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第二部 歌姫と夢想家
20 御前閣議ともう一人の「スパイマスター」
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「バロネン、馬の蹄が聞こえます。誰か来る」
かつてのノルトヴェイト家家臣の子孫たちと墓前で祈りを捧げていた時、墓所である丘を目指して黒衣の騎手が土煙を上げつつ全速力で街道を走って来るのが遠望された。
「あれは、役人ですな」
ゴルトシュミットは不敵な笑みを湛えつつ、言った。
「我らの目論見は着々と実を上げておるようですよ、バロネン」
「どういうことでしょうか」
ヤヨイが尋ねると、
「ふふ。いまにわかります」
子爵の言葉の意味を考えていると黒衣の騎手は丘に駆け登って来て手綱を思い切り引いた。そして馬を宥めつつ、こう口上した。
「ゴルトシュミット閣下! 宮内省の者です。どうか早急にお屋敷にお戻り願いたい!」
子爵は口の端でニヤリと笑った。
「いったい、何事ですか」
「まもなく、国王陛下の勅使が閣下のお屋敷に遣わされます」
「なんと! それはいったい何のために?」
さも驚いた風を装いつつ、ゴルトシュミットは傍らのヤヨイを、ノルトヴェイト家の末裔を顧みた。
「左様」
役人は馬から降りるとつかつかとヤヨイの側に歩み寄り、トリコーヌを脱いで華麗な会釈した。
「ご挨拶が遅れまして。小官は宮内省のメダレンと申します」
「ヴァインライヒです。ごきげんよう」
何事にも鷹揚な帝国貴族を演じる。モデルはもちろんヤヨイの下宿先の奥様、ライヒェンバッハ伯爵夫人だ。だが、今この場でそれを知っているのは誰もいない。アクセルだってそこまでは知らないだろう。だから気楽に演じられる。
ノールの官吏はヤヨイが差し出した右手に恭しくキスをした。
「かつてのノルトヴェイト家臣の末裔たち」がゾロゾロとヤヨイの周りに集まって来た。「我らが姫君に何用だ」すでに彼らの心の内はそんな思いに満ちているのだろう。いい傾向だ。
官吏氏は咳ばらいを一つして家臣たちを見回すとその圧力に気圧されまいとするかのように話しはじめた。
「ちょ、勅使の目的は貴ヴァインライヒ閣下におかれてはこの度の我が王国へのご来訪を歓迎し、国王陛下直々に拝謁を賜り、かつ閣下歓迎の宴を催さんとするものであり、そのご招待の儀を伝達するものであります」
子爵の予測のごとく、黒衣の騎手は、王宮から遣わされた、言わば「勅使のための勅使」だった。
よし、やった!
これで第一の関門はクリアした。いよいよ舞台を王宮の中に移すことができる。
だが、そんな内心はおくびにも出さず、努めて謙虚に、鷹揚に、を心がける。
「まあ! なんという名誉なことでしょう。先祖の墓参りに来てこのような僥倖を仰ぐことが出来ようとは・・・」
そして子爵を顧みて、こう付け加えるのを忘れてはいけない。
「お聞きになりまして? ゴルトシュミット卿」
このノールの地において、あくまでも彼女の引き回し役は、彼なのだから。
「さよう。国王陛下直々の拝謁を賜るとは、言われる通り僥倖というほかありませんな」
と子爵は言った。が、こうも付け加えた。
「ですが、メダレン殿。ひとつつまびらかにしておきたき儀がございますが・・・」
「なんでしょうか」
「貴官はご存じであろうか。
このバロネン・ヴァインライヒ閣下は確かに帝国貴族に列せられたる御身分。
しかし同時に先の王朝、ニィ・ヴァーサ朝最後の国王であられたカールグスタフ12世アドルフ陛下の御代において宰相も務められた公爵ノルトヴェイト家のお血筋、その御末裔でもあられる。
こたび閣下を我がゴルトシュミット家にお招きしたは、かねてよりヴァインライヒ様の念願であられた里帰りとご先祖方の墓参が主たる目的。それ以外には何らの意図もなく、特にノールの王家の周辺をお騒がせ奉ることはまことに心苦しく僭越の極みと、平にご遠慮申し上げたいとのお考えをお持ちなのです」
子爵の視線を感じ、ヤヨイもまた頷いた。
いい感じだ。
アクセルは彼を「国粋バカ」と陰口したが、どうしてどうして。なかなか、ヤル・・・。
「すでにいにしえのこととは言え、ノルトヴェイト公爵家と150年前の帝国戦役との関わりは今も記憶している方々もおられましょう・・・。
王宮として、宮内省として、それら全てご承知の上で、陛下の拝謁を賜る・・・。
そう、解釈させていただいて、よろしいのですか、メダレン殿?
これなるバロネン・ヴァインライヒ閣下は遠路帝国からお招きした当家の大切なお客人。そのおもてなしにゆめゆめ、いささかなりとも齟齬があってはならぬと、心がけておりますれば・・・」
ゴルトシュミットのひたひたと迫るような問い詰めに、家臣の末裔たちもまなじりを決してじりじりと間合いを詰め、この「勅使のための勅使」、宮内省の役人を取り囲み、追い詰めていった。
その無言の圧力に抗しきれないといった体で、喉を干上がらせた官吏氏はどもりながらも、こう答えた。
「も、もちろんでございます、ゴルトシュミット卿!」
そして馬の手綱をもどかしげに掴みながら、早々に逃げ支度の体でこう付け加えた。
「我が宮内省としては、この度のバロネン・ヴァインライヒ閣下の陛下への拝謁と歓迎の宴におきましてはこっ、国賓級の格式を持ってとっ、とっ、執り行うべく、準備を進めておりまするっ!」
この宮内省の下っ端役人が突然ヤヨイの前に現れたわけ。
それを知るには時を数時間ほど遡らねばならない。
今朝ほど外務大臣ワーホルム伯爵が馬車を飛ばして息せき切って滑り込んだ王宮の謁見の間。
その国王への奏上の席で、帝国貴族ヴァインライヒ女男爵の入国についての一件を聞かされた青年国王は臣下に尋ねた。
「今、外務大臣から事の次第は聞いた。そこで内務大臣に問うが、卿はこの話のいったいどこに問題があるというのか」
国王の言葉で外務大臣ワーホルム伯爵は得心した。
こやつ、このシェルデラップがこの「閣議」を招集したのか、と。
しかし、今朝の今まで外務大臣たる自分も知らなかったこの件を、いったい誰がこやつにリークしたのか!
「畏れながら申し上げます、陛下」
内務大臣シェルデラップ侯爵が進み出て面長のおしろいに着けボクロの面を恭しく伏せた。その刹那、チラとワーホルムを一瞥し、目が合ってしまった。その勝ち誇ったような眼差しを浴びたから余計にムカついた。
こやつ、このわしをコケにしおって・・・!
