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第一章 潜伏

23 「明けない夜はない」

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 チナ人街のアジトでリヨン中尉から詳細情報を受けた時も、帝国とチナとの間の海図を頭に叩き込み、特に沿岸の地形と水深を把握するのに多くの時間を費やした。

 万が一ミカサを沈没させねばならなくなった場合、どの地点なら可能でどの地点なら不可能か。正確に記憶せねばならなかった。


 

 バカロレアの地球物理学者はいう。

 あの大災厄、人類が滅亡しかけたポールシフト以降、それまでの常識では考えられないような地殻の動きが見られるのだという。

 地球の表面を覆うプレートが最も集中していた場所が、まさにこの海域の海底の真下にあった。かつてヤーパン列島のあった海底の、さらに地下奥深く。北米、ユーラシア、フィリピン海、太平洋。4つのプレートがせめぎ合い落ち込む場所の真上にヤーパンはあったのだった。

 発掘され解析された文献によれば、それまでいくつかの学説が打ち立てられ、その中にはいずれヤーパン列島はプレートとプレートの潜り込みに引きずり込まれ海の底に沈む、というものもあった。その学説はある意味で的中し、ある意味で外れた。

 一度は沈んだヤーパン列島がまた浮上してきているのだ。しかも、たった1000年という、地質学上ではおどろくべき速さで。フジヤマ島もオキナワ島も、そのせいで海の中から再び顔を出したのだった。

「それまでの学説では説明のつかない現象が起きている。何らかの地殻変動か、近くの下のマントルの対流が変わったのか、沈んだヤーパン列島の地殻が再び上昇に転じているのが海底調査でハッキリと確認された。原因はまだわからない。地球の自転軸が変わり、遠心方向の変化が何らかの影響を及ぼしたのではないか、と言えるほどにしか。旧文明は人工の星を地球の空高く打ち上げ、その人工の星から正確に地表の動きを測地できたというが・・・。

 この現象はそれまでのプレートテクトニクスの学説では説明できない。だからと言って事実から目を背けるべきではない。それは科学者の取るべき態度ではない。我々は真摯に事実を観察し真実を探求し・・・」


 

 ここからミカサの母港ターラントまでは直線でも1500キロ、航路だと1000海里以上にはなるだろう。その航路はチナの沿岸3海里ギリギリのルートを取ることになる。

 ミカサを孤艦にし、チナの沿岸付近を微速で航行させる。

 敵の目的は、これだったのだ。

 これを回避する方法にはいくつかある。一つには石炭の洋上、もしくはオキナワ島での補給だが、これは帝国海軍の威厳を損なうという理由で排除された。もう一つは直ちに演習をやめ、4隻全てか分隊に分かれるかにしてもミカサを孤艦にしないことだが、これもワワン中将自身が演習の続行を決めてしまい、不可能になった。

 そしてこの演習を計画したカストロ中佐は、

「演習の成果を確認するため、ヴィクトリーに移乗することになった」

 と、早々にヴィクトリーの第一戦隊スタッフたちと共にランチに乗って艦を離れてしまっていた。ホワイト大尉もこれに同行した。

 だからといって容疑者リストから外す理由にはならないが、仮に彼が共謀者なら中途半端な仕事をするものだと思ったりする。それとも、彼の役目はここまでで、初めから後のことには係わらないことになっているということもある。

 いずれにしても、裏切り者探しについてはまだ主犯がルメイだという以外には、何の成果もなかった。

 だから、ヤヨイはまだ正体を明かすことはできない。前回のレオン事件も苦しい任務だったが、今回のは心理的にかなりの消耗を強いられていた。

 とりあえずはその航路の決定の経緯を観察することだ。それしか、今はなすべきことがない。

 ヤヨイはあの重苦しかった幕僚室のドアを再びノックした。

「誰か」

 中から誰何(すいか)の声がした。

「ヴァインライヒ少尉です」

「・・・入りたまえ」

 失礼します、とドアを開ける。こちらを振り返ったルメイの背中、そしてその向こうにカトー参謀長にラカ参謀がいた。ルメイの左には航海長のメイヤーが計算尺を片手に立っていた。ホワイト大尉と共にカストロ中佐に同行しヴィクトリーに移乗したものとばかり思っていたラカ少佐がミカサに残っているのが意外だった。

 そういえば、彼もミカサの単独航行を主張していたな・・・。

 となると、幕僚のなかでもっとも怪しいのは、ラカ少佐、か・・・。


 

 4人の士官は海図を挟んで航路の協議中と見受けられた。

「何か」

 ラカ参謀が入室の理由を問うた。

「あの、同席してもよろしいでしょうか。航路の電波に及ぼす影響を把握しておきたいのです」

 断られて元々だ。でも艦隊司令長官であるワワン中将と参謀長が幕僚室への出入り自由を言明したのだから、ヤヨイに臆する理由はなかった。それにこれから始まるだろう陰謀のクライマックスに深く関係する航路の決定に誰がどう関わるのか、是非とも知っておかねばならない。

