ソルヴェイグの歌 【『軍神マルスの娘』と呼ばれた女 4】 革命家を消せ!

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第二部 歌姫と夢想家

04 ノールの歌姫

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 時は再びふた月前の3月に戻る。


 

 大鷲は今日も空を飛んでいた。

 時折は七つの丘のある大きな街を離れ太陽の沈む西へ行ったり、いささか空気の冷たい北の空を舞ったりもする。

 そこにはそれぞれまた別の人間たちが、やはりちょこまかと二本脚で動き回っている。

 北の人間も七つの丘の街の人間と同じように見える。だが、女と子供は肌が白いのに、男は大人になると肌を青く染める。なぜそのようなことをするのか、大鷲には未だに理解が出来ない。悪いことには青い肌の男同士が敵味方に分かれ毎日のように殺し合いばかりしている。大鷲はそんな人間は好きになれない。

 西の人間は七つの丘の街の人間とは少し違って見える。見目かたちだけでなく、その動き方、話し方が違う。七つの丘の人間たちのように、彼らも笑ったり歌ったり踊ったりもするのだが、それ以上に金色や銀色の光る玉を好む。というよりも、彼らの生きざまの大部分が金や銀の玉を追い求めるためにあるかのように大鷲には見える。

 殺し合いも、金銀を追い求めるのも、大鷲はどちらもあまり好まない。

 やはり七つの丘の人間たちの「水」のほうが彼には合うようだ。

 彼らだって時には殺し合い、金銀を追い求めたりはする。だがそれ以上に、お互いがお互いを求め、愛し合い、喜び合うのを好む。肌の色が違っても、信じる神が違っても、彼らはあまり気にしない。共に歌をうたい、踊るのを好む。七つの丘の街からは、いつもどこからか楽しげな音が、音楽が聞こえてくる。

 そんな楽し気な人間が集い、棲み、生きている、七つの丘の街が、やはり彼は好きだった。

 時には日の出る方角、東の高い山を越えてそのさらに東の空を舞うこともある。

 この東の空の下に棲む人間たちも、また別の色を持っている。

 彼らは、神を好む。

 それも、ただ一つの神だけを好む。七つの丘の街の人間のように、他の神は認めない。金銀を追い求めたり、殺し合ったり、男と女がお互いを求め合うのよりも神を求める気持ちが強い。それはあたかも神に縛られているように大鷲の眼には映る。

 東の空の下の人間たちは神に縛られるのを好むようだ。

 そして、神が命じたと誰かが言いだすと、やはり殺し合いをする。

 気の遠くなるほどの太古から空を舞っている大鷲は、彼らの「神」が彼ら人間が作り出したものであることを知っている。そんな「作り物」が彼らに何かを命じるわけがないことも、知っている。

 だが、彼らは「神が命じた」という。そして、神の名の下に、殺し合いをする。

 彼らはそれで幸せなのだろうか。

 大鷲には、わからない。


 

 おや?


 

 まだ雪の残る大地の上に若い女がいる。

 大鷲は人間の、それも若い女が好きだった。

 子どもは小うるさい。だが、若い女は、可愛い。

 あの七つの丘の街に棲む、銀の翼を操っていた若い女も独特のオーラを持っていたが、この東の台地に立つ若い女も、また別の色のオーラを放っているように彼には見える。

 だがその色は、なにやら悲し気な匂いを纏っていた。

 それが大鷲の興味を惹いた。


 

 どれ。東まで来たついでに、ひとつ見守ってやるとするか。


 

 大鷲はグッと高度を下げて白い雪の大地の上を舞い始めた。


 


 


 

 ************


 


 


 

 まだ雪の残る小麦畑に、小麦のもみ殻を黒く焦がしたのを撒く。少しでも早く雪を溶かし、畑を起し、種を蒔きたいがためだ。このノールの西、帝国との国境でもある山々の東に広がるこの土地で古くから行われている春の風物。

 ノラは、手を真っ黒にしながら駕籠の黒いもみ殻を撒き続けていた。

 真っ白な頂上の連なる西の山々から吹き下ろす風はまだ冷たい。すでに山の稜線に陽が落ちかけている時刻なれば、その寒風はなおさらノラの手を痛めつけた。

 黒の上着に同じく黒の雪を引きずるほど長いスカートは白い雪の上に映えた。

 黙々と、ただひたすらに黒がらを撒き続けるノラも、時折通りかかる一頭だけのロバの曳く黒い幌の馬車や、馬格の貧弱な馬を御した者が通りかかる度に手を止め、真っ白な広い庇の被り物を汚れていない手の甲で上げ、その美しい白い顔を晒し、緑色の瞳を雪と泥の入り混じった小道に向けた。

 共に黒がらを撒く父に見られていることも承知していた。それでも、ノラは車輪や馬蹄が泥を踏み掻き上げる音がするたびに手を止め、道の彼方を見た。


 

 ノラは待っていた。ただひたすらに、待っていた。

 待っていることを父に知られるのも厭わず、ノラは、待っていた。


 

「ノラ」

 彼女と同じ黒い木綿の粗末なジャケット。そして同じく黒のダブダブのトラウザーズの父が彼女を呼んだ。

「もう、陽が落ちる。今日は、このぐらいにしよう。帰るぞ」

「はい、お父様」

 父の言葉は絶対だ。逆らうことは許されなかった。それがどんなに些細なことでも、従うのがこの土地に生きる者の掟だった。

 しかし、ノラは振り向いた。

 もしかすると今、彼はあの山を越えているかもしれない。今、ノラが身を翻して背を向けたその瞬間に、西の山に続くこの道の彼方に現れるかもしれない。

 そうして二度、三度、背後の西を顧みつつ、父の後について、ノラは家路を歩いた。


 