ワーホルムが歯ぎしりするのを冷ややかにいなしつつ、シェルデラップは言った。
「本日、陛下の御前にこのように各省大臣にお集まりいただいた理由は、本件が国内治安上由々しき脅威となるからにございます」
「ほう・・・。して、その理由は?」
「それはもちろんノルトヴェイトとハーニッシュの関係でございます」
「ノルトヴェイトとハーニッシュの関係? 」
「左様でございます」
シェルデラップは言った。
「陛下。陛下は150年前の帝国戦役について、どのように学ばれましたか?」
老獪な内務大臣は我が子以上に若い王に、さも帝王学を指南するかのごとく教師然とした態度で臨んだ。
「帝国とハーニッシュの小競り合いから発展した戦争だと。暴徒と化したハーニッシュがノール政府の諫めも訊かず雪崩を打って帝国領内に侵入し一時は帝国軍団の陣営地に肉薄してこれを占領する勢いだったと。両軍合わせて数万の死傷者を出し、最後には帝国に逆襲され逆に攻め込まれて包囲され全滅の危機に瀕したと。それから帝国ノール双方から和議が提案され休戦を迎えた、と。
だいたいそのように学んだ」
青年王は自分の知るところを素直に余すところなく話した。
「左様でございますな。おおまかな経緯はほぼただいま陛下が仰せられた如くに推移いたしました。
ですが、戦役最終局面の帝国兵の逆襲以降については、我がノールの正史にも記載のない一件があるのでございます」
「というと、つまり卿は、帝国との和議に関してノルトヴェイトが何らかの関わりがあったと申すのか」
「ご明察の通りにございます」
「結論を先走るようだが、もしかしてノルトヴェイトとはノールの危機を救った、言わば『功労者』というわけなのか?」
「左様でございます。ですが、この場合は『ノールの』であると同時に 、『ハーニッシュの』であるところがこの一件の肝心どころなのでございます」
「お、畏れながら、陛下。その先は某(それがし)がご説明致しまするっ!」
シェルデラップのあまりにも勿体ぶった話し方にその場の誰もがイラつきはじめたのを察したワーホルムが口を挟んだ。
「時に前王朝最後の王であったカールグスタフ12世アドルフ陛下の御代でございました。
宰相であったノルトヴェイト公爵は、初戦の勢いを駆って国境を越え帝国の地になだれ込み帝国軍の軍団宿営地の一つを占拠して意気軒昂となって勝鬨をあげるハーニッシュたちの中に入って行ったのであります」
そこで外務大臣は深く息を吸って玉座の青年王を仰いだ。
「陛下、ご想像なされませ。
時に狂気の中にあって神懸かりとなり昂奮し錯乱状態に陥って剣を振るう集団の中に入り、彼らに理(ことわり)を説いて諫めるは、下手をすれば昂奮した集団に袋叩きにされかねない危険な行為なのでございます。よほどの勇気と覚悟の要るものなのでございます。
ノルトヴェイト公クラウスは勢いに乗った彼らを諫めるため、帝国の宿営地に入ってゆきました。そして、説いたのです。
『お前たち、しばし振り上げた剣を収め耳を傾けるがよい』と。
『ここまでの戦い、まことに素晴らしく目覚ましいものであった。神も嘉したもうことは疑いない。
だが、この後はどうなる?
国境を破られ、さらに軍団の宿営地を侵したお前たちを、帝国は黙ってはいまい。帝国の規模は我がノールの3倍以上。その総軍勢また然りである。間もなくお前たちを掃討するため敵の増援部隊もやってこよう。その数はここにいるお前たちのゆうに10倍には達するであろう。立て籠もるのもよい。だが糧食はあるか? 弓矢の補充は? お前たちを応援すべく増援の手立ては施してあるのか?
それら無くして抗戦するはまことに愚か。恐らくは一時も待たずしてお前たちは全滅するであろう。
帝国の軍を退け一宿営地を占拠したことで神への冒涜も濯いだことであろうし、お前たちの溜飲も下がったであろう。ここはもう、剣を収めてお前たちの里に引き上げるべき時だ』と。
そのようにしてノルトヴェイトはハーニッシュたちを引き連れ、帝国領を去ったのでございます」
「その後は? 帝国軍は追撃して来たであろう」
話に引き込まれた王はワーホルムを急かした。
「その通りでございます。帝国はハーニッシュたちに数倍する大軍を送り込んでまいりました。国境を越え、わがノール領になだれ込み、ハーニッシュたちの居留地を完全に包囲し、彼らを殲滅せんとしておりました。
だが、そこでもノルトヴェイトがハーニッシュたちを救ったのでございます。
単身帝国軍の陣営に赴き、和議を取りまとめ、いくさは終わりました。
実にハーニッシュたちにとってノルトヴェイトは神に次ぐ『救世主』のようなものになりました。そしてこの『伝説』は代々彼らに語り継がれ、今に至っているのでございます」
若き王は語り終えた外務大臣ワーホルムを身動ぎもせずに見つめ続けた。
「・・・なんと。そのような英雄譚は今の今まで知らなかった」
「そうお感じになられますか。そう思われますか、陛下。臣は感服いたしました。それでこそ、我らが仰ぐ明君にございます。
ハーニッシュたちにとって『救世主』であったと同時に、このノールにとってもノルトヴェイトはいわば『恩人』なのであります」
「だがそれではなぜノルトヴェイトは亡命したのか。カールグスタフ12世が退位し前王朝を断絶までしたのか・・・」
国王の問いにワーホルム伯爵は口をつぐんだ。そして左右を顧み、言った。
「これは正史に記載の無き事柄にて・・・」
「よい。わたしは聞きたい。真実を教えてくれ」
青年王の真摯な眼差しをうけ、しばし返答を躊躇していたかに見えた外務大臣は。両手を小さく広げて肩を竦め、言った。
「当時の貴族たちがこぞって、責任を追及したのです。言わば、俗な言葉を用いるならば『吊るし上げ』とでも申し上げますか・・・」
「帝国との全面戦争を回避した、ノールにとっての『恩人』なのであろう。その功労者を当時の貴族たちが吊るし上げにしたと、そう卿はいうのか。何故だ。何故ノルトヴェイトは糾弾されねばならなかったのだ」
「陛下。ご疑問を持たれるは当然のことでございます。
が、しかし・・・。帝国との和議が成立した直後、宰相ノルトヴェイト伯に謀反の兆しアリという風説が流れたのでございます」
「謀反?」
「確証はございませんでした。しかし、当時の官憲が捜査に着手する前に、言わば風説の方が独り歩きしてしまったのでございます」
貴人の前で汗を拭うは宮廷内を走ることに勝る不敬であった。だが、ワーホルム伯爵は癇癪持ちの上に汗かきでもあり、ウィッグの下からあふれ出たしずくがややもすると目に入りそうなほどに汗をかいていた。だが、これはだけは言わねばならない。
「まことに畏れ多きことにて申し上げにくいことながら・・・。その当時の貴族たちを糾合し、ノルトヴェイト糾弾の急先鋒となったのが、当時すでにカールグスタフ12世のご息女内親王殿下の降嫁先であった侯爵ヤンベルナドッテ家の当主、後にヤンベルナドッテ朝初代国王エドヴァルド7世となられた、陛下の曾祖父に当たられるお方なのでございます!」
その場の空気が凍った。
沈黙を破ったのは若き国王だった。
「・・・なんと。それは事実か? 」
「官憲の追及を恐れたノルトヴェイト家が帝国に亡命してしまい、片腕だった宰相を失って意気消沈したカールグスタフ王はにわかに病に倒れ、急遽ヤンベルナドッテ侯が摂政の宮として立たれました。そして間もなく皇太子に立たれた侯爵は、療養の甲斐もなくお隠れ遊ばしたカールグスタフ王の跡を襲い、現在のヤンベルナドッテ朝をお開きになったのでございます」
リンゴーン、リンゴーン・・・。
その時、王宮の隣にある大聖堂の鐘が鳴った。鐘の音に驚いて一斉に飛び立った鳩の群れの影が広間の高い窓から磨き上げられたパインの床に射す束の間の陽光をしばし遮った。
大きく動揺を見せた玉座のスヴェン27世は、ひじ掛けに突いた腕で額を支えねばならなかった。
「知らなかった・・・。
もしそうであるなら、風説の真偽はともかく、ノルトヴェイト家にとって我が王朝は恩を仇で返した、言わば仇敵となるのではないか・・・」
「もうよい!」
国王の問いに応えようとした外務大臣の機先を制し、それまで黙って家臣たちの話を聞いていた皇太后ソニアが手にした扇で掌を叩いた。
外務大臣はもちろん、その場の各省の大臣たちも等しく口をつぐんだ。そして国王の隣の玉座に鎮座するノール王国の真の権力者、まさに女の盛りを迎えている女傑に恭しく首を垂れた。
「大事なるは過去の経緯よりも今じゃ。その、今は帝国の貴族となったという男には監視をつけておるのか。その者は今どこにいるのじゃ」
「皇太后陛下、バロネン・ヴァインライヒ女男爵でございます」
「なんと・・・、女か」
「さようでございます、皇太后陛下。
彼女はいま、かつてノルトヴェイト家に仕えていたというゴルトシュミット子爵の屋敷に滞在しております。目立たぬように見張りをつけてございます」
内務大臣シェルデラップ侯は応えた。
