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第一章 潜伏
10 第一艦隊、出港
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始発に乗ってターラント駅に着き、海軍の馬を駆りて港に戻った。
銃を構える海兵隊員が守る軍港のゲートを通り、出頭した軍令部で艦隊の出港が繰り上げられたことを知った。
「今夜・・・、かね」
「明日0000をもって出港となりました」
その軍令部の参謀は小生意気そうな銀縁の眼鏡を上げた。
「当初の予定より6時間も早いではないか。・・・なぜだ」
「変更は昨日のことです。理由については長官のご一存なので私どもも・・・。
大佐がご不在でしたので副長のチェン少佐に伝達しております。補給も完了していると、先ほど報告が来ております」
「・・・では石炭の積み増しをしなくてはならないのではないか」
「予定の繰り上げであって演習の内容に変更はありません。予定の積載量でよいとのことでした」
「・・・そうか」
「何か、不都合でも?」
「いや・・・」
「ワワン閣下と第一艦隊の幕僚も本日1600には乗艦されます」
「了解した。・・・ありがとう、少佐」
「大佐、どこか具合でも悪いのでは? お顔の色が優れないようにお見受けしますが」
軍令部の参謀が、眼鏡のつるを直しながら顔を覗き込んでくるのが鬱陶しかった。
「いや、何でもない。それでは、私も急ぐとしようかな、ハハ・・・」
逃げるように軍令部の建物を去り、取りも直さずルメイはミカサに急いだ。
予定の変更は、マズい。何とかして連絡を取らねばならない。が、その手段がないことに気付くのは早かった。
駅が近くにあれば、電信が使えるのに・・・。
緊急用の連絡先はあったが、どうしてもやむを得ない場合のみと言われていた。
だが、第一艦隊の幕僚が乗艦する前にはミカサに居なくてはならない。駅から騎行で二時間かけてここまで来た。往復4時間もかけていては到底、間に合わない。
ルメイは、いまさらながらに何故軍令部が港まで鉄道と民間用の電信を引かないのか、その理由を思い知った。
全て、機密保持のためなのだ。
ルメイは先ほど通り過ぎた、完全武装の陸戦隊の守るゲートを振り返った。
海軍はターラントの他に東西にそれぞれ一つずつ、西のマルセイユ、東のキールという軍港を持っている。それぞれが鉄道で首都と結ばれているのも知っている。南の国を併合した時、主にフランス人の子孫たちが移り住んだ漁港を軍港に改造したのが「マルセイユ」、ドイツ人たちのが「キール」だった。
マルセイユの第三艦隊も東のキールを母港とする第四艦隊も、所属しているのは旧式の巡洋艦や駆逐艦。それに骨董品ともいうべき帆船のフリゲート艦で構成されている。
だが、ターラントはいささか事情が違った。
ここには海軍の最新最精鋭、最高軍事機密の塊のような第一、第二艦隊が錨を下ろしている。陸軍に比べて科学技術に負うところが大きい海軍にとって、ターラントは最も重要な軍港なのだ。それゆえ、軍関係者以外の出入りを厳重に抑える必要があった。鉄道線とそれに伴う民間の電信を引かないのは、そのためだったのだ。鉄道駅が無ければ人は寄り付き難く、人が集わねば、情報は伝わりにくくなる。
それを、忘れていた。
ルメイには予定の変更を相手に知らせる手段がなかった。
もし、事が上手く運ばなかった場合。つまり、チナの受け入れ側がしくじった場合は・・・。
もう、ノンは指示した通りの燃料を積んだことだろう。第一艦隊第一戦隊四隻のうち、燃料であるコークスの積載量が最も少ないのが旗艦ミカサなのだ。この失態の全責任は艦長であるルメイにある。
だが、「失態」で済めばいい。
亡命も出来ずにオロオロ海軍に居残れば、その失態の責任を追及されて予定より早く閑職に回されるだろう。
それに、もしノンが追及されて口を割れば・・・。
最悪の場合、「失態」はたちまちに「反逆」に変わり、「閑職」は「死刑」に変わる。
陽に照らされた荘厳なミカサの艦影を見上げながら、ルメイは暗澹たる思いを胸に宿した。
「いっそ、死ぬか・・・」
一瞬だけだが、そこまで思い詰めた。
だがすぐに思い直し、タラップの下にいる伍長の敬礼を受けた。
「お帰りなさい、艦長!」
「ご苦労」
答礼し、タラップを駆けあがった。上がりながら、腹をくくった。
括らざるを、えなかった。
もうここまで来ている。あとは運を天に託して突き進むより他ないのだ、と。
艦長の乗艦を告げるラッパが吹奏され、ルメイが上甲板に上がると同時に当番兵が駆け寄って敬礼し彼の手荷物を預かった。
彼は真っすぐにブリッジへ上った。
艦長の乗艦を告げるラッパが鳴り響いた。
起床もラッパ。朝食も昼食もラッパ。戦闘配置や入浴もラッパ。艦長や艦隊司令官の乗艦を告げるのも、ラッパ。
陸軍ではとうの昔に攻撃や行軍でのラッパは消え、駐屯地での朝夕の時を告げるものしかなくなった。だが、海軍では昔の名残を色濃く残している。最新鋭の戦艦と古式ゆかしいラッパの音の、そのアンバランスな調和が海軍の特色なのだろう。だが、そんな悠長な感慨にふける時ではなかった。
