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第一章 潜伏

05  リヨン中尉

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 南駅から都心に向かって北に。

 アヴェンンティーノの丘を左に、チュリオの丘を右に見ながら都心に向かうとパラティーノの丘にぶち当たる。それも左に見ながらさらに北に行くと、帝都一番の歓楽街、スブッラがある。

 食堂や公衆浴場や室内遊技場や盛り場がひしめき合う、賑やかな街だ。古代ローマに倣いたがる誰かによって名付けられたその一帯には、そこで青春を謳歌する者にも、そこで日々の糧を得る者の中にも、少なくない割合でバカロレアの学生がいた。彼らがアルバイトで稼いだ金の少なくない部分は、青春を盛り場で謳歌したがる彼らの性向のせいでこのスブッラの中で使消され、そこから外に出なかった。古今東西、社会に出る前の若い男女というものはいつも同じような行き方をするものだ。

 そのスブッラで冷えたビールをグビグビとヤリたいのをグッと堪え、そこを抜けてさらにゆくと重厚なエンタシスの林立するフォルム街がある。

 神々を祀った祠があり、そこにあるちょっとした広場では、五十歳の定年で現役を引退した軍の将兵や、息子や娘に家督を譲って隠居した老人が開く私塾も催されたりする。

 そこを抜けると元老院議事堂前の広場があり、内閣府のある官庁街がある。

 バカロレアのキャンパスは、その官庁街のすぐ東隣にあった。

 帝国立の総合大学と言えば唯一、ここだけ。

 旧文明の英知をもたらす海洋歴史学の重鎮たちも皆ここに本拠をおいている。すなわち、このバカロレアが帝国の知の中枢になるわけだ。


 

 南駅から荷車を押してほとんど駆けるようにして大学に辿り着いた4人は、キャンパスを歩く学生たちを蹴散らすようにしてすぐさま工学部棟に滑り込み、荷車に載せて来た荷を開けた。


 

「大学に着いたら寝る間もないほど忙しくなるからね」

 フェルミ先生が言った言葉は少しも誇張ではなかった。


 

 ボーア教授は電気学科だけでなく、他の学科の院生たちも招集して突貫作業を人頭指揮した。

 理論設計を確認、再検討するグループ。4人が持ち帰った実機である通信機を分解して一つひとつの部品を大型のテスターでチェックするグループ。製造業者と交渉して部品の精度を高めるグループと、基盤を分け船体の振動に耐えられるように実装設計を再検討し製作するグループの4つに分け、24時間交代制で仕事を続けた。

 なにしろ部品が多かった。加熱して不具合になった可能性もあるので回路冷却用のファンを新たに取り付けたりしたからさらに部品が増えた。それだけ、時間もかかった。

 一般の学生には頼めなかった。例の軍の機密に係わることなので、作業に係わる院生は全て学長と工学部長の前で宣誓してから作業に加わった。

 しかも、いちいち学長室に行って宣誓しているヒマもない。

 ハンダゴテが鉛を融かすニオイが漂う電気学科の作業室に学長と学部長御自ら赴き、テスターを操作しレベルゲージから目も離さない学生のそばに立って、

「キミは神々に対し、本作業に伴って知り得た情報を生涯誰にも漏らさないと誓うか?」

「は~い、誓いま~す・・・」

 こんな具合。

 しかし、交代制とはいってもなかなか満足に寝られるものではなく、研究室の中と外はすぐに芋のように熟睡する院生で埋まってしまい、寝る場所にあぶれた院生がアトリウムのベンチや中庭のそれや開いている教室や廊下のベンチで所かまわず寝るものだから一般の学生や文化系学部の教授たちから苦情が出る始末だった。

 そんな修羅場に、時折海軍省から状況確認のために担当官が来たりすると、さらにやっかいなことになった。

「この有様はなにごとであるか! キミたちは軍事機密というものをなんと心得るかっ!」

 居丈高に怒鳴り上げてきたりすると、

「だって、仕方ないじゃないですか! 何が何でも急げと言われてるんですよ、海軍から!」

 ボーア先生と共にあっちの部屋こっちの部屋と四六時中飛び回っては学生を励ましていたフェルミ先生が怒鳴り返したりした。


 