「して・・・。いかがするのかシェルデラップ侯。禍の根は速やかに取り除くのが卿の役目ではないか」
「御意にございます。しかしながらこれを捕縛するにもなにぶん、法的根拠がございませんと」
「法的根拠? 現王家を害する恐れのある者の入国を許し、まだ法的根拠などと御託を申すのか!」
「畏れながら申し上げます」
それまで沈黙していた法務大臣もが皇太后の無体な要求に難色を示した。
「過去が事はいざ知らず、法体系の整いましたる現在においては親の罪を子に課すなど、我がノールだけでなく帝国の法にも規定がございません」
「左様でございます、皇太后陛下」
法務大臣の言葉を受けてワーホルムもまた諫めに加わった。
「わが外務省の下僚たちによれば、問題の女男爵は正式に帝国貴族に列せられた男爵家の正統なる相続人である由。もし仮に我が王国がそのような仕儀に及んだ場合、帝国との間に深刻な国際問題を惹起致しかねません! 」
「では暗黙裡に始末すればよい」
不気味な笑みを湛えアッサリと非情な言葉を吐いた皇太后をその場の誰もが戦慄の眼差しで見上げ、震えた。
「母上! それはあまりにも性急では・・・」
母の尋常ならざる発言に驚愕したスヴェン27世は思わず口を開いたが、
「国王! ここは公の場ぞ。妾(わらわ)がことは皇太后とお呼びなさい!」
若年の国王を一喝した皇太后ソニアは、重ねてその小太りの小男に下問した。
「いかがか、グロンダール伯。そのための秘密警察ではないか? のう、卿ならば、人知れず邪魔者を排除するなど造作もなかろう」
「御意。仰せとあらば」
並居るプラチナのウィッグを着けた大臣たちの中にあって、彼だけがツルツルのスキンヘッドを晒し、そのゾッとするような冷たい灰色の双眸に妖しい光を湛えて首を垂れた。
「慣れない異国の旅の途中に原因不明の病に倒れる。あるいは、乗り合わせた馬車が不慮の事故を起こす・・・。方法はいくらでも。いかようにも隠密裏に処理できまする」
具体的な殺害方法まで開陳して、その場の流れは早、帝国からやって来た一貴族の暗殺という結論にまで達しようとしていた。若い国王は見るからに狼狽し、両のひじ掛けを掴んだ手に力が籠りすぎて白くなるほどだった。
世の母と子の間柄というものは、得てして正反対のものになることがままある。穏やかで優しい母の許に生まれた子が残忍で凶暴な性向を持つことがある一方、外交的好戦的野心的な母堂ソニア皇太后に似ず、若き国王は内向的で平和を好みノール国内の融和を図ろうとする気持ちが強かった。
そんな君主の思いを他所に、内務大臣シェルデラップ侯爵が再び恭しく首を垂れた。
「では、結論は件の帝国女男爵の排除というわけですな」
こやつ・・・。またも皇太后のご機嫌取り、寵愛稼ぎか。
キッとまなじりを上げたワーホルム外務大臣は、小癪な着けボクロのキザ男を睨みつけた。
おい、貴様! ここでその方向に衆議をまとめるつもりか? どうなっても知らんぞ、と。
しかし、続いて内務大臣の口から出たのはワーホルムにとって意外なものであった。
「それでは国内治安を預かる我が内務省といたしましてはこの際、この場で陸軍に確認すべきでしょうな」
そう言って黒衣の官服の一座の中で唯一、華麗な金モールの軍礼装に身を包んだ大柄な亜麻色の髪の男を顧みた。
「ビョルンソン大将。貴殿に問うが、現在わが陸軍の部隊配置はどうなっているか。この場で国王陛下並びに皇太后陛下、そして我らにご説明いただこう。
万が一、この秘事がハーニッシュどもに露見し重大な内乱に発展した場合に、軍はその混乱を十全に抑え得るべき配置となっておるのでしょうな」
伯爵ビョルンソン大将は見上げるような大きな体を揺すって大袈裟に首を垂れた。
「さよう。端的に申さば、それはいささか困難であります、陛下」
と大将は言った。
「これはしたり!」
内務大臣は大袈裟な身振りで陸軍大臣の言葉に反応した。
「軍は有事に備えうるべき態勢にはないと仰るのか!」
大柄な大将はこの芝居がかった内務大臣の言葉にやや鼻白みながら着けボクロの侯爵に反駁した。
「現在首都防衛に配置している兵力では万一のハーニッシュたちの蜂起に十全に対処するには不足であると申しておる!」
そして改めて国王に向き直り、こう続けた。
「陛下。
そろそろ季節も夏を迎えまする。これは毎年の恒例でございますが、今わが陸軍10万の約6割ほどが夏の北の野蛮人の襲来に備えて北方国境沿いに展開しておりまする。
仮に北方への備えを無視し得たとして、これを全て首都防衛のために南下させるとなれば、そう、ふた月はかかりましょう」
「なんと! ふた月も!」
いつにない内務大臣の、この「閣議」の場でのあまりな大袈裟な振る舞いに、当初は眉をひそめかけた若き国王だったのだが、ここでやっと愁眉を開いた。この老練な政治家の意図するところが理解できたからである。
「北方の守りを疎かにすることはできないぞ、大将」
と、国王は言った。
「それではもし野蛮人どもが襲来した場合、北の我が国の穀倉を営む農民たちが難儀するではないか。それだけではない。大切な作物の植え付けや刈り入れ時に畑を荒らされては国民への食も保証できなくなる。わがノールの食料安全保障を揺るがしかねぬ事態になる」
「ご明察の通りであります、陛下」
そう言ってシェルデラップ侯爵は黙った。
なるほど。このキツネめが、ヤルではないか。
ここへ来てワーホルム伯爵もやっと頬を緩めた。平素は鼻持ちならぬキザ野郎だが、ダテに長く宮廷と政界に身を置いているだけの男ではないな、と。
彼の感想はたちまちのうちにその場の大臣連の間に共有されるところとなった。
その場に再び沈黙が訪れた。こういう場合は決して自ら先んじて口を開いてはならない。それがこのノールの宮廷で生きるための処世術であった。
「では、どうするというのだっ! 」
こういう場合、一番最初に場の空気にいたたまれずに口を開くのは決まって皇太后だった。手にした扇の要が弾き飛びそうなほどにぎゅうぎゅうにねじり上げ、勘筋を震わせて吼えた。
「畏れながら申し上げます、皇太后陛下」
「鼻持ちならぬキザ野郎の同輩」の策ではあるが、直情傾向で癇癪持ちの皇太后の操縦にかけてはこの男に一日の長があることは認めざるを得ない。ここはこやつに同調しておく一手だ・・・。
ワーホルム伯爵はおずおずと首を上げ、玉座を見上げた。
「菲才の身ながら臣が愚考いたしまするに、件の女男爵は、まだその入国の真意もわかりませぬながら、仮に先祖の墓参りに来たというだけのものならば、ふた月も経てば恐らくは帰国してしまうのではありますまいか。もちろん、我が国滞在中は極力ハーニッシュたちに接触させぬよう配慮が必要ではございますが。
そこで臣に一案がございます」
「苦しゅうない。卿の存念を申してみよ」
「この際、王宮と国を挙げて件の女男爵を歓待するのです。国王陛下御自ら拝謁を許し、親しくご歓談なされるのです。接待漬けにしてハーニッシュたちに接触させる暇を与えぬようにするのです。そして、その様子を国内に、特にハーニッシュたちに知らしめるのです。王宮自ら彼らの恩人をもてなす。それならばハーニッシュたちにも文句のつけようがありません。
これ、労せずして最良の成果をもたらす防衛策。古代東洋の兵書にいうところの『無手勝流』であると存じます」
「それは名案だ、ワーホルム伯!」
若き国王は我が意を得たりとでもいうように手を叩いて相好を崩した。
「陛下のご賛同を賜り、恐悦至極にございます」
「いかがですか、皇太后陛下。これならば軍を動かさずに済み、かつハーニッシュたちの民心も安堵するでしょう。まさに一石二鳥の好策と言えましょう。もちろん、歓待にはわたしも積極的に協力します」
「陛下がそう仰せならば、それでノールの治安が保たれるというなら、妾(わらわ)に異存はない」
不承不承の体ながら、皇太后ソニアは同意した。
「では、この一件につき、内務大臣、及び外務大臣は責任をもって良きように取り計らうがよい」
「御意にございます」
「仰せのごとく・・・」
「それでは、他に要件が無ければこれで話を終わろう。みな、ごくろうだった」
国王と皇太后の退出を大臣たちは最敬礼で見送った。靴音が消え去ると誰からともなく、ふう、と吐息が漏れた。
やれやれ。
毎度のことながら、あの色情狂の女の相手はほとほと疲れる。
一息入れているワーホルム伯爵のもとにつかつかと歩み寄って来たのは彼のライバル、シェルデラップ侯爵だった。この狡猾なキツネとは長年反目し合って来た間柄ではあるが、こと対王宮ではともに協力して団結してきた。皇太后に取り入ったあの「ラスプーチン」が現れてからは特に、だった。
「よかったですな。これでまた生き延びました。おたがいにね」
キツネ侯爵は言った。
「では、外務省におかれては宮内省と計らいよしなに」
「言われずともわかっておる!」
「それは結構。では、また」
そう言って「おしろい着けボクロ」の侯爵は広間を去った。
まったく。あの男はいつも一言多い!