ヤヨイは自室で一人、読んでいたポケットサイズの聖書を閉じた。
丁度7人の天使が進み出て第一のラッパが吹き鳴らされたところだった。
地上の3分の1、木々の3分の1、すべての青草が焼ける。第二のラッパが吹き鳴らされると海の3分の1が血になり、海の生物の3分の1が死ぬ・・・。
ヨハネ黙示録の、とくにこの部分を、ヤヨイは繰り返し読んだ。実に丸暗記するほどに。
閉じた聖書を背嚢に仕舞い、ブリッジに急いだ。出来るだけルメイに接触し、彼の共謀者を探り出すのが彼女の任務だった。
「お帰りなさい、艦長」
航海長や砲術長たちのよそよそしい敬礼。副長のチェン少佐が帳簿から顔を上げた。
ルメイも答礼した。
「出港が繰り上げられたそうだな」
「はい。突然だったので驚きましたが。補給は完了しております。先任士官から水兵にも伝達済みです。宿舎にも通達を出しましたので上陸中の者達も1400には帰艦する予定です」
東洋系の副長は卒なく答えた。
「ん。諸事遺漏はなさそうだな。例の通信機は?」
「すでに搭載を完了しています。僚艦との通信も確認済みだと報告を受けました」
副長は操作卓の端に乗っている大きな通信機を指した。
「よろしい」
「士官では機関長がまだですが・・・」
「そうだ、君に伝えておかねばならん」
いささか強張っていたルメイの顔がわずかにほころんだ。
「カンダ少佐は転任した。海軍省へな。後任の機関長は今日着任する予定なのだが、まだ来ていないか?」
「え、そう・・・、なのですか?・・・」
その場に居合わせた航海長も砲術長も、いつもブリッジに交代で控えている信号兵もみんな目を丸くして顔を見合わせた。
出港の直前になって幹部士官が交代するなんて聞いたことがない。
そう言いたげなのが、彼らの顔に出ていた。
「急な人事だが長期の航海でもない。問題なかろう。機関部員はそのままなのだからな」
「それが・・・、」
「なんだね?」
「機関科のノン伍長が朝食後に急な腹痛を訴えて下艦したのです」
「・・・朝食が原因なのかね」
「いいえ。他にはそうした症状の者はおりません。何か他の要因と思われます。今病院で手当てを受けさせておりますが」
「燃料の補給は終了したのだな。なら、問題は無かろう。一名の欠員程度、大きな問題ではないだろう」
「・・・はあ」
「他に無ければ自室にいる。新機関長は第三艦隊の『イズモ』に乗っていたノビレ少佐だ。彼が乗艦したら知らせてくれ。先任士官と機関主任にも伝えておいて欲しい」
「アイ、サー」
当惑顔の副長から逃れるように、踵を返した。
出港の繰り上げ以外は全て計画通りに事が運んでいる。
機関長が白紙の命令書にサインしていなくなる。その石炭搭載指示書に予定より少ない搭載量を書き込んでノン伍長に託す。ノンは指示書通りの量を搭載した後、「急な腹痛」を起こして下艦する。ミカサが少ない燃料で出港したことを知っている者は、ルメイ以外には、誰もいなくなる・・・。
発熱して痙攣を起こすが翌日には何事もなかったように回復する。
チナの窓口の男からはそう聞いていた。
ノンは、チナの男がくれた丸薬を素直に使ったのだ。計画が成就すれば、彼は大金を手にすることになる。たった一日の激痛を耐えるだけで、除隊して年金も貰いながら悠々自適の生活が送れるのだから、悪い話ではないはずだ。
突然の人事異動を訝る部下を慮るよりも、企(くわだ)ての成就が優先なのだ。
絶対に誰にも気取られてはならない。いつもの、普段通りの「第一艦隊旗艦の艦長」を演じねばならない。
逃げるようにブリッジを出掛けた。そこに、あのチナ街で会った美少女が立っていた。
「艦長! 帰艦されたのですね。その節はありがとうございました!」
心中の焦燥と気まずさから逃れたく思っていたルメイには、その女性士官の存在は一服の清涼剤のように思えた。
「おお! 君か。ヴァインライヒ少尉、だったな。通信機も無事修理が完了したようだ。君たちのお陰だな!」
「いいえ、そんなことは・・・」
「ところで君の仕事は終わったのかね」
「とりあえずは。あとは出港前に最終チェックを済ませるだけです」
「そうか。いい機会だ。キミに艦内を案内しよう」
「そんな。お忙しいのに・・・」
「この航海が終われば大学に戻るのだろう? 帝国の最新鋭艦に乗ったことを大学で宣伝してくれたまえ。大いに宣伝してもらって、優秀な学生に一人でも多く海軍に入隊して欲しいからな」
「いいのですか?」
眼を輝かせて見上げる娘の初々しい反応。この初々しさが、計画の成就後にどう変わるのか。そんな懸念も抱いた。
しかし同時に、潤いの無い干からびた妻との時間の中で、長い間忘れていた感情を覚えた。久々にルメイの男が擡げた。
「わがミカサの乗組員は優秀だからな。私などいなくても立派に艦を動かせる」
そういって手振りで背後のブリッジのスタッフたちを示した。
「是非、お願いします!」
日ごろから、心底の尊敬を得られていないのは知っていた。だが、そんなこともあと一日足らずでどうでもよくなる。背後の部下たちの冷たい視線を背中に感じつつ、ルメイは真新しいネイビーブルーの軍服姿の似合う美少女を伴って階下に降りて行った。