 で。

 ヤヨイはというと・・・。

 皆と同じように肩までのブルネットを無造作に束ね、安いワインが注がれた木のカップと食べかけのブロットビュルストの皿を脇に置いてもう何時間もぶっ続けでテスターを使い回路の抵抗をチェックし続けていた。体力には自信があったヤヨイだったが、碧眼は真っ赤に充血し、結局は限界を迎えた。

「あれ? フェルミ先生は?」

 傍らでハンダゴテを使っているミヒャエルに聞くと、

「知らない。さすがにどっかで寝てるんじゃね? あ、やべ。間違えた・・・」

「そお・・・。時々いなくなるわね。どこに行ったのかな・・・」

 ま、いいや。

 もう、限界だわ・・・。

 一番眠れそうな授業をリサーチしていたので、交代時間が来ると研究室を出てその教室に行った。

 ナガオカ教授の「人類史概論Ⅰ」というのが、その授業だった。学生が目の前で寝てようが弁当のサンドウィッチを摘まんでいようがお構いなしに講義を続け、使い古されてボロボロになった講義ノートを一心不乱に読んでゆく、丸眼鏡で頭がひどく禿げ上がった長身の長老級の教授だが、とにかく教室に居さえすれば、愚問ばかりの質問をしたり私語などを発して授業を妨害しさえしなければ単位をくれるので有名な先生だった。

 その「人類史Ⅰ」の教室の一番後ろにつかつかと行き、机に突っ伏してブルネットの髪を解いて顔を覆い、即、寝た。


 

「我々は、この地球が青い丸い球であることを知っています。

 我々がそれを知ることが出来たのは旧文明の残した貴重な文献からであります。

 かつて人類はこの地球の外に出て、自分の目で、地球が青くて丸い玉であるのを見ることが出来たのです。それは想像を絶する、まことに素晴らしい体験であったことでしょう。

 現在の帝国を構成する人々のルーツは様々です。いずれも、数百年前から1000年前と言われている『大災厄』以前の世界にその源流が求められることだけは確かなようです。

 その『大災厄』の原因もまた、様々です。

 天変地異以外にも、疫病の流行、局地的な紛争や戦争、革命・・・。

 様々な事象が複雑にに絡み合い、影響し合ってカタストロフが作られ、最盛期には80億もいた旧文明の人類は、わずかな生き残りの人々を除いて、そのほとんどが一度死に絶えました。

 地質学者によれば、その最大の災厄をもたらした原因が『ポールシフト』にあったことは、近年の調査研究でだいぶ明確になってきました。

 現在の北極はかつてヨーロッパと言われた地点にあり、当時の位置から緯度で約50度も南に移動してしまいました。北極星という星はかつて北極の真上にある星だったのでその名がついたのですが、今では夜の訪れと共に天に上り、朝が来ると北西の地平線に沈む星になってしまいました。

 地球の回転軸と磁力線がジャンプするポールシフトは過去数百万年の間に何度も起ったことがわかっています。

 我々が今いるこの帝都は、かつてモンゴルと呼ばれた平原でした。その北がロシアと呼ばれた広大な国だったのですが、ポールシフトによって大部分の陸地が沈降し、現在は当時の数分の一の領域しか残っていません。ですが、一部の土地は逆に隆起し、帝国の領土内にその痕跡を残してくれたのです。

 海底に砂と泥の層が積み重なった地層が急激に隆起した部分が露出した部分があります。そこを観察すると、泥岩に含まれる磁性鉱物の向きを読むことが出来るのです。磁性鉱物は固まるときに磁力に向けて並ぶため、地層の磁界を測定すると、S極とN極の方向が分かります。『大災厄』の前の磁性鉱物の向きとその後に沈殿した磁性鉱物の向きとが約五十度違っていたのです。これがポールシフトが起こった証拠となりました。

 現在の帝国の人口のうちの約半数が、現在北極圏となっているヨーロッパから寒波を逃れるようにして移動して来た人々の末裔であるわけですが、人類史的にみますと、この大移動は驚異的な速さで行われました。

