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第一章 潜伏

06 クィリナリスの丘

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 ヤヨイは半分死んだ青い肌のバケモノたちに追いつめられ、必死に丘を登っていた。

 丘の上のタコツボに辿り着いても誰もいなかった。

 這い上ってくるゾンビ、バケモノに向かって滅多やたらに小銃を撃ちまくった。バケモノたちは弾が命中しても死なず、四方から登って来て次第に距離を詰めていた。それなのに残弾が底をついた。

 弾の無くなった銃や被っていたヘルメットや背嚢を全て投げつけたが無駄だった。ついにバケモノたちがタコツボの周り全てを取り巻いた。そのバケモノの群れの中にジョーの姿を認めたのとタコツボの底に手りゅう弾が一発だけ残っていたのに触れたのとが同時だった。ヤヨイは迷わずピンを抜いた。そしてそれを硬く抱きしめ、信管を押し込み、最後の時を待った。

 

 研究室で、基盤の載った机の上に突っ伏していたヤヨイは、目を覚ました。

 全身汗をびっしょりとかいていた。傍らには火鉢がぶすぶすと燻ぶり、ハンダごてが真っ赤に灼けていた。

 まいったな・・・。

 このごろ、2日に一度はこの悪夢を見る。

 ウリル少将はいった。

「任務で傷んだ心は、別の任務で忘れるしかないのだ、ヤヨイ・・・」

 ヤヨイをこき使うための方便だとは思う。

 だが、そんな方便にすら縋りたくなるほどに、限界を感じていた。基盤に据えられた真空管のガラスは手作りらしく、厚みが均質ではなかった。ガラスに映った自分の顔が歪んでいた。


 


 

 通信機は不具合を起こす前にも増して強力になった。

 フェルミ先生の指導で基盤の設計が大変更され、送信と受信と増幅を別の基盤(ユニット)に分け、しかも送信出力と受信アンテナの感度を高めた。

 電気学科の総動員体制は終了した。みんな何日かぶりで自分の家や寄宿舎に帰って行った。

 ところがあれだけ修理を急かした当の海軍からは何の音沙汰もなく、いつ再びミカサに乗艦して通信機を設置するかの連絡さえなかった。

 ヤヨイにはその理由の見当がついていたがもちろん口に出すこともなく、万が一洋上で不具合があった時のための予備の基盤を製作するため、火鉢で焼いたハンダごてを手に悪戦苦闘の日々を送っていた。不具合の度に首都に帰るなんて、もうコリゴリだった。


 

 そんな中、何の前触れもなく2人の海軍士官が研究室に来た。

「海軍省から参りました、リヨン中尉です」

 堂々と名を名乗って。他にもう一人の士官を連れて。

 もちろん、ヤヨイは黙っていた。リヨン中尉が同じクィリナリスのエージェントであることは大学の仲間たちに知られるわけにはいかない。

 リヨン中尉ももう一人の士官も、よくプレスの効いた海軍のネイビーブルーの軍服に身を包んでいた。

「本日より相当期間、通信機に係わる操作及び保守担当官として今から名を挙げる3名を海軍少尉並みとし、任官する。アンジェラ・マーグレット、ミヒャエル・ユンゲ、そして、

 ヤヨイ・ヴァインライヒ・・・」

 椅子の背に両脚を投げ出し、作業机に上体を預けてユラユラしながらレモネードを飲んでいたミヒャエルは、あんぐりと口を開けた。

 アンは、リヨン中尉の後ろにいて書類ボードを手にした、目元涼しく凛々しい東洋系の美形の海軍士官に目をくぎ付けにしていた。

 リヨン中尉は名前を読み上げ終わるとそれぞれに任命書を手交した。そして、言った。

「諸官らには、一時的にではあるにせよ、いやしくも帝国海軍士官として任官された以上、見苦しくない振る舞い、態度をとることを切に望む!」

 言いながら、なおも無作法に口をあんぐりしたままのミヒャエルを睨んだ。

 多少なりともその経緯を知っているヤヨイは、やはり黙って俯いていた。

「マーグレット、ユンゲ両少尉は、このミヤケ中尉と共に直ちに第一艦隊旗艦ミカサに赴き、修理を完了した通信機を設置する。ヴァインライヒ少尉は本官と共に海軍省に赴き、補修に掛かった諸経費等の所定の手続きを行い、その後にミカサに乗艦する。直ちに支度されたい」

 ミヤケ中尉は持ってきた黒革のバッグを開いて3人分のネイビーブルーの軍服を取り出した。アンは真っ先にミヤケ中尉の前に立ち、目をハート型にしていた。


 


 

 出来立てホヤホヤの2人の「かりそめの」海軍少尉と別れ、ヤヨイはリヨン中尉と共に大学を出た。

 もちろん彼女も支給されたばかりの紺の軍服を着ていた。だが、馬車が向かったのは海軍省のある官庁街ではなく、その反対方向にある、官庁街から最も遠いクィリナリスの丘だった。