前部砲塔下の弾薬庫とその下のフロアの砲弾庫を見下ろせる場所を見せた。分厚い対爆・耐水密のドアを開けヴァインライヒを招き入れた。
「ここはこの艦の中でも最高機密の一つなのだ」
ドアを閉めながらルメイは言った。
一口で言えば円形の吹き抜け。吹き抜けを取り囲む手摺から身を乗り出せば3層下までが薄暗いながらも見下ろせた。吹き抜けの中心を4連の揚弾機が真っすぐ下に降りていた。
「どういうところが『機密』なのですか?」
上はそのまま前部砲塔の内部に繋がる。ブルネットの娘は階下から天井まで突き抜けている揚弾機を見上げると、利発そうな碧眼をルメイに向けた。
「回転砲塔の仕組みと、この給弾装置だよ」
自分の専門に関わる要件だ。ルメイは久々に胸を張って、バカロレアのにわか士官に説明した。
「回転砲塔はミカサ級で初めて実現した機構なのだ。この仕組みで100ミリ砲弾と装薬を1砲門あたり1分間に5発発射できる速度を実現した。2連装だから一分間に10発だな。副砲である70ミリ速射砲とほぼ同じだ。100ミリ砲弾は弾体で2倍、装薬は7倍もあるが、それを電動モーターで駆動するこのエレベーターで揚弾するのだ!」
「でも、軍艦ですから被害を受ければ電動モーターが使えなくなることもあるのでは?」
さすが、バカロレアだ。洞察力が優れている。
「左様! そのために油圧の倍力装置も取り付けてある。水兵が2人がかりでハンドルを回せば、速度は落ちるが一分間に4発の揚弾、装填が可能だ。しかも・・・、」
何故かこの娘の前にいると高揚する。
この度の亡命を決意した原因の一つになった事実まで話してしまった。
「このミカサは、将来的に主砲の口径が二倍の200ミリになっても対応できるように設計されているのだ」
「・・・すごいですね」
ルメイは、自分が心血注いだ設計になる機構に興味を持ち、その仕組みに感嘆した表情を浮かべている、バカロレアの学生に頬を緩めた。この美少女にますます好感を抱いた。
「もちろん、砲塔の回転も電動モーターによるが、停電した場合も人力で動かせる。
ダメージ・リカバリーに配慮した設計になっているのだ!
しかも砲塔と弾薬庫は艦のバイタルパート(機関部)以上の装甲で守られている。この回転砲塔の機構だけで艦体そのものの建造費ほど費用が掛かっているのだ!」
少尉は感嘆した体で美しい瞳を煌めかせた。
こんなにも純粋な尊敬の眼差しを受けたのは、いつ以来だろうか・・・。
「・・・艦長。わたし大学で伺いました」
バカロレアの「にわか士官」は、言った。
「何をかね」
「艦長のことをです」
と、娘は言った。
「私の?」
「造船学科を卒業されて海軍に入られたと。当時から抜きんでた学生であられたと・・・。このミカサも艦長の設計になるものだそうですね!」
ルメイは、久々に胸の内に沸き上がった熱い誇りを噛み締めた。
艦長が帰艦したと聞きブリッジに向かおうとしたヨードルは、ルメイが娘のようなバカロレアの「にわか士官」と連れ立って狭い階段を降りて来るところを捕まえた。
「艦長。進言したいことがあります。出来ればカンダ少佐もご一緒に」
一緒にいたにわか士官が邪魔だったが、事は急を要する。
「なんだね、ヨードル。機関長も同席とは、エンジン関係に何か問題でもあるのかね」
「出港を遅らせて石炭の積載量を確認させていただきたいのです」
「出港を遅らせるとは、尋常ではないな。機関科で積載量は確認しているのだろう」
「はい。ですが、積載責任者のノン伍長が先ほど原因不明の腹痛を訴えて下艦したのです」
「そのようだな。先ほど副長から聞いた。病院で手当てを受けているとか」
一人の兵の腹痛よりも石炭のほうが重要だろうが。そう思ったが、なんとか抑えた。
「積載中に彼の帳簿を確認したところ、通常の10日間の行動量に比してあまりに少ない分量の指示があり、カンダ少佐のサインもありました」
「カンダ少佐が承認したのなら、問題ないではないか」
「2日以上の行動の場合は不測の事態を考慮して50パーセントを積み増しすることと規定にあります」
「確かに、それは承知している」
「その積み増し分どころか、10日間の航行にも満たない量である疑いがあるのです」
「どうも、君の話は要領を得んな。何か確証があるのかね」
「自分の、カンです。ノンが出港間際に下艦したのも腑に落ちません」
「君のカン程度のことで艦隊の行動予定を変更せよというのか。君は自分が言っているのがどういう意味を持つか、わかっているのかね。このミカサは帝国海軍第一艦隊の旗艦なのだぞ。きっと前の航海の使い残りが多かったのだろう。経費の削減に努めてくれたのではないか?」
ルメイはその先任士官の巨体ににじり寄り、声を落とした。
「君の任務の重要性を考慮しているからこれまで私への直言も許して来た。だが、この件については看過できない。もし君の懸念が間違いだったら、艦隊行動に重大な影響を及ぼすのを理解しているか。思い過ごしでした、では済まされん。君の首だけでは済まんのだぞ」
「艦長のキャリアにも影響してくるのは承知しています。ですが、旗艦だからこそ、艦隊行動中に燃料切れなどと言う失態を演じるよりは、はるかにいいかと・・・」
「・・・話にならんな。この演習が終わった後は、君の処遇も考えねばならんかもしれんぞ」