 例えば、『大災厄』前に存在していたある人種の移動と比べて見ますとその差は歴然としています。

 現在は『フジヤマ』島とその周辺の小さな島々になっているところはかつて「ニホン列島」と呼ばれた細長い島国でした。その北にアイヌというネイティヴな人種が住んでいましたが、人種的に同じと思われる民族がその北の当時ベーリング海峡と呼ばれた海を渡り、アラスカという土地に移り、さらに南進してアメリカ大陸を進み『ネイティヴアメリカン』という民族となり、さらに南へ進み、当時南アメリカ大陸と呼ばれていた地に渡り『インディオ』と呼ばれる人々になった。ここまで数千年から数万年ほどの時間が経っています。

 狩猟民族であった彼らは獲物を追い、あるところでは数百年数千年のオーダーでそこに定住し、獲物が少なくなればまた移動するというようにして、ついに南米大陸までたどり着いたのです。

 その事例から考えますと、たった半千年紀(ハーフミレニアム)のうちに欧州人が現在の帝国の地に移動して来たスピードは驚異的と言わざるを得ません。

 学生諸君の中には、聖書の『バベルの塔』の逸話を知っている人もいるでしょう。

 はるかな昔、人間は皆同じ言語を話し、豊かな土地で幸せに暮らしていました。ですが、いつしか人々は神の尊厳を忘れ、奢り、バベルの地に高い塔を立てて神に近づこうとしました。神と同じところまで登れば、自分たちもまた神になれると考えたのです。その傲慢さに神の怒りが落ち、人々はそれぞれ全く別の言葉を話すようになり、皆バベルの地から散りじりに去ってゆき、建設途中だった塔はいつしか忘れられていった、という話です。

 ですが、わたしたちの祖先は違いました。

 彼らは途中様々な艱難辛苦を経てこの緑豊かな地に辿り着きました。その過程で、元々の彼らのそれぞれの言葉も混じり合い、融合してゆきました。ドイツ語を母体に、英語、フランス語、イタリア語が混じり合い、当時ほとんど話されていなかったラテン語までが加えられ、現在我々の話す『帝国語』と呼ばれる言語になってゆきました。その過程はさながら『バベルの塔』の逸話と全く逆の行き方を辿ったのです。反目し合うよりも協力し合う。疑うよりも理解する。排除するよりも混じり合う。そうした先祖の性向が、後に同じように天変地異の異変から逃れて来たアジアの国々の人々を迎え、飲み込み、他の民族との融和を図る原動力となっていったのです・・・」


 

 グウーッ!

 ヤヨイは自分のイビキで飛び起きた。

「失礼な奴だな、キミは!」

 いつの間にかすぐ隣に金髪碧眼の男子学生がいて、ヤヨイを睨んでいた。

「ナガオカ先生が一生懸命に講義しているのに無礼にもほどがある。キミにこの貴重な講義を聞く資格はない。外に出たまえ!」

 ヤヨイはその金髪の男子学生に摘まみ出されるようにして教室を出た。

 教室を出てすぐ、その学生はにこやかに笑った。

「二か月ぶりだね。元気だったかい?」

 リヨン中尉はウリル少将の副官だけあって、いろんな人間になりすますのが得意らしかった。


 


 

 売店で木のカップにレモネードを注いでもらい、中庭に出た。電気学科の院生が寝ていない、空いているベンチを見つけて二人で掛けた。

「初めて会った時も、ぼくがレモネードを給仕したよね。覚えてるかい?」

 軍服でない、黒革のベルトも巻いていない、市井の市民が着る明るい色のテュニカに軍靴(ブーツ)でなくサンダルを履いた中尉の姿は親しみを感じさせた。

 それなのに、何故か彼に対してはウリル少将に対するようにフランクに、素直な態度が取れなくて困った。共に死線を潜り、緊迫した時間を共有したせいかもしれない。その記憶がイヤでも蘇ってしまうからかも知れない。