 カトー少将はじっとヤヨイを見つめていたが、

「かまわんよ」

 と言った。

「そこにかけるなり立っているなり、好きにしたまえ」

 本来は幕僚でもない者には入室など認められない。だが、何故か司令長官が許可するので仕方なく認めるのだ。

 彼の口調にはそう言いたげな、棘があった。

「アイ、サー」

 もちろん、ヤヨイは海図を俯瞰できる位置を占めた。

 ラカ参謀がチラとヤヨイを一瞥し咳ばらいを一つして、議題に戻ろうとしていた。

「ではもう一度確認いたしますが、大佐が3海里に拘っておられるのはあくまでも石炭の残量の故という理由なのですね」

「無論だ」

 ルメイはまた首筋に汗をかいていた。よく汗をかく男だと思った。

「少しでも燃料を節約するのが今の状況下ではベストだからだ」

「ですが、演習やパトロール以外の目的で敵性国家の沿岸6海里以内には接近しないことという規定は艦長もご存じのはずですよね」

「そんなことは承知の上なのだ!」

 もう何度も同じことを訊かれ、苛立ちを募らせている、といった情況に見える。

「メイヤー少佐。本当に艦長の言うことは正しいのかね? 石炭の残量に照らして、3海里以内を航行しなければターラントへは辿り着けないのかね」

 参謀長の鋭い質問にこの場で嘘を吐けるとしたら、大したものだと思う。

「石炭の件が明るみになって以降、何度か残量の正確な値を確認させましたし、自分でも確認しました。12ある窯の内の3つだけで湯を沸かすとして平均6、7ノット。6海里の外を航行すれば6日間かかりますが、3海里以内に入ればこの地点とこの地点の島嶼の内側に入ることができます。帰路に要する日数が1日短縮できるのです」

 メイヤーは海図のポイントを指で叩いた。



「残炭では6日以上は持たんということなのだな」

「そうであります、参謀長」

 航行速度についてはほぼヨードル先任士官の話と一致する。

「その2つの海峡の水深は? 未だ測量されていない場所だと認識しているが」

 ラカ少佐が尋ねた。

「以前第三艦隊の駆逐艦がパトロール中に違反船を拿捕した際、通行している」

「ミカサは戦艦であって、たかだか2、3百トンの駆逐艦とは喫水も違う。一緒にされても困りますね」

 ラカ少佐がボヤくと、

「そんなことはわかっている! そこを通行できないと日数がかかると言っているのだ!」

 石炭の一件が発覚して以来、多方面から責められて神経質になっているのだろう。メイヤー少佐の褐色の額にも汗が光っていた。

 もしや、彼もルメイと共謀して「3海里以内」を主張しているとか・・・。

 なんだか、わからなくなってきた。

「きみたち、止さんか。ラカ君も」

 カトー参謀長がその場を収めようと身を乗り出した。

「では、折衷案を出そう。

 まず、規定の件だが、あれは戦争状態にない国家との不用意な摩擦を避ける狙いで定められたものだ。すでに本艦に対してチナは重大な損害を与えている。宣戦布告もなくすでに攻撃を受けているのだから、平時の取り決めは無効だ。長官の言われるように報復のためにチナの領土へ軍団を侵攻させても文句は言えないのだぞ。もし今度敵側がミカサに何か仕掛けてきたら、それこそ艦砲でもてなしてやるだけのことだ。長官もその辺りは見切っておられる」

 そう、言い切った。参謀長はその容姿に似あわず、積極的な人だという印象を持った。

「第一の島嶼。これは問題なかろう。海峡の幅も大きいし、以前私も巡洋艦で航行した経験がある。だが、この二番目の島の間が問題だ。たしか干潮時には砂州が広がっていたように記憶する。この地点に至れば満潮を選びランチを出して水深を確認し、ランチをパイロット(水先案内)にして通行すればどうか。それでもダメならその時には必要な場所まで迂回しマルセイユから石炭船を回航させればよかろう。通信機でバカロレア経由の応援を頼めばよいではないか。どうか?」

 息がつまるような沈黙が重かった。

「艦長、どうか?」

「参謀長の言われる通りで、よろしいかと・・・」

 うむ、とカトー少将は頷いた。

「メイヤー君の前だが、あえて言わせてもらう。

 先ほどの会議では君に一任すると言った。だが、事ここに至ってまたもや失態を演じればワワン中将も立場がなくなる。だからわざわざこうして確認の場を設けたのだ。わかるな、ルメイ大佐。石炭の一件だけでなく、サボタージュについても元は君の艦で起きた不祥事なのだぞ。工作員に艦への妨害行為を許すなど、もってのほかだ。

 大佐、全ては君の身から出たサビなのだ。メイヤー少佐にも感謝したまえ。君のせいでこの事態を招いているのに、こうまで責められては彼のほうが気の毒になる」

 あまりに手厳しい追及に、ルメイはもう、色を失っていた。

「以上だ。解散する」

 参謀長とラカ少佐が退室すると、メイヤー少佐もルメイに敬礼だけはしたが、無言で出て行った。

 カトー少将の言う通りだ。亡命などを企てるからこういう目に遭うのだ、と思った。

 ルメイに声をかけようか。どうしようか。今はまだ対決の時ではない。ここはあくまで彼に寄り添うべきだと判断した。

「艦長、大丈夫ですか」

 海図台に両手をついて頭を垂れているルメイに話しかけた。

「ああ。・・・大丈夫だ」

 彼はヤヨイを認めるやしゃんと背筋を伸ばし、顔を上げた。

「君にも、初めて参加する演習で不安な思いをさせてしまったな」

「いいえ・・・」

 若い女性の前で虚勢を張るぐらいの矜持はあるということか。

「ところで、君は幕僚会議にも出ていたな」

「はい。長官から出席するようご指示があったので。通信機のせいでしょう」

「・・・なるほど」

 ルメイはそう言ったまま思案を巡らせるように宙を睨んだ。

「『明けない夜はない』という言葉がある。知っているかね?」
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