「正しいことを主張して受け入れてくれる海軍だと信じてこれまでご奉公させていただきました。これからもそんな海軍であることを信じてご奉公させていただきたく思います!」
ヨードルは一歩も引かなかった。クビにするならしてみろ。巨体にそんな気迫を込めてルメイに対峙した。この際だ。むしろ第三者にも聞いてもらう方がいい。ルメイの背後で目を丸くしている新入り、ヴァインライヒ少尉と言ったか。彼女にも聞こえるように、ヨードルは声を励ましてなおも食い下がった。しかし、艦長は意固地なほどに彼を拒絶した。
「とにかく、担当士官のサインもある。これ以上この件を持ち出すことを禁ずる。配置につきたまえ、先任士官!」
「では、機関長に進言します」
「好きなだけ進言するがいい。カンダ少佐は今ごろはもう、カプトゥ・ムンディーの海軍省に出仕しているころだろう。もうすぐ彼の後任の機関長が乗艦してくる。」
「なんですって?」
「ちょうどよかった。後任の機関長は第三艦隊にいた男だ・・・」
通路のスピーカーから艦内放送が流れた。
ブリッジより、ルメイ艦長。至急ブリッジへ!
「たぶん新機関長のノビレ少佐だ。良ければ君も来るかね? わが艦の先任士官に紹介し置く方がいいだろう」
ルメイは上を指して先任士官をけむに巻いた。
「この件はこれで終わりだ、先任士官。以上だ。来たまえ、少尉。君にも紹介しておこう」
「はい、艦長」
不承不承敬礼したヨードルにおざなりな答礼を返し、ルメイはヴァインライヒ少尉を伴って今降りて来たばかりのタラップを再び登って行った。
ヨードルは一人薄暗い通路に残された。だが、今まで何度も吐いた大きなため息をまた一つ漏らし、彼もまた狭い階段を登って行った。
満天の星の下。
出港のラッパが澄んだ夜空に鳴り渡った。マストにはワワン中将の将旗が夜の潮風に翻っている。
手の空いている士官と水兵に上甲板の指示が出た。
真夜中の登舷礼式。真っ白なユニフォームの水兵と紺の軍服に身を包んだ士官が舷側にズラリと起立し、敬礼で見送りの人々に応えた。ガントリークレーンや給炭塔は煌びやかに点灯し、四隻の力強い軍艦からはサーチライトの帯が鋭い剣のように天に向かって伸びていた。
ヤヨイもまたミヒャエルと並んでブリッジの物見台に出た。
「せっかく海軍士官になったんだ。この際海軍式に染まるのもいいじゃないか」
通信士官に粋に促され、手摺の際に立ち、岸壁で出港を見送る軍令部の士官たちや港湾担当の下士官たちの見送りに応え敬礼をした。通信士官の言葉の通り、どこか荘厳な誇らしい雰囲気を味わうことができた。
ふと、岸壁の人たちの中にある人影を探した。だがどれだけ目を凝らしてもそれはどこにも見当たらなかった。
もしかして、リヨン中尉が見送りに来てくれているかもと期待したのだった。
いつの間にか彼の姿を探している自分に気付き、戸惑いつつわずかに頬を赤くした。
オブザーバーとして乗艦した前回の航海でもそうだったが、ミヒャエルは「海軍少尉」という肩書を付けて演習に参加できるのを大いに楽しんでいるように見えた。
「すっげー。カッコイイ・・・。ヤヨイ、ボクさ、考えてたんだけど院やめて海軍に入ろうか・・・」
隣で昂奮しながら敬礼しているミヒャエルの声が急に上ずった。
ふと彼の方を振り返ると、その向こうに背の高い、顔の半分を白いひげで覆った立派な将官が美しい完璧な敬礼で見送りに応えている姿があった。
「・・・司令長官!」
ヤヨイもミヒャエルも、岸壁ではなく彼に向かって鯱張った敬礼を送った。
笑っているような、泣いているような、長年の艦隊勤務で刻まれたのであろう、額や目尻に幾重にも彫り込まれた深い皴を帯びて、第一艦隊司令長官は穏やかに言った。
「少尉。登舷礼式中だ。君たちも海軍士官になったのなら、敬礼は見送ってくれる人々に送りなさい」
そう言ってワワン中将は背筋をまっすぐに伸ばし、岸壁に敬礼を送り続けた。
艦隊はビスマルク、エンタープライズ、ヴィクトリーの順に岸壁を離れ、最後に残った旗艦ミカサが今、ガラガラと錨を上げて舫綱(もやい)が解かれた。岸壁と反対側の左舷にタグボートが付き、ロープが渡されて繋がれる。タグボートが逆進を始め、その船尾に真っ黒な海水の渦が出来た。ロープにテンションがかかり、キリリと一直線に張られるや五千トンの巨体がゆっくりと桟橋を離れた。
「両舷微速。レフトフォーラダー!」
「レフトフォーラダー、アイ」
第一艦隊旗艦ミカサは、出港した。
銃を構える海兵隊員が守る軍港のゲートを通り、出頭した軍令部で艦隊の出港が繰り上げられたことを知った。
「今夜・・・、かね」
「明日0000をもって出港となりました」
その軍令部の参謀は小生意気そうな銀縁の眼鏡を上げた。
「当初の予定より6時間も早いではないか。・・・なぜだ」
「変更は昨日のことです。理由については長官のご一存なので私どもも・・・。
大佐がご不在でしたので副長のチェン少佐に伝達しております。補給も完了していると、先ほど報告が来ております」
「・・・では石炭の積み増しをしなくてはならないのではないか」
「予定の繰り上げであって演習の内容に変更はありません。予定の積載量でよいとのことでした」
「・・・そうか」
