一斉回頭用意!」

 最初旗艦ミカサを先頭にしていた単縦陣が横一線の並航に移り、さらに殿のヴィクトリーを先頭にした逆順の単縦陣に移る。四番艦のヴィクトリーには第一艦隊第一戦隊司令のフレッチャー少将が座乗していた。

「ミカサより各艦に達する。再度左舷一斉回頭用意。逆順単縦陣。ヴィクトリーに続け」

「ヴィクトリー、逆順単縦陣、アイ・・・」

 各艦のアンサーがやや混信しながら入って来た。

「左舷一斉回頭、・・・ナウ!」

「レフト・フル・ラダー、アイ!・・・」

 と。

 ヤヨイは、隣に立っていた同じ電気学科のアンの様子がおかしいのに気付いた。

「大丈夫? アン」

「・・・う、ん・・・」

 赤毛を三つ編みにしたアンは、ソバカスだらけの白い顔をさらに青くして俯いていた。

「・・・もしかして、酔ったの?」

「う・・・、そうみたい・・・」

 ヤヨイの右に立っていた第一艦隊の幕僚少佐が察してくれた。

「おお、それはいけない。後ろに仮眠室がある。そこで少し横になるといい。水兵!」

「イエッサー!」

 ブリッジの端に控えていたセーラー姿の水兵が応えた。

「彼女を仮眠室に案内してくれ。さ、行きたまえ。隣に手洗いもある。船が初めてでは無理もない」

 若い水兵に伴われてブリッジを降りるアンを見送り、ヤヨイは再び操作卓についている艦長と舵手の背中と、舳先の向こうに現れた僚艦のビスマルクの艦尾に翻る赤い帝国旗に目を留めた。


 

 第一艦隊旗艦ミカサ 二番艦ビスマルク 三番艦エンタープライズ 四番艦ヴィクトリー・・・。

 この、同型艦で揃えられた4隻の最新鋭主力戦艦たちが就役して2年目になる。

 第一艦隊の旗艦は、戦時ともなれば編成される連合艦隊の旗艦となり、今、ブリッジのコマンダーシートに座っている、連合艦隊司令長官となるワワン中将の座乗艦となる。その艦名が「ミカサ」であることについては多少の説明が必要だった。


 

 帝国皇帝は、多額の国費を投じて建造されたこの4隻の戦艦の命名を公募で行うよう、元老院に勧告した。帝国内融和の策であることは誰の目にも明らかだったから、その元老院の第一人者(プリンチペス)にして帝国軍全軍の最高指揮権(インペリウム)を持つ帝国皇帝(カエザル)の言葉に異論を申し立てる者は誰もいなかった。

 帝国は、数百年から千年前と言われる大災厄を生き残った様々な人種の人々が集った複合国家である。

 その人口のもっとも大きな部分、帝国市民の半ばは旧文明の欧州人の子孫たちで占められていて、その中でもドイツ系が最も多かった。だから、艦名を公募した際、最も希望の多かったのが「ビスマルク」になるのも道理だった。帝国人には、今はもう南の海の底に沈んでしまったヤーパンの生き残りの子孫もいたが、それは帝国ではごく少数派(マイノリティー)になる。

 帝国海軍の第一艦隊の旗艦といえば帝国海軍を代表する艦であり、「ビスマルク」が当然にその栄誉を担うはずだった。

 4隻の進水式を間近に控えたある日、南方の「フジヤマ島」近海の海底を学術調査していた調査団が、島の南の海底に巨大な鋼鉄製の船がほぼ原形を保ったまま沈んでいるのを発見した。

 たとえ鋼鉄艦と言えども、百年も二百年も塩水に浸かっていれば普通はやがて錆びて粉々になって消えてしまう。それが奇跡的に原形をとどめていたのは、恐らくは大災厄時に多量の火山灰か土砂を被り、ほとんど酸素を遮断された形で埋没したからであろう、とバカロレアの地質学者たちは推測した。

 やがて、その鋼鉄製の沈没船が、沈んでいた場所と大きさからその船がかつて「三笠」と呼ばれたヤーパンの戦艦であったことも判明した。

 推定排水量一万五千トン。海軍の最新鋭艦の3倍のその巨艦は、旧文明の二十世紀初頭、二十数倍の国力を持つロシアの大艦隊を打ち破ったヤーパン海軍の最高殊勲艦であり、戦勝記念艦として長くヨコスカという港の近くの臨海公園に係留展示されていたのがわかったのだった。