「ええ・・・」

 とヤヨイは応えた。

「ウリル少将からの伝言を伝えに来たんだ」

 と、彼は言った。

「海軍から正式な通達が来た。きみは再びあの通信機と一緒に『ミカサ』に乗る。あのときの二人の院生と一緒にね。

 海軍は一時的に少尉待遇での乗艦ということにしてくれたみたいだよ。通信士官として最後までちゃんと責任もって面倒見ろということだね、これは。

 第一艦隊は再び通信機の習熟航海に出る。今度はフジヤマ島を標的にして実弾の射撃訓練も行うそうだ。通信機を使った戦闘指揮の演習らしい」

 キャンパスを行く学生の多くが中尉に視線を浴びせて過ぎて行く。女子の中には、

「ちょっと、なにあのイケメン!」

「あの子何学部の子なの」

 という黄色い声を上げそうな勢いで。男子は、

「こんなヤツウチの大学にいたっけ」

 とでも言うように。

「ここからが任務の内容だが、きみはできるだけ艦長のルメイ大佐に近づけ。

 大佐は出港前に一度パラティーノの家に帰ってくる。自宅に立ち寄って、多分、西の国のスパイと連絡を取るはずだ。そのスパイを利用して、大佐に取り入るもいい。憲兵隊に情報を流してある。大佐が憲兵隊に摘発されるのをきみが助ける、とかね。ルメイ大佐に恩を着せてきみを信用させるためだ。出来れば、男と女の関係になってしまった方がいいかもしれないなあ・・・」

 驚いて中尉を見た。

「あくまで、任務の上で、だけどね。・・・驚いているね」

「中尉が、そんな・・・。そんなことをサラっと言える人だとは思いませんでした」

「傷つけたかな、きみを」

 ヤヨイは黙った。

 中尉はレモネードの木のカップを握り締めた。それを一口煽ると、スッと遠くを見つめた。

「きみは知らないだろうな。ぼくもあの時、第六中隊の後からあの丘に行ったんだよ」


 


 

 あの日・・・。

 ヤヨイは偵察大隊のポンテ中佐の命令で反乱部隊のレオン少尉を待ち伏せるべく、大隊からつけられた二名の兵、射撃の名手リーズルと夜目と耳のいいアランととともに国境の河を渡り、小高い丘の上に陣取り、少尉を待っていた。

 レオン少尉は反乱部隊の精神的支柱だった。帝国に反旗を翻すのではなく、帝国と軍に巣くう、帝国と軍を食い物にする者たちの存在が許せないのだ、だから共に立ってくれとも言った。

 しかし、どんなに華麗な装飾を施そうとも、彼女のしたことは帝国への反乱以外のなにものでもなかった。ヤヨイは彼女に同調することはできず、逆に彼女を狩るハンターとして少尉の前に立ちはだかったのだ。

 果たして、ヤヨイの予想通り、彼女は来た。彼女付きの奴隷の青い肌のアレックスと、もう一人・・・。束の間だが愛した男、何度も愛を交わした、ジョーがいた。

 ヤヨイは動揺を隠せなかった。

 レオン少尉は殺すなと命令されていた。生かして捕らえろと。

 彼女を殺せば帝国内の反乱分子たちの間で偶像になってしまう恐れがある、と。反乱が帝国全土に飛び火し、収拾がつかなくなる恐れがあると。

 しかし彼女を逮捕するためにはアレックスとジョーを、排除しなければならない。具体的には、彼らを戦えなくしてしまわねばならなかった。

 つまり、彼らを殺さねばならなかった。

「リーズル、もう一度威嚇射撃! 警告はした。それでも止まらなければ、左の背の高い奴隷を撃って!」

 ズダーンッ!

 リーズルの撃った弾は再び正確に少尉の左隣のアレックスの背後に弾着した。しかし、少尉もアレックスもジョーも怯むことなく丘を登るのをやめなかった。丘を迂回して川沿いに西を目指すのではなく、ヤヨイのいる頂上を目指して彼女たちは登ってくる。何故なのだろう。何故登ってくるのだろう。

「お願いです少尉! 止まって下さい! でないと、でないと・・・」

「止まるわけにはいかんのだ、ヤヨイ」

 よく通る少尉の声は落ち着いていた。

「わたしのために、志のために、首都で、ここで、すでに多くの同志が犠牲になった。

 さっきの爆発を見ただろう。わたしの部下たちが、わたしの子供たちが、わたしのために囮になってお前たち鎮圧部隊を引き付けてくれた。その尊い犠牲をムダにするわけにはいかんのだ!」