「何か、不都合でも?」
「いや・・・」
「ワワン閣下と第一艦隊の幕僚も本日1600には乗艦されます」
「了解した。・・・ありがとう、少佐」
「大佐、どこか具合でも悪いのでは? お顔の色が優れないようにお見受けしますが」
軍令部の参謀が、眼鏡のつるを直しながら顔を覗き込んでくるのが鬱陶しかった。
「いや、何でもない。それでは、私も急ぐとしようかな、ハハ・・・」
逃げるように軍令部の建物を去り、取りも直さずルメイはミカサに急いだ。
予定の変更は、マズい。何とかして連絡を取らねばならない。が、その手段がないことに気付くのは早かった。
駅が近くにあれば、電信が使えるのに・・・。
緊急用の連絡先はあったが、どうしてもやむを得ない場合のみと言われていた。
だが、第一艦隊の幕僚が乗艦する前にはミカサに居なくてはならない。駅から騎行で二時間かけてここまで来た。往復4時間もかけていては到底、間に合わない。
ルメイは、いまさらながらに何故軍令部が港まで鉄道と民間用の電信を引かないのか、その理由を思い知った。
全て、機密保持のためなのだ。
ルメイは先ほど通り過ぎた、完全武装の陸戦隊の守るゲートを振り返った。
海軍はターラントの他に東西にそれぞれ一つずつ、西のマルセイユ、東のキールという軍港を持っている。それぞれが鉄道で首都と結ばれているのも知っている。南の国を併合した時、主にフランス人の子孫たちが移り住んだ漁港を軍港に改造したのが「マルセイユ」、ドイツ人たちのが「キール」だった。
マルセイユの第三艦隊も東のキールを母港とする第四艦隊も、所属しているのは旧式の巡洋艦や駆逐艦。それに骨董品ともいうべき帆船のフリゲート艦で構成されている。
だが、ターラントはいささか事情が違った。
ここには海軍の最新最精鋭、最高軍事機密の塊のような第一、第二艦隊が錨を下ろしている。陸軍に比べて科学技術に負うところが大きい海軍にとって、ターラントは最も重要な軍港なのだ。それゆえ、軍関係者以外の出入りを厳重に抑える必要があった。鉄道線とそれに伴う民間の電信を引かないのは、そのためだったのだ。鉄道駅が無ければ人は寄り付き難く、人が集わねば、情報は伝わりにくくなる。
それを、忘れていた。
ルメイには予定の変更を相手に知らせる手段がなかった。
もし、事が上手く運ばなかった場合。つまり、チナの受け入れ側がしくじった場合は・・・。
もう、ノンは指示した通りの燃料を積んだことだろう。第一艦隊第一戦隊四隻のうち、燃料であるコークスの積載量が最も少ないのが旗艦ミカサなのだ。この失態の全責任は艦長であるルメイにある。
だが、「失態」で済めばいい。
亡命も出来ずにオロオロ海軍に居残れば、その失態の責任を追及されて予定より早く閑職に回されるだろう。
それに、もしノンが追及されて口を割れば・・・。
最悪の場合、「失態」はたちまちに「反逆」に変わり、「閑職」は「死刑」に変わる。
陽に照らされた荘厳なミカサの艦影を見上げながら、ルメイは暗澹たる思いを胸に宿した。
「いっそ、死ぬか・・・」
一瞬だけだが、そこまで思い詰めた。
だがすぐに思い直し、タラップの下にいる伍長の敬礼を受けた。
「お帰りなさい、艦長!」
「ご苦労」
答礼し、タラップを駆けあがった。上がりながら、腹をくくった。
括らざるを、えなかった。
もうここまで来ている。あとは運を天に託して突き進むより他ないのだ、と。
艦長の乗艦を告げるラッパが吹奏され、ルメイが上甲板に上がると同時に当番兵が駆け寄って敬礼し彼の手荷物を預かった。
彼は真っすぐにブリッジへ上った。
艦長の乗艦を告げるラッパが鳴り響いた。
起床もラッパ。朝食も昼食もラッパ。戦闘配置や入浴もラッパ。艦長や艦隊司令官の乗艦を告げるのも、ラッパ。
陸軍ではとうの昔に攻撃や行軍でのラッパは消え、駐屯地での朝夕の時を告げるものしかなくなった。だが、海軍では昔の名残を色濃く残している。最新鋭の戦艦と古式ゆかしいラッパの音の、そのアンバランスな調和が海軍の特色なのだろう。だが、そんな悠長な感慨にふける時ではなかった。
ヤヨイは自室で一人、読んでいたポケットサイズの聖書を閉じた。
丁度7人の天使が進み出て第一のラッパが吹き鳴らされたところだった。
地上の3分の1、木々の3分の1、すべての青草が焼ける。第二のラッパが吹き鳴らされると海の3分の1が血になり、海の生物の3分の1が死ぬ・・・。
ヨハネ黙示録の、とくにこの部分を、ヤヨイは繰り返し読んだ。実に丸暗記するほどに。
閉じた聖書を背嚢に仕舞い、ブリッジに急いだ。出来るだけルメイに接触し、彼の共謀者を探り出すのが彼女の任務だった。
「お帰りなさい、艦長」
航海長や砲術長たちのよそよそしい敬礼。副長のチェン少佐が帳簿から顔を上げた。
ルメイも答礼した。
「出港が繰り上げられたそうだな」
「はい。突然だったので驚きましたが。補給は完了しております。先任士官から水兵にも伝達済みです。宿舎にも通達を出しましたので上陸中の者達も1400には帰艦する予定です」
東洋系の副長は卒なく答えた。
「ん。諸事遺漏はなさそうだな。例の通信機は?」
「すでに搭載を完了しています。僚艦との通信も確認済みだと報告を受けました」