外務大臣ワーホルム伯が奥歯をギリギリと噛んでいるその一方で、早々にその場を立ち去り王宮を後にした者がいる。
スキンヘッドの秘密警察の長官、グロンダール伯爵である。
待たせていた馬車に乗り込むや、彼は真っすぐに旧市街にある自分のオフィスに向かった。
「慣れない異国の旅の途中に原因不明の病に倒れる。あるいは、乗り合わせた馬車が不慮の事故を起こす・・・。方法はいくらでも。いかようにも隠密裏に処理できまする」
排除対象の殺害方法をマユひとつ動かさずに披露した、いわば「ノールの闇稼業」を取り仕切る、皇太后の信頼も篤いこの小男は、一棟の集合住宅に偽装したオフィスに着くや電信室に向かいサラサラと電文を認め、電信士に手渡した。
「至急これを帝都の大使館、レーヴェンショルド宛てに打ってくれ。平文で、だ」
紙片を受け取った電信士はその短い文章に目を通すや、怪訝な顔をした。
「たった、これだけ、ですか?」
「そうだ」
その後、グロンダールは自分の執務室に籠った。
何を隠そう、実はこの小男こそが今回のヤヨイのミッションにおけるノール側の黒幕であった。帝国のウリル少将に直接作戦案を打診し、シナリオを書いたのもこの男であるし、在帝国ノール大使館のレーヴェンショルド、ヤヨイの教育係を担当したオスカル、そして今回のミッションでヤヨイの助手を務めているアクセルはこのグロンダール伯の部下たちなのであった。この一件を巧みに内務省にリークし、「キツネ侯爵」こと、内務大臣シェルデラップをして「閣議」を招集させたのも、実は彼なのだった。
グロンダールは執務室の窓を開け、王宮の尖塔とその向こうに見える西の高い山々を眺めた。
表向きは、国王と皇太后に絶対の忠誠を誓っている。
皇太后の言うがまま彼女の意に沿わない者達を捕縛し収監してきた。そのせいで、彼は官僚たちの怨嗟の的になっていた。
だがグロンダール伯という男は、実は王宮ではなくノールという国家と国民に対する奉仕者をもって任じていた。「ノール王国の破滅」という、大災厄を避けるためという大義の前には、少々の小悪はやむを得ないという現実主義者でもあった。
それまで自らの「女」を顧みられることもなく過ごして来た女性にとって、急に女に目覚めさせられることほど厄介なことはない。
彼が自らの内に秘めた使命は、「愛のご不例」に罹患して善良な民や有能で忠義溢れる官吏たちを苦しめている皇太后と、彼女を操って国政に介入しこれを壟断する「現代のラスプーチン」マレンキー一派を排除することだった。そして一日も早く温厚で聡明な現国王スヴェン27世の親政を実現せねば、と。それが彼の、グロンダールの悲願であり言わば「ライフワーク」であった。
だがここへ来て彼は、さらにノールの国家としての根幹を揺るがせかねない「腫瘍」を発見した。
「もぐら」という、訓練されたグロンダールの手の者達をもってしても容易に捉えることができない謎の男。その真の狙いを突き止め、早急に取り除かねばノールに致命的な打撃となるのは明白であった。
すでに「もぐら」はノールの各地に、農村や漁村、新市街の労働者たちなどへ地下の連絡網を張り巡らせつつあった。この上にさらに「もぐら」がハーニッシュたちと手を組んで一斉に蜂起してくれば事態は文字通りに「革命」に発展してしまう。そうなることは絶対に阻止せねばならない。
「帝国の秘蔵っ子、『アイゼネス・クロイツの女戦士』よ。あとは頼むぞ」
グロンダールは遠い山々に目を凝らしつつ、そう小さく呟いた。
そして・・・。
ヤヨイとアクセルがノルトヴェイト家代々の墓に参ったと同じころ。
オスロホルムから西に2000キロ以上離れた帝都の街を早馬が疾駆した。
クィリナリスの丘を駆けあがった馬は、その高級住宅街の中のありふれた一邸の前で乗り手を下馬させた。
門番の奴隷に扮する警備部隊の伍長は、突然やって来たその丈高い金髪の、見慣れない男に尋ねた。
「失礼ですが、どちら様で?」
「私はオスカルという者です。このお屋敷のウリル様にお会いしに来たのですが」
常ならば部外者に対しては「お間違えでは? ここのあるじは留守ですが」と言い慣わして来た伍長だったが、その金髪の男の不思議な言い方、「お屋敷のウリル様」という言葉に感じるものがあり、他の同僚、つまり、庭師に扮している警備の上等兵を呼んで母屋に向かった。
伍長は屋敷の中の伝声管を通じて直接ボスであるウリル少将に問い合わせた。
彼の予感は当たった。
「そのオスカルという客人をお通ししてくれ」
ボスがそう言ったからだ。
受付の女性准尉に付き添われて地下のオフィスに案内されたオスカルは、外国人としては初めて、その帝国のスパイマスターの部屋に通された。
短い間であったが帝国のヒーローである「アイゼネス・クロイツ」の猛者の教育係を務めたオスカルは、彼女を見出し第一級の戦士に育て上げたウリル少将に特別な感慨を持った。
「初めてお目にかかります」
澱みない帝国語でオスカルは挨拶をした。
このスパイマスターとは初対面ではあった。が、少しも初めて会ったという気がしない。むしろ、微かななつかしささえ感じてしまうのが不思議だった。そう思っていると、
「だが、ま、お互い初めて会った気はしないがな。そうだろう?