 ジョーまでが、少尉の言葉に加わった。

「みんなおれのために死んだ。おれはあいつらの命をもらってここにいる。だから、どうしても行かなくてはならないんだ!」

「それが、何になるというの? あそこに行けば、リンデマン大尉の許に行けば、あなたも少尉も死ぬわ。ただそれだけなのに。それに、何の意味があるの? 諦めて降伏してっ!」

「ヤヨイっ! お願いだ、俺たちを、行かせてくれっ! 頼むっ!」

 そう言いながら、ジョーが立ち止まり、銃を構えた。

「ジョーッ!」

 ズダーンッ!

 銃が放り出され、ジョーが後ろに吹っ飛んだ。

「大丈夫。肩を狙った。彼はもう、銃を撃てない」

 リーズルは落ち着き払って槓桿を引き次弾を装填し、再び構えた。

「ヤヨイ! わたしは銃を持っていない。アレックスもだ。丸腰だ。お前は丸腰の相手に銃を持って対するのか」

「だから、だから止まって下さい! 跪いて。・・・お願い! それ以上、登ってこないで! 止まってェーっ!・・・。少尉、これが最後です。止まって下さい! この次は、・・・撃ちます」

 あっはっはっは・・・。

 丘の上に、少尉の高らかな笑い声が響いた。

「お前にはわたしを撃てはせん。

 お前は、優し過ぎる狩人だ。そんな狩人は獣に逆襲されて死ぬ。優しい狩人などというものは、論理的にあり得ないのだ!」

 アレックスが同じように死体の傍の手斧を取り、投げて来た。それは到底届かない距離だったが、リーズルの意識を一瞬だけ少尉から外した。そこを、撃たれた。

 ダーンッ!

 ジョーが生きている方の片手で銃を取り、撃った弾丸がリーズルの腕に命中した。

 反射的に、無意識に。ヤヨイは反応していた。ジョーに狙いを定め、間髪入れず、気が付けば引き金を引いていた。ヤヨイの撃った弾丸は、ジョーの眉間を正確に打ち抜いた。

 一瞬だけ、時が止まった。

 最後の記憶は、愛する男の骸を抱きその名を呼ぶ自分の叫びだった。

 ヤヨイは愛する男を自らの手で、撃ち殺した。

 その一弾を放った時の肩に食い込んだ銃床の痛みと、それよりもはるかに深い心の痛みから、ヤヨイはまだ完全に癒えてはいなかった。

 もしかすると、先に少尉を撃ち殺していれば、ジョーは降伏してくれたかもしれない。彼を殺さずに済んだかもしれない。何度もそんな不埒な妄想をし、自分を責めた。


 


 

「丘の上に着いた時、きみは半狂乱になって一人の反乱兵の遺体に縋っていた。第六中隊の兵に宥められていたが、それでもきみはその兵士から離れようとせず、きみは泣きわめいていた。ジョー、と。その兵士の名を、彼の名を、呼び続けてた。

 それでぼくは、きみに声を掛けるのをやめたんだ・・・」

 中尉はキャンパスの眩しい緑の芝生に目を落とした。

「一人で先に連隊本部に帰り、少将に報告をして、先に帝都に戻った。きみに会いたくなかったんだ。きみの顔をまともに見られる自信が、なかったんだ・・・」

 リヨン中尉は、やおらヤヨイの手を取った。

「中尉・・・」

 力強い熱い手の感触。青い目の奥の深い炎。不器用な愛情・・・。

 だが、すぐに自分を取り戻した中尉は、手を離した。

「ごめん・・・」

 と彼は言った。

「大佐が自宅に戻ったら知らせるよ。それまで大学と寄宿舎から動かないでいてくれ。いいね?」

 そう言って彼はベンチを離れ、キャンパスを出て行った。

 彼は、リヨン中尉はいつも、いつの間にか現れていつの間にかいなくなっていた。そういう人だと思っていた。だから、彼の去っていく後ろ姿をそんなに長い間見つめ続けていたのは、初めてだった。
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