副長は操作卓の端に乗っている大きな通信機を指した。
「よろしい」
「士官では機関長がまだですが・・・」
「そうだ、君に伝えておかねばならん」
いささか強張っていたルメイの顔がわずかにほころんだ。
「カンダ少佐は転任した。海軍省へな。後任の機関長は今日着任する予定なのだが、まだ来ていないか?」
「え、そう・・・、なのですか?・・・」
その場に居合わせた航海長も砲術長も、いつもブリッジに交代で控えている信号兵もみんな目を丸くして顔を見合わせた。
出港の直前になって幹部士官が交代するなんて聞いたことがない。
そう言いたげなのが、彼らの顔に出ていた。
「急な人事だが長期の航海でもない。問題なかろう。機関部員はそのままなのだからな」
「それが・・・、」
「なんだね?」
「機関科のノン伍長が朝食後に急な腹痛を訴えて下艦したのです」
「・・・朝食が原因なのかね」
「いいえ。他にはそうした症状の者はおりません。何か他の要因と思われます。今病院で手当てを受けさせておりますが」
「燃料の補給は終了したのだな。なら、問題は無かろう。一名の欠員程度、大きな問題ではないだろう」
「・・・はあ」
「他に無ければ自室にいる。新機関長は第三艦隊の『イズモ』に乗っていたノビレ少佐だ。彼が乗艦したら知らせてくれ。先任士官と機関主任にも伝えておいて欲しい」
「アイ、サー」
当惑顔の副長から逃れるように、踵を返した。
出港の繰り上げ以外は全て計画通りに事が運んでいる。
機関長が白紙の命令書にサインしていなくなる。その石炭搭載指示書に予定より少ない搭載量を書き込んでノン伍長に託す。ノンは指示書通りの量を搭載した後、「急な腹痛」を起こして下艦する。ミカサが少ない燃料で出港したことを知っている者は、ルメイ以外には、誰もいなくなる・・・。
発熱して痙攣を起こすが翌日には何事もなかったように回復する。
チナの窓口の男からはそう聞いていた。
ノンは、チナの男がくれた丸薬を素直に使ったのだ。計画が成就すれば、彼は大金を手にすることになる。たった一日の激痛を耐えるだけで、除隊して年金も貰いながら悠々自適の生活が送れるのだから、悪い話ではないはずだ。
突然の人事異動を訝る部下を慮るよりも、企(くわだ)ての成就が優先なのだ。
絶対に誰にも気取られてはならない。いつもの、普段通りの「第一艦隊旗艦の艦長」を演じねばならない。
逃げるようにブリッジを出掛けた。そこに、あのチナ街で会った美少女が立っていた。
「艦長! 帰艦されたのですね。その節はありがとうございました!」
心中の焦燥と気まずさから逃れたく思っていたルメイには、その女性士官の存在は一服の清涼剤のように思えた。
「おお! 君か。ヴァインライヒ少尉、だったな。通信機も無事修理が完了したようだ。君たちのお陰だな!」
「いいえ、そんなことは・・・」
「ところで君の仕事は終わったのかね」
「とりあえずは。あとは出港前に最終チェックを済ませるだけです」
「そうか。いい機会だ。キミに艦内を案内しよう」
「そんな。お忙しいのに・・・」
「この航海が終われば大学に戻るのだろう? 帝国の最新鋭艦に乗ったことを大学で宣伝してくれたまえ。大いに宣伝してもらって、優秀な学生に一人でも多く海軍に入隊して欲しいからな」
「いいのですか?」
眼を輝かせて見上げる娘の初々しい反応。この初々しさが、計画の成就後にどう変わるのか。そんな懸念も抱いた。
しかし同時に、潤いの無い干からびた妻との時間の中で、長い間忘れていた感情を覚えた。久々にルメイの男が擡げた。
「わがミカサの乗組員は優秀だからな。私などいなくても立派に艦を動かせる」
そういって手振りで背後のブリッジのスタッフたちを示した。
「是非、お願いします!」
日ごろから、心底の尊敬を得られていないのは知っていた。だが、そんなこともあと一日足らずでどうでもよくなる。背後の部下たちの冷たい視線を背中に感じつつ、ルメイは真新しいネイビーブルーの軍服姿の似合う美少女を伴って階下に降りて行った。
前部砲塔下の弾薬庫とその下のフロアの砲弾庫を見下ろせる場所を見せた。分厚い対爆・耐水密のドアを開けヴァインライヒを招き入れた。
「ここはこの艦の中でも最高機密の一つなのだ」
ドアを閉めながらルメイは言った。
一口で言えば円形の吹き抜け。吹き抜けを取り囲む手摺から身を乗り出せば3層下までが薄暗いながらも見下ろせた。吹き抜けの中心を4連の揚弾機が真っすぐ下に降りていた。
「どういうところが『機密』なのですか?」
上はそのまま前部砲塔の内部に繋がる。ブルネットの娘は階下から天井まで突き抜けている揚弾機を見上げると、利発そうな碧眼をルメイに向けた。
「回転砲塔の仕組みと、この給弾装置だよ」
自分の専門に関わる要件だ。ルメイは久々に胸を張って、バカロレアのにわか士官に説明した。
「回転砲塔はミカサ級で初めて実現した機構なのだ。この仕組みで100ミリ砲弾と装薬を1砲門あたり1分間に5発発射できる速度を実現した。2連装だから一分間に10発だな。副砲である70ミリ速射砲とほぼ同じだ。100ミリ砲弾は弾体で2倍、装薬は7倍もあるが、それを電動モーターで駆動するこのエレベーターで揚弾するのだ!」