君たちはわたしをよく知っているだろうし、わたしも君のことはよく知っている」
「まあ、そうですね」
ウリル少将に椅子を勧められるまま、その彼のデスクの前に腰を掛けた。
すぐに要件に入った。
一通の電文を取り出し、帝国のスパイマスターのデスクの上に置いた。
「つい先ほど入電しました」
ウリル少将は電文を取り上げた。
「プリマドンナは舞台に立った」
書かれていた電文は、たったそれだけだった。
が、このミッションの当事者でありもう一人の演出家と助監督でもある彼ら二人にはそれで十分だった。
ヤヨイがノールの貴族社会の中に潜入を果たした。
電文の意味するところは、それであった。
今回のミッションの第一段階が成功したことを知らせて来たのだ。電文を起草したのはおそらくは、もう一人の協同演出家であり脚本家である、ノールの「スパイマスター」であろう。
「どうやら、始まったようだな」
「そのようです」
かつてのノルトヴェイト家家臣の子孫たちと墓前で祈りを捧げていた時、墓所である丘を目指して黒衣の騎手が土煙を上げつつ全速力で街道を走って来るのが遠望された。
「あれは、役人ですな」
ゴルトシュミットは不敵な笑みを湛えつつ、言った。
「我らの目論見は着々と実を上げておるようですよ、バロネン」
「どういうことでしょうか」
ヤヨイが尋ねると、
「ふふ。いまにわかります」
子爵の言葉の意味を考えていると黒衣の騎手は丘に駆け登って来て手綱を思い切り引いた。そして馬を宥めつつ、こう口上した。
「ゴルトシュミット閣下! 宮内省の者です。どうか早急にお屋敷にお戻り願いたい!」
子爵は口の端でニヤリと笑った。
「いったい、何事ですか」
「まもなく、国王陛下の勅使が閣下のお屋敷に遣わされます」
「なんと! それはいったい何のために?」
さも驚いた風を装いつつ、ゴルトシュミットは傍らのヤヨイを、ノルトヴェイト家の末裔を顧みた。
「左様」
役人は馬から降りるとつかつかとヤヨイの側に歩み寄り、トリコーヌを脱いで華麗な会釈した。
「ご挨拶が遅れまして。小官は宮内省のメダレンと申します」
「ヴァインライヒです。ごきげんよう」
何事にも鷹揚な帝国貴族を演じる。モデルはもちろんヤヨイの下宿先の奥様、ライヒェンバッハ伯爵夫人だ。だが、今この場でそれを知っているのは誰もいない。アクセルだってそこまでは知らないだろう。だから気楽に演じられる。
ノールの官吏はヤヨイが差し出した右手に恭しくキスをした。
「かつてのノルトヴェイト家臣の末裔たち」がゾロゾロとヤヨイの周りに集まって来た。「我らが姫君に何用だ」すでに彼らの心の内はそんな思いに満ちているのだろう。いい傾向だ。
官吏氏は咳ばらいを一つして家臣たちを見回すとその圧力に気圧されまいとするかのように話しはじめた。
「ちょ、勅使の目的は貴ヴァインライヒ閣下におかれてはこの度の我が王国へのご来訪を歓迎し、国王陛下直々に拝謁を賜り、かつ閣下歓迎の宴を催さんとするものであり、そのご招待の儀を伝達するものであります」
子爵の予測のごとく、黒衣の騎手は、王宮から遣わされた、言わば「勅使のための勅使」だった。
よし、やった!
これで第一の関門はクリアした。いよいよ舞台を王宮の中に移すことができる。
だが、そんな内心はおくびにも出さず、努めて謙虚に、鷹揚に、を心がける。
「まあ! なんという名誉なことでしょう。先祖の墓参りに来てこのような僥倖を仰ぐことが出来ようとは・・・」
そして子爵を顧みて、こう付け加えるのを忘れてはいけない。
「お聞きになりまして? ゴルトシュミット卿」
このノールの地において、あくまでも彼女の引き回し役は、彼なのだから。
「さよう。国王陛下直々の拝謁を賜るとは、言われる通り僥倖というほかありませんな」
と子爵は言った。が、こうも付け加えた。
「ですが、メダレン殿。ひとつつまびらかにしておきたき儀がございますが・・・」
「なんでしょうか」
「貴官はご存じであろうか。
このバロネン・ヴァインライヒ閣下は確かに帝国貴族に列せられたる御身分。
しかし同時に先の王朝、ニィ・ヴァーサ朝最後の国王であられたカールグスタフ12世アドルフ陛下の御代において宰相も務められた公爵ノルトヴェイト家のお血筋、その御末裔でもあられる。
こたび閣下を我がゴルトシュミット家にお招きしたは、かねてよりヴァインライヒ様の念願であられた里帰りとご先祖方の墓参が主たる目的。それ以外には何らの意図もなく、特にノールの王家の周辺をお騒がせ奉ることはまことに心苦しく僭越の極みと、平にご遠慮申し上げたいとのお考えをお持ちなのです」
子爵の視線を感じ、ヤヨイもまた頷いた。
いい感じだ。
アクセルは彼を「国粋バカ」と陰口したが、どうしてどうして。なかなか、ヤル・・・。
「すでにいにしえのこととは言え、ノルトヴェイト公爵家と150年前の帝国戦役との関わりは今も記憶している方々もおられましょう・・・。
王宮として、宮内省として、それら全てご承知の上で、陛下の拝謁を賜る・・・。
そう、解釈させていただいて、よろしいのですか、メダレン殿?
これなるバロネン・ヴァインライヒ閣下は遠路帝国からお招きした当家の大切なお客人。そのおもてなしにゆめゆめ、いささかなりとも齟齬があってはならぬと、心がけておりますれば・・・」
ゴルトシュミットのひたひたと迫るような問い詰めに、家臣の末裔たちもまなじりを決してじりじりと間合いを詰め、この「勅使のための勅使」、宮内省の役人を取り囲み、追い詰めていった。
その無言の圧力に抗しきれないといった体で、喉を干上がらせた官吏氏はどもりながらも、こう答えた。
「も、もちろんでございます、ゴルトシュミット卿!」
そして馬の手綱をもどかしげに掴みながら、早々に逃げ支度の体でこう付け加えた。
「我が宮内省としては、この度のバロネン・ヴァインライヒ閣下の陛下への拝謁と歓迎の宴におきましてはこっ、国賓級の格式を持ってとっ、とっ、執り行うべく、準備を進めておりまするっ!」
この宮内省の下っ端役人が突然ヤヨイの前に現れたわけ。
それを知るには時を数時間ほど遡らねばならない。
今朝ほど外務大臣ワーホルム伯爵が馬車を飛ばして息せき切って滑り込んだ王宮の謁見の間。
その国王への奏上の席で、帝国貴族ヴァインライヒ女男爵の入国についての一件を聞かされた青年国王は臣下に尋ねた。
「今、外務大臣から事の次第は聞いた。そこで内務大臣に問うが、卿はこの話のいったいどこに問題があるというのか」
国王の言葉で外務大臣ワーホルム伯爵は得心した。
こやつ、このシェルデラップがこの「閣議」を招集したのか、と。
しかし、今朝の今まで外務大臣たる自分も知らなかったこの件を、いったい誰がこやつにリークしたのか!
「畏れながら申し上げます、陛下」
内務大臣シェルデラップ侯爵が進み出て面長のおしろいに着けボクロの面を恭しく伏せた。その刹那、チラとワーホルムを一瞥し、目が合ってしまった。その勝ち誇ったような眼差しを浴びたから余計にムカついた。
こやつ、このわしをコケにしおって・・・!