 その艦体発見のニュースは「三笠」の逸話と共に瞬く間に帝国全土に広まり、市民の間からもう一度主力艦の命名公募をやり直せとの声が多数上がった。

 再度やり直された公募によって、「ミカサ」の名は僚艦の「エンタープライズ」「ヴィクトリー」などをはるかに抜いてダントツの一位を獲得したのは言うまでもない。

 その巨砲をロクに使わないままイギリス艦隊に袋叩きになって沈んだ「ビスマルク」や、同じく世界最大の巨砲を持ちながら敵の戦艦を一隻も仕留めることなく航空機の大群にたかられて沈んだ「ヤマト」などよりも、はるかに帝国海軍の象徴として相応しい名前だとされたのだった。


 

 無線通信による艦隊運動試験は何事もなく順調に予定を消化していった。今一度右舷一斉回頭を行い、その後に単縦陣に戻り母港に帰還することになった。

「ミカサより各艦に達する。右舷一斉回頭用意!」

 司令長官のワワン中将に代わって第一艦隊の幕僚がもう何度目かの号令を発したときだった。

「あの、先生・・・。ちょっと雑音が・・・」

 ヘッドセットをして通信機をモニターしていたメガネのミヒャエルが不安気な顔を上げた。

「ん? ああ、ごめん。何かね?」

 フェルミ先生はその好奇心の塊のような黒い大きな目を窓の外に向け、僚艦の戦艦たちの吐く黒い煙に釘付けになっていた。通信機の試験に立ち会い、万が一の不具合に対応するために旗艦のブリッジに居ることなどすっかり忘れているようだった。先生には、こういう子供みたいな、お茶目なところがある。

 各艦からしつこく入っていたアンサーが入らなくなった。

「右舷一斉回頭、ナウ!」

「ライト・フル・ラダー!」

「ライト・フル・ラダー、アイ」

 艦長の命令に続き操舵手が復唱して舵輪を回し、通信士がマイクに命令を伝達した。やはり僚艦たちからはアンサーがなかった。

 右舷を見張っていた水兵が真っ先に異変に気付いた。

「二番艦ビスマルク、未だ転舵しません! 本艦艦尾をそのまま直進してゆきます。三番、四番艦もビスマルクに従って直進中!」

 そして、遅ればせながらスピーカーにアンサーではない音声が入った。

「ビスマルクよりミカサへ。航路指示を求む!」

 同じようにエンタープライズ、ヴィクトリーからも指示を乞う無電が入った。

「ふ~ん。パッシヴには問題ないね。アクティヴの回路かな」

 フェルミ先生はブリッジ後方に据えられている大きな通信機の本体のゲージを見て周波数のツマミを弄ったりして呟いた。

 ヤヨイの反対側から幕僚たちが冷たい視線を送ってきていた。だが、その中にあって、艦隊司令官のワワン中将だけは、全く変わらずに白いひげの下の穏やかな微笑を崩さず、前を向いていた。

 司令長官に代わって命令を発していた幕僚長が溜息を吐いてワワン中将に伺いを立てた。

「長官、予定の時刻でもありますのでこれにてターラントに帰投します」

 長官はゆっくりと頷いた。

「艦長! 旗旒信号。運動旗を上げてくれ。艦隊はターラントに帰投する」

「アイ、サー! 信号兵! 運動旗を一旒上げろ。霧笛(フォグフォーン)を鳴らせ。面舵一杯。機関半速! ポートスティア、360!」

「ライト・フル・ラダー、ポートスティア、360、アイ!」

「機関半速、アイ!」

 操舵手が復唱して舵輪を回した。艦体は再び左に大きく傾き進路を変えた。それより先に信号兵がブリッジを飛び出してゆく。旗艦が運動旗を掲げると「我に続航せよ」の意味になる。

「ビスマルク、運動旗を確認。旗艦に続航する!」

 続いて各艦からも音声によるアンサーが入った。右舷を監視していた士官が報告した。

「全艦、マストにアンサーを確認、本艦に続航するコースに入りました!」

 4隻の戦艦たちからやや離れた位置で演習を見守っていた通報艦、排水量わずか800トンほどの巡洋艦リュッツオーがいそいそとミカサにすり寄って来て彼女の隣に並走しはじめた。無線通信時代が到来すれば、艦隊の間を走り回って旗艦の命令を伝達し、僚艦の意思を旗艦に通報して来た彼女の役目も終わるのかもしれない。だが、無線がダメとなると、まだまだ彼女の存在も必要とされ続けるかもしれなかった。

「やはり、どうもアンサーは必要なようですな」

 幕僚の誰かがつぶやいた。ちょっと前に必要ないと言った本人だったのが、ジミに可笑しかった。

 ワワン中将がゆっくりと腰を上げ、ブリッジを去った。幕僚たちがそれに続いた。アンを心配してくれた少佐も、

「じゃあ、後は頼むよ」

 そう言ってブリッジを去った。

 ブリッジはまた、静かになった。
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