「でも、軍艦ですから被害を受ければ電動モーターが使えなくなることもあるのでは?」
さすが、バカロレアだ。洞察力が優れている。
「左様! そのために油圧の倍力装置も取り付けてある。水兵が2人がかりでハンドルを回せば、速度は落ちるが一分間に4発の揚弾、装填が可能だ。しかも・・・、」
何故かこの娘の前にいると高揚する。
この度の亡命を決意した原因の一つになった事実まで話してしまった。
「このミカサは、将来的に主砲の口径が二倍の200ミリになっても対応できるように設計されているのだ」
「・・・すごいですね」
ルメイは、自分が心血注いだ設計になる機構に興味を持ち、その仕組みに感嘆した表情を浮かべている、バカロレアの学生に頬を緩めた。この美少女にますます好感を抱いた。
「もちろん、砲塔の回転も電動モーターによるが、停電した場合も人力で動かせる。
ダメージ・リカバリーに配慮した設計になっているのだ!
しかも砲塔と弾薬庫は艦のバイタルパート(機関部)以上の装甲で守られている。この回転砲塔の機構だけで艦体そのものの建造費ほど費用が掛かっているのだ!」
少尉は感嘆した体で美しい瞳を煌めかせた。
こんなにも純粋な尊敬の眼差しを受けたのは、いつ以来だろうか・・・。
「・・・艦長。わたし大学で伺いました」
バカロレアの「にわか士官」は、言った。
「何をかね」
「艦長のことをです」
と、娘は言った。
「私の?」
「造船学科を卒業されて海軍に入られたと。当時から抜きんでた学生であられたと・・・。このミカサも艦長の設計になるものだそうですね!」
ルメイは、久々に胸の内に沸き上がった熱い誇りを噛み締めた。
艦長が帰艦したと聞きブリッジに向かおうとしたヨードルは、ルメイが娘のようなバカロレアの「にわか士官」と連れ立って狭い階段を降りて来るところを捕まえた。
「艦長。進言したいことがあります。出来ればカンダ少佐もご一緒に」
一緒にいたにわか士官が邪魔だったが、事は急を要する。
「なんだね、ヨードル。機関長も同席とは、エンジン関係に何か問題でもあるのかね」
「出港を遅らせて石炭の積載量を確認させていただきたいのです」
「出港を遅らせるとは、尋常ではないな。機関科で積載量は確認しているのだろう」
「はい。ですが、積載責任者のノン伍長が先ほど原因不明の腹痛を訴えて下艦したのです」
「そのようだな。先ほど副長から聞いた。病院で手当てを受けているとか」
一人の兵の腹痛よりも石炭のほうが重要だろうが。そう思ったが、なんとか抑えた。
「積載中に彼の帳簿を確認したところ、通常の10日間の行動量に比してあまりに少ない分量の指示があり、カンダ少佐のサインもありました」
「カンダ少佐が承認したのなら、問題ないではないか」
「2日以上の行動の場合は不測の事態を考慮して50パーセントを積み増しすることと規定にあります」
「確かに、それは承知している」
「その積み増し分どころか、10日間の航行にも満たない量である疑いがあるのです」
「どうも、君の話は要領を得んな。何か確証があるのかね」
「自分の、カンです。ノンが出港間際に下艦したのも腑に落ちません」
「君のカン程度のことで艦隊の行動予定を変更せよというのか。君は自分が言っているのがどういう意味を持つか、わかっているのかね。このミカサは帝国海軍第一艦隊の旗艦なのだぞ。きっと前の航海の使い残りが多かったのだろう。経費の削減に努めてくれたのではないか?」
ルメイはその先任士官の巨体ににじり寄り、声を落とした。
「君の任務の重要性を考慮しているからこれまで私への直言も許して来た。だが、この件については看過できない。もし君の懸念が間違いだったら、艦隊行動に重大な影響を及ぼすのを理解しているか。思い過ごしでした、では済まされん。君の首だけでは済まんのだぞ」
「艦長のキャリアにも影響してくるのは承知しています。ですが、旗艦だからこそ、艦隊行動中に燃料切れなどと言う失態を演じるよりは、はるかにいいかと・・・」
「・・・話にならんな。この演習が終わった後は、君の処遇も考えねばならんかもしれんぞ」
「正しいことを主張して受け入れてくれる海軍だと信じてこれまでご奉公させていただきました。これからもそんな海軍であることを信じてご奉公させていただきたく思います!」
ヨードルは一歩も引かなかった。クビにするならしてみろ。巨体にそんな気迫を込めてルメイに対峙した。この際だ。むしろ第三者にも聞いてもらう方がいい。ルメイの背後で目を丸くしている新入り、ヴァインライヒ少尉と言ったか。彼女にも聞こえるように、ヨードルは声を励ましてなおも食い下がった。しかし、艦長は意固地なほどに彼を拒絶した。
「とにかく、担当士官のサインもある。これ以上この件を持ち出すことを禁ずる。配置につきたまえ、先任士官!」
「では、機関長に進言します」
「好きなだけ進言するがいい。カンダ少佐は今ごろはもう、カプトゥ・ムンディーの海軍省に出仕しているころだろう。もうすぐ彼の後任の機関長が乗艦してくる。」
「なんですって?」
「ちょうどよかった。後任の機関長は第三艦隊にいた男だ・・・」
通路のスピーカーから艦内放送が流れた。
ブリッジより、ルメイ艦長。至急ブリッジへ!