ワーホルムが歯ぎしりするのを冷ややかにいなしつつ、シェルデラップは言った。
「本日、陛下の御前にこのように各省大臣にお集まりいただいた理由は、本件が国内治安上由々しき脅威となるからにございます」
「ほう・・・。して、その理由は?」
「それはもちろんノルトヴェイトとハーニッシュの関係でございます」
「ノルトヴェイトとハーニッシュの関係? 」
「左様でございます」
シェルデラップは言った。
「陛下。陛下は150年前の帝国戦役について、どのように学ばれましたか?」
老獪な内務大臣は我が子以上に若い王に、さも帝王学を指南するかのごとく教師然とした態度で臨んだ。
「帝国とハーニッシュの小競り合いから発展した戦争だと。暴徒と化したハーニッシュがノール政府の諫めも訊かず雪崩を打って帝国領内に侵入し一時は帝国軍団の陣営地に肉薄してこれを占領する勢いだったと。両軍合わせて数万の死傷者を出し、最後には帝国に逆襲され逆に攻め込まれて包囲され全滅の危機に瀕したと。それから帝国ノール双方から和議が提案され休戦を迎えた、と。
だいたいそのように学んだ」
青年王は自分の知るところを素直に余すところなく話した。
「左様でございますな。おおまかな経緯はほぼただいま陛下が仰せられた如くに推移いたしました。
ですが、戦役最終局面の帝国兵の逆襲以降については、我がノールの正史にも記載のない一件があるのでございます」
「というと、つまり卿は、帝国との和議に関してノルトヴェイトが何らかの関わりがあったと申すのか」
「ご明察の通りにございます」
「結論を先走るようだが、もしかしてノルトヴェイトとはノールの危機を救った、言わば『功労者』というわけなのか?」
「左様でございます。ですが、この場合は『ノールの』であると同時に 、『ハーニッシュの』であるところがこの一件の肝心どころなのでございます」
「お、畏れながら、陛下。その先は某(それがし)がご説明致しまするっ!」
シェルデラップのあまりにも勿体ぶった話し方にその場の誰もがイラつきはじめたのを察したワーホルムが口を挟んだ。
「時に前王朝最後の王であったカールグスタフ12世アドルフ陛下の御代でございました。
宰相であったノルトヴェイト公爵は、初戦の勢いを駆って国境を越え帝国の地になだれ込み帝国軍の軍団宿営地の一つを占拠して意気軒昂となって勝鬨をあげるハーニッシュたちの中に入って行ったのであります」
そこで外務大臣は深く息を吸って玉座の青年王を仰いだ。
「陛下、ご想像なされませ。
時に狂気の中にあって神懸かりとなり昂奮し錯乱状態に陥って剣を振るう集団の中に入り、彼らに理(ことわり)を説いて諫めるは、下手をすれば昂奮した集団に袋叩きにされかねない危険な行為なのでございます。よほどの勇気と覚悟の要るものなのでございます。
ノルトヴェイト公クラウスは勢いに乗った彼らを諫めるため、帝国の宿営地に入ってゆきました。そして、説いたのです。
『お前たち、しばし振り上げた剣を収め耳を傾けるがよい』と。
『ここまでの戦い、まことに素晴らしく目覚ましいものであった。神も嘉したもうことは疑いない。
だが、この後はどうなる?
国境を破られ、さらに軍団の宿営地を侵したお前たちを、帝国は黙ってはいまい。帝国の規模は我がノールの3倍以上。その総軍勢また然りである。間もなくお前たちを掃討するため敵の増援部隊もやってこよう。その数はここにいるお前たちのゆうに10倍には達するであろう。立て籠もるのもよい。だが糧食はあるか? 弓矢の補充は? お前たちを応援すべく増援の手立ては施してあるのか?
それら無くして抗戦するはまことに愚か。恐らくは一時も待たずしてお前たちは全滅するであろう。
帝国の軍を退け一宿営地を占拠したことで神への冒涜も濯いだことであろうし、お前たちの溜飲も下がったであろう。ここはもう、剣を収めてお前たちの里に引き上げるべき時だ』と。
そのようにしてノルトヴェイトはハーニッシュたちを引き連れ、帝国領を去ったのでございます」
「その後は? 帝国軍は追撃して来たであろう」
話に引き込まれた王はワーホルムを急かした。
「その通りでございます。帝国はハーニッシュたちに数倍する大軍を送り込んでまいりました。国境を越え、わがノール領になだれ込み、ハーニッシュたちの居留地を完全に包囲し、彼らを殲滅せんとしておりました。
だが、そこでもノルトヴェイトがハーニッシュたちを救ったのでございます。
単身帝国軍の陣営に赴き、和議を取りまとめ、いくさは終わりました。
実にハーニッシュたちにとってノルトヴェイトは神に次ぐ『救世主』のようなものになりました。そしてこの『伝説』は代々彼らに語り継がれ、今に至っているのでございます」
若き王は語り終えた外務大臣ワーホルムを身動ぎもせずに見つめ続けた。
「・・・なんと。そのような英雄譚は今の今まで知らなかった」
「そうお感じになられますか。そう思われますか、陛下。臣は感服いたしました。それでこそ、我らが仰ぐ明君にございます。
ハーニッシュたちにとって『救世主』であったと同時に、このノールにとってもノルトヴェイトはいわば『恩人』なのであります」
「だがそれではなぜノルトヴェイトは亡命したのか。カールグスタフ12世が退位し前王朝を断絶までしたのか・・・」
国王の問いにワーホルム伯爵は口をつぐんだ。そして左右を顧み、言った。
「これは正史に記載の無き事柄にて・・・」
「よい。わたしは聞きたい。真実を教えてくれ」
青年王の真摯な眼差しをうけ、しばし返答を躊躇していたかに見えた外務大臣は。両手を小さく広げて肩を竦め、言った。
「当時の貴族たちがこぞって、責任を追及したのです。言わば、俗な言葉を用いるならば『吊るし上げ』とでも申し上げますか・・・」
「帝国との全面戦争を回避した、ノールにとっての『恩人』なのであろう。その功労者を当時の貴族たちが吊るし上げにしたと、そう卿はいうのか。何故だ。何故ノルトヴェイトは糾弾されねばならなかったのだ」
「陛下。ご疑問を持たれるは当然のことでございます。
が、しかし・・・。帝国との和議が成立した直後、宰相ノルトヴェイト伯に謀反の兆しアリという風説が流れたのでございます」
「謀反?」
「確証はございませんでした。しかし、当時の官憲が捜査に着手する前に、言わば風説の方が独り歩きしてしまったのでございます」
貴人の前で汗を拭うは宮廷内を走ることに勝る不敬であった。だが、ワーホルム伯爵は癇癪持ちの上に汗かきでもあり、ウィッグの下からあふれ出たしずくがややもすると目に入りそうなほどに汗をかいていた。だが、これはだけは言わねばならない。
「まことに畏れ多きことにて申し上げにくいことながら・・・。その当時の貴族たちを糾合し、ノルトヴェイト糾弾の急先鋒となったのが、当時すでにカールグスタフ12世のご息女内親王殿下の降嫁先であった侯爵ヤンベルナドッテ家の当主、後にヤンベルナドッテ朝初代国王エドヴァルド7世となられた、陛下の曾祖父に当たられるお方なのでございます!」
その場の空気が凍った。
沈黙を破ったのは若き国王だった。
「・・・なんと。それは事実か? 」
「官憲の追及を恐れたノルトヴェイト家が帝国に亡命してしまい、片腕だった宰相を失って意気消沈したカールグスタフ王はにわかに病に倒れ、急遽ヤンベルナドッテ侯が摂政の宮として立たれました。そして間もなく皇太子に立たれた侯爵は、療養の甲斐もなくお隠れ遊ばしたカールグスタフ王の跡を襲い、現在のヤンベルナドッテ朝をお開きになったのでございます」
リンゴーン、リンゴーン・・・。
その時、王宮の隣にある大聖堂の鐘が鳴った。鐘の音に驚いて一斉に飛び立った鳩の群れの影が広間の高い窓から磨き上げられたパインの床に射す束の間の陽光をしばし遮った。
大きく動揺を見せた玉座のスヴェン27世は、ひじ掛けに突いた腕で額を支えねばならなかった。
「知らなかった・・・。
もしそうであるなら、風説の真偽はともかく、ノルトヴェイト家にとって我が王朝は恩を仇で返した、言わば仇敵となるのではないか・・・」
「もうよい!」
国王の問いに応えようとした外務大臣の機先を制し、それまで黙って家臣たちの話を聞いていた皇太后ソニアが手にした扇で掌を叩いた。
外務大臣はもちろん、その場の各省の大臣たちも等しく口をつぐんだ。そして国王の隣の玉座に鎮座するノール王国の真の権力者、まさに女の盛りを迎えている女傑に恭しく首を垂れた。
「大事なるは過去の経緯よりも今じゃ。その、今は帝国の貴族となったという男には監視をつけておるのか。その者は今どこにいるのじゃ」
「皇太后陛下、バロネン・ヴァインライヒ女男爵でございます」
「なんと・・・、女か」
「さようでございます、皇太后陛下。
彼女はいま、かつてノルトヴェイト家に仕えていたというゴルトシュミット子爵の屋敷に滞在しております。目立たぬように見張りをつけてございます」
内務大臣シェルデラップ侯は応えた。