 腰の高さまでレンガを積んだ上に古びた樫の木を組みその壁を白の漆喰で固め、屋根を板で葺いただけの簡素な家。夕飯のスープを煮込みパンを焼くかまどの煙が立ち昇る、そんな同じような家が点在する村落の一軒が、ノラの家だった。

「天にまします我らの父よ。

 願わくは御名をあがめさせたまえ。御国(みくに)を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

 我らの日々の糧を今日も与えたまえ。

 我らの罪をも赦したまえ。我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。

 国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

 アーメン」

「アーメン」

「願わくはわれらを祝し、また、主の御恵みによりてわれらの食せんとするこの賜物を祝し給い、われらの心と体を支える糧となしたまえ。われら主のいつくしみに感謝しこの夕餉を食せん。

 われらの主、イエス・キリストによって。アーメン」

「アーメン」

 朝食も夕食も、必ず家族全員が食卓に集い、神への祈りを捧げる。祈りは一家の長である父親が行い全員が唱和する。

 ノラは父と母、そして市場へ山で狩ったシカとウサギの肉を売りに行った兄が帰宅して共に祈りを捧げた。

 少量のジャガイモと野菜を煮込んだスープ。パンとヤギの乳で作ったチーズ。そしてヤギの乳。それが夕食の献立の全てである。肉は飼っているヤギやロバや馬が死んだときだけ、彼らが神に召されたのを祝福し神に感謝し、食べる。

 食事中は無言。言葉を交わしてはならない。神の恵みに感謝しながら黙々と食せねばならない。

 そして食事が終われば食後の祈りを捧げる。

「父よ、感謝のうちにこの食事を終わらん。主のいつくしみを忘れず、すべての生きとし生ける者の幸せを祈りつつ。

 われらの主、イエス・キリストによって。アーメン」

「アーメン」


 

「ノラ・・・」

 食事の後は蝋燭の節約のため早めにベッドに着く。

 今日も自分の部屋、といっても兄と隣り合わせでただ薄い布を天井からぶら下げて仕切っただけの間で寝間着に着替えベッドに就き、就寝前の祈りを捧げようとしていたところを父に呼ばれた。

「はい、お父様」

 ノラは再び食卓に着き、父と対峙した。そして食器を取り片付けていた母が席に着くのを待った。

「ノラ。

 お前はまだ、あの男に執心しておるようだな」

 昼間畑に出ていた間は巻き上げていた長い金髪は三つ編みにして右胸の上に垂らしていた。外出時にする黒いリボンは解いている。父もまた、白髪の混じった金髪を束ねて後ろにしていたがやはりリボンは外していた。父の額と頬に刻まれた深い皺に、彼の怒りが籠っていた。

 けっして我が事で怒ってはならない。

 それがこの里に棲む者の掟であるから父は耐えているのだ。だが、彼のその怒りは容易に見て取れた。父の背後の壁には猟銃が2丁掛けられていた。その黒い銃身が食卓の上にあるランプの光で鈍く揺れていた。

「いいえ。もうペールのことは忘れました」

「お前は執心しただけでなく、掟も破るのか。家の者から縁を切られ、里を追われた者の名を口にし、そのような嘘まで吐く。

 忘れたとお前は言うが、それは嘘だ。私にはわかるぞ。神もとうにお前のその醜い執心を見抜いておられる」

 ノラには返す言葉がなかった。父の言葉に逆らってはならない。それがこの里の掟だからだ。

「共に神に祈り、お前の罪を赦したもうことを願うとするが、もう一度お前に命じる。

 これが最後だぞ、ノラ。

 あの男のことは忘れるのだ。完全に。一切名も口にしてはならぬ。あの男を想う歌も歌ってはならぬ。讃美歌以外の歌は掟で禁じられているのは知っておるだろう」

 母も父と同じだった。厳しい山の寒さを宿したような瞳でノラを見つめていた。

「よいか、ノラ。わかったな?」

「・・・はい、お父様」

 ノラには、そう答えるしか途はないのだった。

「よし、では共に祈るとしよう」

 そして父と母、ノラは卓の上に両手を組み、神に祈った。

「天にまします我らの父よ・・・」


 


 

 だが。

 ノラの小さな胸の中には神をも焦がすほどの熱い滾りが残っていた。それは彼女の父にも、彼らの神さえも消すことのできない情熱の、灼熱の炎だった。


 

 次の日の朝。父と共に畑に出たノラは、朝日に照らされた西の山に続く道の彼方に、懐かしい、待ちに待った愛しい男の影を見出した。

「ペール!」

 ノラはあられもない声を上げ、全てを投げ出してその影に向かって走り出した。もう誰にも彼女を止めることは出来ぬように思われた。

 父は娘のその姿に長い嘆息を吐き、天を見上げて神に呼びかけた。

「天にまします我らの父よ。

 私はたった今、娘を一人、失いました。

 これは試練ですか? それとも私の罪あるがためなのでしょうか」


 

 そしてノラは家族を失い、里を追われた。

 日々の糧を与えてくれる場所を失った少女は、街へ向かうしか途がなかった。
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