 ヤヨイは黙ってキャビンで揺られ、残暑厳しい陽光に照らされた街並みを眺めていた。

 すぐ隣に座っているリヨン中尉が何も話さなかったからでもある。彼に握られた手の感触をまだ覚えていたからでもある。向かいの座席の上の小窓から、馬車を御す海軍の下士官の頭が見えたからでもあるし、リヨン中尉がすぐ手の届くところにいるのに、今日はとても遠く感じたからでもある。

 そして、官庁街にある海軍省に行くと言いながら、その反対方向のクィリナリスの丘に向かっているのに黙っているのは、そこに何があるか、知っていたからでもある。このまま馬車で揺られてそこに行けば、どうなるかわかっていたからでもあるし、その覚悟を決めるのに、無駄口をたたいている余裕などなかったからでもある。

 あの、親切な田舎の老農夫に変装していたウリル少将が統べる、帝国の特務機関、通称ウリル機関の本部がそこにあった。


 

 その屋敷の外見は高級住宅地の立ち並ぶその一角の他の邸宅とあまり変わるところはなかった。

 程度の良い邸宅に用いられる首都周辺の山で採掘された重量感のあるラスグレー石(黒御影石)の壁、素焼きの屋根瓦の家屋がやや広めだというだけで。

 通りに面した門には奴隷の門番が居て馬車が近づくや鉄製の門扉を開いた。

 馬車は長い園道を走り、エントランスの車寄せの前に止まった。奴隷頭が迎えに出ていて、馬車を降りるヤヨイと中尉に恭しく頭を垂れた。

 ここまでは、他の邸宅の佇まいといささかも変わったところはない。

 石造りの二階建ての建物はどちらかと言えば簡素過ぎるぐらいで、多くの邸宅と同じようにアトリウムを取り囲む形式の作りになっていることもまた、変わらない。

 執事頭にドアを開けてもらい、中に入った。

 だが、ここからが、普通の邸宅とは全く違った。

 そもそも。

 門番の奴隷も、執事頭も、皆陸軍に籍を置く下士官でありこの特務機関に所属する警備部の要員だった。しかも、屋敷のそこここには目立たないように警備の兵が常駐していた。玄関ホールに入れば、忙し気に行きかうのは皆カーキ色のテュニカに黒革帯を胸の前でクロスした軍服を着た軍人ばかりだった。

「閣下は?」

 リヨン中尉は玄関ホールの隅にデスクを置く受付の女性士官に尋ねた。

 ヤヨイと同じブルネットに碧眼だが、女性士官は、うらぶれた酒場によくいる中年の女将のような、太々しい態度で若造の不遜さを詰るように、答えた。

「オフィスよ」

 階級は准尉で、リヨン中尉のほうが上官になる。それなのに、その上官にあたるリヨン中尉に対しても、

「それがどうしたの、坊や」

 とでも言いたげな風情。

 メープルシロップのガムをにちゃにちゃしながら、彼女は言った。

「あ、そう。じゃ、おじゃまするよ、マギー」

 勝手知ったるように建物のアトリウムを巡る回廊に出て、中尉は先に立ってつかつかと歩き出した。

 どの邸宅にもあるように、このアトリウムにも小さな噴水があり、色とりどりの観葉植物が生けられていた。

 ただ、普通の邸宅と違うところがここにもあった。

 アトリウムの一画に地下に降りる間口の広い階段があり、そこからカーキ色の一団が駆け上がって来たかと思えば、彼らを見送って二三の士官が階段を降りて行ったりしていた。この一般の邸宅に偽装(カモフラージュ)した特務機関の本部は地上に出ている部分よりも地下にある部分の方が大きいのだった。


 

 コンコン。

「入れ!」

 ヤヨイたちがオフィスに入るや、デスクの向こうの少将は顔を上げ、リヨン中尉はドアをロックした。

 窓はない。天井に開いた明り取りから降り注ぐ陽光が明るい化粧岩の床と壁に反射し、部屋の隅々まで充分に光を行き届かせていた。

「そこに掛けろ」

 ヤヨイはデスクの前の肘掛け椅子に座った。中尉はいつものように椅子には掛けず、壁際に肩をつけて立ち、腕組みをした。

「決心はついたか」

 と少将は言った。

 ヤヨイが黙っていると、

「先ほど皇帝陛下にお目にかかり、今回の作戦の裁可を頂いた」

 ウリル少将はウム、と頷くとデスクの上のファイルを開いた。

「作戦を、説明する」

「あ、あの・・・」

 と、ヤヨイは言った。

「・・・なんだ」

「銃は、少尉の銃はありますか?」

「銃を、どうするのだ」

「もう一度、手に取ってみたいのです。少尉の、レオン少尉の、わたしの師匠の銃に触れてみたかったのです」

 デスクを立った少将は、壁際のキャビネットを開き中に収められていた一丁の二式アサルトライフルを取り出した。

 ヤヨイは、2か月ぶりにその黒光りのする、よく手入れされた銃を手にした。木の銃床に「L」の刻印。束の間愛した男の命を奪った重さが、手に堪えた。
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