「たぶん新機関長のノビレ少佐だ。良ければ君も来るかね? わが艦の先任士官に紹介し置く方がいいだろう」
ルメイは上を指して先任士官をけむに巻いた。
「この件はこれで終わりだ、先任士官。以上だ。来たまえ、少尉。君にも紹介しておこう」
「はい、艦長」
不承不承敬礼したヨードルにおざなりな答礼を返し、ルメイはヴァインライヒ少尉を伴って今降りて来たばかりのタラップを再び登って行った。
ヨードルは一人薄暗い通路に残された。だが、今まで何度も吐いた大きなため息をまた一つ漏らし、彼もまた狭い階段を登って行った。
満天の星の下。
出港のラッパが澄んだ夜空に鳴り渡った。マストにはワワン中将の将旗が夜の潮風に翻っている。
手の空いている士官と水兵に上甲板の指示が出た。
真夜中の登舷礼式。真っ白なユニフォームの水兵と紺の軍服に身を包んだ士官が舷側にズラリと起立し、敬礼で見送りの人々に応えた。ガントリークレーンや給炭塔は煌びやかに点灯し、四隻の力強い軍艦からはサーチライトの帯が鋭い剣のように天に向かって伸びていた。
ヤヨイもまたミヒャエルと並んでブリッジの物見台に出た。
「せっかく海軍士官になったんだ。この際海軍式に染まるのもいいじゃないか」
通信士官に粋に促され、手摺の際に立ち、岸壁で出港を見送る軍令部の士官たちや港湾担当の下士官たちの見送りに応え敬礼をした。通信士官の言葉の通り、どこか荘厳な誇らしい雰囲気を味わうことができた。
ふと、岸壁の人たちの中にある人影を探した。だがどれだけ目を凝らしてもそれはどこにも見当たらなかった。
もしかして、リヨン中尉が見送りに来てくれているかもと期待したのだった。
いつの間にか彼の姿を探している自分に気付き、戸惑いつつわずかに頬を赤くした。
オブザーバーとして乗艦した前回の航海でもそうだったが、ミヒャエルは「海軍少尉」という肩書を付けて演習に参加できるのを大いに楽しんでいるように見えた。
「すっげー。カッコイイ・・・。ヤヨイ、ボクさ、考えてたんだけど院やめて海軍に入ろうか・・・」
隣で昂奮しながら敬礼しているミヒャエルの声が急に上ずった。
ふと彼の方を振り返ると、その向こうに背の高い、顔の半分を白いひげで覆った立派な将官が美しい完璧な敬礼で見送りに応えている姿があった。
「・・・司令長官!」
ヤヨイもミヒャエルも、岸壁ではなく彼に向かって鯱張った敬礼を送った。
笑っているような、泣いているような、長年の艦隊勤務で刻まれたのであろう、額や目尻に幾重にも彫り込まれた深い皴を帯びて、第一艦隊司令長官は穏やかに言った。
「少尉。登舷礼式中だ。君たちも海軍士官になったのなら、敬礼は見送ってくれる人々に送りなさい」
そう言ってワワン中将は背筋をまっすぐに伸ばし、岸壁に敬礼を送り続けた。
艦隊はビスマルク、エンタープライズ、ヴィクトリーの順に岸壁を離れ、最後に残った旗艦ミカサが今、ガラガラと錨を上げて舫綱(もやい)が解かれた。岸壁と反対側の左舷にタグボートが付き、ロープが渡されて繋がれる。タグボートが逆進を始め、その船尾に真っ黒な海水の渦が出来た。ロープにテンションがかかり、キリリと一直線に張られるや五千トンの巨体がゆっくりと桟橋を離れた。
「両舷微速。レフトフォーラダー!」
「レフトフォーラダー、アイ」
第一艦隊旗艦ミカサは、出港した。
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