「して・・・。いかがするのかシェルデラップ侯。禍の根は速やかに取り除くのが卿の役目ではないか」
「御意にございます。しかしながらこれを捕縛するにもなにぶん、法的根拠がございませんと」
「法的根拠? 現王家を害する恐れのある者の入国を許し、まだ法的根拠などと御託を申すのか!」
「畏れながら申し上げます」
それまで沈黙していた法務大臣もが皇太后の無体な要求に難色を示した。
「過去が事はいざ知らず、法体系の整いましたる現在においては親の罪を子に課すなど、我がノールだけでなく帝国の法にも規定がございません」
「左様でございます、皇太后陛下」
法務大臣の言葉を受けてワーホルムもまた諫めに加わった。
「わが外務省の下僚たちによれば、問題の女男爵は正式に帝国貴族に列せられた男爵家の正統なる相続人である由。もし仮に我が王国がそのような仕儀に及んだ場合、帝国との間に深刻な国際問題を惹起致しかねません! 」
「では暗黙裡に始末すればよい」
不気味な笑みを湛えアッサリと非情な言葉を吐いた皇太后をその場の誰もが戦慄の眼差しで見上げ、震えた。
「母上! それはあまりにも性急では・・・」
母の尋常ならざる発言に驚愕したスヴェン27世は思わず口を開いたが、
「国王! ここは公の場ぞ。妾(わらわ)がことは皇太后とお呼びなさい!」
若年の国王を一喝した皇太后ソニアは、重ねてその小太りの小男に下問した。
「いかがか、グロンダール伯。そのための秘密警察ではないか? のう、卿ならば、人知れず邪魔者を排除するなど造作もなかろう」
「御意。仰せとあらば」
並居るプラチナのウィッグを着けた大臣たちの中にあって、彼だけがツルツルのスキンヘッドを晒し、そのゾッとするような冷たい灰色の双眸に妖しい光を湛えて首を垂れた。
「慣れない異国の旅の途中に原因不明の病に倒れる。あるいは、乗り合わせた馬車が不慮の事故を起こす・・・。方法はいくらでも。いかようにも隠密裏に処理できまする」
具体的な殺害方法まで開陳して、その場の流れは早、帝国からやって来た一貴族の暗殺という結論にまで達しようとしていた。若い国王は見るからに狼狽し、両のひじ掛けを掴んだ手に力が籠りすぎて白くなるほどだった。
世の母と子の間柄というものは、得てして正反対のものになることがままある。穏やかで優しい母の許に生まれた子が残忍で凶暴な性向を持つことがある一方、外交的好戦的野心的な母堂ソニア皇太后に似ず、若き国王は内向的で平和を好みノール国内の融和を図ろうとする気持ちが強かった。
そんな君主の思いを他所に、内務大臣シェルデラップ侯爵が再び恭しく首を垂れた。
「では、結論は件の帝国女男爵の排除というわけですな」
こやつ・・・。またも皇太后のご機嫌取り、寵愛稼ぎか。
キッとまなじりを上げたワーホルム外務大臣は、小癪な着けボクロのキザ男を睨みつけた。
おい、貴様! ここでその方向に衆議をまとめるつもりか? どうなっても知らんぞ、と。
しかし、続いて内務大臣の口から出たのはワーホルムにとって意外なものであった。
「それでは国内治安を預かる我が内務省といたしましてはこの際、この場で陸軍に確認すべきでしょうな」
そう言って黒衣の官服の一座の中で唯一、華麗な金モールの軍礼装に身を包んだ大柄な亜麻色の髪の男を顧みた。
「ビョルンソン大将。貴殿に問うが、現在わが陸軍の部隊配置はどうなっているか。この場で国王陛下並びに皇太后陛下、そして我らにご説明いただこう。
万が一、この秘事がハーニッシュどもに露見し重大な内乱に発展した場合に、軍はその混乱を十全に抑え得るべき配置となっておるのでしょうな」
伯爵ビョルンソン大将は見上げるような大きな体を揺すって大袈裟に首を垂れた。
「さよう。端的に申さば、それはいささか困難であります、陛下」
と大将は言った。
「これはしたり!」
内務大臣は大袈裟な身振りで陸軍大臣の言葉に反応した。
「軍は有事に備えうるべき態勢にはないと仰るのか!」
大柄な大将はこの芝居がかった内務大臣の言葉にやや鼻白みながら着けボクロの侯爵に反駁した。
「現在首都防衛に配置している兵力では万一のハーニッシュたちの蜂起に十全に対処するには不足であると申しておる!」
そして改めて国王に向き直り、こう続けた。
「陛下。
そろそろ季節も夏を迎えまする。これは毎年の恒例でございますが、今わが陸軍10万の約6割ほどが夏の北の野蛮人の襲来に備えて北方国境沿いに展開しておりまする。
仮に北方への備えを無視し得たとして、これを全て首都防衛のために南下させるとなれば、そう、ふた月はかかりましょう」
「なんと! ふた月も!」
いつにない内務大臣の、この「閣議」の場でのあまりな大袈裟な振る舞いに、当初は眉をひそめかけた若き国王だったのだが、ここでやっと愁眉を開いた。この老練な政治家の意図するところが理解できたからである。
「北方の守りを疎かにすることはできないぞ、大将」
と、国王は言った。
「それではもし野蛮人どもが襲来した場合、北の我が国の穀倉を営む農民たちが難儀するではないか。それだけではない。大切な作物の植え付けや刈り入れ時に畑を荒らされては国民への食も保証できなくなる。わがノールの食料安全保障を揺るがしかねぬ事態になる」
「ご明察の通りであります、陛下」
そう言ってシェルデラップ侯爵は黙った。
なるほど。このキツネめが、ヤルではないか。
ここへ来てワーホルム伯爵もやっと頬を緩めた。平素は鼻持ちならぬキザ野郎だが、ダテに長く宮廷と政界に身を置いているだけの男ではないな、と。
彼の感想はたちまちのうちにその場の大臣連の間に共有されるところとなった。
その場に再び沈黙が訪れた。こういう場合は決して自ら先んじて口を開いてはならない。それがこのノールの宮廷で生きるための処世術であった。
「では、どうするというのだっ! 」
こういう場合、一番最初に場の空気にいたたまれずに口を開くのは決まって皇太后だった。手にした扇の要が弾き飛びそうなほどにぎゅうぎゅうにねじり上げ、勘筋を震わせて吼えた。
「畏れながら申し上げます、皇太后陛下」
「鼻持ちならぬキザ野郎の同輩」の策ではあるが、直情傾向で癇癪持ちの皇太后の操縦にかけてはこの男に一日の長があることは認めざるを得ない。ここはこやつに同調しておく一手だ・・・。
ワーホルム伯爵はおずおずと首を上げ、玉座を見上げた。
「菲才の身ながら臣が愚考いたしまするに、件の女男爵は、まだその入国の真意もわかりませぬながら、仮に先祖の墓参りに来たというだけのものならば、ふた月も経てば恐らくは帰国してしまうのではありますまいか。もちろん、我が国滞在中は極力ハーニッシュたちに接触させぬよう配慮が必要ではございますが。
そこで臣に一案がございます」
「苦しゅうない。卿の存念を申してみよ」
「この際、王宮と国を挙げて件の女男爵を歓待するのです。国王陛下御自ら拝謁を許し、親しくご歓談なされるのです。接待漬けにしてハーニッシュたちに接触させる暇を与えぬようにするのです。そして、その様子を国内に、特にハーニッシュたちに知らしめるのです。王宮自ら彼らの恩人をもてなす。それならばハーニッシュたちにも文句のつけようがありません。
これ、労せずして最良の成果をもたらす防衛策。古代東洋の兵書にいうところの『無手勝流』であると存じます」
「それは名案だ、ワーホルム伯!」
若き国王は我が意を得たりとでもいうように手を叩いて相好を崩した。
「陛下のご賛同を賜り、恐悦至極にございます」
「いかがですか、皇太后陛下。これならば軍を動かさずに済み、かつハーニッシュたちの民心も安堵するでしょう。まさに一石二鳥の好策と言えましょう。もちろん、歓待にはわたしも積極的に協力します」
「陛下がそう仰せならば、それでノールの治安が保たれるというなら、妾(わらわ)に異存はない」
不承不承の体ながら、皇太后ソニアは同意した。
「では、この一件につき、内務大臣、及び外務大臣は責任をもって良きように取り計らうがよい」
「御意にございます」
「仰せのごとく・・・」
「それでは、他に要件が無ければこれで話を終わろう。みな、ごくろうだった」
国王と皇太后の退出を大臣たちは最敬礼で見送った。靴音が消え去ると誰からともなく、ふう、と吐息が漏れた。
やれやれ。
毎度のことながら、あの色情狂の女の相手はほとほと疲れる。
一息入れているワーホルム伯爵のもとにつかつかと歩み寄って来たのは彼のライバル、シェルデラップ侯爵だった。この狡猾なキツネとは長年反目し合って来た間柄ではあるが、こと対王宮ではともに協力して団結してきた。皇太后に取り入ったあの「ラスプーチン」が現れてからは特に、だった。
「よかったですな。これでまた生き延びました。おたがいにね」
キツネ侯爵は言った。
「では、外務省におかれては宮内省と計らいよしなに」
「言われずともわかっておる!」
「それは結構。では、また」
そう言って「おしろい着けボクロ」の侯爵は広間を去った。
まったく。あの男はいつも一言多い!
外務大臣ワーホルム伯が奥歯をギリギリと噛んでいるその一方で、早々にその場を立ち去り王宮を後にした者がいる。
スキンヘッドの秘密警察の長官、グロンダール伯爵である。
待たせていた馬車に乗り込むや、彼は真っすぐに旧市街にある自分のオフィスに向かった。
「慣れない異国の旅の途中に原因不明の病に倒れる。あるいは、乗り合わせた馬車が不慮の事故を起こす・・・。方法はいくらでも。いかようにも隠密裏に処理できまする」
排除対象の殺害方法をマユひとつ動かさずに披露した、いわば「ノールの闇稼業」を取り仕切る、皇太后の信頼も篤いこの小男は、一棟の集合住宅に偽装したオフィスに着くや電信室に向かいサラサラと電文を認め、電信士に手渡した。
「至急これを帝都の大使館、レーヴェンショルド宛てに打ってくれ。平文で、だ」
紙片を受け取った電信士はその短い文章に目を通すや、怪訝な顔をした。
「たった、これだけ、ですか?」
「そうだ」
その後、グロンダールは自分の執務室に籠った。
何を隠そう、実はこの小男こそが今回のヤヨイのミッションにおけるノール側の黒幕であった。帝国のウリル少将に直接作戦案を打診し、シナリオを書いたのもこの男であるし、在帝国ノール大使館のレーヴェンショルド、ヤヨイの教育係を担当したオスカル、そして今回のミッションでヤヨイの助手を務めているアクセルはこのグロンダール伯の部下たちなのであった。この一件を巧みに内務省にリークし、「キツネ侯爵」こと、内務大臣シェルデラップをして「閣議」を招集させたのも、実は彼なのだった。
グロンダールは執務室の窓を開け、王宮の尖塔とその向こうに見える西の高い山々を眺めた。
表向きは、国王と皇太后に絶対の忠誠を誓っている。
皇太后の言うがまま彼女の意に沿わない者達を捕縛し収監してきた。そのせいで、彼は官僚たちの怨嗟の的になっていた。
だがグロンダール伯という男は、実は王宮ではなくノールという国家と国民に対する奉仕者をもって任じていた。「ノール王国の破滅」という、大災厄を避けるためという大義の前には、少々の小悪はやむを得ないという現実主義者でもあった。
それまで自らの「女」を顧みられることもなく過ごして来た女性にとって、急に女に目覚めさせられることほど厄介なことはない。
彼が自らの内に秘めた使命は、「愛のご不例」に罹患して善良な民や有能で忠義溢れる官吏たちを苦しめている皇太后と、彼女を操って国政に介入しこれを壟断する「現代のラスプーチン」マレンキー一派を排除することだった。そして一日も早く温厚で聡明な現国王スヴェン27世の親政を実現せねば、と。それが彼の、グロンダールの悲願であり言わば「ライフワーク」であった。
だがここへ来て彼は、さらにノールの国家としての根幹を揺るがせかねない「腫瘍」を発見した。
「もぐら」という、訓練されたグロンダールの手の者達をもってしても容易に捉えることができない謎の男。その真の狙いを突き止め、早急に取り除かねばノールに致命的な打撃となるのは明白であった。
すでに「もぐら」はノールの各地に、農村や漁村、新市街の労働者たちなどへ地下の連絡網を張り巡らせつつあった。この上にさらに「もぐら」がハーニッシュたちと手を組んで一斉に蜂起してくれば事態は文字通りに「革命」に発展してしまう。そうなることは絶対に阻止せねばならない。
「帝国の秘蔵っ子、『アイゼネス・クロイツの女戦士』よ。あとは頼むぞ」
グロンダールは遠い山々に目を凝らしつつ、そう小さく呟いた。
そして・・・。
ヤヨイとアクセルがノルトヴェイト家代々の墓に参ったと同じころ。
オスロホルムから西に2000キロ以上離れた帝都の街を早馬が疾駆した。
クィリナリスの丘を駆けあがった馬は、その高級住宅街の中のありふれた一邸の前で乗り手を下馬させた。
門番の奴隷に扮する警備部隊の伍長は、突然やって来たその丈高い金髪の、見慣れない男に尋ねた。
「失礼ですが、どちら様で?」
「私はオスカルという者です。このお屋敷のウリル様にお会いしに来たのですが」
常ならば部外者に対しては「お間違えでは? ここのあるじは留守ですが」と言い慣わして来た伍長だったが、その金髪の男の不思議な言い方、「お屋敷のウリル様」という言葉に感じるものがあり、他の同僚、つまり、庭師に扮している警備の上等兵を呼んで母屋に向かった。
伍長は屋敷の中の伝声管を通じて直接ボスであるウリル少将に問い合わせた。
彼の予感は当たった。
「そのオスカルという客人をお通ししてくれ」
ボスがそう言ったからだ。
受付の女性准尉に付き添われて地下のオフィスに案内されたオスカルは、外国人としては初めて、その帝国のスパイマスターの部屋に通された。
短い間であったが帝国のヒーローである「アイゼネス・クロイツ」の猛者の教育係を務めたオスカルは、彼女を見出し第一級の戦士に育て上げたウリル少将に特別な感慨を持った。
「初めてお目にかかります」
澱みない帝国語でオスカルは挨拶をした。
このスパイマスターとは初対面ではあった。が、少しも初めて会ったという気がしない。むしろ、微かななつかしささえ感じてしまうのが不思議だった。そう思っていると、
「だが、ま、お互い初めて会った気はしないがな。そうだろう?
君たちはわたしをよく知っているだろうし、わたしも君のことはよく知っている」
「まあ、そうですね」
ウリル少将に椅子を勧められるまま、その彼のデスクの前に腰を掛けた。
すぐに要件に入った。
一通の電文を取り出し、帝国のスパイマスターのデスクの上に置いた。
「つい先ほど入電しました」
ウリル少将は電文を取り上げた。
「プリマドンナは舞台に立った」
書かれていた電文は、たったそれだけだった。
が、このミッションの当事者でありもう一人の演出家と助監督でもある彼ら二人にはそれで十分だった。
ヤヨイがノールの貴族社会の中に潜入を果たした。
電文の意味するところは、それであった。
今回のミッションの第一段階が成功したことを知らせて来たのだ。電文を起草したのはおそらくは、もう一人の協同演出家であり脚本家である、ノールの「スパイマスター」であろう。
「どうやら、始まったようだな」
「そのようです」
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